杉浦茂
テンプレート:Infobox 漫画家 杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年(明治41年)4月3日[注釈 1][1] - 2000年(平成12年)4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、平成まで執筆活動を続けた。
目次
年表
- 1908年(明治41年)4月3日 - 生誕
- 1926年(大正15年) - 1930年(昭和5年) - 18歳から22歳まで。太平洋畫會研究所入所
- 1930年(昭和5年) - 22歳。「夏の帝大」で第11回帝國美術院展覽會(現日本美術展覧会)洋画部入選
- 1931年(昭和6年) - 23歳。漫画家田河水泡に師事する
- 1932年(昭和7年) - 24歳。作品「どうも近ごろ物騒でいけねえ」が『東京朝日新聞』に載り、漫画家デビュー
- 1943年(昭和18年) - 35歳。茂原映画研究所に就職する
- 1945年(昭和20年)7月 - 37歳。召集令状が届き、世田谷砲兵連隊に配属され、熊本県に駐屯する
- 1945年(昭和20年)9月下旬 - 復員
- 1953年(昭和28年) - 1958年(昭和33年) - 46歳から50歳まで。杉浦茂の五年間の黄金期
- 1954年(昭和29年) - 46歳。斉藤あきらが杉浦に入門
- 1958年(昭和33年) - 50歳。約半年間療養
- 1996年(平成8年) - 88歳。遺作となる「2901年宇宙の旅」執筆
- 2000年(平成12年)4月23日 - 92歳。歿
生涯
杉浦の創作活動は三期に分けられる[2]。第一期の戦前期ではユーモア漫画や教育漫画、徴兵を挟んで戦後の第二期は一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。このころの仕事はその殺人的な仕事量と多くの代表作が生み出されたことから杉浦茂の黄金期とされ、「奇跡の5年間」とも表される[3]。その後仕事の休止を挟んで1968年からの第三期ではシュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。
生誕
杉浦は東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれた。湯島尋常小學校(今の文京区立湯島小学校)時代は友人に恵まれ、押川春浪から田山花袋、上田秋成まで多様な小説や『猿飛佐助』を初めとする立川文庫(立川文明堂刊)など講談趣味を教わった。また、週末には本郷の第五福寶館や、長じてからは新宿の武蔵野館などの映画館に通って、アメリカ製の喜劇物や西部劇などを良く鑑賞した。二十歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)にも親しんだ[4]。これらの文物が後の漫画創作の下地となった[5]。
杉浦は郁文館中學校(旧制・現在の郁文館中学校・高等学校)時代に[6][7]、当時の人気漫画家だった北沢楽天とその一門に影響されて初めての漫画(ポンチ絵)を描いた。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は後の漫画家人生の原点になった[8]。しかしその後も継続して漫画を描いていたわけではなかった。杉浦自身が語るところによると、漫画家になるまで特に漫画への興味、知識は無かったという[9]。父親は杉浦を眼科医にさせたがったが[10]、杉浦自身の将来の夢は、プロの西洋画家になることであった。中学の時に上級生に教えられた藤田嗣治への憧れ[11]、また、日本画が好きで趣味で描いてもいた父と二人で文部省美術展覽会(文展、後の帝展、日展)に通ってその思いを積らせた[6]。
1924年にその父が、過労が祟って、当時流行していた嗜眠性脳炎(眠り病)に罹り急死[12]。ふたりの兄が医者になるため医学校に進学したこともあり家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)に進学できなかった。その医者になった兄の金銭援助を受け[13]、1926年から1930年まで太平洋畫會研究所に入所し、西洋画の制作にとりくんだ。こういった美術研究所は、経済的事情で美術学校に行けないが画家を志す若者の受け皿になる施設となっていた。また、研究所とは別に1927年から1931年まで洋画家の高橋虎之助にも師事している。1930年には日本美術展覧会(日展)の前身である第11回帝國美術院展覽會(帝展)洋画部に油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選した。この絵は兄の知合いで大阪で医師を勤める富豪が購入した。杉浦は好んで西洋建築のある風景画を描いた。人物画をやるにはモデルを雇う金が無いというのもあった。このころの絵は1945年(昭和二十年)の東京大空襲により焼けてしまってほとんど残っていない[14]。
外に出かけてデッサンをしている内に野獣派の長谷川利行や横山潤之助とも知り合うことができた。杉浦は画業を捨て漫画業に専念するようになってからも挿絵画の松野一夫や霜野二一彦の親交を得ている[15]。
漫画家へ(第一期)
杉浦の悩みは全ての生活の糧を二人の兄に頼っていたことだった。そこで杉浦は一念発起して洋画家の道を諦め、別の道を目指すことにした。知人から漫画家田河水泡の紹介状を貰ったが[注釈 2]、その後三カ月、よく勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩み続けた。そしてついに1931年4月1日、田河が小石川に住んでいた高級アパート、久世山ハウスを訪ね、門下生となったのだった。田河はこのときすでに代表作『のらくろ』により売れっ子作家となっていて、漫画をよく知らない杉浦もその名前は知っていた。実は田河も杉浦と同じく芸術家を経て漫画家となった経歴を持っていた。村山知義主催の芸術集団MAVO にも参加していた前衛芸術家であった。杉浦弟子入りの数日後には山梨から上京してきた倉金とらお(倉金章介)も弟子になり、それまで一人も弟子がいなかった田河に急に二人も門下生できたことになる(もう少し後には長谷川町子も門下に加わったが、戦前期の弟子はこの三人ですべてだった)。田河の妻、高見澤潤子はこの頃を述懐しているが、『弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。』という[16]。ただ、杉浦は戦後の1947年にもその頃荻窪にあった田河の家を訪れていて、親交が全く途絶えたわけではない[17]。杉浦は1933年(昭和8年)に家から独立ちし、杉並区高円寺のアパートに移り住んだ。翌1934年に音羽の小石川アパートへ引っ越した。この小石川アパートには挿絵画家の霜野二一彦と漫画家の広瀬しん平が住んでおり、親交を得た。また1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。
