マルコポーロ事件
テンプレート:Amboxテンプレート:DMCA マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)とは、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌が廃刊したこと、及び当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本における言論の自由をめぐる議論のきっかけとなった。
目次
概要
発端は、文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』の1995年2月号に掲載された記事「戦後世界史最大 のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」であった。記事は国立病院に勤務する西岡昌紀が、1989年頃から収集した英文資料と、1994年8月にアウシュヴィッツとマイダネクを自ら訪れ、多数の写真撮影などを行った上で執筆したものであった。掲載にあたっての題名は、『マルコポーロ』編集部が決めたものであった。
その内容は、ナチス党政権下のドイツがユダヤ人を差別、迫害したことは明白な史実としながらも、
- そのナチス党政権下のドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとした、とする従来の主張には根拠がない
- その手段として使用されたとするガス室は、それらの位置や構造からみて、ソ連もしくはポーランドが戦後捏造した物としか考えられない
- 戦後、連合国軍が押収したドイツ政府文書から判断して、ナチス党政権下のドイツが「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んで企図した計画は、ソ連を打倒した後、ヨーロッパのユダヤ人をロシアに強制移住させるものだった
- 収容所でユダヤ人が大量死した真の理由は、ガス室による処刑ではなく、発疹チフスなどによる病死である
などというものであった。
この記事を掲載した『マルコポーロ』1995年2月号が発売されたのは、1995年1月17日、阪神大震災が起きた日であった。このため、当初発売直後はマスメディア上の反応は、震災報道に覆い隠されていた。
雑誌発売を受けて直ちに、アメリカ合衆国のユダヤ人団体とイスラエル大使館が、同誌を発行する文藝春秋社に抗議を開始した。特にサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)が内外の企業に対して、週刊文春をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけたのは、同社への大きな圧力となった。『マルコポーロ』編集部は、当初、抗議団体に反論のページを提供するなどとしたが、結局、文藝春秋社は『マルコポーロ』自体の廃刊、及び社長・『マルコポーロ』編集長ら記事に対して責任のある人々の解任を決定した。
執筆者の西岡や木村愛二などホロコースト見直し論者はこの決定に抗議を展開した。また、言論の自由の保障をめぐって広範な議論が起こった(もっとも、ヨーロッパではこのような主張はナチ賛美に繋がる犯罪と定義されている)。
西岡論文
西岡による主張
以下、要点。
- まず、事実上全ての歴史家が認めているように、ヒトラーが「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は、今日まで発見されていない。
- 戦後、アウシュヴィッツで公開されている「ガス室」のなかには、ドイツ人用の病院の前に面しているものもある。これでは、死刑後青酸ガスを排気すると、向かいの病院のドイツ人達の生命が脅かされてしまう。場所と構造があまりにもおかしい。
- 「ガス室」の詳細を検討すると、換気扇がないし、ガスの素材であるツィクロンBを加熱するための装置もない。
以上の理由をもって、西岡はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内のガス室とユダヤ人虐殺の計画自体は存在しない、と主張した。
冒頭で、著者はこう述べる[1]。 テンプレート:Quotation
こうした主張の根拠として、著者は、例えば、こうした点を挙げる[2]。 テンプレート:Quotation
このように、虐殺に関しての直接の証拠が存在しないと著者が主張する一方で、強制移住を示唆する文書が発見されていることから、ユダヤ人問題の「最終解決」とは虐殺ではなく「ユダヤ人の強制移住」を意味するものである、と西岡は主張する。
また、「ホロコースト」の内容が、戦後二転三転していることも重大である、と著者はいう。例えば、ドイツ西部に在ったダッハウ収容所について、戦後しばらくはガス室による処刑が行なわれていたと言われていたが、ある時期からダッハウではガス室による処刑は行なわれていなかったという説明に変わっている、と著者は述べる。それでは、戦後しばらくの間語られていた「ダッハウのガス室」での処刑に関する生々しい「目撃証言」は、一体何だったのか?と著者は問いかける。
