アルマトイ
テンプレート:世界の市 アルマトイ(Алматы, テンプレート:IPA-kz アルマトゥ、テンプレート:Lang-en-short)は、カザフスタン共和国南東部の都市。キルギス共和国および中華人民共和国との国境に近い風光明媚な街である。中央アジア最高水準の世界都市であり[1]、1998年まで同国の首都であった。2002年まではアルマトイ州の州都であったが、2003年に州都の地位をタルディコルガンに譲り、政令指定地区とされた。カザフ国立大学をはじめ多くの高等教育機関、政府機関などがある。人口は1,472,866人(2012年)。
1991年にソビエト連邦を解体し、独立国家共同体を始動した協定はここアルマトイで調印された。遷都後の現在でもアルマトイはカザフスタンで最大の都市であり、商工業・文化の中心都市である[2]。
目次
[非表示]地名
日本語に広く定着している「アルマトイ」は町の名前のキリル文字綴りをロシア語の日本語転写の慣例によってカタカナに写した場合、「アルマトゥイ」となるはずのものを、さらに「トゥイ」を「トイ」に略したものであるテンプレート:要出典。カザフ語の発音に近い「アルマトゥ」と書かれることもある。
アルマトゥ (Алматы) は、1921年に現在のカザフスタンの前身である自治共和国が成立する前から町を指して使われていたカザフ語の名称であり[3][4]、19世紀にロシア人がこの地に進出した後もカザフ族からはアルマトゥと呼ばれることが多かった[5]。語源は「リンゴの里」であり、かつては町の近辺にリンゴ林が広がっていたが、現在は都市開発に伴ってリンゴの樹は数を減らしている[6]。
かつて、日本を含め国際的にはこの町はアルマ・アタ Алма-Атаという名称で呼ばれていた。これは、カザフ語ではなくロシア語での呼称で、ソ連時代に事実上の公式名称となっていたものである。アルマ・アタ(英:Alma-Ata)は、カザフ語でアルマ (алма) は「リンゴ」、アタ (ата) は「父」を意味するため、「リンゴの父[7][8]」を意味していた。現在でもアルマ・アタの呼称を用いる人は、ロシア語話者を中心として、内外ともに少なくない。
町の元になったヴェールノエ要塞の語源は、「忠誠の土地」である[8]。
歴史
アルマトイ郊外の山テンプレート:仮リンクには、紀元前10世紀から紀元前9世紀のものと思われる青銅器時代の住居跡が存在する[6]。アルマトイから東50kmに位置する[10]イッシクからは、紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろと推定されるサカ族の遺跡が発掘され、[6]独自の文字が刻まれた銀製のカップが出土した[10]。イッシクのほか、アルマトイ近郊には発掘調査が行われていないサカの遺跡が多く存在する[11]。
中世にはシルクロードの天山北路のオアシスとして、交易が行われていた。アルマトイ近郊では10世紀から13世紀のものと思われる遺跡からは、タンドリ(窯)、焼きレンガ、貨幣が発掘された[6]。出土した貨幣の表面には「アルマトゥ」の名前が刻まれていた。13世紀のモンゴル帝国の中央アジア遠征の後、アルマトイの名前は多くの人から忘れ去られた[7]。
1730年(1729年)にはアブル=ハイル・ハンが率いるカザフ族の連合軍が、アルマトイ北西のアヌラカイ山で抗争を繰り返していたジュンガルを撃破する[12]。
1854年、シベリア・コサックが天山山脈のふもとに要塞を建設し、ザイリースキー(ザイリスコエ、Заилийский)と呼んだ。やがて、要塞はヴェールノエの名前で呼ばれるようになった[13]。ヴェールノエはビシュケク・タシュケント方面への遠征の拠点とされ[14]、1859年に初めて地図上に名前が記された[6]。
1867年に要塞はヴェールヌイ(Верный)市と改められてセミレチエ州の州都に定められる。ステップ上に位置する立地、当時の不安定な中央アジア情勢のため、ロシア帝国の統治下で秩序が保たれていたヴェールヌイには、多くの民族が移住した[15]。ヴェールヌイに移住した人間はボリショイ・アルマトゥ川沿いに、出身地域ごとに集落を形成した[6]。1880年代のアルマトイは、60年代にロシア人移民が居住する要塞周辺の旧地区、70年代以降に建設された新規の移民の居住地である新ヴェールヌイ区、カザフ族などの非ロシア人が居住する郊外の地区の3つに分かれていた[15]。1887年と1910年(1911年)の大地震でヴェールヌイは壊滅するが、人々は町を再建した。2度の大地震の後に、碁盤目状の市街地が整備され始める。