田河は制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだという考えから、特に漫画の指導らしい指導をしなかった[18][19]。杉浦は倉金とともに田河の作品をベタ塗りなどで手伝いつつ、一枚ものの「どうも近ごろ物騒でいけねえ」を『東京朝日新聞』(1932年12月18日付)に掲載、デビューを果たした。[20]。その後もいくつかのユーモアな短中篇作品を少年誌に掲載した。こうして杉浦は漫画家業を始めたのだが、ネタの引出しが少なく、別の雑誌に同じネタを使回すなど苦しみながらも漫画をこなした[21]。この傾向はその後もつづき、この一期で使ったネタを洗練させ、創作活動の二期目三期目にあたる時期で再利用することもあった[22]。また、戦前の杉浦の作品からは、描線や登場人物の表情から、横井福次郎の影響も見受けられる[23]。そんな杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男(堅山南風門下)という同い年の二人の親友がアシスタントに入っていた。二人は杉浦が洋画の道を目指していたときに知り合ってからの仲だった[24]。
1937年、田河門下生を中心に田河を盟主とした昭和漫畫會が結成され、その一員となった。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、田河が主導し、その5月より創刊した『小學漫畫新聞』[注釈 3]もすぐに発行が止まった。1941年には弟弟子の倉金が自ら志願して陸軍省の軍属となり、現地撫民の新聞編集者としてサイゴン(フランス領インドシナ)へ派遣された。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長として日本兒童漫畫家協會が結成され、杉浦は昭和漫畫會同人全員とともに参加することとなった。この後も1940年に新日本漫畫家協會、1942年に少年文學作家畫家協會ができ、入会した。1943年には、新日本漫画家協会が発展解消し、大政翼贊會肝煎で日本に居た全漫画家が入会した日本漫畫奉公會(会長北沢楽天)[25]が結成され、杉浦も参入した。戦争が激化するにつれ政府は企業への統制を強め、出版社は統廃合され、雑誌の数も減っていった。最終的に少年少女向け雑誌は六誌だけとなった。『少年倶樂部』(大日本雄辯會講談社(現講談社))、『少女倶樂部』(同)、『少國民の友』(小學館)、『良い子の友』(同)、『日本のコドモ』(國民圖書刊行會(現チャイルド本社))、『週刊少國民』(朝日新聞社)である。[26]。雑誌の仕事(「オテツダヒブタイ」『講談社の繪本』大日本雄辯會講談社、1940年11月15日刊が最後)が無くなるにつれ多くの漫画家は単行本へと発表の場を変えていった。1941年に杉浦も初めての単行本、『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版した。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本で発表していく様になった。杉浦の戦前期の単行本描下ろしは、國華堂書店からを中心に10冊ある。
1943年に結婚し、横浜市港北区妙蓮寺から江戸川区小岩町へ引っ越した。しかしこの頃は結婚披露宴の費用で貯金を費やし[27]、単行本の仕事も無くなり(1943年出版の『北ノ人達』國華堂日童社刊が最後)、漫画家としての生活を諦める寸前にまでなった。その前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りで、仕事で使っていた机や本棚や結婚祝いに貰った柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった[28][29]。そんな折電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家の岡田晟(倉金と同郷で親友であった)と偶然出会い、そのまま同行して岡田の勤め先である映画会社の茂原映画研究所に就職することができた。ここでは線画部長として山本善次郎(山本早苗)が、次長として西倉喜代治が働いていた。杉浦の後にも、仕事に困っていたこれも旧知の漫画家の帷子進や挿画家の荒井五郎もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を任された[30]。
杉浦は元来病弱であり徴兵検査で丙種とされていたため令状は来ないものと思っていたところついに1945年7月、召集を受けた。世田谷の砲兵連隊に入隊、熊本県への派兵となった。アメリカ軍の有明海上陸に備え玉名郡梅林村の梅林國民學校[注釈 4]に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱え上陸したアメリカ軍へ人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが[31]、急な環境の変化[32]と栄養失調[33]により下痢を起こし、半病人となった。
戦後の黄金期(第二期)
終戦後9月末に復員したが1946年まで漫画の仕事は無く、さつまいもを中心に食料の確保に専念した。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は戦後、日本映画社(日映)に吸収されアニメ映画専門の会社となっていた。ここでは後に漫画家となる福井英一と知合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから一緒に会社を辞めることにした[34]。
