ウラジーミル・ジリノフスキー
テンプレート:政治家 ウラジーミル・ヴォリフォヴィチ・ジリノフスキー(テンプレート:Lang-ru, ラテン文字表記の例:Vladimir Voľfovich Zhirinovskii, 1946年4月25日 - )は、ロシアの政治家、ロシア軍大佐、ロシア自由民主党の創設者および同党の党首、ロシア下院国家会議副議長。欧州評議会議員会議(en:Parliamentary Assembly of the Council of Europe)の委員でもある。
その極右的な発言や活動からロシア民族主義者と思われがちだが、ジリノフスキーは自身は純粋なロシア人ではなく、父方を通じてユダヤ人の血を引き継いでおり、ロシア人名に改名する前にはユダヤ人の名前を持っていたユダヤ系ロシア人である。父の墓はイスラエルにあり、父の墓を訪れたこともあるが、米国同時多発テロを「アメリカとイスラエルの自作自演」と発言するなど、反ユダヤ、ユダヤ陰謀論的な発言も多い。ロシア語、トルコ語、英語、フランス語、ドイツ語の5カ国を話し[1]、中東及びカフカス問題の専門家を自称する。
ソ連崩壊以降の歴代政権に対して批判を繰り返すも、法案採択などに当たっては与党に同調することが多い。「東京に原爆を落とせ」など、過激な言動で知られるロシアの右翼政治家である。家族は妻のガリーナ・レベデワと息子のイーゴリ・ウラジーミロヴィチ・レベデフ(ru:Лебедев, Игорь Владимирович)。
その政党名にもかかわらず、ロシア自民党は大抵「過激な民族主義政党」と呼ばれている[2][3][4][5]。
生い立ちと教育
1946年4月25日、ソビエト連邦時代のカザフ・ソビエト社会主義共和国の首都・アルマアタ(現在のアルマトイ)にて、法律家の家庭に生まれる。生まれた時の苗字は「エイデリシュチェーイン」(Эйдельште́йн)[6]。1964年7月、ジリノフスキーはアルマアタからモスクワに移住し、モスクワ大学にてトルコ、アジア、アフリカといった東方の国々の言語の研究を始める。1965年から1967年までは、マルクス・レーニン主義大学国際関係学部にも所属しており、国際関係学を学んだ。1972年から1977年までモスクワ大学法学部の夜間部で学び、優秀な成績で同大学を卒業した。1998年にはモスクワ大学にて哲学の博士号の候補者にもなっている。
法学の学位を取得したジリノフスキーは、州の委員会や組合の様々な役職に就く。
1969年から1970年、ソ連国営テレビ・ラジオ会社で研修を受ける。また、コムソモールでも活動する。1970年、ソ連軍ザカフカス軍管区参謀部で将校として勤務し、ソ連平和擁護委員会西ヨーロッパ部門で働く。1983年から1990年までは、出版社「ミール」に勤務していた。
1970年代の初期には、トビリシにて兵役に就いていた。
政治活動
ジリノフスキーは地下活動に従事していた改革派の集団に参加していたが、1980年代のソビエトの政治的出来事においては概して重要な存在ではなかった。政治における役割を塾考しているあいだの1989年、ジリノフスキーは人民代議員への立候補を試みるもすぐに放棄した[7]。
自由民主党
ペレストロイカによって、さまざまな社会・政治団体が生まれた中、ジリノフスキーは、その一つ「民主同盟」で政治活動を開始する。1989年12月、ジリノフスキーはウラジーミル・ボガチェフとともに「ソ連自由民主党」創設に参加し、主導する立場となる。1990年4月に党を結成、ならびに議長(党首)に就任し、11月には専従党員となった。同政党はソ連内で2番目に登録され、そして公式に認可された最初の野党となった。ソ連共産党政治局の一員であったアレクサンドル・ヤコブレフによると、同党はソビエト連邦共産党の執行部とKGBの共同の計画であるという[8]。ヤコブレフは自身の回顧録に、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフがミハイル・ゴルバチョフとの会談でソ連自民党の傀儡と化している事業を提示し、党首の選出についてをゴルバチョフに知らせた、と書いている。ヤコブレフによると、政党名はKGB将官のフィリップ・ボブコフ(en:Philipp Bobkov)によって考案されたという。しかしながら、ボブコフは「この特定の社会的集団の利益と思想を管理するKGBの統制下で、セルゲイ・ズバートフ(ru:Зубатов, Сергей Васильевич)による偽の政党の結成には反対であると述べた[9]。
