大河内傳次郎
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:ActorActress 大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年7月18日)は、大正・昭和期の映画俳優。本名は大辺 男(おおべ ますお)。戦前を代表する時代劇スターである。
目次
略歴
俳優デビュー
1898年(明治31年)2月5日、福岡県築上郡岩屋村字大河内(現・豊前市大河内)に、代々医者を家業とする家の次男として生まれる。実業家を目指し、大阪に出て、大阪商業学校(現・大商学園高等学校)に入学した。卒業後、兄の会社に入社するが、1923年(大正12年)に起きた関東大震災の影響で会社は倒産してしまう。
その後、芝居の脚本を書いて身を立てようと、大阪府堺市にあった倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に入学した。卒業後、 第二新国劇に入り、文芸員に採用された。
1924年(大正13年)、倉橋に「一度役者の真似もしてみろ」と言われ、この年の大阪楽天地旗上げ公演に、室町 二郎、または室町 次郎(むろまち じろう)の芸名で無理やり剣を持たされ、澤田正二郎と同じ舞台に立つ。これが病みつきとなり、マキノ省三と直木三十五の設立した聯合映画芸術家協会に入った。
1925年(大正14年)、聯合映画芸術家協会の『弥陀ヶ原の殺陣』(衣笠貞之助監督)で「目明し政治」に扮し、銀幕デビューした。
剣戟スタアとなる
1926年(大正15年)10月、日活大将軍撮影所に入社。芸名も大河内傳次郎と改める。目玉だけが異様に大きく、容貌魁偉短軀の室町二郎改め大河内傳次郎なる俳優に、大スタアの素質を認めるものはなかった。
ただ一人、新進気鋭の伊藤大輔監督が大河内を見出し、同年『長恨』の主演に抜擢された。以降、伊藤と撮影の唐沢弘光とトリオを組んで、1927年(昭和2年)の『流転』、『忠次旅日記』、1928年(昭和3年)『血煙高田の馬場』などに出演、一躍空前の人気を集め、サイレント期を代表する時代劇スターとなった。特に、『忠次旅日記』(全三部)では悲運の国定忠次を熱演し、大スターとしての地位を決定的なものにした。
1928年(昭和3年)、当時売れっ子の大衆作家だった林不忘の小説が『新版大岡政談』として映画化。伊藤大輔監督はこの映画で、原作ではあまり重要人物でなかった殺し屋「丹下左膳」を前面に押し出し、大河内は大岡越前とこの丹下左膳の二役を演じて、アクの強い丹下のキャラクターは大評判となった。刀の鍔を口元に持ってきて見得を切る「丹下左膳」のキャラクターは大河内のシンボルとなり、生涯を通してこの「丹下左膳」の題名を持つ主演映画は17本を数えるに到った。
トーキー時代に入ると、少し地元の豊前訛りのある大河内の「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)という決めセリフが一世を風靡、後代まで多くの人々が物真似にする名文句になった。
その後も山中貞雄やマキノ雅弘、衣笠貞之助ら巨匠と組み、『国定忠次』『盤嶽の一生』『丹下左膳余話・百万両の壺』など次々と名作・ヒット作を飛ばす。演技は悲愴感に溢れエネルギッシュな殺陣を得意としたが、一面喜劇俳優としての才能にも恵まれるなど多才ぶりを発揮した。12年間日活に在籍したが、主演作は100本以上にのぼる。
1937年(昭和12年)、東宝へ移籍。二級喜劇の『でかんしょ侍』が移籍第一作となる。東宝では現代劇にも多く出演しており、『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』といった戦中制作の戦争映画にも出演した。
戦後