1946年、帷子より出版社の新生閣社長鈴木省三を紹介してもらった[33]。鈴木は小学館出身であり、新生閣では当時大流行していたこども漫画に力を入れていた。杉浦は『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、同社より単行本として出版された。これが戦後初の漫画仕事となった。その後新生閣からは西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』では『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。鈴木は経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰したが、同じ一ツ橋グループの集英社出版部長も兼任した。鈴木は集英社から『おもしろ漫画文庫』を創刊し、杉浦の代表作となる『猿飛佐助』はその21巻目としてここで描かれることとなる。同作は12万部も刷られ、同文庫の中で一番の売上をみせる大ベストセラーとなった[35]。1954年、この大好評を受けて『猿飛佐助』は『おもしろブック』(集英社)に雑誌連載となった(1954年3月から1955年12月まで)。この連載は『続猿飛佐助』としてやはり『おもしろ漫画文庫』の一巻にまとめられた。また、この『猿飛佐助』の好評は杉浦の仕事を大幅に増やし、それから1958年の五年間の間(杉浦46歳から50歳まで)に杉浦の代表作と言われる長篇作品が様々に描かれることになった[3]。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、背景となる世界のない完全オリジナルの『ドロンちび丸』や、西部劇では背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』[36]、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、漫画化作品では『モヒカン族の最後』(原作はアメリカ合衆国の作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーが1826年に発表した同名小説)『ゴジラ』(原作1954年の東宝映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督))、『大あばれゴジラ』(原作は『ゴジラ』の続編にあたる1955年の『ゴジラの逆襲』(小田基義監督))がある。この杉浦の黄金期をテーマで分けると、冒険物(1950年まで)から西部劇(1953年まで)に移り、さらに時代物へと変っていったことになるが、それぞれに戦前期に盛んに見た小説や映画が活かされている[37]。1958年には、集英社から描下ろし作品、『杉浦茂傑作漫画全集』が全八巻で刊行された。ただ、一人では対応しきれないほどの仕事が殺到し、昼も夜も仕事をし続けたことで体調を崩してしまった。1959年という年は『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)の二つの週刊少年漫画誌が創刊され、有力漫画家の仕事が月刊誌から週刊誌へ移行していく時期であったが、杉浦はとてもやりきれないと週刊誌の依頼を断った[38][39]。
この時代の杉浦には三人のアシスタントがいた。戦前から引き続き友人加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去した。この加藤以外の二人が杉浦門下であった。一人は斉藤あきら、もう一人は藤巻悟郎である。藤巻は数年後漫画家の道を諦めたため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけとなった。[40]。戦前の杉浦は漫画の素人だったにも関らず師匠の田河からあまり漫画について直接教わらなかったと前述したが、斉藤も1954年(昭和29年)[注釈 5]の入門当時、印刷工場勤務の傍ら定時制の高校に通う十代の少年であり、漫画については高校の新聞部で一コマ漫画を描いた経験がある程度だった。斉藤は杉浦が自分の住いの近くに自宅を持つことを知り、親しみをもってファンレターを出した。すると、杉浦から地図付きの返信が来、江戸川区小岩町の自宅に招いた。訪問当日斉藤は杉浦と談笑した後、急に杉浦が描きかけ原稿の余白に絵を描くことを指示した。この時斉藤は自分が絵を描くことを伝えていなかったし、また漫画は好きだったものの全く漫画家になるつもりもなかった。斉藤本人は手伝いはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦から手伝いの依頼が来てついに入門することになったという[41]。杉浦と斉藤は漫画のアイデア出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話合なかった。ただ、田河がそうだったように杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は、長じて漫画技術を習得して杉浦以外にも高野よしてるや手塚治虫、横山光輝の元でもアシスタントをしだし、独立して「ジャガープロ」を設立した。その後ジャガープロは赤塚不二夫のフジオ・プロダクション「斉藤班」となり、斉藤は赤塚不二夫のアシスタントもしたが、他の漫画家のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという[42]。
この子供向け漫画を中心とした第二期の活動は1966年(「スタミナドンちゃん」『少年ブック』1967年正月臨時増刊号)まで続いた。
第三期以降
1960年代、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになった。慣れぬ持ち込みをしたり、また時流に乗る様な大人漫画も描いたことがあった。その後このことをかなり後悔し、大人漫画について、だいぶ後のことであるが、2002年に杉浦の著作集として編まれる『杉浦茂マンガ館』(筑摩書房)に収録することを断っている[43]。
1968年(杉浦60歳)から杉浦の漫画仕事の第三期が始まった。杉浦はとにかく漫画は面白さが大切だと考えていた。この時期はさらに作風が奔放になり、また画家としての仕事の続きの様でもある、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。1969年の虫コミックス(虫プロ商事)での『猿飛佐助』単行本の復刊の折には杉浦自らの手によって、大胆によりはちゃめちゃに改変された。だが意に反して杉浦の元にはそのことに対しての読者の抗議が来、以降は改変をやめた[44]。