ジリノフスキーの最初の政治的躍進は、1991年6月のロシア共和国大統領選挙への立候補であった。「ウォッカの値下げ」など、大衆迎合的な公約を掲げて選挙を戦った。内外のメディアからは泡沫候補扱いを受けるも、ソ連自民党は600万票を獲得し、得票率は7.81%で、ボリス・エリツィン、ニコライ・ルイシコフに次いで第3位となった。
ジリノフスキーがKGB諜報員であったとか、ソ連自民党による政府へのまじめな反対は信用できない、というのはジリノフスキー自身が否定した[3]ことで、馬鹿げた作り話であるという見方がより一層進んだ。1991年12月にソ連が崩壊したときもそのような印象は続いた。ソ連崩壊を受けて、ソ連共産党員が結集してできたロシア連邦共産党は野党となったが、ソ連自民党はロシアの政治en:Politics of Russiaにおいては影響力があった。
ソ連崩壊を受けて、ジリノフスキーは1992年4月に党名を「ロシア自由民主党」に改称。旧ソ連邦(というよりも、旧ロシア帝国)の復活、アラスカのロシアに対する返還、北方領土返還の拒否及び東京に対する原爆投下発言など、過激かつ奇矯な言動と行動で西側諸国からは危険視される。しかし、ショック療法による生活苦にあえぐ貧困層のロシア国民からは支持を集める結果となり、1993年12月の下院国家会議選挙で自由民主党は第1党となる。ジリノフスキー自身も下院議員に当選した。
ソ連自民党は1993年のロシア帝国議会で23%の票を集め、国中で幅広く説明をした。ソ連自民党は87の地域のうち、64の地域で上位の票を獲得した。このことは、現職のロシア大統領(当時はエリツィン)に対して再び争うことをジリノフスキーに促していた。エリツィンの大統領への立候補にはロシアの民族主義集団との競合が見られないという事実と、ロシア共産党の存在が外部の評者たちを警戒させた。とくに西洋では、そのような変化がすでに非常に脆い州のロシアの民主主義の生き残りに脅威をもたらすことを心配していた。ジリノフスキーは厳しい批判の焦点に立たされ、ロシアの権威主義と軍国主義の化身であるかのようであった。
ジリノフスキーは、次第に民族主義的、極右的な言行が目立つようになり、1991年のソ連8月クーデターでは、副大統領(大統領代行)のゲンナジー・ヤナーエフの「国家非常委員会」を支持し、同委員会が取った非常事態を歓迎した。
しかし、その後のジリノフスキーは奇矯な振る舞いが絶えず、次第に世論の支持を喪失し、1995年の下院選挙ではロシア連邦共産党に第一党の地位を譲る結果となる。ジリノフスキーは1996年6月の大統領選挙にも立候補するが第5位(得票率5.7%)で落選した。
この大統領選挙を機に、表面的には政府を批判しながらも、最後には、政府を支持するようになる。1999年12月の下院選挙では、資格審査でロシア自由民主党は選挙に参加するための登録ができなかったため、愛国主義政治ブロック「ジリノフスキー・ブロック」を急遽結成し、選挙に臨んだ。選挙後、下院副議長に選出された。2000年の大統領選挙では、中央選挙管理委員会から、所得税の申告漏れを理由に登録を拒否され、立候補を断念した。2003年12月の下院選挙ではロシア自由民主党は議席を伸ばし、2007年12月の下院選挙でも議席を伸ばした。
2008年3月2日に実施されたロシア大統領選挙に出馬するも、得票率10.6%で落選した。2012年3月4日投開票のロシア大統領選挙にも立候補したが、得票率6.22%で5人中4位に終わった。
エピソード
- テレビの討論番組に出演中、議論となった相手に激高し、生放送中に殴りかかり取っ組み合いの喧嘩となる。同じようなことを数度繰り返しており、視聴者は政治よりも、むしろどんなハプニングを起こすか期待するという人物になっている。
- 右派勢力同盟のボリス・ネムツォフとテレビ番組で討論している最中、激昂したジリノフスキーが手元のコップの液体をネムツォフに浴びせた[10]。
- 選挙前に「世の中の女は俺の物だ。犯してやる」という発言をし、ロシア中の女性票をほぼ全て失った。
- テレビドラマ『古畑任三郎』(三谷幸喜脚本)劇中、主人公の古畑任三郎がジリノフスキーの名を挙げ、「出てきましたね、危険な人物が」と評する場面がある[11]。
- 2013年にロシアで発生した隕石災害では、原因は小惑星ではなくアメリカの新兵器のテストであると主張している[12]。
主張