1946年(昭和21年)、『わが青春に悔なし』など黒澤明監督作品に出演。動きこそ少なくなったが風格ある重厚な演技で芸域を広げた。
同年、所属していた東宝で東宝争議が起こるが、大河内は経営者側にも、労働組合側にもつかないと立ち上がり、それに賛同する藤田進、高峰秀子、長谷川一夫、入江たか子、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、黒川弥太郎、山根寿子と共に「十人の旗の会」を結成して東宝を脱退、新東宝の設立に参加した。新東宝では主に現代劇で活躍した。
1949年(昭和24年)、新東宝から大映京都撮影所へ移籍。1953年の『丹下左膳』(マキノ雅弘監督)で「丹下左膳」役に堂々と返り咲いた。翌年『こけ猿の壺』(三隅研次監督)でも往年の丹下の睨み返しを披露している。
往年はバンツマと並び称されるほどの大スターであった彼も、還暦が近づくにつれて自分が主演では客が入らなくなってきたことを自覚し、1957年に東映京都撮影所に入社した。入社時に「過去の栄光は忘れてください」と言われたため、主役、脇役を問わず、乞われるままになんでも演じている。その中には大河内映画に親しんだ往年のファンにとって観るのも辛い斬られ役も多くあった。しかし、片岡千恵蔵や市川右太衛門らと共演して貫禄ある演技を見せ、70本以上の作品に出演した。
1962年(昭和37年)7月18日、胃がんのため京都にある大河内山荘で死去した。享年64。
人物
その立ち回りから「八方破れ」、「型破りの快剣士」、大きな目玉から、「目玉のデンジロー」とも呼ばれた[1]。『忠治旅日記』出演のころから、一脈のニヒリズムを底流とした大河内の眼光は、ファンの胸を揺さぶった。
「丹下左膳」のような殺し屋役以外に、大河内は喜劇物にも好んで出演した。内田吐夢監督の『仇討選手』はインテリファンを喜ばせ、その後も『小市丹兵衛』、『怪盗白頭巾』(泥棒ヒゲの滑稽メイクで登場)、『でかんしょ侍』などといった作品に出演している。喜劇物では高勢実乗、鳥羽陽之助、市川百々之助などと共演した。
俳優になるまでは文学者志望だった大河内には、哲学的な性格があった。晩年は仏教に帰依し、名利にこだわることなく淡々と生き、人徳が出て人間として超脱した姿を見せた[2]。
全盛期は、バンツマこと阪東妻三郎と並び称されるほどの大スターであった。とくに昭和一桁世代には「最高給俳優」と呼ばれた。また戦前・戦中は、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門・長谷川一夫と共に「時代劇六大スタア」と呼ばれた。
極度の近視で、普段は牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけていた。しかしこれがかえって大河内の眼に異様な光を与えることとなる。近視のため相手に肉薄して刀を振るうので、迫力ある乱闘が生まれた。裸眼では足下もよく見えず、『新版大岡政談』の撮影時には乱闘中勢いあまって顔面を泥の中につっこんでしまうほどだった。
エピソード
稲垣浩によると、東宝映画『清水の次郎長』(1937年)で、大河内は「なんだ、雨も降らねえのに傘なんか持ってきやがって」というセリフを「なんだ、雨も降らねえのに提灯持ってきやがって」と言い間違えてしまった。撮影はNGとなったが、大河内は「傘を傘と言わないほうがおもしろいですよ、この場合は」と開き直って撮り直しに応じなかった。これが評判となり、翌年の『巨人伝』では、伊丹万作監督は「監督の命令には服従すること、セリフはシナリオ通りに言うこと」などと箇条書した条件を提出した。大河内はこれに対し、「服従できる演出をしてもらえれば服従します。私が直さなくてもいいセリフを書いてもらえればシナリオ通りに言います」と返したという。稲垣との作品の『小市丹兵衛』で、主人公の「小市丹兵衛」の名を題名にしようと言ったのは大河内だった。大河内はこの名前がひどく気に入って、「小市丹兵衛は、お俊伝兵衛や夕霧伊佐衛門のように色気がありますね」と言っていたという。