齢70に入って杉浦は『太陽』に名作を杉浦流に改変した『日本名作劇場』(1980年1月号から1981年年6月号まで)を、80代では描下ろし単行本『まんが聊斎志異』(上巻1989年刊、下巻1990年刊)を上梓し精力的に執筆を続けた。1980年代から、杉浦のナンセンスでシュールな作風がサブカルチャー興隆とともに見直され、1989年の第29回児童文化功労者に選出された。また、杉浦の画業をまとめる作品集が何度か編まれている。1981年には、中野書店から『杉浦茂傑作選集』(全四巻と別巻一冊)、1987年から1988年にかけて、ペップ出版から『杉浦茂ワンダーランド』(全八巻と別巻一冊)、1993年から1996年に、筑摩書房から『杉浦茂マンガ館』(全五巻)がそれぞれ企画、出版された。また、漫画以外では、イラストの仕事も手掛けている。森永製菓発売の「ぼうチョコ」のパッケージイラストや[45]、1984年、有楽町西武が開店した折にそれを宣伝するポスターとCM のキャラクターデザインを担当したり、ソニー、日立、横浜ドリームランド、ニコン[46]にイラストを提供[47]、筒井康隆『お助け・三丁目が戦争です』金の星社、1986年と糸井重里『私は嘘が嫌いだ』ちくま文庫、1993年の挿絵などである。
1996年、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第五巻のために「2901年宇宙の旅」[注釈 6]を描下ろし、六十四年に及んだ長い長い画業を終えた(以降も年賀状などにイラストを描いてはいる)。
1999年、杉浦は交通事故にあって腰の骨を折って寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには少し恢復したものの2000年4月23日、入院先の病院で腹膜炎により死去した[48]。92歳だった。
死後の評価
杉浦の死後も、2006年から青林工藝舎から中野書店のものと同名の『杉浦茂傑作選集』が刊行され、未収録の改稿版の初単行本化など、作品の発掘が進んでいる。杉浦の原稿は散逸がひどく[49]、斉藤は、杉浦宅から原稿が盗まれた可能性を指摘する[50]。2013年、1958年に刊行された『杉浦茂傑作漫画全集』(集英社)全八巻の内、飛び飛びに四巻が選ばれ (2, 5, 6, 7)、函入『杉浦茂傑作漫画選集 0人間』として小学館クリエイティブから刊行された。また、2002年に東京都三鷹市の三鷹市美術ギャラリーにて「杉浦茂−なんじゃらほい−の世界展」が、2009年に京都市中京区の京都国際マンガミュージアムで「冒険と奇想の漫画家・杉浦茂101年祭」展が、2012年には東京都江東区の森下文化センター(館内に杉浦の師匠田河の業績を展示する田河水泡・のらくろ館がある)で「びっくりどんぐり奇想天外 杉浦茂のとと? 展」と画業を紹介する展覧会も開催されている。四方田犬彦は『日本の漫画への感謝』(潮出版社、2013年)を書くにあたって、杉浦茂を「偉大なる魔術師」として最初に取り上げている。
作風
呉智英は、杉浦作品は、戦後復興期から高度成長開始期という現代マンガ成立期でも特筆すべき存在であると語る。杉浦全盛期の1950年年代でも様式的でないギャグや超現実的な物が横溢する杉浦作品は異質の作風であり、時代を先取りするものであったと評する[51]。米沢嘉博は、杉浦を戦後漫画の主流を走る手塚治虫作品が作った体系から零れ落ち、手塚作品の対極にある異端となった存在だと表現した。手塚作品は映画を目標に物語ることを目指し、絵やコマは読みやすい記号的、機能的な物を目指したが、一方杉浦作品は、物語性を目指しておらず、余白を許さないかのようにコマいっぱいに主要登場人物、群衆、背景、擬音などがそれぞれ自己主張し、たちどころに状況を把握できず、コマの中のすべてを目で追わなければならない様になっている。米沢はこうした作風にタブローとの近似を指摘した。ほとんどの作品に読者が既知である『猿飛佐助』等の有名作品や西部劇等の様式を大筋に利用しつつ細かな部分では、時にはリアルな絵柄とギャグ絵を組合せたり行き来したりなどのあらゆるナンセンスで過剰な遊びを行う。それ故に杉浦作品は物語の時間に束縛されない、どこから読んでもどこから読んでも面白い、眺めるだけで楽しい作品に仕上がっていると評価した。[52]。
杉浦作品の大胆な筋運びは、杉浦の独特な漫画に対する姿勢が大きく影響している。現代の漫画は一般に、構想をまとめた後ネームや下書きなどを経てペン入れという本番に至るが、杉浦は頭の中でだいたいの構想をまとめた後、下書きをあまりせずに一発でペンを入れ、執筆途中でもこちらの方が面白いと思い至ったら話の筋を曲げることもしばしばだった。弟子の斉藤によれば、杉浦は普段から「ぼくはね、話が前とつながってなくてもいいんだよ」と語ったという[53]。またこうした奔放さは杉浦作品の、たとえば大ゴマでよく見る、主要登場人物を埋没させるほどに物語の筋と関係ない群衆がてんでバラバラに行動し、おしゃべりしたり歌ったりとお祭り騒ぎの賑やかさにも表れている。また、画家時代の腕を活かしたリアル調の絵でギャグをしたり、デフォルメの絵とリアルの絵を交互に挟んだりの奇抜なセンスも見られる[54]。また、杉浦作品に欠かせないものに、気味の悪い怪物がある。カンブリア紀の生き物さながらのもの[55]や文化や時代性に捕らわれないぶっ飛んだデザインの数々の怪物が現れ[56]、また忍術物では登場人物の忍者たちがそういったものに変化(へんげ)している。
杉浦は登場人物の名づけ方も独特である。代表作の『猿飛佐助』を例にとると、食べ物に由来した「うどんこプップのすけ」や「コロッケ五えんのすけ」、「おおそうじでんじろう」(大河内傳次郎)や「たんげ五ぜん」(丹下左膳)などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といった何とも言えないものなど独自の言語センスを発揮した[57][58][59]。斉藤は、杉浦が読者の子供の覚えやすさと親しみやすさを重視してのことだという[60]。こうした言語センスは作品登場人物の台詞回しにも表れている。例えば杉浦のプロレスマニアぶりが発揮された『拳斗けん太』や『プロレスの助』では「えーい」と兇器も辞さない激しい挌闘、暴力の上倒された相手が「ぱ」とか「パ」とか「て」とか一言悲鳴をあげたり「ふわ」とか「ホワッ」とか「ふういてえ」とか笑顔で断末魔をあげたりするところは読者に牧歌的な印象を与える効果が出ている[61]。歌を歌うモブキャラの話を前述したが、主要登場人物もよく歌を歌っている。『猿飛佐助』では真田十勇士の一人三好青海入道が「しらないま~に食べちゃった♪」と他人の食べ物をテンポよく歌って歌詞で状況説明してつまみ食いをするギャグを披露している[62]。
影響
杉浦作品は、杉浦の弟子が少なかったこともあるが、その独自色の強い強烈な作風から漫画の歴史では語りづらく異端である[63][64]。同時代に活躍した漫画家手塚治虫も、杉浦のことをユニークな作品を描く漫画家だと注目はしていたが、「田河水泡門下とはつゆ知らず、倉金良行(章介)さんとは一線を劃した独立独歩の作家だと思っていた」と語っている[65]