そして、冒頭で言及しているように、こうした「ガス室」に関する目撃証言などを最初に疑った歴史家が、フランスの元レジスタンスであった左翼系歴史家ポール・ラッシニエであったことに触れて、こうした検証は「ネオナチ」のプロパガンダなどではない、と著者は述べる。
こうしてナチス政権下のドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害した、と著者は結論づける。ドイツは、ユダヤ人を、戦後、ロシアに強制移住させる計画を立て、それを「ユダヤ人問題の最終的解決」と呼んでいた、と著者は述べる。そして、その準備施設として作られたのが、アウシュヴィッツをはじめとする収容所であったとする。ところが、東部戦線でドイツが敗退した結果、そうした戦後の強制移住計画は頓挫し、収容所の衛生状態が悪化する中で、発疹チフスの爆発的発発生が起きたのだ、と著者は述べる。そうした悲劇の中で病死したユダヤ人の死体を連合国は、ガス室などによる計画的な大量殺人の犠牲者であったかの様に発表、宣伝したのだ、と西岡は主張する。その傍証として、西岡は、当時のドイツが、「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令を出していた事に言及する[3]。
なお、こうした議論の中で西岡は、いわゆる「反ユダヤ主義」的な言葉は一言も書いておらず、イスラエルについても、全く言及していない。記事の末尾は以下の通りである[4]。
反論・批判
石田勇治による反論
石田勇治は、西岡論文の論点を
- ホロコーストに関する「定説」と情報操作
- ガス室の構造とツィクロンB
- 絶滅政策に関する命令文書の有無
の三つに整理した上で詳細な反論を展開した[5]。まず1.では、著者が問題とするホロコーストに関する「今日の定説」そのものに誤解・曲解があり、著者が批判する旧西ドイツの歴史家ブローシャトについても誤った記述をしていると批判した。2.ではジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツの焼却炉』に言及しつつ、アウシュヴィッツのガス室の構造を説明し、さらに毒ガスのツィクロンBは、著者の記述に反して、気化するために加熱を必要としないと論述している。さらに3.では、ヒトラー本人による虐殺命令文書が存在しないことは昔から自明の事柄であり、逆に著者が「証拠にならない」として退けた五つの史料(ニュルンベルク裁判でのラマース証言、ヒムラーの秘密演説、ヴァンゼー会議の議事録、ゲーリング書簡、親衛隊少尉ベッカーの報告)について、これらを否定しようとする著者の主張には根拠がないと言明した。
西岡による再反論
こうした通説の立場からの反論に対して西岡は、廃刊事件直後からパソコン通信(PC-VAN)上で、さらに1997年に『アウシュウィッツ『ガス室』の真実:本当の悲劇は何だったのか?』(日新報道)を出版し、再反論している。西岡は『マルコポーロ』の記事に部分的には誤りが存在したことを認めたうえで、「ドイツがユダヤ人を絶滅しようとしたとする証拠はない」「ガス室でユダヤ人が殺された証拠はない」という主張を維持している。
西岡による修正点は以下の通り[6]。 #サイクロンB(ツィクロンB)が青酸ガスを遊離し続ける時間が長時間である事と、サイクロンBの毒性の問題を混同し、サイクロンBの毒性が低いかの様な記述をしてしまった事 #同じくサイクロンBの使用に際して、サイクロンBを加熱する事が必須の操作であるかの様な記述をした事。
廃刊の経緯
『マルコポーロ』1995年2月号は同年1月17日に発売されたが、これは阪神大震災が発生した日である。この未曾有の大災害発生と同じ日に発売されたことから、発売後10日くらいは、阪神大震災の報道で埋め尽くされた新聞・テレビで、この雑誌記事が取り上げられることはなかった。
サイモン・ウィーゼンタール・センターによる抗議と広告ボイコット運動
しかし、発売直後から、ロサンゼルスのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館は、『マルコポーロ』編集部に抗議を開始していた。特にSWCは『マルコポーロ』のこの号が発売された直後に、駐米日本大使に記事を非難する書簡を送っている。すなわち、同センターは日本の一雑誌が掲載した記事に対して日本政府の行動を求めたことになる。SWCは同時に全世界の企業に文藝春秋に一切の広告を提供しないことを求めたが、この広告ボイコットに呼応したのは欧米企業よりもむしろ日本企業であった。欧米企業はあまりこの呼びかけに呼応しておらず、呼応した企業の中でも、例えばマイクロソフト社などは、廃刊が発表される直前まで広告ボイコットに応じなかった。
これに対し、『マルコポーロ』編集部は、まずSWCに反論のページを10ページ提供すると提案。しかし、SWCはこの提案を拒否し、徹底的な広告ボイコット運動を推進した。これによって、『マルコポーロ』のみならず『文藝春秋』にも広告が全く入稿しない状態となり、文藝春秋は企業存続の窮地に陥った。西岡が雑誌のインタビューなど述べたところによれば、『マルコポーロ』廃刊の決定がなされる直前、文春社内では「経験したことのない事態」であるとの発言があったほか、「早く何とかしないと『ニューヨーク・タイムズ』が動き出す」といった発言をした幹部がいたと言う事実を文春関係者から聴いたという。文春がこうした状況にあった一方で、著者の西岡自身に対しては『マルコポーロ』廃刊が発表される当日までは何ら抗議や圧力は寄せられていなかった。