武士の役の際には必ず真剣の小刀を腰に差した。『大菩薩峠』では、中里介山居士の差し向けた虚無僧空山と木刀の試合を行っている。これも稲垣浩によると、ラブシーンのある日はチャンバラの時よりもうれしそうだった。稲垣との初仕事となった『新撰組』でのお相手は某子爵の令嬢だというズブの素人で、大河内自身が「嵯峨野みや子」と芸名までつける熱の入れようだったが、三村伸太郎と大河内の二人で高野山に籠って書きあげた脚本では、近藤勇が心を惹かれる「盲目の路上芸人」という難しい役となってしまった。大河内は嵯峨野のリハーサルや歌の練習にまで終始付き添い、稲垣によると「劇中の近藤勇を地で見るようだった」というが、嵯峨野みや子は結局成功しなかった。
『千両礫』では、「好きな女に巡り合うことは、めったにねえことだ」というセリフがあり、これがひどく気に入った大河内は、「素人ではなく劇団の小芝居から女優を見つけよう」と言い出し、稲垣と二人で京都、大阪、神戸、名古屋、東京と女優探しを精力的に行った。結局多摩川撮影所の所長が、現代劇部の高松美恵子(原文ママ)という新人女優を推し、撮入となった。ところが初日に彼女がセリフを一言も喋れないということがわかり、1カットも撮れずにこの日は撮影打ち切りとなってしまった。稲垣が頭を抱えていると大河内がスタッフルームにやってきて、「私が病気になりますから、撮影は無期延期ということに願います」と申し出てきた。大河内のこの計らいに、高松は翌日「大河内先生にどうかよろしく、早く良くなって撮影再開されることを願っています」と笑顔で帰って行った。結局ヒロインは稲垣が別の女優を探し出してあてたが、先の高松はのちに新興キネマに移って「真山くみ子」と名を改め、「現代劇のピカ一女優」と呼ばれるようになった。大河内は「私のあきらめが早すぎました」と稲垣に話したという。
『大菩薩峠』撮入の宴が祇園の料亭で開かれたとき、酒癖の悪かった共演の清川荘司が大河内に接近し、尊敬するとか大好きだとか話すうちに、とうとう抱きついて、顔をペロペロ舐めだした。これは清川が酔うと始める妙な癖だった。大河内は初めてらしく驚いて立ち上がったが、しつこくあとを追って抱きついてきたため、開口一番「無礼者ッ!」と怒鳴っていきなり大外刈りで投げ飛ばした。大河内に投げられた清川が畳の上に大の字になっていい気持ちで眠っているのを見て、稲垣は「さすが時代劇の大スターだと思った」、「『無礼者ッ!』と言った声が、今でも耳に残っている」と語っている[3]。
大河内傳次郎と「丹下左膳」」
「丹下左膳」の妖異なメイキャップ、ケレンの大立ち回りと、大河内の出現は当時の映画界で衝撃的であり、表現派風であり、カリスマ的なものだった。それはまったく型破りであり、これまでのどんな時代劇にも存在しなかったキャラクターを、独自な存在感で演じてみせた。
『新版大岡政談・第三篇』では、丹下左膳と櫛巻お藤、黒装束の一団とが「乾雲」・「坤竜」の二刀をラグビーのボールのように空高く放り上げ、それを追う人々の動きを全速移動で見せたり、櫛巻お藤が左右の屋根から屋根へ捕り方の梯子に乗って、赤い蹴出しをちらつかせながら飛び移るような変形の立ち回りでは、映画館は興奮した客の叫び声に覆われたという。
「正統派」と呼ばれる伊藤大輔の時代劇は、実は「異端」である大河内という「グロテスクな俳優」を得なくては成り立たなかった。『新版大岡政談』のあと、大河内の「風格ある演技」が確立するまでにはなお十年を要した。「丹下左膳」での初のお目見得は文字通り「鬼面人を驚かせた」のである[4]。
「剣戟スタア」、大河内傳次郎
