ボリス・ネムツォフ
テンプレート:政治家 ボリス・エフィーモヴィチ・ネムツォフ(Борис Ефимович Немцов、Boris Efimovich Nemtsov, 1959年10月9日 - )は、ロシアの政治家。エリツィン政権で第一副首相。自由主義政党右派勢力同盟(右派連合)及び、「2008年委員会」共同議長。
来歴
1959年10月9日、ユダヤ人の両親のもとにソビエト連邦ロシア共和国のクラスノダル地方のソチで生まれる。1981年ゴーリキー大学電波物理学部を卒業して、ゴーリキー電波物理学研究所に勤務する。1988年以降から環境保護運動のリーダーとなり、ゴーリキーに原子力発電所建設が持ち上がった際には原発建設反対に動き、反対運動の中核を担った。
1990年ロシア共和国人民代議員に当選し、政界に入る。議会では院内会派「民主ロシア」に所属した。1991年8月のソ連8月クーデターでは、改革派の立場から、エリツィン・ロシア大統領を支持した。エリツィン政権と関係を作ったネムツォフは、1991年エリツィンによって、ニジニ・ノヴゴロド州行政長官(知事に相当。のちに知事)に任命された。1993年上院連邦会議代議員に当選。1995年12月ニジニ・ノヴゴロド州知事選挙で再選される。ニジニ・ノヴゴロド州知事として手腕を振るい、経済復興に成功し、若手改革派の旗手としてロシア国内から注目される。
エリツィンは、ネムツォフに注目し、1997年3月に連邦政府の第一副首相(住宅建設政策及び独占禁止政策担当)に登用する。同年4月には、燃料・エネルギー相を兼任する。9月の世論調査では、世論調査で「大統領にしたい人物」の第一位に挙げられるまでになり、エリツィンの後継者と囁かれるようになった。1998年セルゲイ・キリエンコ内閣の第一副首相に任命されるが、ロシア金融危機の結果、キリエンコ首相が解任され、ネムツォフも第一副首相を解任される。
雌伏の時を迎えてネムツォフは政治団体「若きロシア」を結成。更に1999年の下院選挙に備え、改革派、リベラル派の結集を図り、右派連合(右派勢力同盟)の創設に参加した。1999年12月の下院国家会議選挙に立候補し当選する。2000年1月、下院副議長に選出される。2001年5月、党内の約70パーセントの支持を得て、右派勢力同盟共同議長に就任する。
しかし、プーチン政権によるロシア・ナショナリズムの高まりの中、右派連合は新興財閥との繋がりもあり、勢力が衰えていった。2003年12月の下院国家会議選挙では、右派勢力同盟は比例区の議席確保に必要な5%の得票率を獲得することが出来ず、惨敗する。
右派勢力同盟代表を辞任した後、2004年2月、石油コンツェルン・ネフチノイの取締役に就任するが、その後も、プーチン政権及びシロヴィキの強権化に批判的であり、ガルリ・カスパロフ、ウラジーミル・ブコフスキーVladimir Bukovskyらとともに「2008年委員会」を結成した。またウクライナのオレンジ革命では、ヴィクトル・ユシチェンコを支持し、ユシチェンコ大統領が誕生すると大統領経済顧問に任命された。
2007年11月24日、右派勢力同盟は2008年ロシア大統領選挙にネムツォフを擁立する方針を決定した。同年12月の下院選挙では右派勢力同盟の比例代表リスト筆頭となったが、選挙戦は苦戦を強いられ、11月25日にサンクトペテルブルクで開いた集会ではプーチン批判のため、右派勢力同盟のニキータ・ベールイフ代表らとともに官憲に拘束された。結局、右派勢力同盟は得票率0.96パーセントで敗北した。12月26日2008年度大統領選挙への自身の立候補を取り下げ、野党勢力による候補一本化の必要性を強調した。リベラル派はミハイル・カシヤノフ元首相に一本化したが、カシヤノフは立候補を当局から阻止された。
2011年12月4日にロシア下院選挙が行われたが、カシヤノフ元首相やネムツォフらが参加したリベラル系野党「国民自由党」(略称・パルナス)の正式な政党登録が6月22日に法務省に拒まれた。国民自由党は、プーチン首相の強権的な政治手法を厳しく批判していて、最近の世論調査では支持率は9%で、比例代表制の下院で議席獲得に必要な「得票率7%」を超えていたとされる[1]。その下院選挙にて不正があったことが指摘され、ネモツォフらが中心となり12月5日より反政府デモを行った(2011年ロシア反政府運動)。
その他
私生活では夫人との間に三人の子がいる。
ロシアの右翼政治家であるウラジーミル・ジリノフスキーとテレビで討論中、激高したジリノフスキーに手元にあった水を浴びせられたことがある[2]。
脚注
外部リンク
- 公式ホームページ (ロシア語)