1918年3月にアルマトイにソビエト政権が樹立する。 1921年、町は特産品のリンゴにちなんだ名前のアルマ・アタ(リンゴの父)に改称される[8]。 1928年、政争に敗れたレフ・トロツキーが追放され滞在した(翌年にはソビエト連邦から国外追放)。 1929年、カザフ自治ソビエト社会主義共和国の首都がクズロルダからこの地に移される。1930年、トルキスタン・シベリア鉄道とトルキスタン・シベリア道路、さらにアルマ・アタ空港(現在のアルマトイ国際空港)が完成し、カザフスタンの中心地に発展していく。木造の平屋が多く経っていた町に、鉄筋コンクリートの建物が現れ始める[3]。ソビエト政権時代、町の通りにはレーニンなどの社会主義を象徴する名前やジャンブル、アバイなどのカザフ族の偉人の名前が付けられた[6]。都市の中心部には政府関係の建物だけでなく、オペラ劇場やコンサートホールなどの文化施設が建設された。
第二次世界大戦中、アルマ・アタには戦火を逃れるために工場や病院、大学、映画撮影所などがヨーロッパ・ロシアから続々と疎開してきた。ソ連の映画撮影所モスフィルムとレンフィルムが移転したアルマ・アタに中央合同劇映画製作所が発足、当時のソ連製映画の約8割がアルマ・アタで制作された[16]。アルマ・アタで映画技法を学んだ人物の中から、中央アジアの映画界で活躍する人材が多く現れた[16]。戦後には日本兵捕虜の収容所が設置され、科学アカデミーや発電所の建設に使役された[4]。市内には日本兵捕虜が葬られた墓地が3か所存在する[4]。
1960年から1986年までのディンムハメッド・コナエフがカザフスタン共産党中央委員会第一書記を務めていた時代、町の景観が整備される[5]。1978年にはプライマリ・ヘルス・ケアに関する会議が開催され、アルマ・アタ宣言が採択された。1986年、ミハイル・ゴルバチョフはコナエフをカザフ党第一書記(政治局員)から解任し、後任にロシア人のゲンナジー・コルビンを選出した。第一書記は共和国の基幹民族出身者から選出する慣行に反する上、カザフスタンと全く繋がりのないコルビンの起用はカザフスタンの学生たちの反発を招いた[17]。このため、1986年12月17日朝から12月18日夜にかけて、大規模なカザフ人暴動が発生した(アルマアタ事件)。
1991年より、アルマ・アタは旧ソビエト連邦から独立したカザフスタン共和国の首都に定められ、1993年にアルマトイに名称を統一した。1997年、ヌルスルタン・ナザルバエフは首都をアクモラ(現在のアスタナ)に移すことを決定し、翌1998年1月に遷都が行われた。
地理・気候
天山山脈の支脈であるザイリスキー・アラタウの北麓に位置する。都心部は標高750m-900mの高地に位置し、町全体が傾斜している[5]。
アルマトイは複数回大地震に見舞われており、アスタナに遷都された理由の一つに地震の危険性があった[18]。地震への対策から高層建築物の建設は制限されているが、そのために都市の景観が保たれている一面もある[3]。
気候は大陸性で、夏は暑く冬は寒い。南方を4000m級の天山山脈が占めるため、山岳気候の影響も強く受ける。1月の平均気温は-4.7度とそれほど低くはないが、最低気温はしばしば-10度を下回り、降雪量も多くなる。7月の平均気温は23.8度と高く、日中は年間平均で30度を超す真夏日となることが36日もあり、時に35度を超すことも珍しくないが、朝晩は涼しく湿気も少ないので蒸し暑さとは無縁である。また市内でも北から南にかけて標高600m - 1200mに市街地が広がっているため、気温、気候などに違いがある。沖積層土壌と豊富な雨量のため、多くの植物が生い茂っている[19]。 テンプレート:Weather box
民族構成、人口
テンプレート:Bar box 2010年度の調査では、右記の結果となった。首都アスタナに比べると、ロシア人が占める割合が多くなっている他、ウイグル人や朝鮮系の高麗人も多くなっているなど、多民族都市である。
1989年にソビエト連邦が行った調査ではアルマ・アタの人口は1,071,900人であり、カザフスタン独立後の1999年に実施された調査では1,129,400人に増加した結果が報告された[20]。
1926年 | 1959年 | 1970年 | 1989年 | 1999年 | 2012年 | |
---|---|---|---|---|---|---|
人口 | 46,000[19] | 456,000[19] | 730,000[19] | 1,071,900 | 1,129,400 | 1,472,866 |
行政地区
7地区から成る。
- アウエゾフ地区
- アラタウ地区
- アルマルイ地区
- ジェトゥス地区
- トゥルクシブ地区
- ボスタンドゥク地区
- メデウ地区
経済
ソビエト連邦から独立した中央アジアの国家の中で、アルマトイは最も経済的に発展した都市である[6]。