澤田正二郎譲りのリアリズム、火花を散らすような大河内の立ち回りの秘密は、強度の近眼にあった。立ち回りでは刃引きをした「ホンミ(真剣)」を使った。絡みの役者は殺陣師の指示に従い、斬られる部分に綿を入れてかかっていくが、大河内は相手の身体に刀が当たらなければ承知しなかった。
刃引きはしていても真剣が当たれば相手は生傷、タンコブだらけとなり、大河内との絡みには「膏薬代」が出た。伊藤大輔は大河内の立ち回りについて次のように語っている。
- 「バンツマは間合一寸で抜く、右太衛門は舞踊ですから呼吸を合わせれば怪我はない、寛寿郎は正確無比に剣が飛んでくる、これも殺陣の段取りが狂いさえしなければ安心です。それぞれに、避けようがある。傳次郎これはぶっつけ本番で、避けも逃げも出来ません。迫力が出なければ嘘になりましょう」
大河内は近藤勇役で嵐寛寿郎と絡む時は必ず抜き身の真剣を使った。アラカンは「一番怖かったのは大河内傳次郎」、「あの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」と語っている[5]。
大河内山荘
大河内は敬虔な仏教信者としても有名で、1931年(昭和6年)に京都嵯峨の小倉山[6]の向かいの亀山の山頂に広壮な山荘を置いた。大河内は広大な和式庭園を自ら設計し、家続きの寺院「持仏堂」を建て、そこで教典をひもとき、朝夕「南無阿弥陀仏」を唱えてすごした。東映時代劇など晩年の多数の脇役出演によって稼いだ多額のギャラは、その大半が山荘造営に注ぎ込まれたという。現在この山荘は大河内山荘として一般公開されている。彼の死後も、妻をはじめとする遺族が山荘を維持しており、傳次郎生誕100周年の1998年に刊行された山荘の写真集は、未亡人に捧げられている。
建物の詳細は「大河内山荘」を参照
日活時代の大河内の自宅は撮影所のすぐ傍らの竹藪にあり、撮影所内の人たちは大河内を「藪の神様」と呼んでいた。「大河内に楯をついたらえらいことになる」とのことから「カミサマ」と呼んだものらしい。大河内は撮影中に気に入らないことがあると、プイと仕事をやめてこの亀山の山荘に閉じ籠ってしまった。稲垣浩がのちに本人にその理由を聞くと、「聖徳太子は自分の政事や行いに誤りがないかと夢殿に籠って反省したと聞いています。私が山荘に行くのも、あそこで座禅を組んで反省しているのです」と答えた。
山荘は戦後、本格的な建築に改められたが、いちばん苦心したのは井戸だったという。高い山頂での掘削であるため、地下水脈に至るまで相当深く掘らなければならず、出来上がった井戸は石を投げ込んで七、八ツを数えなければ音がしないほどの深さだったという。鎌倉様式と室町様式が混然としている大河内山荘は、出来上がったころはあまり評判は良くなかった。
ある日、大河内が常盤のあたりを散策していると、道端に転がっている石地蔵を見つけた。立ち去りかねて野仏を拾い上げた大河内は表情が気に入り、これを抱き上げ、山荘に持ち帰った。ところがこれを近在の子供が目撃して、常盤村の人たちが大河内に地蔵を返さねば訴えるとねじ込んできた。これに大河内は平然と、「あの地蔵は盗んだのでない、常盤を散歩していたらあの地蔵様が“大河内、大河内”と呼びとめなさった。道端に転んでいるお姿がとても傷わしく思われたので山荘にご案内して、大切におまつりしただけのこと。あなた方がそれほど大切な地蔵様であるなら、なぜおまつりをなさらぬか。なぜ道端に横倒しになっているのを起こして差し上げぬのか。草むらに横たわった地蔵様を見つけたというのは霊の導き、縁あってのことでありましょう。訴えなくとも戻せと言うなら戻しますが、その代り地蔵寺をたてて立派におまつりしてください」と答えて見せた。こうした話し合いが何度かあり、結局常盤村が地蔵を大河内山荘に寄贈することで裁判沙汰にもならず決着したという[7]。