杉浦への弟子入り後フジオ・プロに入った斉藤が語るように、赤塚不二夫は杉浦茂のファンで[66]、登場人物のレレレのおじさんの「レレレ」は杉浦作品から来ている[67]し、それ以外にも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」等の定番の台詞にも影響も与えた[62]。また、杉浦作品の登場人物がよくやる手のポーズに広げた手のうち中指と薬指を曲げるポーズがあるが(アメリカ手話の「I Love You」の形。読者に向かって手の甲を向けるか平を向けるかは一定しない)、このポーズは手塚治虫『鉄腕アトム』や赤塚不二夫『天才バカボン』、いしいひさいち『ののちゃん』でも確認できる[68][69]。もう一つ、杉浦には有名なポーズがあって、腕とつながっていない拳が頭を掻くものだが、手塚治虫がその作品『七色いんこ』や『旋風Z』(SGUIURA SHIGERU の手書き註釈あり)などでギャグポーズとして活用している[65][70]。また、手塚は著作の『おれは猿飛だ!』は杉浦の『猿飛佐助』の自己流解釈であると語っている[71]。
また、漫画家の日野日出志やいしかわじゅん、みなもと太郎、花輪和一、タイガー立石[72]など[73]やSF作家のかんべむさし、横田順彌[74]、ミュージシャンの細野晴臣[75]が杉浦から影響を受けたことを語っている。アニメーション監督の宮﨑駿も影響を受けた一人であり、宮﨑により読売新聞のCMとして杉浦作品のアニメ化も企画された[76][77]。『猿飛佐助』、『太閤記』、『八百八狸』などを原作に[77]、駿の長男である宮﨑吾朗が演出を担当し、スタジオジブリによって制作された[76]。このCMは『ふうせんガムすけ』編と題され、2009年より放送された[77]。
作品
漫画
主要作品のみ掲載とし、たとえば新聞雑誌掲載作品は特筆すべきもの以外割愛した。杉浦茂『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第五巻巻末収録の「杉浦茂・全作品リスト」を主に参考に、ペップ出版編集部編『杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』』ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>別巻収録の小野寺正巳編「完璧作品リスト」で補足して作成した。
一期
- どうも近ごろ物騒でいけねえ、一コマ漫画、東京朝日新聞、昭和7年12月18日 - デビュー作
- クロ子のお使、一頁、『少女俱樂部』、大日本雄辯會講談社、昭和8年7月号 - 雑誌デビュー作
- 思はぬ助け舟、一頁、『少年俱樂部』、大日本雄辯會講談社、昭和8年7月号 - 雑誌デビュー作
- 滿洲の侠ちゃん、連載、滿洲日々新聞日曜子供版、昭和8年 - 師田河水泡の引継ぎ
- 「クラブ齒磨」広告漫画、12篇掲載、『滿洲日報』、東京日日新聞、昭和9年、昭和10年
- 忍術漫画城、32頁、『新少年』8月号附録、博文館、昭和12年 - 初めて描いた中篇で忍術漫画
- ゲンキナコグマ、56頁、國華堂書店、昭和16年 - 初の単行本
- ミナミノクニ、頁数不明、國華堂書店、昭和17年 - 単行本
- ボクラノブタイ、26頁、國華堂書店、昭和17年 - 単行本
- コドモ南海記、168頁、國華堂書店、昭和17年 - 単行本
- 愉快ナ豆象、56頁、國華堂書店、昭和17年 - 単行本
- 北ノ人達、18頁、國華堂日童社、昭和18年 - 単行本
- ジヤワノキニーネノ話、頁数不明、國華堂日童社、昭和18年
- ツンドラノ話、頁数出版社不明、昭和18年
二期
- 冒険ベンちゃん、22頁、新生閣、昭和21年 - 単行本
- 魔法のランプ、22頁、新生閣、昭和21年 - 単行本
- 密林と冒険ハッチ、64頁、新生閣、昭和22年 - 単行本
- 南海魔島、頁数不明、新生閣、昭和22年 - 単行本
- 魔神博士、頁数不明、新生閣、昭和22年 - 単行本
- 一心太助、128頁、新生閣、昭和22年 - 単行本
- 冒険ベンちゃん、『少年少女漫画と読物』昭和23年4月号 - 昭和25年8月号、新生閣 - 連載作品
- ジャムくん、『小学四年』昭和23年11月号 - 昭和24年3月号、『小学五年』昭和24年4月号、二葉書店 - 連載作品
- 冒険ベンちゃん・魔境アマゾンの探検、128頁、新生閣、昭和23年 - 単行本
- ガムちゃんの冒険・怪魔島探検、93頁、文林社、昭和23年 - 単行本
- 密林の少年王、48頁、新生閣、昭和23年 - 単行本
- キリン号の旅、83頁、『小学四年』附録、昭和24年1月号 - 7月号、二葉書店 - 連載作品
- ハロー侠ちゃん、各12頁、『少年漫画帳』昭和24年6・8・10月号、少年漫画社 - 連載作品
- アップルジャム君、312頁、『少年少女おもしろブック』昭和25年2月号 - 昭和29年9月号、集英社 - 連載作品、横一段漫画
- 弾丸トミー、『少年少女漫画と読み物』昭和25年9月号 - 昭和27年3月号、新生閣 - 連載作品
- 冒険ベンちゃん、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和25年 - 雑誌連載の単行本化
- 弾丸トミー、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和26年 - 雑誌連載の単行本化
- 弾丸トミー・痛快カウボーイ、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和26年 - 雑誌連載の単行本化
- ピストルボーイ、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和26年 - 雑誌連載の単行本化
- キャプテン小僧、125頁、『少年少女漫画と読み物』昭和27年4月号 - 昭和28年11月号 - 連載作品
- ピストルボーイ・幌馬車、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和27年 - 雑誌連載の単行本化
- 弾丸トミー・インディアン渓谷、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和27年 - 雑誌連載の単行本化
- 続・冒険ベンちゃん・恐怖塔、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和27年 - 雑誌連載の単行本化
