人生幸朗・生恵幸子
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テンプレート:Infobox お笑いコンビ 人生幸朗・生恵幸子(じんせい こうろ・いくえ さちこ)は、戦後に活躍した夫婦漫才コンビ。歌詞・世相などにイチャモンを付け、「責任者出て来い!」の決めゼリフを吐くボヤキ漫才で、本拠地の大阪のみならず、テレビ・ラジオを通じ全国的人気があった。
メンバー
人生幸朗(本名:比田孝三郎、1907年11月2日 - 1982年3月4日)は、夫。ボケ担当。現大阪府東大阪市出身。関西芸能親和会長。
- 20歳で旅芝居一座に加わる。24歳の時に漫才師の荒川芳丸(夢路いとし・喜味こいしの師匠でもある)に入門し「荒川芳蔵」を名乗る。その後ボヤキ漫才の都家文雄門下に移り「都家文蔵」に改名、師匠のボヤキ芸を継承。1940年に吉本興業入社、高田田鶴子(後の守住田鶴子、二代目秋田Bスケの叔母)等とコンビを幾度も変え。第二次世界大戦中は満州巡業などした。
- 1947年に千土地興行に移籍し「人生航路」に改名。長年くすぶっていたが、1954年より相方を庭野千草(後の生恵幸子)に替え、翌1955年に人生幸朗に改名してから人気が出始め、草創期の在阪民放テレビ局の演芸番組でお馴染みの顔になる。またこの頃より、自らライフワークとした各地の矯正施設の慰問を始め、警察・自治体などから評価され、続く芸人たちに模範を示した。
- 幸子が病気療養中の1973年ごろ、KTVの深夜番組『ナイトパンチ』にピンでレギュラー出演し、若者にも浸透する。幸子復帰後もテレビや舞台などで活躍したが、1982年2月、枚岡神社の節分会にゲスト出演した際にこじらせた風邪が元で、急性肺炎に罹り没する。享年74。法名は、人生院釋幸朗。
- 追悼特番では、入院先の大阪赤十字病院の旧病棟(病舎)に芸人数名が見舞に訪れるシーンが放送された。
- 牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、直立不動で、熱が入ってくると肩を怒らし手を振りあげる。凄い迫力と説得力を持って聴衆に語りかけるその漫才は、今も根強いファンを持つ。
- 楽屋に大量のコロッケを差し入れるなど面倒見が良かったため、後輩芸人や裏方から慕われ「人生さん」「人生の師匠」と、珍しく屋号亭号で呼ばれていた。
- 還暦を過ぎてもなお、正妻の他に複数の愛人を抱える偉丈夫だった(幸子談)ほか、会社から低利で前借りしたギャラをそのまま銀行に持ち込んで定期預金し、利ザヤを稼ぐ吝嗇家の一面もあったという(桂米朝談)。
生恵幸子(本名:赤田松子、1923年9月25日 - 2007年2月5日)は、妻。ツッコミ担当。大阪府出身。
- 元々夫の北斗七星(ミヤコ蝶々の相方でもあった)と「庭野千草」の名でコンビを組んでいたが、1952年に夫の死去に伴い幸朗とコンビを組んだ。幸朗よりも16歳も若く美人だった幸子は、威勢のよいツッコミと、漫才の途中に挟む金切声の流行歌で、アクの強い夫に負けぬ存在感を示していた。また弱視だった幸朗の手を率くなど、夫を陰に陽に支えていたが、病弱なため数度、長期に亙り舞台を休んでいる。
- 夫の死後はテレビのコメンテーターの傍ら、西川きよしらと慰問漫才を行ったり、太平サブロー扮する幸朗と余興で組んだこともあったが、幸朗の思い出を語るような仕事以外は遠ざけていったこともあり、メディアへの露出も減っていった。
- 2002年以降は脳出血で病臥を余儀なくされ、2007年2月5日に大阪市内の病院で死去。享年83。法名は、福徳院釋尼幸恵。
ぼやき漫才