現存する戦前の出演フィルム
戦前の出演作は、フィルムの多くが散逸し、かろうじて『御誂次郎吉格子』がほぼ完全な形で残っているに過ぎない。1991年春、広島県で『忠次旅日記』三部作の一部が、その後『長恨』の後半部が発見されるなど大河内傳次郎全盛期の演技を見ることができるようになった。
出演作品
- 弥陀ケ原の殺陣(1925年、聯合映画芸術家協会)
- 水戸黄門(1926年、日活) - 槌田左門
- 長恨(1926年、日活) - 壱岐一馬
- 照る日くもる日(日活) - 加納八郎
- 第一篇(1926年)
- 第二篇(1927年)
- 第三篇(1927年)
- 第四篇(1927年)
- 最終篇(1927年)
- 地雷火組(日活) - 佐橋与四郎
- 第一篇(1927年)
- 第二篇(1927年)
- 流転(日活)
- 前篇(1927年)
- 後篇(1927年)
- 忠次旅日記(日活) - 国定忠次
- 建国史 尊王攘夷(1927年、日活) - 井伊掃部頭直弼
- 剣と恋(1927年、日活)
- 弥次喜多(日活) - 喜多
- 尊王の巻(1927年)
- 韋駄天の巻(1928年)
- 伏見鳥羽の巻(1928年)
- 血煙高田の馬場(1928年、日活) - 中山安兵衛
- 続水戸黄門(1928年、日活) - 龍門伝蔵
- 新版大岡政談(日活) - 丹下左膳、大岡越前守
- 第一篇(1928年)
- 第二篇(1928年)
- 第三篇 解決篇(1928年)
- 維新の京洛 竜の巻 虎の巻(1928年、日活) - 近藤勇
- 平手造酒(1928年、日活) - 平手造酒
- 天野屋利兵衛(1928年、日活) - 天野屋利兵衛
- 沓掛時次郎(1929年、日活) - 沓掛時次郎
- 血煙荒神山(1929年、日活) - 吉良の仁吉、清水次郎長
- 赤穂浪士第一篇 堀田隼人の巻(1929年、日活) - 堀田隼人、大石蔵内助
- 元禄快挙 大忠臣蔵(1930年、日活) - 大石蔵内助
- 続大岡政談 魔像篇第一(1930年、日活) - 大岡越前守、神尾喬之助、茨右近
- 素浪人忠弥(1930年、日活) - 丸橋忠弥
- 興亡新撰組(日活) - 近藤勇
- 前史(1930年)
- 後史(1930年)
- 旅姿上州訛(1930年、日活) - 国定忠次
- 侍ニッポン(日活) - 新納鶴千代、井伊大老
- 前篇(1931年)
- 後篇(1931年)
- 浪人と阿片(1931年、日活) - 相川忠四郎
- 荒木又右衛門(1931年、日活) - 荒木又右衛門
- 続大岡政談 魔像解決篇(1931年、日活) - 大岡越前守、神尾喬之助、茨右近
- 鼠小僧旅枕(1931年、日活) - 鼠小僧次郎吉
- 仇討選手(1931年、日活) - 由公
- 御誂次郎吉格子(1932年、日活) - 鼠小僧次郎吉
- 薩摩飛脚(日活) - 神谷金三郎
- 東海篇(1932年)
- 剣光愛欲篇(1933年)
- 三万両五十三次(日活) - 牛若金五郎
- 江戸明暗篇(1932年)
- 道中活殺篇(1933年)
- 京洛解決篇(1933年)
- 煩悩秘文書(日活) - 伴大次郎、祖父江出羽守
- 流星篇(1932年)
- 剣光篇(1932年)
- 解脱篇(1933年)
- 月形半平太(1933年、日活) - 月形半平太
- 盤嶽の一生(1933年、日活) - 阿地川盤獄
- 鼠小僧次郎吉(日活) - 鼠小僧次郎吉、長沢屋勘右衛門、大阪屋仁吉
- 前篇 江戸の巻(1933年)
- 中篇 道中の巻(1933年)
- 後篇 再び江戸の巻(1933年)
- 丹下左膳 第一篇(1933年、日活) - 丹下左膳
- 唄祭三度笠(1934年、日活)
- 水戸黄門(日活) - 水戸光圀、立花甚左衛門
- 来国次の巻(1934年)
