有明海

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有明海位置図

有明海(ありあけかい)は、九州北西部にある海。福岡県佐賀県長崎県熊本県に跨る九州最大のである。日本の湾の中でも干満の大きさ・流入河川の多さ・塩分濃度の変化・濁った海域・日本最大の干潟・独自の生物相などを特徴とする。

地理

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有明海の衛星写真(2007年、PD NASA)
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佐賀県太良町沿岸の干潟

面積は約1,700km²で、鹿児島湾東京湾大阪湾より大きく、伊勢湾とほぼ同じ大きさである。

宇土半島天草諸島を挟んだ本渡瀬戸・柳ノ瀬戸・三角ノ瀬戸の三つの海峡で八代海と接し、天草下島島原半島の間の早崎瀬戸で天草灘と接する。湾内西部にはさらに諫早湾(泉水海)がある。入り口に近い部分は島原湾とも言う。一般的には海域全体を有明海と呼ぶことが多いが、国土地理院は海域の北半分を「有明海」、南半分を「島原湾」としているほか、海上保安庁などでは海域全体を「島原湾」と呼ぶことがある。1993年平成5年)の環境庁告示(2000年(平成12年)改定)によれば、「熊本県宇土郡三角町と天草郡大矢野町を結ぶ天門橋、同町と天草郡松島町を結ぶ大矢野橋、同町中の橋、前島橋、松島橋、本渡市瀬戸大橋、天草郡五和町シラタケ鼻と長崎県南高来郡口之津町瀬詰埼を結ぶ線及び陸岸により囲まれた海域」を「有明海および島原湾」の範囲としており、両者の境界は定義されていないが、長洲港多比良港を結ぶ線を境界とする見方もある[1][2]

最深点は湾口部・湯島西方で水深165mに達するが、平均水深は約20mほどで、全体的に遠浅の湾である。湾奥には諫早平野筑紫平野佐賀平野筑後平野)、菊池平野熊本平野といった沖積平野が広がる。

干満差が大きく、湾口の早崎瀬戸で平均3-4m、湾奥の大浦港(佐賀県太良町)で平均5mであり、最大で約6mに達する。干満差が大きくなる原因は、有明海の場合は潮汐による海水の動き(潮汐振動)と湾の形状に左右される海水の動き(固有振動)が似通っていて、共振が発生しているためと考えられている。このような条件が揃う湾は世界的に見てもそれほど多くない。

流入河川は九州最大の川である筑後川をはじめ、本明川鹿島川塩田川六角川嘉瀬川矢部川諏訪川菊池川白川緑川などがある。流入河川の流域面積は合計で約8,000km²で、海域面積の5倍近くにも上る[3]。これらの河川によって湾内の塩分濃度が低下するうえ、多量の堆積物、デトリタス、無機塩類も供給される。特に夏の湾奥部では海域の表層部に淡水域が形成されることがある。干満が大きいので一日のうちでも塩分濃度が大きく変化する。

川から運ばれた土砂は海の干満によって激しくかき混ぜられ、干潮時に堆積、満潮時に侵食されることを繰り返しながら沿岸各地で広大な干潟が成長する。湾奥部では海水にが多く混じり濁る。また、干潟の泥には水に含まれるリン窒素などを吸着・沈殿させる浄化作用があるほか、栄養分が多いことから田畑の肥料としても用いられた。

干潟は大潮の干潮時で約188km²[3]に達し、日本全体の干潟の約4割に相当する。南部の熊本県・島原半島沿岸は質干潟だが、奥に行くほど泥の割合が多くなり、諫早湾や佐賀県・福岡県沿岸は多くが泥質干潟となる。筑後川河口や緑川河口においては、干潮時には海岸から約6km沖まで干潟が出現する。土砂の供給源である大規模河川は湾の北側・東側に多いので、干潟もこの地域で広い。鹿島市小城市には干潟を利用した公園があり、春から秋にかけて泥遊びを楽しむこともできる。鹿島ガタリンピックという、泥んこ運動会も開催されている。

沿岸部の気候は太平洋岸気候に属するものの、四方を山に囲まれた盆地状の地形も影響し、1日の気温差が大きく晴れの日が多い瀬戸内式気候に近い。また湾内の水温も日ごと・季節ごとの変動が大きく、湾奥部の水温は2月で8-9℃、8月で30℃になる。

歴史

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有明海の海岸線の変遷
ファイル:Historic reclamation works traces Ariake sea coast Aerial Photograph.jpg
佐賀市(旧川副町付近)の空中写真
圃場整理はされているが、上空から見ると干拓の痕跡が海へ向かって同心円状に残っているのが分かる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1974年撮影)