世相を槍玉に上げては、とんちんかんな難癖を付ける「ぼやき漫才」の第一人者。口演では「ぼやき講座」という題名を採用することが多かった。一般的なしゃべくり漫才とは趣を異する、この「ぼやき漫才」のつかい手には、幸朗の師匠の都家文雄・静代、東文章・こま代らがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやき一時代を成していたが、1982年に幸朗が他界して後には、継ぐ者がほとんどおらず廃れてしまった。
人生幸朗・生恵幸子は世相のみならず、流行歌の歌詞にケチをつけ歌謡漫才の要素を加味したことで、人口に膾炙した。このため幸朗・幸子に扱き下ろされれば、歌手として一人前という風潮さえあった。
- 代表的な進行例
- 冒頭で幸朗が「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種はつきまじ」と石川五右衛門の辞世の句を捩る。幸子がすかさず「キザなこと言うなこのハナクソ!」と突っ込む。続いて「(幸朗)わたしのこと、みなボヤキやあ、ボヤキやあ言うてねえ」「(幸子)当たり前や。誰かて言わはるわ。ボケ!」「(幸朗)しかし、みなさん、これは私がボヤクのやのうて、今の世の中が私をボヤかしまんねん」というパターン。そして「まぁ皆さん聞いてください」と聴衆に語りかけ、その当時の世相・ニュースを斬り始める。
- 「(幸朗)電車の線路のそばに住んでて、警報機の鐘、あのカンカンカンというのがうるそうて寝られん言うて、警報機の線を切った奴がおる。そんなもん切ってどないすんねん。あの警報機の音で近所の住人の安全が守られとる。あのカンカンカンという音を聞いて、ああ空襲やなと思うんやないか」「(幸子)なにー?あほか」
- 「(幸朗)満員のバスで、子供が前に飛び出したから、運転手急ブレーキかけよった」「(幸子)まあ。危ないやないの」「(幸朗)幸い子供は無事やったんやけど、急ブレーキやったもんやさかい、吊り革持たんとボーっと立っとったオッサン、仰向けにひっくり返って、そのこける格好がおかしいと乗客大笑い、誰も手ェ貸してくれよらん!」「(幸子)え~っ!!そんならアンタもわろとったん?」「(幸朗)じゃかましいわい!!いやしくもワシは正義の味方や、そんなこと見て黙っとれるかい!」「(幸子)まあ。えらいやないの。助けたげたンか」「(幸朗)黙れ~!!!話は最後まで聞け!!」「(幸子)何やねん一体!!」「(幸朗)助けたくても助けられるかい!!」「(幸子)なんで!?」「(幸朗)こけたン、ワシじゃ!!」「(幸子)アホか!!」
- 田中角栄の金権政治などを批判すると観客の盛大な拍手をうけた。このときは幸朗は顔を真っ赤にして口泡激しくがなりたて、幸子に「あ~あ。デボチン(大阪弁で額のこと)に汗かいてェ」とツッコまれたりされる。
- 途中で幸子が流行歌(森昌子「せんせい」、水前寺清子「いつでも君は」など)を聴くに堪えぬ金切声でひとしきり歌い(歌の最中にも幸朗は細かい突っ込みを入れる)歌い終わる頃に幸朗が「止まれ~!ストップ!」と号令を出し歌を終わらせ、「善良なお客さんを前にして、何という耳障りな歌を歌いよるかァ!…愚かなる女め」とやり込める。幸子が負けずに「○○の○○という歌やで!」と言い返す。すると幸朗は「そんなもン、言わいでもわかってるわい」と口答えするので、幸子が「ホナ、ごちゃごちゃ言うなこのヨダレクリ(またはウズラ)!」と幸朗をやり込める。
- そして幸朗が「このごろ、わけの分からん歌が多すぎる!」と流行歌の歌詞を次々と槍玉に上げ始めると、幸子は「そら!お客はん始まりましたでえ!」または「ぼつぼつ歌の方に回ってまっせ!」と煽る。
- 「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」(並木路子「リンゴの唄」)→「リンゴが物言うか!リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」