- 密書の巻(1935年)
- 血刃の巻(1935年)
- 丹下左膳 剣戟の巻(1934年、日活) - 丹下左膳、大岡越前守
- 国定忠次(1935年、日活) - 国定忠次
- 水戸黄門(1935年、日活) - 水戸黄門
- 富士の白雪(1935年、日活)
- 千両礫(1935年、日活)
- 丹下左膳余話 百萬両の壺 (1935年、日活) - 丹下左膳 ※DVD化。
- 大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻(1935年、日活) - 机竜之助
- 大菩薩峠 鈴鹿山の巻・壬生島原の巻(1936年、日活)
- 怪盗白頭巾(1936年、日活) - 雲霧仁左衛門
- 丹下左膳 (日活) - 丹下左膳、大岡越前守
- 日光の巻(1936年)
- 愛憎魔剣篇(1937年)
- 完結咆吼篇(1937年)
- 小市丹兵衛(1937年、日活)
- 南国太平記(1937年、J.O映画)※VHS化
- でかんしょ侍(1938年、東宝)
- 巨人傳(1938年、東宝)
- 新篇丹下左膳(東宝)
- 妖刀篇(1938年) - 丹下左膳、千葉周作
- 隻手篇(1939年) - 丹下左膳、千葉周作
- 隻眼の巻(1939年) - 丹下左膳
- 恋車の巻(1940年) - 丹下左膳
- 忠臣蔵(1939年、東宝) - 大石蔵内助
- 川中島合戦(1941年、東宝) - 武田信玄
- ハワイ・マレー沖海戦(1942年、東宝) - 佐竹艦長
- 姿三四郎 Sanshiro Sugata(1943年、東宝) - 矢野正五郎
- 加藤隼戦闘隊(1944年、東宝)
- 雷撃隊出動(1944年、東宝)
- かくて神風は吹く(1944年、東宝)
- 續姿三四郎 Sanshiro Sugata Part II(1945年、東宝) - 矢野正五郎
- 或る夜の殿様(1946年、東宝) - 江本逓信大臣
- わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth (1946年、東宝) - 八木原教授
- 幸福への招待(1947年、新東宝)
- 生きている画像(1948年、新東宝) - 瓢人先生
- 富士山頂(1948年、新東宝) - 和田雄治博士
- 盤獄江戸へ行く(1949年、新東宝) - 阿地川盤獄
- 佐平次捕物控(1949年、新東宝) - 目明し佐平次
- 鍋島怪猫伝(1949年、新東宝) - 小森平左衛門
- 小原庄助さん(1949年、新東宝) - 杉本左平太
- エノケン・大河内の旅姿人気男(1949年、新東宝)
- われ幻の魚見たり(1950年、大映)
- ごろつき船(1950年、大映) - 土屋主水正
- 若様侍捕物帖 謎の能面屋敷(1950年、大映) - 堀田佐渡守
- 紅蝙蝠(1950年、大映) - 駒形の喜三次
- 阿修羅判官(1951年、大映) - 大岡越前守
- 水戸黄門漫遊記 飛龍の剣(1951年、大映) - 水戸黄門、観世元之丞
- 逢魔が辻の決闘(1951年、大映) - 青江隼人
- 源氏物語 Le Roman de Genji (1951年、大映・第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞作品) - 播磨入道
- 愛妻物語(1951年、大映)
- 上州鴉(1951年、大映)
- 虎の尾を踏む男達 The Men Who Tread on the Tiger's Tail (1952年、東宝) - 弁慶
- 三万両五十三次(1952年、大映)
- 修羅城秘聞 前篇双竜の巻(1952年、大映)
- 四十八人目の男(1952年、東宝) - 大石内蔵助
- すっとび駕籠(1952年、大映) - 河内山宗俊
- 大佛開眼(1952年、大映) - 行基