文藝春秋による謝罪と『マルコポーロ』廃刊
こうして、発売から13日ほどが経った1月30日、文藝春秋は執筆者である西岡には相談せず「記事は誤り」と発表して公的な謝罪をすると共に、『マルコポーロ』の廃刊と花田紀凱編集長の解任を発表し、記事に関係する幹部構成員を更迭した[7]。田中健五社長は、この時点では、社長の職に留まると発表されたが、2月2日(木)のホテル・ニューオータニでの記者会見後、批判を浴び、結局、2月中旬に、自身も社長の職を解かれている。花田紀凱編集長と同様ポストを解かれた『マルコポーロ』の編集員はSWCでのセミナーやアウシュヴィッツ見学に参加することを求められた。『マルコポーロ』1995年2月号の回収は、実際には行われていない。
廃刊が発表された1月30日(月)、外務省の斎藤事務次官は、記者会見を開き、外務省の見解として、「廃刊措置は適切だった」と述べている。
江川紹子による指摘
この廃刊の決定を、阪神大震災の被災地で取材中に聞いた江川紹子は、次の様に回想している[8]。 テンプレート:Quotation
江川は、統一教会やオウムを巡る報道を通じて、文春と親しく、『マルコポーロ』編集部にも、花田紀凱を始めとする知人を持っていた。
『マルコポーロ』が赤字であった事に加えて、事件の際、SWCとの交渉の窓口であったのが、塩谷北米総局長(当時)であったと言う指摘である。塩谷はまた、後述する2月2日にホテル・ニューオータニで文春とSWCが開いた共同記者会見において、田中健五の隣に席を取り、田中の発言を注視している。
西岡による批判
廃刊が発表された1月30日(月)、問題となった論考の執筆者である西岡は、朝日新聞夕刊紙上(社会面)で、文春の一方的な決定に対する強い怒りを表明した。この記事を書いたのは、朝日新聞社会部記者で、文藝春秋に強い反感を持つ本田雅和記者であったが、この朝日新聞夕刊に掲載された西岡の肉声が、文春の謝罪と食い違っている事が、事件を複雑にする。
西岡は、廃刊発表の2日後の2月1日(水)に総評会館で記者会見を開く。この記者会見を計画したのは、左翼・護憲派であるが、西岡と同様ホロコースト見直し論者であるフリー・ジャーナリストの木村愛二であった。一方、文春関係者の一人も、廃刊が発表された1月30日(月)の夜、西岡に電話をかけて、文春・SWCに対抗する記者会見を開く事をひそかに提案しており、当時の文春社内での社員の不満が伺える。
厚生省による圧力
廃刊発表の翌日の1月31日(火)、当時厚生省職員であった西岡の行動に対して、厚生省幹部は、西岡の勤務病院幹部を通じて、事件について今後、一切発言をしないようにと言う圧力をかけている[9]。特に、その翌日に行われる事となった記者会見を中止するように、強い圧力を加えている。厚生省直轄の勤務病院で、西岡はなかば軟禁状態に置かれた。
記者会見当日の2月1日(水)、西岡は、このままでは病院から出られないのではないかと思い、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流して厚生省側を安心させた上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車に飛び乗り、都内の記者会見会場に到着している。この厚生省からの圧力について、西岡は、記者会見の冒頭で、官庁名(厚生省)は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の朝日・毎日・読売・日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による介入については、報道をしなかった。(『正論』とスポーツ新聞のいくつかはこの官庁による圧力を比較的大きく報じた)
文藝春秋社とSWC共同記者会見
翌2月2日、文藝春秋社とSWCはホテル・ニューオータニで共同記者会見を開催した。厳重な出席者制限の下で行われた記者会見であったが、廃刊の決定に不満を持つ文春社員は、上層部の方針に反してホロコースト見直し論者であるフリージャーナリストの木村愛二を会場に入れている。木村はSWCと文春を厳しく追及した。また、会場では『マルコポーロ』次号に阪神大震災のルポルタージュを執筆すべく神戸で取材中だったフリー・ジャーナリストの江川紹子も現れ、SWCの圧力行動を激しい言葉で非難した(江川は、記事の内容は支持していない)。この記者会見を江川紹子は次の様に批判している[10]。
田中社長の記者会見について。 テンプレート:Quotation
SWC、クーパー師についての批判。 テンプレート:Quotation
宅八郎の指摘
『週刊SPA!』にコラムを連載していた宅八郎もこの記者会見に出席したが、繰り返し挙手をしたにもかかわらず、最後まで指名されなかった。宅八郎は、この日の記者会見場の空気をこう描写している[11]。
イスラエル大使館の見解
こうした騒動の中で、イスラエル大使館の行動は慎重で、SWCとは距離を置いていた。
1995年2月8日産経新聞夕刊において、ガノール駐日イスラエル大使(当時)は「過剰に反応するのは日本とイスラエル双方にとって危険この上ない」と発言した。西岡はのちに「ガノール大使(当時)のこの発言はイスラエルが暗にSWCの過激な反応を批判した物ではなかったか?」と論じている[12]。