- 『欧州を見るがいい。アラブ人、トルコ人、あるいはアルバニア人といった人々が大手を振って自由に歩き回っている。それを受け入れている欧州の国々は、彼らのために生活保障を始め、お金を使わねばならない。しかし彼らが欧州に何をもたらしているかといえば、犯罪なのだ。』[13]
- 『異文化を有する者同士の間では必然的に対立が発生する。右翼政党を支持する市民達はこの緊張に疲れ果てている。』[13]
- 『ロシア自民党は何らかのイデオロギーを生み出したわけではない。ただ他所の国、つまり南からやってくる移民の起こす暴力に反対していただけなのだ。』[13]
- (ロシアで勃興するネオナチ集団について)『本質的な影響力は持たない。優れたリーダーもいない。何よりも、彼らは民主主義を尊重しない。暴力的手段に訴える点で、我々ロシア自民党とは大きく異なる。』[13]
- (ウラジーミル・プーチンについて)『確かにエリツィンよりは良い。しかし支持率にしても実際はもっと低いだろう。経済面での成功が見られないからだ。』[13]
- 『かつてマルクスと共産党には「万国の労働者よ団結せよ」というスローガンがあったが、今我々に必要なのは「万国の愛国者よ団結せよ」である。』[13]
アメリカ
- 『普段”民主主義の最も進んだ国”のような顔をしている米国がやっていることは、大人と子どもほど戦力差のあるアフガニスタンへの一方的な爆撃なのだ。』[13]
- 『そもそも米国同時多発テロ自体、私は米国とイスラエルの特務機関が計画したものだと考えている。何のためか?それは再度、世界を米国の前に服従させるためだ。』[13]
- 『米露関係は欺瞞の上に乗っかっているに過ぎない。相互協力しているように見えても―本当にそうならば美しいが―実際のところ、ロシアは負けているだけなのだ。』[13]
- 『私自身、米国と協力する用意はあるが、それは米国が自分たちに都合のいいやり方を押しつけないときに限ると主張している。』[13]
日本
- 『日本は太平洋戦争の敗戦で、当時の政治体制を連合国側から「ファシズム」だと糾弾され、戦後は民主主義の信奉者のごとく振る舞っているが、日本の開戦が本当にファシズムによるものだったのか?とんでもない。あれは追いつめられた日本の”国を救う”ための最後の策だったに過ぎない。国益の擁護、と言い替えることもできる。』[13]
- 『日本の敗戦直後、ソ連軍が満州の関東軍を襲った。私自身はあの攻撃は間違いだったと考えているが、あれもソ連にとっては国益の擁護だった。』[13]
- 『対中国で利害の一致する日本は、今こそロシアと組むべきなのだ。』[13]
- (日露関係について)『まず国境をなくさなければならない。そしてその第一段階としてビザをなくすことが先決だ。私自身、日本側にビザを要請してから発給まで9年の歳月がかかっている。』[13]
- 『私の夢はこうだ。将来、東京に来るときには、モスクワ―ハバロフスク―サハリン―北海道―東京がノンストップのオリエント急行で結ばれていて、それに乗ってビザいらずで来日することだ。それが私たちの友好の証となるのだ。』[13]
- (北方領土の返還について)『それは難しい。』[13]
脚注
外部リンク
- テンプレート:Ru icon Liberal Democratic Party of Russia website
- Zhirinovsky's 2007 political manifesto (in Russian and English)
- Hello, I Must Be Going, TIME, January 10, 1994
- Zhirinovsky: Russia's political eccentric, BBC News, March 10, 2000
- The trademark Zhirinovsky is up for grabs in Russia, International Herald Tribune, July 10, 2007
- ZHIRINOVSKY'S FOLLIES: Nuclear Threats and Busty Ladies in the Race for Second-Place in Russia, Der Spiegel, February 28, 2008
- News about Vladimir V. Zhirinovsky, including commentary and archival articles at The New York Times