- ピストルボーイ・拳銃王、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和28年 - 雑誌連載の単行本化
- モヒカン族の最後、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、昭和28年 - 単行本
- 猿飛佐助、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、昭和28年 - 単行本
- 猿飛佐助、250頁、『少年少女おもしろブック』昭和29年3月号 - 昭和30年12月号、集英社 - 単行本の人気を受けた連載作品、単行本の『続・猿飛佐助』に当たるもの
- 南海キッド、122頁、『少年少女おもしろブック』昭和29年8月号別冊附録、集英社
- 忍術合戦、80頁、『少年少女おもしろブック』昭和29年9月号別冊附録、集英社
- 円盤Z、128頁、トモブック社、昭和29年 - 『キャプテン小僧』の改題の上、単行本化
- ピストルボーイ・アパッチ平原、128頁、トモブック社、昭和29年 - 単行本
- 冒険ベンちゃん・怪艇魔王、111頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、昭和29年 - 雑誌連載の単行本化
- 太閤記、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、昭和29年 - 単行本
- 決戦忍術城、96頁、『少年少女おもしろブック』昭和30年1月号別冊附録
- 侠助侠勇伝、34頁、『少年画報』昭和30年1月号 - 昭和30年5月号、少年画報社 - 連載作品
- 怪星ガイガー、70頁、『漫画王』昭和30年1月号別冊附録、秋田書店
- アンパン放射能、95頁、『漫画王』昭和30年1月号 - 昭和31年8月号、秋田書店
- ゴジラ、64頁、『少年クラブ』昭和30年3月号別冊附録、講談社 - 東映の特撮映画、ゴジラの漫画化作品
- ドロンちび丸、680頁、『幼年ブック』昭和30年4月号 - 昭和32年8月号、集英社 - 本誌以外に附録にも掲載
- 大あばれゴジラ、24頁、『少年少女おもしろブック』昭和30年6月号附録、集英社
- プロレスの助、64頁、『少年少女おもしろブック』昭和30年7月号別冊附録、集英社
- 拳斗けん太、80頁、『少女おもしろブック』昭和30年9月号別冊附録、集英社
- 近藤勇、66頁、『少年少女おもしろブック』10月号別冊附録、集英社
- 忍術白金城、156頁、集英社、昭和30年 - 決戦忍術城を改題の上、単行本化
- 少年西遊記、頁数不明、『少年少女おもしろブック』昭和31年1月号 - 昭和32年3月号、集英社 - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載
- 岩見重太郎、64頁、『幼年ブック』1月号別冊附録、集英社
- とらわか丸、32頁、『小学二年生』昭和31年4月号 - 7月号、小学館 - 連載作品
- 宮本武蔵、80頁、『少年少女おもしろブック』昭和31年7月号別冊附録、集英社
- 少年児雷也、392頁、『少年』昭和31年8月号 - 昭和32年11月号、光文社 - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載
- 続・猿飛佐助、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社 - 雑誌連載の単行本化
- 冒険ガン助、224頁、『少年少女おもしろブック』昭和32年4月号 - 11月号、集英社 - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載
- モクモクドンちゃん、224頁、『日の丸』昭和32年9月号 - 昭和33年9月号、集英社 - 連載作品
- 後藤又兵衛、80頁、『少年少女おもしろブック』昭和32年12月号 - 昭和33年5月号、集英社 - 本誌以外に別冊附録にも掲載
- 続太閤記、107頁、<おもしろ漫画文庫>集英社 - 単行本
- 水戸黄門漫遊記、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第一巻、集英社、昭和32年
- 孫悟空、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第二巻、集英社、昭和32年
- 曽呂利さん、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第三巻、集英社、昭和32年
- 弥次喜多珍道中、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第四巻、集英社、昭和33年
- 一心太助、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第五巻、集英社、昭和33年
- 0人間、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第六巻、集英社、昭和33年 - 『怪星ガイガー』を一部改稿の上改題
- 弾丸トミー、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第七巻、集英社、昭和33年
- 八百八狸、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第八巻、集英社、昭和33年
- ミスターロボット、190頁、『少年』昭和34年1月号 - 12月号、光文社 - 本誌以外に別冊附録にも掲載
- 少年児雷也、127頁、若木書房、昭和34年 - 雑誌連載の単行本化
- 少年珍探偵団、128頁、『少年ブック』昭和37年新年増刊号別冊附録、集英社
- 孫悟空、36ページ、『月刊のらくろ』昭和40年8月号 - 10月号、ろまん書房
三期
- 猿飛佐助、236頁、<虫コミックス>虫プロ商事、昭和44年 - 「虫コミ版」、昭和29年の雑誌連載を全面改稿の上、単行本化
- ミフネ、72頁、『現代コミック』昭和45年1月8日・22日号、2月12日・16日号、3月12日号、日本社 - 連載作品
- ドロンちび丸、236頁、<虫コミックス>虫プロ商事、昭和46年 - 「虫コミ版」、昭和30年の雑誌連載を全面改稿の上、単行本化
- 忍術物語、54頁、『宝島』昭和49年7月号、JICC出版局 - 忍術大全をめぐる、全四話のオムニバス作品
- モヒカン族の最後、111頁、晶文社、昭和49年 - 昭和28年の同名作品を全面改稿、描下ろし『忍術物語』、改稿版『ミフネ』併せて収録