またイスラエル大使館は『週刊現代』の取材に対して、「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」と述べている[13]。
ポーランド大使館の態度
また、記事の中で西岡に「ガス室を捏造した」と名指しされたポーランド大使館は沈黙を守っている。新聞、テレビは、ポーランド大使館の沈黙に注目しなかったが、『噂の真相』は、ポーランド大使館に沈黙の理由を問い合せている。この『噂の真相』からの問い合わせに対し、ポーランド大使館は「既に抗議活動が起きていたので、それに加わる必要はないと考えた」という意味の回答を寄せている。
討論集会
木村愛二は、『マルコポーロ』廃刊事件後、2月15日及び2月18日に総評会館で討論集会を開いている[14]。席には、月刊『創』編集長の篠田博之が中立的な立場から司会者として加わった他、アメリカのユダヤ人で、左翼リベラルの立場からホロコーストの再検証を行っていたビデオ作家のデイヴィッド・コール(David Cole)や、731部隊の研究で高名な常石敬一(神奈川大学教授・科学史)なども中立的な立場から参加した。
2月18日の討論会の場で、常石敬一は、ナチスドイツは、アウシュヴィッツ等のガス室で、議論の多いツィクロンBを使ったのではなく、サリン等の神経ガスを使用したのではないか?と言う新説を述べた。又、同じ2月18日の討論会の場で、アメリカ留学経験のある朝日新聞の本田雅和が、堪能な英語で、「ヒトラーが演説の中でユダヤ人絶滅を予言していたのでは?」と質問し、コールが反論する場面などがあった。
アジア記者クラブ主催講演
また、アジア記者クラブは、西岡と木村を招いて、会合で二人にマルコポーロ廃刊事件とホロコースト見直し論に関する講演を行わせている。集会は盛況で、全体としては、西岡と木村に対して好意的であったが、左翼系である同記者クラブが、ホロコースト見直し論者である西岡と木村を招いて講演を行わせた事に反発して、欠席したメディア関係者もあり、同クラブの反応は分かれた。
オウム真理教への強制捜査などの報道の中で、この事件の報道は下火となるが、文藝春秋社で開かれたSWCによるセミナーのやりとりが密かに録音され、『噂の真相』で記事として暴露された。
渡辺武達による批判
一方、同志社大学教授の渡辺武達は、雑誌『第三文明』1998年9月号[15]にて、文藝春秋を次のように批判している。 テンプレート:Quotation
さらに、文藝春秋取締役であった岡崎満義が、1996年6月10日の情報化メディア懇談会での講演において、西岡記事は正しかったこと、ユダヤ人団体(SWC)は「テロ組織」と示唆した[16]うえで、「『マルコポーロ』誌の廃刊の理由は記事内容が間違っていたとか、広告量が減ったことなどによるものではなく、ある筋からいまのままでは日本の海外駐在員がテロにあう危険性があるという情報が入ったためである」と発言している[15]。
この岡崎発言について渡辺は、「思わせぶりに語られる「ある筋」とはどこなのか。これは文藝春秋という出版社が外向き用と内向き用では正反対の「舌」を平気で使い、同時にたえず自己弁護をはかっている、げに恐ろしいところであることをよく表している」と文藝春秋を批判した。
花田編集長の動向
『マルコポーロ』編集長の職を解かれた花田は事件後沈黙するが、文藝春秋社を退社し、『朝日新聞』が立ち上げた女性向け月刊誌『UNO!』編集長に就任し、マスコミを驚かせた。
花田の朝日新聞移籍に際しては、朝日新聞の本田雅和が自社批判を展開している。
なお、この『マルコポーロ』最終号の表紙を飾っていたのは、後にテレビドラマ『医龍』等で人気を集める女優稲森いずみであった。
海外での報道
『マルコポーロ』の廃刊をめぐっては日本国内外で大きく報道がされた。日本国外では、ドイツ、オーストリアで、この事件が大きく報道されたほか、アメリカ合衆国の新聞各紙も、この廃刊事件を比較的大きく伝えている。
- AP通信は、総評会館での記者会見の後、西岡に英語でインタビューを行い録画している。
- 後にフリージャーナリストとなる徳本栄一郎は、当時ロイター通信の記者で、西岡に長時間のインタビューを行い、厳しい質問を浴びせたが、比較的中立的な記事(英文)を書いている。
日本国内での報道
新聞
当時の日本の新聞、雑誌報道の大部分は、記事の内容に関する議論を避けている。また『マルコポーロ』の廃刊が決定される直前、SWCが西岡がアウシュヴィッツを訪れていないとする事実に反するファックスをマスコミに送付したため、マスコミの関心は、西岡はアウシュヴィッツを訪れたのか、花田にはいつ会ったのかなど、末梢的な事柄ばかりに費やされた。その中で、記事の内容に比較的踏み込んだのは『朝日新聞』で、前述の本田雅和が社会面で「西岡論文とは何だったのか?」と題された大きな記事を執筆したが、他の新聞は総じてこうした記事の内容に関する検討を避けた。
- 『読売新聞』と『毎日新聞』が特に記事に対して批判的で、『毎日新聞』は事件前に西岡が多くの個人、マスコミに送付したパンフレットと記事の原稿を混同して、それを売り込みと誤認する記事を掲載している。同様の事実誤認は『週刊SPA!』誌上で「ゴーマニズム宣言!」を連載していた小林よしのりもしている[17]。