更新世氷河期において、有明海は黄海渤海東シナ海沿岸に続く広大な干潟の一部だったと考えられている。このとき中国大陸の干潟に分布していたムツゴロウシオマネキなどが有明海にも分布するようになった(大陸遺存種)。その後の海面上昇により、約1万年前にこの干潟が分断されたが、有明海は筑後川をはじめとした大規模河川の流入が保たれ、干潟と固有の生物も維持された。

干潟は30万年前から9万年前の間に4回あった阿蘇山の大噴火(特に4回目の噴火による堆積が主なもの)により堆積した厚い粘土層が雨により河川を経て流出し、大きな潮差によって川に押し戻されたり、再び海に流されたりを繰り返し、河口付近に堆積して形成されたと考えられている。

縄文時代前期(紀元前4000年頃)には筑紫平野・菊池平野の大部分と熊本平野・諫早平野の一部がそれぞれ満潮時に海面下となっていたが、河川による土砂運搬で次第に海岸線が後退していった。

干拓の歴史

日本最古の干拓は現在の佐賀県で行われた。推古天皇15年(605年)に大連秦河勝がおこなった九十九万代の干拓である[4]。下って鎌倉時代末期には、佐賀市の南、熊本県天明村、旧銭塘村で干拓が行われた文献が残されている[5]元寇直後から干拓が進められるようになるが、元寇後の食糧不足や参戦した武士への恩賞不足のため、干拓に目が向いたものと推測されている[6]

中世より人間の手によって少しずつ干拓が進められたが、江戸時代に入ると米の生産拡大を目的とした干拓が次々と行われるようになり、海岸線の後退は加速した。熊本藩の干拓事業は、藩費のほかに藩主の私費、家老の出費、手永(村より大きい単位)の共同事業としておこなう大規模なものであった。江戸時代佐賀藩では500箇所、約6300ヘクタール[7]の水田が作られたが[6]、そのほとんどは藩営事業としてではなく、農民の手によって進められたもので、個々の干拓地は小規模なものであった[6]。長崎県の諫早平野は鎌倉末期以降干拓によって造成されたものであるが、江戸時代には諫早領主(佐賀藩重臣)諫早家による干拓も行われた。

近代以後、公営の干拓事業や、国による干拓事業が続いた。

1989年平成元年)からは諫早湾において国営諫早湾干拓事業が開始され、1997年(平成9年)に諫早湾奥部を一気に締め切る工事が行われた。干拓によって有明海全体で陸地化された面積は、昭和60年代の時点で260km²を超えており[8]、諫早湾干拓によってさらに約9km²拡大した。

「有明海」という呼称は、明治時代の後期ごろから使われるようになったのではないかとされている。それ以前は、「有明の沖」「筑紫潟」「筑紫海」といった呼称が一部で使われていたとされているが、定かではない[2]

生物

哺乳類ではスナメリミナミハンドウイルカをはじめとする小型鯨類が棲息する。これらを観察対象とする専用の観光事業も行われているが、有明フェリー等の船上からも観察する事ができる。また、有明海や天草灘一帯は、古来はコククジラセミクジラザトウクジラニタリクジラなどの沿岸性の鯨の休息の場であったと思われる。

大陸系遺存種

黄海・渤海・東シナ海沿岸の干潟と有明海の干潟は先史的な繋がりがあり、共通する生物は多い。このうち一部は瀬戸内海や東京湾にも分布するが、ほとんどの種類は日本の他地域では見られない。これらを利用するにあたっての漁法や郷土料理にも独特のものが発達している。

固有種

大陸系遺存種が多い有明海ではあるが、大陸の干潟でも見られない有明海固有種も発見されている。大陸の干潟から分断された約1万年の間に種分化が進んだものと考えられている。

  • 魚類 - アリアケヒメシラウオ(海ではなく流入河川下流域)
  • 腹足類 - アズキカワザンショウ、ウミマイマイ、ヤベガワモチ
  • 二枚貝類 - シカメガキ
  • 多毛類 - アリアケカンムリ、ヤツデシロガネゴカイ

内湾性種

分布は日本の他地域やそれ以外にも及ぶが、大規模な内湾である有明海で個体数・漁獲量が多いものもいる。

沿岸の産業

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福岡県柳川市沖のノリ網群(1974年撮影、国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)
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佐賀県太良町沖のノリ網支柱群

有明海は干満差が大きく、湾奥には広大な平野が広がる。沿岸の低標高の干拓地においては、高潮防止を目的に高い堤防が各地に設置されている。それでも台風で潮位が上がった時には海水が堤防を越えて干拓地に流れ込むことがあった。干拓造成時にもこのような海水の流入があったため、干拓には長い時間と労力がかかり、塩分を含む土地の改良にも苦労があった。

また、逆流防止のため多くの中小河川は水門を設置しているが、大河川では水門を設置できないため、有明海の干潮・満潮に合わせて川面が大きく上下し、満潮前には大規模な逆流も発生する。この干満差を利用して、満潮時に船を出し、引き潮の流れに乗って沖へ出て、帰りは満ち潮に乗って海岸に戻るという航法が、古くから伝えられている。

