西竹一

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西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐。愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。

1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト。帝国陸軍の騎兵将校として騎兵畑を歩んでいたが、のちには戦車兵に転科し戦車第26連隊連隊長として第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦い戦死した。

生い立ち

男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布)にて生まれた(本妻・後妻の間に生まれた長男・次男は幼少時に死去)。母は正妻ではなく、生後すぐに家を出された。

父・徳二郎は外務大臣枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であった。また、義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされ中国茶の専売権を与えられ巨万の富を手にしたといわれている。

1912年明治45年)には徳二郎が死去し、同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となる[1]後見人は西伊佐次。妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、父は伯爵川村鉄太郎であり、武子の長姉・艶子は阪本釤之助の子で第二次大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走する阪本瑞男に嫁いだ。子に長男の泰徳に、長女と次女の三子。

幼少時

学習院幼稚園を経て、学習院初等科時代は近隣の番町小の生徒と喧嘩を繰り返す暴れん坊であった。1915年(大正4年)4月、外交官であった父の遺志を継ぎ府立一中(現・日比谷高校)に入学、同期には小林秀雄迫水久常らがいた。

陸軍へ

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西とウラヌスによる「車越え」

その後、府立一中在籍から1917年(大正6年)9月、広島陸軍地方幼年学校に入校[注釈 1]1920年(大正9年)には陸軍中央幼年学校本科に進む。同期名古屋陸軍幼年学校首席辻政信、中幼予科首席・甲谷悦雄1921年(大正10年)4月、陸士陸幼の制度改編で中幼本科を半年で修了すると、新設の陸軍士官学校予科へ第36期で入校。

西は華族として乗馬を嗜んでおり、自身もそれを好んでいたことから兵科は帝国陸軍の花形である騎兵を選んだ。陸士予科では隊附生徒(士官候補生)として世田谷騎兵第1連隊に配属(卒業成績:19番中13番)。1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(本科)を第36期生として卒業、見習士官として原隊の騎兵第1連隊附となり同年10月には陸軍騎兵少尉に任官。1927年(昭和2年)9月に陸軍騎兵学校(乙種学生)を卒業し同年10月には陸軍騎兵中尉に昇進。

ウラヌスとの出会いと金メダル

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ロサンゼルスオリンピックにて競技中の西とウラヌス

1930年(昭和5年)3月、軍務として欧米出張中の西はイタリアにてのちの愛馬ウラヌス(ウラヌス号)に出会う。ウラヌスは軍から予算が下りず、当時の価格で2,000とかなりの高額ながら自費購入であった[注釈 2]。西はウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。

さらに1932年(昭和7年)の習志野騎兵第16連隊附陸軍騎兵中尉時代、騎兵監などを歴任した大島又彦陸軍中将を団長に、城戸俊三陸軍騎兵少佐ら帝国陸軍の出場選手一同と参加したロサンゼルスオリンピックでは、西はウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝、金メダリストとなる。この当時の記録映像は横浜根岸森林公園内の馬の博物館で公開されている。なお、これは2013年(平成25年)現在においても日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。

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1936年、ベルリンに赴く陸軍騎兵大尉時代の西と見送りの妻子

最後の障害でウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス)は勝った」)と応じている。この活躍とその出自や性格から、西はバロン西Baron=男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人・日系人の人気を集め、のちにロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。なお現地で行われた金メダル受賞パーティーにはダグラス・フェアバンクスも参加するほどの盛大なものであったという。

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西とアスコット

1933年(昭和8年)8月には陸軍騎兵大尉に昇進、陸軍騎兵学校の教官となる。

西は1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにも参加しているが、ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し棄権している。オリンピック数ヵ月後の同年11月には日独防共協定が締結されていることから、この意外な落馬には主催国ドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れていた。同大会では帝室御賞典などに優勝した元競走馬アスコットと共に総合馬術競技にも出場し、12位となっている。

戦車兵に

このオリンピックののち、西は騎兵第1連隊の中隊長として本業の軍務に戻る。1939年(昭和14年)3月には陸軍騎兵少佐に昇進し、軍馬の育成などを担当する陸軍省軍馬補充部十勝支部員となる。

1930年代当時、時代の流れとして世界の陸軍においては騎兵部隊が削減され、代わって自動車化歩兵部隊や近代的な戦車兵・戦車部隊が新設されていた時代であり、同時期の帝国陸軍においても乗馬中隊と装甲車中隊とを組み合わせ、その機動力により戦闘斥候を行う偵察部隊である捜索隊(師団捜索隊)が新たに編成され、また従来の騎兵連隊も一部の連隊を残し、多くは同じく機動偵察部隊である捜索連隊戦車連隊に改編されていた。その為、太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)11月、西は第26師団捜索隊長、更に1943年(昭和18年)7月には第1師団捜索隊長を歴任している。

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戦車第26連隊所属の九五式軽戦車。硫黄島の戦いでアメリカ軍に鹵獲されたもので、砲塔側面に部隊マーク「丸に縦矢印」が見える

1943年8月、西は陸軍中佐に昇進、また戦車兵として1944年(昭和19年)3月には戦車第26連隊軍隊符号:26TK、部隊マーク[注釈 3]:「丸に縦矢印)」の連隊長を拝命、満州北部(北満)防衛の任に就いた。