アルマトイの前身であるヴェールノエ市の建設当初、住民の大部分は農業に従事しており、工業は発達していなかった[21]。ソビエト連邦時代にシベリアと中央アジアが鉄道で結ばれると、アルマトイは植民・商業都市としての性質だけでなく、工業都市としての性格も持ち始める[15]。ノヴォシビルスクとタシュケントを結ぶトルキスタン・シベリア鉄道の開通により、機械製造業と食品工業が発達した[19]。1919年のアルマトイの労働者の数は365人だったが、1968年には104,000人に達した[21]。旧ソ連時代は食品工業と軽工業がアルマトイの中心産業だった[21]。1993年には、フィリップモリス社がアルマトゥ・タバコ工場を買収した[22]。
カザフスタンの石油生産量が増加した2003年以後、アルマトイは経済的な恩恵を受ける[6]。町にはトルコ資本、ロシア資本の大規模な小売商店が進出し、欧米資本のファッションブランド店も出現した。市内のスーパーにはトルコ製品、バザールには中国製品が多く流通するようになる[23]。しかし、富裕層に含まれない一般市民は恩恵にあずかれず、物価の上昇と公共料金の値上げに苦しんでいる[6]。また、経済発展と共に環境問題も表面化した[6]。特に自動車の排気ガスによる大気汚染が問題となっており、市当局は地下鉄の設置などの対策を講じているが成果は表れていない[6]。
教育
アルマトイには、カザフスタンの高等教育機関と研究施設が集中している[4]。カザフスタンの三大図書館である国立公共図書館、カザフスタン科学技術図書館、カザフ科学アカデミー中央図書館が置かれている[24]。
人材不足などの理由で、町の医療は発達しているとは言い難い[25]。
スポーツ
FCカイラト・アルマトイとCSKAアルマトイの2つのサッカークラブが、アルマトイをホームタウンとしている。
アルマトイ郊外のテンプレート:仮リンクでは、多くの世界記録が生まれた[8]。そのため、かつては「世界記録の工場」として有名だった[26]。メデオ・スケートリンクの上の地点には、チェンブラク・スキー場がある。
1996年にカザフスタンの企業と日本の商社の合弁でヌルタウ・ゴルフ場が開設された[27]。2006年には2つ目のゴルフ場としてジャイラウ・ゴルフクラブがオープンした。
アルマトイは2014年冬季オリンピック開催に立候補していたが落選[28]。2011年にはアジア冬季競技大会が開催された。2017年には冬季ユニバーシアードの開催が予定されている[29]。
バンディ
アルマトイには、国際バンディ連盟のアジア事務局が設置されている[30]。かつて存在したバンディのチームであるディナモ・アルマ・アタは、1977年と1990年のソビエト選手権、1978年のテンプレート:仮リンクを制した。
ディナモの本拠地であったメデオ・スケートリンクは、2011年アジア冬季競技大会でバンディの競技会場として使用された。2012年にカザフスタンで開催されたバンディ世界選手権ではメデオがメインの競技場に選ばれ、大会のためにテンプレート:仮リンクに建設された代替のフィールドが第2競技場とされた。
観光
アルマトイには歴史的な建造物の遺跡は存在しないが、ヨーロッパ風の街角が多く残る[24]。また、ソ連時代の伝統を引き継いで、オペラ、バレエ、コンサートなどの文化的な催し物が劇場で上演されている[31]。
ハイアットリージェンシー系列のラハット・パラス、インターコンチネンタルなどのホテルが営業している。
主な観光地
- 28人のパンフィロフ戦士公園 - 第二次世界大戦の対ドイツ戦でモスクワ防衛に参加して戦死したパンフィロフ将軍と彼が率いた兵士を記念して造られた公園。アルマトイでの結婚式の当日、花嫁と花婿は公園の戦勝記念碑に花を捧げ、記念撮影を行うことが多い[32]。中央には1904年に完成したゼンコフ正教教会がそびえる。
- 国家中央博物館 - 約90,000点の展示物を所蔵する[24]。イッシク古墳から出土した「黄金人間」のレプリカ、石人などが展示されている。
- 国立カステエフ記念美術館 - 主に現代のカザフ人芸術家の作品を展示している。
- カザフ民族楽器博物館
- アルマトイ動物園
- 中央バザール
交通
アルマトイ郊外では、新車を購入する経済的な余裕が無い人間のための中古車を扱うバザールが開かれている[33]。
自動車の排気ガスによる大気汚染は、アルマトイを悩ませている[6]。また、渋滞も頻発しており、駐車場が少ないために路上駐車が横行していること、低速度で走行中に故障が起きやすい旧型車が大排気量の新車と並走していることなどが発生の原因として挙げられる[34]。2005年には交通事故の増加を防ぐために市当局が右ハンドル車の新規登録を停止することを発表したが、右ハンドル車の所有者やディーラーの反対にあって発表を撤回した[35]。
交通機関
- アルマトイ国際空港 - 市内北東の15kmに位置するカザフスタン最大の空港。アルマトイは中央アジア各地とロシア・ヨーロッパを結ぶ航空上の拠点として重要視されている[19]。