港湾

この他にも小規模な漁港が30か所ほどある。

主な航路

有明海苔

有明海で生産される海苔は、日本全体の約4割を占める。主な用途は贈答用となっている[9]。海苔産業は、高度経済成長、そして贈答品市場の歴史と重なる。重工業のための工場立地確保のために、浅草海苔などの海苔の名産地が埋め立てられていく中で、質が良く、機械化等により生産体制を整えた有明海苔は主に贈答品市場でシェアを伸ばしていった[10]

海苔産業は、生産量を増やすための設備投資のコストが増える一方で、流通サイドからは価格競争力を理由に買い取り価格を上げてもらえなかったという問題点を抱えている[10]

2000年代に入ると、赤潮などにより海苔の不作が続くようになる。不作の要因の一つとして、諫早湾干拓事業を挙げる意見もある[10]

小長井カキ

諫早市小長井町では、カキの養殖が行われている。

フジツボなどの付着生物による被害、諫早湾干拓事業などにより不作が続いている。

環境問題

有明海の環境問題を以下に記述する。なお、諫早湾干拓事業に関するものは当該項目を参照されたい。

赤潮
有明海ではたびたび赤潮が発生している。河川から流れてくるリン窒素によって栄養過剰になりやすい環境にあり、赤潮が発生しやすい[11]
干潟の消失
干拓や浚渫の他にも、海底の陥没による干潟の消失が起こっている。
有明海東岸では江戸時代に石炭の採掘が始まり、有明海の海底下まで多くの坑道が掘り進められた(三井三池炭鉱)。炭鉱が閉山した20世紀末から、坑道の崩落によるとみられる海底の陥没が起こり、それに伴って干潟が消失している。

奇形魚問題

他には、2000年代に入り奇形魚が生まれるようになってきている。

地元の漁師の間では以前から言われていたが、海苔産業が海苔養殖の際に使用する酸処理剤(クエン酸リンゴ酸を原料とする)が原因であるとする意見がある。東北大学江刺洋司は、「酸処理剤が大量の植物プランクトンを発生させ、有明海の酸素を少なくしている。酸素濃度が低いと、成長に必要な核酸やたんぱく質などが通常通りできずに、『奇形』の魚が生まれる可能性があるというわけです。そればかりか、低酸素が進み酸欠になると有毒な硫化水素が発生し、海の低層の魚を全滅させる死の海となってしまう」[11]として、酸処理剤によって奇形魚が生まれていると指摘した[11]

水産大学校鬼頭鈞はこれに対し、「1-2%であれば、論議の対象とならない。そして、酸処理剤は約1週間でほぼゼロの水準に分解され、これが夏場の赤潮に影響するとも考えにくい。漁獲量が減ったのは(漁業)技術の革新によって、大量に漁獲できるようになったのが大きい」[11]と反論した。江刺はこれに対し「有明海はわずかな変化も影響する繊細な海域。1-2%でも影響は大きい」として再反論を行っている[11]

所管官庁である水産庁は、影響は無いとはしながらも、使用量は減らした方が良いというスタンスを取っている[11]

関連項目

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脚注

  1. 排水基準を定める省令別表第二の備考6及び7の規定に基づく窒素含有量又は燐〈りん〉含有量についての排水基準に係る海域 環境庁
  2. 2.0 2.1 有明海はなかった 有明海・不知火海フォーラム島原開催に寄せて6 米本慎一
  3. 3.0 3.1 第2章 有明海・八代海干潟等沿岸海域の現状と変遷・課題 熊本県、「有明海・八代海再生に向けた熊本県計画」、2007年5月9日。
  4. 西尾[1985:11]
  5. 西尾[1985:11-12]
  6. 6.0 6.1 6.2 テンプレート:Cite web
  7. 尺貫法の1[[町 (単位)|]]は1ヘクタールと近い
  8. 有明海と諫早湾の干拓の歴史 農林水産省 九州農政局、諫早湾干拓事業
  9. 『海苔不漁―有明海以外も』2001年5月22日付 毎日新聞
  10. 10.0 10.1 10.2 『有明の海・ノリの現場 「かさむ機械費」』2001年12月19日付配信 朝日新聞
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 『有明海で続々「奇形魚」』2008年4月6日号 読売ウイークリー

参考文献

  • 菅野徹『海辺の生物』小学館 ISBN 4-09-214008-8
  • 佐藤正典編『有明海の生き物たち 干潟・河口域の生物多様性』海游社 ISBN 4-905930-05-7
  • 西尾建『有明海干拓始末 たたかいぬいた漁民たち』日本評論社 1985, ISBN 4-535-57561-4

外部リンク