- 「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」(井上陽水「東へ西へ」)→「当たり前やないか!そんなら昼寝すな!」
- 「私の一番可愛い所(とこ)どこですか?」(松本ちえこ「恋人試験」)→「己で勝手に探さんかい」
- 「川は流れる 橋の下」(五木ひろし「愛の始発」)→「当たり前や。橋の上流れとったら水害やがな」
- 「一所懸命育てた鳥でさえ窓を開けたら飛んでいく」→(五輪真弓「約束」)「当たり前やないか。鳥かて羽があんねん、飛んでいくよ。飛んで嫌なら金魚飼うとけ!」
- 「波よ教えておくれ 私の明日はどこにある」(都はるみ「おんなの海峡」)→「長生きせえよ。波が物言うか!」
- 「小さい部屋の窓から見える 空の青さはわかるけど 空を広さがわからない」(松山千春「窓」)→「当たり前やがな!お前何考えて生きてんねん!長生きせえよ!お前やろ、デパートのエスカレーターの階段の数かぞえて一日日暮らしてるんは」
- 「ときめくハートがその証拠人生が今キラキラと近づいてくる」(竹内まりや「不思議なピーチパイ」)→「何ぬかしとんねん。なんでワシがお前に近づいていかなあかん!馬鹿にすなぁ!」「人生が違うの!あほか!」
- 「あなたが噛んだ小指が痛い」(伊東ゆかり「小指の想い出」)→「誰が噛んでも痛いわ!」
- 「カリッと音がするほど小指を噛んで痛いでしょう 痛いでしょう」(西城秀樹「ブーメランストリート」)→「当たり前やないか!誰でも小指噛んだら痛いわ!」
- 「探し物は何ですか」(井上陽水「夢の中へ」)→「ほっとけ!!」
- 「見つけにくいものですか」(「夢の中へ」)→「知るか、そんなもん!!」
- 「それより僕と踊りませんか?」(「夢の中へ」)→「馬鹿にすなぁ!」「誰が踊るか!!」
- 「まだまだ探す気ですか、踊りましょう」(「夢の中へ」)→「どつき回すぞ!!」
- 「祭りも近いと汽笛は呼ぶが」(五木ひろし「ふるさと」)→「汽笛が物言いまっか。汽笛が物言うてみ、駅の近くの人らやかまして夜ねられへんがな」
- 「洗いざらしのジーパン一つ」(「ふるさと」)→「ジーパン一つでうろうろすなよ!」
- 「私バカよね、おバカさんよね」(細川たかし「心のこり」)→「己を知っとる(と細川を褒めるも幸子がツッコミを入れる)」
- 「西の空が溜息ついた」(松山千春「残照」)→「西の空溜息ついてみい!九州の人、やかまして夜寝られへんがな!」
- 「海は振り向かない」(西郷輝彦)→「当たり前や!ほんなもん海が振り向いてみぃ、船ぇ元の港へ逆戻りじゃ!」
- 「若葉が街に急に萌えだした」(天地真理「若葉のささやき」)→「若葉が燃えるか!あんなもン燃えてみィ。消防署のオッサン忙しいてどもならん!」
- 「君のひとみは10000ボルト」(堀内孝雄)→「人間の目ン玉電気か!私この歳なるまで目の玉に電気代払うたことないわ」
- 「猫ニャンニャンニャン、犬ワンワンワン、蛙もアヒルもガーガーガー」(あのねのね「ネコ・ニャンニャンニャン」)→「どついたろか馬鹿モノ!!もっと責任ある歌歌え!!」
- 「かもめはかもめ」(研ナオコ)→「当たり前や!そんなもん楽団使うてたいそうに言うな!」
- 「アケミという名で十八で」(千昌夫)→「アケミ言うたら皆18かい!!うちの近所のアケミは68や!!」
- 「そっとしときよみんな孤独でつらい黙って夜明けまでギターを奏こうよ」(千賀かほる「真夜中のギター」)→「近所迷惑やがな!夜明けまでギター奏いとったら『やかましわ!静かにせんかい!!』って怒鳴りに来るで!!!!!」
- 「A・B・C、A・B・C、あー、E気持」(沖田浩之「E気持」)→「(間髪入れずに即ギレして)馬鹿者ぉ!!」