- アルマトイⅠ駅 - 町の北にある駅。
- アルマトイⅡ駅 - 市の中心部にある駅。多くの列車の発着地となっている[36]。モスクワ行きは隔日、中国ウルムチ行きは週2便のシルクロード号が発着する。
- アルマトイ地下鉄 - 中央アジアでは2番目の地下鉄。
- サイランバスターミナル - 市の西にある長距離バスターミナル。現地ではノーヴィー・アフトヴァグザールの名前で呼ばれている[36]。ビシュケク、タラズ、ウルムチ、グルジャ行きのバスが運行されている。
- マルシュルート・タクシー - 定員10人前後の小型バス。車体は主にロシア車と中国車が使用されている[37]。
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon アレクサンドリア(エジプト)
- テンプレート:Flagicon イスタンブル(トルコ)
- テンプレート:Flagicon ヴァルナ(ブルガリア)
- テンプレート:Flagicon ヴィリニュス(リトアニア)
- テンプレート:Flagicon ウルムチ(中国)
- テンプレート:Flagicon カザン(タタールスタン共和国)
- テンプレート:Flagicon サンクトペテルブルク(ロシア)
- テンプレート:Flagicon ツーソン(アメリカ合衆国)
- テンプレート:Flagicon 大邱(韓国)
- テンプレート:Flagicon テルアビブ(イスラエル)
- テンプレート:Flagicon ビシュケク(キルギス)
- テンプレート:Flagicon ブダペスト(ハンガリー)
- テンプレート:Flagicon ミンスク(ベラルーシ)
- テンプレート:Flagicon モスクワ(ロシア)
- テンプレート:Flagicon リガ(ラトビア)
- テンプレート:Flagicon レンヌ(フランス)
脚注
参考文献
- 宇山智彦編著『中央アジアを知るための60章』第2版(エリア・スタディーズ26, 明石書店, 2010年2月)
- 宇山智彦「アルマトゥ」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
- 宇山智彦「アルマトゥ事件」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
- 岡奈津子「アルマトゥ」新版『ロシアを知る事典』収録(平凡社, 2004年1月)
- 帯谷知可、北川誠一、相馬秀廣編『中央アジア』(朝倉世界地理講座 大地と人間の物語, 朝倉書店, 2012年10月
- 香山陽坪「アルマアタ」『世界地名大事典』1巻(朝倉書店, 1973年)
- 地球の歩き方編集室『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々』2011~2012年版(地球の歩き方, ダイヤモンド・ビッグ社, 2011年4月)
- 辻原康夫『世界地名情報事典』(東京書籍, 2003年1月)
- 角崎利夫『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』(早稲田出版, 2007年12月)
- 『アジア・オセアニア 1』(桜井由躬雄他監修, 世界地理大百科事典, 朝倉書店, 2002年1月)
- 『世界地名辞典 西洋編』新版(小林望、徳久球雄編, 東京堂出版, 1980年5月)
- 『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編、芙蓉書房、1975年1月)
関連項目
外部リンク
テンプレート:カザフスタンの地方行政区画テンプレート:Link GA- 元の位置に戻る ↑ World City
- 元の位置に戻る ↑ 宇山『中央アジアを知るための60章』第2版、151頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 3.2 宇山『中央アジアを知るための60章』第2版、150頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 4.2 4.3 岡「アルマトゥ」新版『ロシアを知る事典』、29-30頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 5.2 宇山「アルマトゥ」『中央ユーラシアを知る事典』、43頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 6.00 6.01 6.02 6.03 6.04 6.05 6.06 6.07 6.08 6.09 6.10 6.11 6.12 『中央アジア』、69-70頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 7.0 7.1 蟻川明男『世界地名語源辞典』(三訂版, 古今書院, 2003年3月)、26頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 8.0 8.1 8.2 8.3 辻原『世界地名情報事典』、36頁