- 日本名作劇場、54頁、『太陽』昭和55年1月号 - 昭和56年6月号、平凡社
- 杉浦茂のおもしろ世界、155頁、<思索ナンセンス選集>思索社、昭和58年 - 描下ろし「さるとび天助」、「ガンモドキー」、「日輪丸」、「イエローマン」収録
- JIRAIYA THE NINNJYA BOY, 『RAW』#7、RAW BOOKS & GRAPHICS - 昭和60年。小野耕世が英訳し、ニューヨークの雑誌に掲載されたもの
- まんが聊斎志異、上巻、コア出版、平成元年 ISBN 978-4906175-611
- まんが聊斎志異、中巻、フットワーク出版、平成2年 ISBN 978-487689-0149 - 下巻の原稿は完成していたものの、出版社と縺れて刊行されなかった[78]。その後、『杉浦茂マンガ館:東洋の奇々怪々』第四巻、筑摩書房に全話が収録された。
- 2901年宇宙の旅・習作、未発表、平成6年 - 最後の描下ろしのもとになったもの
- 2901年宇宙の旅、24頁、平成8年 - 最後の描下ろし、『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第五巻、筑摩書房収録
CM
- 読売新聞「ふうせんガムすけ」編 平成21年 - 原作
脚註
注釈
出典
参考文献
- テンプレート:Cite book - 同社単行本『あさってのジョー』1985年の改題の上の文庫化。猪瀬による杉浦へのインタビュー
- テンプレート:Cite book- 巻末に筑摩書房編集部による「杉浦茂・全作品リスト」がある
底本は、同名単行本(新評社刊、1981年)
外部リンク
- 杉浦茂記念祭公式サイト - mixi「杉浦茂 記念祭」コミュニティの公式サイト及び杉浦茂の紹介ページ。
- 杉浦茂−なんじゃらほい−の世界展 - 2002年に三鷹市美術ギャラリーで開かれた展覧会の紹介ページ。
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タグがありません- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.194
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.164
- ↑ 3.0 3.1 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの p.80
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 pp.136-139
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.54-61
- ↑ 6.0 6.1 杉浦茂:自伝と回想 p.196
- ↑ 漫画家人名事典 p.201
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.77-78
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.36
- ↑ 二度目の仕事:日本凡人伝 p.259
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.61-63
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.149
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.147
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.150
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 pp.147-155
- ↑ のらくろひとりぼっち:夫・田河水泡と共に歩んで p.135
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.50-51
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.37
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.151
- ↑ 杉浦 (2002)p.151、井上 (2002)p.167。猪瀬 (1988)pp.258, 261, 262. や小野寺 (1988)p.191、『漫画家人名事典』(2003)p.201 などでは、「思はぬ助け舟」(『少年倶樂部』1933年7月号、大日本雄辯會講談社(現講談社))と「クロ子のお使い」(『少女倶樂部』同)が雑誌デビューということでデビュー作となっている。この二作はそれぞれ一ページの作品であったが、田河の紹介で掲載された。
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.166-168
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.182-183
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.170-173
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.40
- ↑ 杉浦の記述には「日本漫画報国会」(杉浦 (1988)p.187)や「日本漫画報公会」(杉浦 (2002)p.46)とあるが、清水 (2005)p.38 の記述に合せる。
- ↑ 戦争とマンガ p.383
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.164
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.47-48
- ↑ 二度目の仕事:日本凡人伝 pp.269-270
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.164-166
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.157-158
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.167
- ↑ 33.0 33.1 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.188