- 喧嘩笠(1953年、東映) - 清水次郎長
- 名月赤城山(1953年、新東宝) - 国定忠次
- 地獄太鼓(1953年、大映) - 水戸黄門
- 鞍馬天狗 青銅鬼(1953年、新東宝) - 近藤勇
- 丹下左膳シリーズ(大映)※マキノ雅弘監督版
- 丹下左膳(1953年) - 丹下左膳、大岡越前守
- 続丹下左膳(1953年) - 丹下左膳、大岡越前守
- 丹下左膳 こけ猿の壺(1954年) - 丹下左膳
- 太平洋の鷲(1953年、東宝) - 山本五十六
- 関八州勢揃い(1953年、新東宝)
- 鉄火奉行(1954年、大映) - 遠山左衛門尉
- 千姫(1954年、大映) - 徳川家康
- 照る日くもる日(1954年、宝塚映画)
- 岩見重太郎 決戦天の橋立(1954年、宝塚映画) - 後藤又兵衛
- 忍術児雷也 逆襲大蛇丸(1955年、新東宝) - 大日方浄雲
- 天下を狙う美少年(1955年、大映) - 山内伊賀亮
- 右門捕物帖 献上博多人形(1955年、宝塚映画) - 松平伊豆守
- のんき裁判(1955年、新東宝) - 裁判長
- 男一匹(1955年、新東宝) - 館脇先生
- 復讐浄瑠璃坂(1955年、東映) - 軽部伊織
- 「少年宮本武蔵」より 晴姿稚児の剣法(1956年、松竹) - 禺安和尚
- 新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映) - 太夫坊覚明
- 銭形平次捕物控 死美人風呂(1956年、大映) - 剱持礼之進
- 喧嘩鴛鴦(1956年、大映) - 頭天堂
- 疾風!鞍馬天狗(1956年、宝塚映画) - 山根紋十郎
- 京洛五人男(1956年、松竹) - 拳骨和尚
- 月形半平太 花の巻・嵐の巻(1956年、大映) - 間宮玄斉
- 桂小五郎と近藤勇 龍虎の決戦(1957年、新東宝)
- 柳生武芸帳(東宝) - 柳生但馬守
- 柳生武芸帳(1957年)
- 柳生武芸帳 双龍秘剣(1958年)
- 緋ぼたん肌(1957年、東映) - 父主膳
- 大菩薩峠 第一部(1957年、東映) - 島田虎之助
- 魔の紅蜥蜴(1957年、東映) - 田沼主殿頭意次
- 水戸黄門(1957年、東映) - 萩田主馬
- 黄金の伏魔殿(1957年、東映) - 神尾山城守元孝
- ゆうれい船(1957年、東映) - 重兵衛
- 恋風道中(1957年、東映) - 早縄の半五郎
- はやぶさ奉行(1957年、東映) - 堀田備中守
- 赤穂義士(1957年、東映) - 大石蔵内助
- 任侠東海道(1958年、東映) - 大和田の友造
- 神変麝香猫(1958年、東映) - 松平伊豆守
- 緋ざくら大名(1958年、東映) - 北崎外記
- 忍術水滸伝 稲妻小天狗(1958年、東映) - 衛守左衛門
- 千両獅子(1958年、東映) - 水野越前守
- 江戸の花笠(1958年、東映) - 鉄山和尚
- 丹下左膳(東映) - 蒲生泰軒
- 丹下左膳(1958年)
- 丹下左膳 怒濤篇(1959年)
- 丹下左膳 妖刀濡れ燕(1960年)
- 丹下左膳 濡れ燕一刀流(1961年)
- 花笠若衆(1958年、東映) - 江戸家吉兵衛
- 血汐笛(1958年、東映) - 笛吹き天狗、松平大和守
- 若君千両笠(1958年、東映) - 咳頻軒如山
- 旗本退屈男(1958年、東映) - 松崎文之進
- 不知火小僧評判記 鳴門飛脚(1958年、東映) - 五軒町の常吉
- 隠密七生記(1958年、東映) - 鳴瀬志摩守
- 紫頭巾(1958年、東映) - 秋元但馬守
- 修羅八荒(1958年、東映) - 陣場弥十郎
- 唄祭りかんざし纏(1958年、東映) - 新門辰五郎
- いろは若衆 ふり袖ざくら(1959年、東映) - 仏の銀兵衛