- 元の位置に戻る ↑ Ness, Immanuel. Encyclopedia of World Cities. M E Sharpe Reference, 1999. ISBN 0-7656-8017-3. 19頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 10.0 10.1 梅村坦「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』収録(小松久男編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年10月)、103頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、43頁
- 元の位置に戻る ↑ カトリーヌ・プジョル『カザフスタン』(宇山智彦、須田将訳, 文庫クセジュ, 白水社, 2005年2月)、57-58頁
- 元の位置に戻る ↑ 宇山『中央アジアを知るための60章』第2版、149頁
- 元の位置に戻る ↑ 宇山『中央アジアを知るための60章』第2版、149-150頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 15.0 15.1 15.2 『シルクロード事典』、62-63頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 16.0 16.1 宇山『中央アジアを知るための60章』第2版、135頁
- 元の位置に戻る ↑ 宇山「アルマトゥ事件」『中央ユーラシアを知る事典』、43頁
- 元の位置に戻る ↑ 宇山智彦「地震」『中央ユーラシアを知る事典』、227,232頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 19.5 『世界地名辞典 西洋編』新版、37頁
- 元の位置に戻る ↑ (About some results of the Kazakhstan population census)(ロシア語、2013年3月閲覧)
- ↑ 以下の位置に戻る: 21.0 21.1 21.2 香山「アルマアタ」『世界地名大事典』1巻、73頁
- 元の位置に戻る ↑ 『アジア・オセアニア 1』、222頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、174頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 24.0 24.1 24.2 『アジア・オセアニア 1』、225頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、175-176頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、105頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、106頁
- 元の位置に戻る ↑ テンプレート:Cite web
- 元の位置に戻る ↑ テンプレート:Cite web
- 元の位置に戻る ↑ テンプレート:Cite web
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、173頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、55頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、75頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、80頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、76頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 36.0 36.1 地球の歩き方編集室『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々』、123頁
- 元の位置に戻る ↑ 角崎『カザフスタン 草原と資源と豊かな歴史の国』、79頁
- 元の位置に戻る ↑ Twin-cities(2013年3月閲覧)