硫黄島へ

戦車第26連隊は当初はサイパンの戦いに参戦する予定であったが、現地守備隊が早々と玉砕したため、1944年6月20日に硫黄島への動員が下令。26TKは満州から日本経由で硫黄島へ向かうが、その行路(父島沖)においてアメリカ海軍ガトー級潜水艦コビア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没(連隊内の戦死者は2名のみ)。8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、東京川崎財閥の御曹司で親友であった川崎大次郎[注釈 4]の車を借用して駆け回っていた[2]。その折、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。

映画硫黄島からの手紙』では、同じ騎兵出身の栗林忠道陸軍中将陸軍大将。小笠原方面陸海軍最高指揮官たる小笠原兵団長)と意気投合したことになっているが、実際には確執もあったという(ただし劇中においても、確執をほのめかすシーンが存在する)。貴重な水で戦車を洗っていたことを栗林が咎め、厳罰を要求したが西がこれを撥ね付けたためという。ただそれは生い立ちの違いからくる諍いであり、両人とも硫黄島将兵の人気は高かった。

戦死

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戦車第26連隊所属の九七式中戦車(新砲塔チハ車)。硫黄島の戦いでアメリカ軍に鹵獲されたもので、現在はアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵

1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団(栗林は小笠原兵団長兼第109師団長)直轄の戦車第26連隊の指揮をとることとなった。硫黄島においても愛用のを手にエルメス製の乗馬長靴[注釈 5]で歩き回っていたという。丸万集落付近にて展開していた連隊本部は戦端が開かれる前に東地区に移動、地形状の関係から装備の九七式中戦車(新砲塔チハ車)及び九五式軽戦車の一部車両の砲塔を取り外したり、車体をダグインさせ擬装トーチカ砲台代わりに使用するなどし、アメリカ海兵隊M4中戦車と撃滅戦を展開した。

なお、この硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄されたアメリカ軍兵器を積極的に鹵獲し、整備・修理した後それらを使用して勇戦したと伝えられている。戦闘末期の撤退戦の中でもはぐれた兵士を洞窟内に入れることを拒絶する他指揮官が多かった中、西は「一緒に戦おう」と受け入れたという逸話も残っている[3]。また上記の『硫黄島からの手紙』でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品でできるだけの手当てをしたというエピソードも証言として大野芳などの著作でも触れられている。

3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したか、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて副官と共に拳銃自決したとも、あるいは3月22日、火炎放射器で片目をやられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い戦死したともいうテンプレート:要出典。また他の説に、硫黄島戦末期に日本軍に鹵獲され使用されたM4中戦車の話がある。接近してくる戦車に挨拶した米海兵隊員がいきなり銃撃を受けたり、戦場で合流した戦車から至近距離で砲撃を受け戦車が複数台撃破されたりした。のちにこのM4中戦車は撃破され、中から日本兵の死体が発見されたが、その中の1人が西ではないかとも言われているテンプレート:要出典。しかし、西の最期の詳細は不明である。満テンプレート:没年齢

最期と同様に、死亡場所についても複数の説があるが東海岸には西大佐戦死の碑がある。

死後、陸軍大佐特進。墓所は青山霊園。当主の死により長男の西泰徳(現・硫黄島協会副会長)が男爵を襲爵し、昭和生まれで唯一の授爵者となった。西の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)が、1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。

投降勧告について

硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西は黙ってこれに応じなかったというエピソードが、26連隊に合流していた南方諸島海軍航空隊附将校の証言として伝えられている。

これについては、アメリカ軍が硫黄島守備隊に西が参加していると云う事実を事前に知り得る事はありえないという見方から、後世の創作であるという意見もあるが、西の旧知の映画人でアメリカ軍の情報将校としてグアムの第315爆撃航空団に赴任していたサイ・バートレット陸軍大佐(en:Sy Bartlett)[注釈 6]がアメリカ軍制圧後の硫黄島に降り立った際に拡声器を用いて西に投降を呼びかけたという証言もある。もっともバートレットが硫黄島に来た頃には西は既に戦死しており、バートレットの呼びかけが実話であったとしても、旧友の呼びかけが本人の耳に届くことはなかった。バートレットは1965年(昭和40年)に西の未亡人を東京に訪ね、靖国神社において慰霊祭を挙行している。


人物像

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ベルリンオリンピック当時のドイツにて、ヒトラー・ユーゲントの団員と交換した帽子をかぶる西

性格は至って鷹揚・天真爛漫サッパリし、明るかったと生前に交流のあった人々は証言している。当時からスマートな美男子として有名であり、身長も当時の日本人としては高身長である175cm、軍人ながら髪は七三に分け他の青年将校と同じく軍服昭和の青年将校文化の影響を受けた派手なものを着用していた。

趣味は乗馬のみならず射撃カメラバイクハーレーダビッドソン)、自動車クライスラーの高級輸入車)、特にオープンカーを愛し、ロサンゼルス滞在中はゴールドのパッカードコンバーチブルを現地調達して乗り回していたという。当時のアメリカの映画スターダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォード夫妻との交友も話題となった。

日本の土着的風習が理解できず、良くも悪くも男爵家育ちの自然児であり、人々の心の機微に対する老獪な人生経験を積んでいないからと、大野芳はその著書で触れている。生前、「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っている。

西竹一を扱った作品

参考・関連書籍

映画

漫画

テレビ

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

  • 『官報』第8632号、明治45年4月1日。
  • 川崎大次郎篇『私の履歴書
  • 梯久美子文藝春秋』2007年2月号

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