- 忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 吉田忠左衛門
- 大名シリーズ(東映) - 徳川家康
- あばれ大名(1959年)
- あらくれ大名(1960年)
- 新吾十番勝負(1959年、東映) - 安藤対馬守
- 孔雀城の花嫁(1959年、東映) - 大沢外記
- 伊達騒動 風雲六十二万石(1959年、東映) - 伊達兵部
- 旗本退屈男 謎の大文字(1959年、東映) - 姉小路通季
- 水戸黄門 天下の副将軍(1959年、東映) - 大田屋伝兵衛
- 血斗水滸伝 怒濤の対決(1959年、東映) - 夏目の新助
- いろは若衆 花駕篭峠(1959年、東映) - 新門辰五郎
- 血槍無双(1959年、東映) - 大石蔵内助
- 緋鯉大名(1959年、東映) - 松阪伊勢守
- 一心太助 男の中の男一匹(1959年、東映) - 松前屋五郎兵衛
- 任侠中山道(1960年、東映) - 加部安左衛門
- 殿さま弥次喜多(1960年、東映) - 菱川土師兵衛
- 野狐笛 花吹雪一番纏(1960年、東映) - 筒井伊賀守
- 若桜千両槍(1960年、東映) - 高田又兵衛
- 弥太郎笠(1960年、東映) - 松井田の虎太郎
- ひばりの森の石松(1960年、東映) - 田宮竜斎
- 親鸞(1960年、東映) - 慈円僧正
- 海賊八幡船(1960年、東映) - 壷屋道休
- 清水港に来た男(1960年、東映) - 清水次郎長
- 黒部谷の大剣客(1960年、東映) - 風来老人
- 水戸黄門 天下の大騒動(1960年、東映) - 水戸黄門
- 若き日の次郎長 東海の顔役(1960年、東映) - 大前田英五郎
- 新吾二十番勝負(1961年、東映) - 納富一無斎
- 赤穂浪士(1961年、東映) - 立花左近
- 緋ざくら小天狗(1961年、東映) - 上総屋万五郎
- 橋蔵の若さまやくざ(1961年、東映) - 後藤四郎右衛門
- 赤い影法師(1961年、東映) - 柳生宗矩
- ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)※出演場面の抜粋
関連項目
脚注
- ↑ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
- ↑ ここまで『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)より
- ↑ ここまで『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
- ↑ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
- ↑ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
- ↑ 藤原定家が小倉百人一首の選歌をした紅葉の名所
- ↑ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
関連書籍
- 『日本映画興亡史II 日活時代劇』(石割平・編著、円尾敏郎/横山幸則・編、ワイズ出版)
- 『中野シネマ』(中野翠・著、新潮社)
- 『木久扇のチャンバラスターうんちく塾』(林家木久扇・著、小池書院)
- 『大河内伝次郎―人と作品 その魅力のすべて』(梶田章・著、朝日ソノラマ)
切手になった大河内傳次郎
平成18年(2006年)10月10日、日本郵政公社が発行した特殊切手 「日本映画I」(懐かしの名作) において、大河内演じる『丹下左膳』が「懐かしの名作」10作品(うち時代劇は5作品)の一つに選定され、80円切手になった。