- 『読売新聞』が発行していた月刊誌『This is 読売』でも西岡を批判。
- 『産経新聞』は、西岡の問題提起自体については大きく取り上げながら、SWC側の見解を古森義久のインタビューによって伝え、またイスラエル大使館の発言を伝えるなどバランスを取っていた。
- 日本共産党機関紙『赤旗』はこの事件を大きく取り上げ、収容所の写真などを掲載して、『マルコポーロ』が掲載した西岡の記事と文春を強く批判している。
- スポーツ新聞では西岡に同情的な記事が複数見られた。夕刊フジはこの問題を連日大きく報じたのに対し、日刊ゲンダイは、扱いが小さかった。
雑誌、週刊誌
- 『アエラ』では当時『アエラ』の記者であったジャーナリストの烏賀陽弘道が記事を執筆している。
- 『週刊プレイボーイ』は、この事件をスミソニアン博物館における原爆展示内容の変更事件と並べて取り上げ、西岡側にやや同情的な記事を掲載した。
- 朝日新聞が発行する月刊誌『科学朝日』が「リビジョニストの科学」を掲載。
- 『フライデー』は中立的な記事を伝えている。
- 月刊『潮』は創価学会寄りの雑誌であるが、この事件を取り上げた浅野健一の記事は、浅野が木村愛二と個人的に友人であったためか、西岡の記事の内容に関する検証を避けている。
- 『週刊現代』(1995年2月18日号)は「言論には言論でという自由社会の「言論の自由」が、強力なプレッシャーを保持するSWC(ウィーゼンタール・センター)には通用しないとも受け取れる」とSWCの手法に疑問を投げ掛けている[18]。
- 『ニューズウィーク日本版』は「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」(1989年6月15日号)で、プリンストン大学のユダヤ系歴史学者アーノ・メイヤーが、アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは病気や飢餓であったとする問題提起をしたことを取り上げた雑誌であり、西岡が『マルコポーロ』にこの記事を書く最初の切っ掛けを生んだ雑誌であった。しかし、『マルコポーロ』事件に際して、この雑誌が事件を取り上げた報道は非常に小さく、ほとんど取り上げないに等しい扱いであった。
- 『週刊金曜日』は、『マルコポーロ』廃刊の数か月前まで本多勝一がホロコースト見直し論に強い関心を抱き、木村愛二に連載を依頼したり、本多自らが、西岡が野坂昭如と共に主宰していたホロコースト見直し論の研究会(情報操作研究会)に出席して好意的な姿勢を示していたにもかかわらず、『マルコポーロ』が廃刊になると、記事と文春を攻撃した。これが、後に木村愛二の同誌に対する提訴の一因となるが、木村は『マルコポーロ』編集部が西岡の原稿の掲載を先送りにしていた際、本多がその西岡の原稿自体を『週刊金曜日』に掲載出来ないか?と打診して来たと述べている。
- 月刊『創』は、編集長篠田博之による記事「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」のほか、江川紹子による長文の記事(「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」)、福田みずほによる西岡の記事と文春への批判(『ホロコースト』の嘘-ドイツでの反応」)、そして、西岡自身の談話を元に構成した記事(「『ガス室はなかった』記事執筆の真意/「もともとの関心はメディアの情報操作にあった」」)を並べて掲載し、この問題を大きく特集した。
テレビ
- NHKによる『マルコポーロ』事件の扱いが、他局のニュースと比較して格段に小さかったがその理由は不明である。
- 日本テレビは、廃刊が発表された当日この問題を大きく取り上げ、その際西岡の記事の中の「まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい」と言う箇所をクローズアップで映し出した。
- TBSは、筑紫哲也 NEWS23で筑紫哲也が記事と文春を批判した他、サンデーモーニングで関口宏が西岡の記事の結論である「アウシュヴィッツのガス室は、ポーランドの共産主義政権かソ連が捏造したもの」と言う文を口にした後、当時同局の論説委員であった青木にコメントを譲ったが、青木は「私たちには放送法があるので」と言う理由で記事の内容についての判断を避けている。また、TBSのディレクターが西岡に個別取材を申し入れたが、西岡が生放送での出演を求めたところ、拒絶されている。
- 田原総一朗が司会を務めるサンデー・プロジェクト(テレビ朝日)は、この事件を全く取り上げなかった。
- フジテレビは、事件後、ワイドショーのTVクルーズ となりのパパイヤがこの問題を大きく取り上げ、コメンテーターとして出演した猪瀬直樹がアーノ・メイヤーの見解を取り上げた『ニューズウィーク日本版』の記事をカメラの前に示し、「今回の記事と似たような事をプリンストンの教授が言っていて、それを『ニューズウィーク』が取り上げたことがあったが、その時は反論も取り上げたので問題が起きていない」という意味の指摘を行った。
インターネット