- 「涙なんているもんか、バカヤローーーー!!!」(西城秀樹「白い教会」)、「さよならなんて、言えないよ。バカヤローーーー!!!」(近藤真彦「ブルージーンズメモリー」)→「ワテが言いたい台詞やないかい、バカヤローーーー!!!」
- 「去年のトマトは青くて固かったわ、だけどいかが、もう今年は赤いでしょう」(桜田淳子「気まぐれヴィーナス」)→「どついたろか馬鹿モノ!トマトってもんは一年せな赤うなりまへんか?そんなもん早う腐ってもうとるわ!それ知らんと食べて腹こわしたらどないすんねん」
- 「声が違う 年が違う 夢が違う ほくろが違う…ごめんね、去年の人とまた比べている」(山口百恵「イミテイション・ゴールド」)→「毎年男変えとんのか!はっきりせえよ、はっきり!!」
- こうして歌のボヤキが最高潮に達した時、「(幸朗)責任者出てこい!」「(幸子)出てきたらどないすンのン」「(幸朗)謝ったらしまいや!」。ここで幸子が一喝。「(幸子)アホ!いつまでぼやいてんねや、この泥亀!」(あるいは「人が黙って聞いとったら、いつまでいちびってんの。ほんまに~!」または「いつまでしゃべっとんねん。このヨダレくり!」)「(幸朗)かあちゃん堪忍!」「(幸子)何がかあちゃんや!」「(幸朗)ごめんちゃい!」と言って両手を頭の上に持っていって股を開く。
- 幸朗はすべての唄をこき下ろしたわけではなく、時折、「この唄はよかった!みなさん!こういう唄をきかなあかん。」と激賞していた。例えばちあきなおみ「喝采」、五木ひろし「夜空」などである。
- 流行に敏感な幸朗は仮面ライダーの「変身!!」を叫んだり、間寛平のギャグを入れることもあった。観客の笑いは最高潮となる。
- そして幸朗が締の一節を述べる。
- 「(幸朗)わがまま勝手なことばかり申し上げまして(幸子ここで「わかってンのンかいな」の一言を挟む)、お叱りの言葉もございましょうが、これは私の本心ではなく、相方生恵幸子の書いた筋書きでございます」「(幸子)嘘つけー、自分勝手にしゃっべてるんやないかぁ」「(幸朗)笑いこそ健康の栄養素!凝りと疲労の回復剤!」「(幸子)なンや薬屋のオッサンみたいなこと言うてんねエ」「(幸朗)笑え。笑え。笑う門には福来る。皆様のご健康とご発展とを心よりお祈り申し上げ、ボヤキ講座予定終了でございます」。
- 締めの一節は持ち時間により伸縮自在で、「わがまま好き勝手をしゃべって参りました。こんなおもろない漫才聞きとうないわ~い!というお叱りの言葉もなくご静聴賜りまして誠にありがとうございました」や、「これひたすら、私(わたくし)一人の人徳の致すところ~」のパターンもあった。
- 幸子の「泥亀!」の罵声は、持ち時間終了30秒前を幸朗に知らせる手段であったと言われる。番組収録の際、ADが客席の最前列で「終了何秒前」というカンニングペーパーを出すが、弱視の幸朗は舞台上からカンペが読めなかったため、幸子が客に気付かれぬよう時を知らせるフレーズとして用い、幸朗は合図に従いオチに移り出番を終えた。また、時折ストレートに「いつまでしゃべってンの。もう時間やし!」と言う場合もあった。また、途中で「泥亀!」」とさけび、幸朗が「泥亀て何や!」と苦笑すると、幸子「泥亀やないの。天王寺(四天王寺のこと)境内にいってみ、亀の池にようけいまっせ。」とやりこめる時もあった。
- ぼやきを看板にしているわけではないが、大木こだま・ひびきが、似たようなパターンのネタを展開することがある。
- (ひびき)「いやぁ忙しくて猫の手も借りたいですわ」(こだま)「猫に手はあらへん、アレは前足や!」
- (ひびき)「恥ずかしくて顔から火が出ました」(こだま)「顔から火なんてどないして出すねん!見たことないわ、見せてみい!!」
- など。
受賞歴