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想p.49, 50. 『少年漫画劇場』第8巻、筑摩書房、1971年あとがき(『杉浦茂ニコニコ大会』青林工藝舎<杉浦茂傑作選集>二巻、2009年 ISBN 978-4-88379-282-5 巻末に再掲)には、兵役から復員して、練馬区南町(現練馬区桜台)にあった漫画動画社に入社、ここで福井と知合うも働きぶりが悪くクビになったとある。
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 pp.30-32
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.111-113
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.204-207 の「漫画と映画 題名関連リスト」は、杉浦がいかに映画を見、作品のネタにしていたかがよく現れている。
- ↑ 二度目の仕事:日本凡人伝 p.254
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの pp.134-135
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.100,102
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.86-91
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.96-100
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.117-118
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.173
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.108-109
- ↑ 筑摩書房編集部 (1996)p.427
- ↑ 二度目の仕事:日本凡人伝 pp.250-251
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.81-83
- ↑ 青林工藝舎編集部 (2009)p.124
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.138-139
- ↑ 呉智英 (1986)p.134 なお、ここで呉は、杉浦と杉柾夫とを混同し、『杉浦は、戦前から、杉柾夫の名前で時評風俗漫画を描いていたが、戦後、画風を一新して...』としているが、これは事実誤認であり、前述のとおり杉浦は戦前から本名で作品を発表していたし、杉浦本人が杉とは別人であることを述べている。杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』p.175, 178
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 pp.15-25
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.99
- ↑ 戦後ギャグマンガ史 pp.70-75
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの pp.120-121
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの pp.122-123
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.183-188
- ↑ 戦後ギャグマンガ史 p.73
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの p.50
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.106
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの p.107
- ↑ 62.0 62.1 戦後ギャグマンガ史 p.75
- ↑ 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.15
- ↑ 戦後ギャグマンガ史 p.70
- ↑ 65.0 65.1 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 p.63
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.116-117
- ↑ レレレのおじさん大解剖! - 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.199
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 p.202
- ↑ 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの pp.76-79
- ↑ 『おれは猿飛だ!』講談社<手塚治虫漫画全集>、1982年の後書き
- ↑ 立石 (1988)pp.111-114. 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>六巻解説、1988年
- ↑ アンケート・杉浦まんがファン100人の声 (1988)pp.44-95.
- ↑ 横田 (1988)pp.96-99. 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>一巻解説、1987年
- ↑ 細野 (1988)p.110,111 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>五巻解説、1988年
- ↑ 76.0 76.1 「読売新聞のCM『ふうせんガムすけ』編」『読売新聞CM : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞。
- ↑ 77.0 77.1 77.2 「スタジオジブリ最新作は杉浦茂×宮崎駿×宮崎吾朗」『コミックナタリー - スタジオジブリ最新作は杉浦茂×宮崎駿×宮崎吾朗』ナターシャ、2009年7月31日。
- ↑ 杉浦茂:自伝と回想 pp.135-138