こうした事件後の報道がなされた当時、インターネットは、まだ普及していなかった。しかし、PC-VANでは、この問題を巡る討論がなされ、この討論には、西岡自身も参加している。このパソコン通信上の議論については、月刊「創」がこれを伝えた他、ホロコースト見直し論(否認論)を厳しく批判する歴史学者たちも関心を寄せ、自分たちの座談会を収録した単行本『ショアーの衝撃』において、簡単にではあるが、言及している。
事件の背景分析
ジャーナリスト真山巴は1996年1月、『噂の真相』[19]において、公開情報の分析から事件の背景には当時進行しつつあったオスロ協定に基づく中東和平進展があり、また事件当時多くの日本企業がイスラエルとのビジネスに関わりを深めていたとを指摘し、財界が『マルコポーロ』の記事がそうした中東ビジネスに影を落とすことを恐れた結果、それを受けた日本政府が文春に『マルコポーロ』を廃刊するよう行政指導を加えたのではないか、と言う分析を述べている。
なお、2月2日の記者会見とその前後のマスコミの状況について、木村愛二は自著の中でこう描写している[20]。
事件を巡る批評については、『週刊SPA!』では小林よしのりが、「ゴーマニズム宣言」で数度に渡って西岡を攻撃したが、その一方で宅八郎が西岡にインタビューを行い、そのインタビューを掲載した。小林よしのりは宅八郎のこのインタビュー記事掲載に強く反発し、後に小林よしのりがSPA!での「ゴーマニズム宣言」を中止し『サピオ』に移動する一因となった。西岡は事実と違うことが書かれたとして小林に抗議している[21]。
図書館関係者の雑誌『ず・ぼん』は西岡と社会学者の橋爪大三郎の対談「『ナチ・ガス室』はなかったの論理を検証する」を掲載し、同時に、リベラル系のジャーナリスト長岡義幸の記事を掲載させたが、長岡はこの記事の中で事件を巡るマスコミの報道姿勢を強く批判している。
- 俳優の中村敦夫は、自身が発行する『中村敦夫新聞』でマスコミが西岡を攻撃しながら反証を挙げていない事を指摘し、事件に関するマスコミの報道を批判した。ただし、中村敦夫側は、後に『中村敦夫新聞』のこの記事が西岡、木村に好意的であった事を自己批判するコメントを出している[22]。
- 保守系言論人の反応は複雑で、上述の古森義久は、『正論』にも寄稿して、『マルコポーロ』の記事を激しく攻撃したが、その『正論』の同じ号で、編集部は西岡が中央官庁(厚生省)から圧力を受けた点を取り上げ、中立的な姿勢を保ちつつも、歴史問題に対する中央官庁の介入には警戒する姿勢を示した。
- 後に「新しい歴史教科書を作る会」を立ち上げる一人となる西尾幹二は、月刊誌『宝島30』に寄稿して、『マルコポーロ』編集部の姿勢を、ナチスの極悪さを理解していないと言う視点から批判した。その一方で、西尾は「日本人には、ガス室の有無は検証できない」とする言わば不可知論の立場を表明し、ガス室については、議論を棚上げする姿勢を取っている。
風刺漫画
漫画家では、やくみつるといしいひさいちが対照的な視点から事件を風刺した4コマ漫画を描いている。やくみつるは記者会見での西岡を揶揄する4コマ漫画を描いている。それに対していしいひさいちは、文春とSWCが共同記者会見をしている場面から始まり、4コマ目にイスラエル占領地のユダヤ人入植者がガス管を持ちながら「ガスが出ないぞ」と言っている光景を「入植地にガスはなかった」と言う太文字と共に描いて、やくみつるとは対照的な視点から『マルコポーロ』事件を風刺している。またマッド・アマノも『フォーカス』の狂告の時代でこの事件を風刺したパロディーを描いている。
言論の自由などに関する事件への批判
一連の事件が収束した後も、この事件を巡る論争が継続した。重要な争点のうちの一つは言論の自由の観点から提出されたものであった。そこではSWCによる広告ボイコット運動と言う手法と、それに応じて文藝春秋社が取った措置の両方が批判された。
月刊『創』編集長の篠田博之も「この種の言説を紹介するだけでも雑誌廃刊のような目にあうのではと、この問題について言及するのを避けるメディアもあるようだが、これこそまた1つのマスコミ・タブーを作り出すことにほかならない」と批判している[23]
更に、記事の執筆者である当時厚生省の職員(医務官)であった西岡が厚生省から記者会見中止の圧力を加えたことは、中央官庁による言論介入が行われたことを意味し、重大であるが、当時の新聞・テレビは、こうした問題を深く掘り下げて報道しなかった。
江川紹子によるサイモン・ウィーゼンタール・センター批判
この措置によって文藝春秋社が執筆者に一言の相談も無く、記事の内容を取り消し、広告ボイコットの圧力に屈したとして江川紹子は、西岡記事は支持しない立場を明確にした上で、広告ボイコットという行為については厳しい批判を加えている[24]。
言論の自由に関する見解・批判
- 大月隆寛や安原顕のように中立的立場をとろうとした論者は、『マルコポーロ』は西岡の記事と併せてそれに反論する記事を掲載するべきであった、と述べた。江川紹子などもその一人である(後述)。
- 小林よしのりは、上述の様に、事件に関して西岡を激しく批判したが、ホロコースト見直し論に対する言論規制に賛同する発言はしていない。
- 一水会代表であった鈴木邦男は、事件から1年を経た時点で、新宿のライブハウスロフトプラスワンに記事を書いた西岡を招き、対談を行っている。この場で、鈴木は「言論には言論を」と言う自分の信条を改めて述べ、廃刊に至る文春の行動を批判している。