エピソード
- 売れるまでは文雄の社会・世相・時事、のぼやきに徹したが漫才作家の用意した台本を2人は覚えるのが早くても15日はかかるため、ネタが古臭くなるためか、流行歌にぼやく後の2人のスタイルに変わった。
- 流行歌をネタにする事で、歌手や歌のファンから非難される場合もあったが、漫才に採り上げられるほど有名になったと喜んだ者も少なくなかった。堀内孝雄は『君のひとみは10000ボルト』がネタにされた際に「俺達もこれでメジャーになった」と非常に嬉しがったという(関西テレビ『さんまのまんま』でのトークによる)。
- 阿久悠は、ピンク・レディーの『透明人間』を作詞した際、「透明人間現る」という歌詞を幸朗に「姿の見えん透明人間が現れるわけないやないか!」と突っ込まれることを見越して、サビの部分に“ツッコミ”的な歌詞も取り入れたと生前語っている(そのせいか、『透明人間』をネタにされることはなかったらしい)。
- 大器晩成型だっただけに、芸に関しては人一倍厳しかった。年長もあって、なんば花月ではトリを任されることが多かったが、ある日モタレ(トリのひとつ前)に出た人気絶頂の横山やすし・西川きよしが1時間近く客を沸かせた際には、尋常ならざる形相でトリに上がり、これも1時間ぼやきまくって客を爆笑の渦に巻き込んだ。幸子も体調の悪さを押して、腕が震えるのを堪えて最後まで付き合った。幸朗は特にやすきよには期待をしていた、ある日舞台が終わりきよしを法善寺横町の洋食屋に食事を誘い、そこで「君等の漫才は所狭しと動き回るさかい、次の出番のワシ等ホコリ舞ってよう出来へんわ。もっとしっかりしゃべくり勉強しいや。」とボソッと言った。
- 1970年代に夫婦で「人生ぼやき節」というコミックソングをテイチクで吹き込んだ。幸子が金切声で歌い、合間に幸朗が歌詞をけなすというお馴染みのスタイル。
- 幸朗は中田カウスのいたずらの格好の標的になった。飛行機で就寝中に備品の毛布を鞄の中に放り込まれ、深夜に航空会社を騙って電話を掛けられたり、楽屋で昼寝中に、眼鏡のレンズを赤いマジックインキで塗り潰され、耳元で「火事や!」と叫ばれて、パニックに陥る姿を面白がられたりしていた。
- 1978年「関西大衆芸術家友好訪中団」の一員で中国で口演。
- 大平サブローは、淀川長治、横山やすし、浜村淳、六代桂文枝(三枝改め)の他、幸朗の物真似もレパートリーにする。『上方お笑い大賞』授賞式典で幸朗に扮し、人生幸朗10回忌追悼『復活! 人生幸朗・生恵幸子ボヤキ漫才』を披露した際は、相方の幸子が「お父ちゃんが帰ってきたみたいや」と感激し落涙するほどの出来栄えで、以降サブローと幸子は親交を持つようになった。
- その後吉本興業から発売された人生幸朗のキーホルダーや、生前の映像を使用した和歌山マリーナシティのテレビCM(1994年)では、幸朗の声をサブローが吹き替えている。また一度だけ、サブロー演じる幸朗と幸子のテレビCMが製作された。
- 幸朗はかなりの近視で、分厚い眼鏡を手放さず幸朗のトレードマークとなった。ある日眼鏡を忘れ仲間の芸人と寿司を取った時、大皿の模様の伊勢海老を本物と勘違いし「取れへん!」と叫びながら箸で摘もうとしていた。
- 芸人仲間の松鶴家光晴・浮世亭夢若の夢若が事業の失敗で不慮の死を遂げた際、「芸人は芸に精進しなあきまへん、事業なんかに手出したらロクなことありまへん」と幸朗はぼやいた。ただし新聞紙上で夢若の死は自殺だったと報道されたことに対して「彼は自殺やおまへん」と擁護し続けた。
- ミュージシャンの上田正樹は代表作の「俺の借金全部でなんぼや。」を幸朗のぼやきのネタにされたことに怒るどころか「人生幸朗にボヤかれたことは誇りやと思います。」と述べていた。
レコード
- 「幸朗・幸子のぼやき教室」
- 「人生ぼやき節」