- 1997年、評論家の日垣隆は、西岡が同年出版した単行本『アウシュウィッツ「ガス室」の真実 本当の悲劇は何だったのか?』 日新報道 を毎日新聞社が発行するエコノミストの書評で好意的に紹介し、間接的に、事件当時の言論の空気を批判した。
- フォトジャーナリストの広河隆一は、現地アウシュヴィッツでの詳細な現場検証を踏まえて西岡の記事と単行本を批判した上で、こうした議論を全て「反ユダヤ主義」と呼ぶ事の危険を指摘し、ホロコーストの検証自体は自由であるべきだとしている[26]。
- 副島隆彦はインターネット上でホロコーストの見直しを支持する立場を表明し、さらにに元外務省職員の佐藤優との2008年に出版された対談書[27]で、マルコポーロ事件以後、日本の出版物において、ユダヤ人についての言論に自主規制がかかっているという趣旨の懸念を述べている。
- ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストに関する事実関係の議論は保留し、かつ、マルコポーロ事件その物については触れない形で論争の現状を概観し、ホロコーストを「国際問題の中で唯一分析が禁じられた事項」と呼び、 この問題を巡る世界的言論規制の空気に注意を喚起した[28]。
出版物でのタブー化の空気とは対照的に、ネット上で、マルコポーロ事件とホロコースト見直し論を論じるブログ等は、数多い。
文芸批評家の絓秀実は、ヘイドン・ホワイトとカルロ・ギンズブルグの論争に言及しながら、上記のような言論の自由という争点そのものを批判した[29]。すがによれば、言論の自由という権利は中立的なものではなく政治的闘争の場に他ならないのであるから、その政治性が忘却されてしまった場合、政治的にホロコーストが重要な問題ではなかった日本においては、「ホロコースト否定論」すら言論の自由の名の下に登場し得ることになるのである。
歴史学からの批判
歴史学者石田勇治のコメント報道
事件当時、『サンデー毎日』1995年2月19日号は、小野博宣による電話取材で、東京大学助教授(当時)石田勇治(ドイツ現代史)の次のようなコメントを掲載した。
この石田勇治のコメントに対し木村愛二は、石田自身が「タネ本」とされるロイヒター報告を読んでもいないし、入手してさえもないと語ったして、自著の中で批判している[30]。
石田勇治はその後、木村の批判には直接答えることはせずに『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社、1999年)や『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』(白水社、2002年)といった著書で、アウシュヴィッツ収容所の犯罪を裁いた戦後西ドイツの裁判を紹介し、ホロコーストが動かぬ事実であるとしている。しかし、西岡は「ユダヤ人絶滅を命じた命令書」が発見されていないと指摘しており、現在もそうした公文書(命令書)は発見されていない。
歴史学会の動向
欧米の歴史学界ではホロコーストについて激しい論争が続いている。ホロコースト見直し論(ホロコースト否認、ホロコースト否定論とも)がテンプレート:要出典範囲ことを重く見る「ホロコースト否定論」を批判する立場の歴史学者や教育機関が、「ガス室」を含むホロコーストの全体像に関して研究・教育活動を行っている。
日本の歴史学界では、ドイツ現代史学会が1995年夏の大会でこの問題を取り上げたが、それ以外で取り上げられることはなかった。西岡論文に対しては、石田勇治(東京大学教授)、芝健介(東京女子大学教授)、永岑三千輝(横浜市立大学教授)、矢野久(慶應義塾大学教授)、栗原優(創価大学教授)、西川正雄(専修大学教授・東京大学名誉教授)などの歴史家たちが反論をしている。テンプレート:要出典範囲
日本の歴史学界では、文教大学の加藤一郎(西洋史)が、ホロコーストの事実見解を根底から見直す立場を取っており[31]、テンプレート:要出典範囲
マルコポーロ・ガス室裁判
梶村太一郎(ベルリン在住のジャーナリスト)と金子マーティン(日本女子大学教授、社会学)は、マルコポーロ事件に関連して「週刊金曜日」1997年1月誌上でホロコースト否定論を糾弾した[32]。
これに反発した木村愛二は、両者を名誉毀損で東京地裁に訴えたが、地裁は「このような「歴史解釈」をめぐる論争は、我が国の法体系の下においては、本来見解が対立する者同士の自由な議論に任せられるべき分野の問題であって、法が濫に介入すべきものではない。」としてガス室の存在についての判断は行わず、名誉毀損については請求を棄却した[33]。
参考文献
- 西岡昌紀 『アウシュウィッツ「ガス室」の真実 本当の悲劇は何だったのか?』 日新報道 1997年6月 ISBN 4817403934
- 木村愛二 『アウシュヴィッツの争点』 リベルタ出版 1995年6月 ISBN 4947637331
- Herbert Worm. Holocaust-Leugner in Japan: der Fall „Marco Polo“ . in: Manfred Pohl (Hrsg.). (1995). Japan 1994/1995. Politik und Wirtschaft. Hamburg: Institut für Asienkunde.
- 石田勇治 「ナチ『ガス室』はなかったか ホロコースト見直し論を検証する」 『歴史地理教育』 (歴史教育者協議会編) 第535号 1995年7月
- 永岑三千輝 「アウシュヴィッツの真実とホロコースト研究の現段階-『アウシュヴィッツの嘘』の虚妄性」 『現代史研究』 (現代史研究会編) 第41号 1995年12月
- 永岑三千輝 「『アウシュヴィッツの嘘』と歴史の真実」 『前衛』 1995年9月号
- 石田勇治・永岑三千輝・矢野久「ホロコーストと現代史研究」 (シンポジウムの記録) 『季刊戦争責任研究』 (日本の戦争責任資料センター編) 第8号 1995年夏季号
- ティル・バスティアン・著、石田勇治・星乃治彦・芝野由和・編訳 『アウシュヴィッツと〈アウシュヴィッツの嘘〉』 白水社 1995年11月 ISBN 4-560-02892-3
- 梶村太一郎・本多勝一・石田勇治・金子マーティン・新美隆『ジャーナリズムと歴史認識 ホロコーストをどう伝えるか』凱風社 1999年
- デイヴィッド・グッドマン 『ユダヤ人陰謀説―日本の中の反ユダヤと親ユダヤ』 講談社 1999年 ISBN 4062095882
脚注
- ↑ 「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)より記事の一部を引用する。著者はネット上の引用を認めている
- ↑ 戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)p. 178
- ↑ 同p. 179
- ↑ 同p. 179
- ↑ 石田勇治「ナチ『ガス室』はなかったか ホロコースト見直し論を検証する」。『歴史地理教育』に掲載後、『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(初版1995年、白水社Uブックス2005年)所収。これはティル・バスティアンによる『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(C.H.Beck社)に補足して、石田勇治、星乃治彦、芝野由和が編集したもの。
- ↑ 西岡,1997
- ↑ なお、この廃刊が決定される直前(1月27日)、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所があるポーランドでは、「アウシュヴィッツ解放50周年」の式典が、ポーランドとイスラエルの対立から、分裂した形で行われている。
- ↑ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ↑ この厚生省による事件への介入については、m9 Vol.2 (晋遊舎ムック2008年)に掲載された同誌による西岡へのインタビューに詳しい
- ↑ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ↑ 宅八郎「週刊宅八郎」第8回週刊SPA!1995年2月22日号
- ↑ 西岡『アウシュウィッツ『ガス室』の真実』
- ↑ 『週刊現代』1995年2月18日号
- ↑ 2回の公開討論は木村書店から販売されているVHSによって、参加者の発言を全て確認できる
- ↑ 15.0 15.1 雑誌『第三文明』1998年9月号の記事「ナチ〈ガス室〉の否定と歴史修正主義の虚妄」
- ↑ 『Iーメディア』一五二号、参照→渡辺論文での誤植か?
- ↑ ゴーマニズム宣言の項参照
- ↑ 『週刊現代』1995年2月18日号
- ↑ 真山巴「文藝春秋『マルコポーロ』突如廃刊の「深層」を検証!:あの「事件」からまもなく一年・ようやくその背景が見えてきた」(『噂の真相』1996年1月号)
- ↑ 木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版・1995年
- ↑ この経緯については、西岡が著者の一人となっている『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス編、ロフト出版刊、1997年11月、ISBN 4-7952-0069-6 )に詳しい。(ゴーマニズム宣言の項参照)
- ↑ 『中村敦夫新聞』のこの記事については、月刊『創』1995年5月号に木村愛二が寄稿した記事に詳しい記述がある。
- ↑ 篠田博之「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」月刊『創』1995年4月号
- ↑ 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ↑ |江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ↑ 『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』草思社・1998年
- ↑ 『暴走する国家 恐慌化する世界―迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』(日本文芸社・2008年
- ↑ 田中宇メールマガジン「ホロコーストを巡る戦い」」2005年12月20日
- ↑ すが秀実 『「超」言葉狩り論争』 情況出版 1995年 ISBN 4-915252-17-5
- ↑ 木村愛二『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版・1995年)木村愛二は、ネット上での自由な著書引用を認めている。
- ↑ 論文集サイト
- ↑ 金子マーティン「「ガス室はなかった」と唱える日本人に捧げるレクイエム」『週刊金曜日』155号 1997年1月24日。金子マーティン「ガス室存在の明白な資料を無視する木村愛二」『週刊金曜日』156号 1997年1月31日
- ↑ 地裁判決文は、梶村太一郎、本多勝一らの『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社)に所収。