アレクサンドロス3世

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アレクサンドロス3世テンプレート:Lang-grc-short紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王テンプレート:Lang-grc-short)は、アルゲアデス朝マケドニアテンプレート:仮リンク(ヘラス同盟)の盟主、エジプトファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。

ハンニバル[1]カエサル[2]ナポレオン[3]などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書コーランシャー・ナーメゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。

生涯

若年期

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アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス

アレクサンドロス3世はマケドニア王ピリッポス2世エペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。こうして、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。

東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。

ギリシア出兵・即位

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紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシア地方に出兵しカイロネイアの戦いアテナイテーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにテンプレート:仮リンク(ヘラス同盟)を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシア東征を計画したが、紀元前336年に護衛のテンプレート:仮リンクに暗殺された。

20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。

東方遠征

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小アジアの征服

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イッソスの戦い, 左がアレクサンドロス, 右がダレイオス3世

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紀元前334年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投げ槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。

紀元前333年、ついにアレクサンドロスはアンティオキアの北西テンプレート:仮リンクにおいて ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇する(イッソスの戦い)。アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。

エジプトの征服

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アレクサンドロスは、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、唯一頑強に抵抗したフェニキアのティール(Tyre、現ティルス)を屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。

エジプトは11年前の紀元前343年アルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。

エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。

ペルシア王国の滅亡

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紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。

翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻め、スピタメネスオクシュアルテスにベッソスは捕えられた後、アレクサンドロスに引き渡されエクバタナで公開処刑された。

ソグディアナ方面の占領

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中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年までソグディアナバクトリアにおける過酷なゲリラ戦(Siege of the Sogdian Rock)を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めるのもこの頃である。なおアレクサンドロスは紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。

インド遠征とスーサ帰還

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アレクサンドロスのインド行軍路(赤線)

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ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指した。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク紀元前327年 - 紀元前326年)。テンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-grcテンプレート:Lang-en、現ピール・サル峰、紀元前327年 - 紀元前326年)。紀元前326年インダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いテンプレート:仮リンクの王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。

11月からアレクサンドロスはHydraotes川(現テンプレート:仮リンク)を南下し、全軍を3つに分割してクラテロスと共に残存する敵対勢力(en:Jat people系族en:Malhi)を駆逐(en:Mallian Campaign)し、さらにインダス川を南下してPatala(現タッター)に出た。テンプレート:仮リンク砂漠(現パキスタンバローチスターン州)を通ってテンプレート:仮リンク(現イランケルマーン州)に向かい、紀元前324年スーサに帰還した。この際、部下のネアルコスに命じてインダスからペルシア湾を通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。紀元前324年にはテンプレート:仮リンクが行なわれた。

バビロン帰還と大王急逝

帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。

バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日に死去した。

死後のマケドニア帝国の行方

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アレクサンドロス帝国」の最大領域。遠征・征服した領域は東西4500kmに及ぶ。

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残された大帝国では、彼の遺将たちがバビロン会議トリパラディソスの軍会という2度の協定によって安定化を目指したものの、大王の遺言に忠実に「最強の者が帝国を継承」しようとして覇を争うことになり、アンティゴノスセレウコスプトレマイオス他の諸将によるディアドコイ戦争を経て分裂した。紀元前3世紀アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトヘレニズム三王国が出現し、それらは互いに相争っていたもののひとまずはこの三国鼎立の形に落ち着いた。

その後、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされた。東方はパルティアが勃興してセレウコス朝の領土の大部分を奪い、東方領はマケドニア人の手を離れた。以後東地中海から中央アジアに至る地域はイスラーム帝国の出現までふたたび大統一を見なかった。アレクサンドロスの遺体はペルディッカスがバビロンから王都ペラへ移送途中にプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたとされる。墓は未だに発見されていない。

アレクサンドロスの一族はディアドコイ戦争中に殺害され、アレクサンドロスの血統は断絶した。

  • 王の母オリュンピアス(自ら兵を率いたもののカッサンドロスに敗れ殺される)
  • 王妃ロクサネと王子アレクサンドロス4世(共にカッサンドロスにより処刑)
  • 庶子のテンプレート:仮リンク(カッサンドロスに買収されたポリュペルコンに暗殺される)
  • 異母兄ピリッポス3世(王妃エウリュディケがマケドニアの実権を握ろうとして、オリュンピアスに兵を挙げられ、共に殺される)
  • 妹クレオパトラ(プトレマイオスの求婚を受け、敵対していたアンティゴノスにより暗殺)
  • 異母姉キュナネ(ペルディッカスの弟アルケタスにより暗殺。娘のエウリュディケはピリッポス3世の王妃)
  • 異母妹テッサロニカ(カッサンドロスの妻となるものの、彼の死後に息子たちの後継者争いに巻き込まれ暗殺)

融合政策

アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。帝国の公用語に古代ギリシア語を採用した。さらにペルシャ文化への融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。

ヘレニズム文化

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アレクサンドロスとダレイオス3世の家族

テンプレート:Main ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオンミロのヴィーナスサモトラケのニケ瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。エウクレイデスアポロニオスアルキメデスエラトステネスアリスタルコスらの学者も輩出、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、サーサーン朝などにも影響を与えた。

マケドニア軍の強さ

純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア世界で伝統的であったファランクスの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。また、アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった(古代ギリシアにおいて司令官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら剣戟に身をさらして戦う習慣があったため、これは取り立てて特別なこととは言えない)。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。

このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。

アレクサンドロス暗殺計画

東方遠征中、酒にが盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手将校らによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。首謀者の1人として司令官の1人フィロタスの名前が挙がった。フィロタスは無実(パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂により近衛兵を率いるフィロタスの粛清劇を招いたという説が有力)を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。

死後の伝承

テンプレート:Main アラビア語ペルシア語ではアレクサンドロスはイスカンダルの名前で知られる。アレクサンドロス3世の勇猛はイスラーム世界に一種の英雄伝説となって語り伝えられた。中東における伝承ではアレクサンドロスには2つの角があるとされ、イスカンダル双角王(イスカンダル・ズルカルナイン)の名で知られた。また、東南アジアにイスカンダルという男性名があるのは、イスラーム教の東進によってこの英雄伝説が広まった結果である。アレクサンドロス・ロマンスの広まった範囲は、ギリシア文化を受け継いだヨーロッパやイスラーム世界のみならず、断片的に中国やエチオピアにまで広がっている。

逸話、エピソード

テンプレート:出典の明記

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愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス (拡大図)
ブケパロス
王子時代にブケパロスという馬がペラの王宮に連れてこられた。気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという。
決して負けない人
アレクサンドロスはアジアへの遠征に先立って神の神託を求めに行った。そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った。
ディオゲネス
コリントスシノペのディオゲネスという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らしていたが、本人は人生に至極満足していた。ある日、ひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスを訪ねたアレクサンドロスは彼に「望むものがあるならば全て叶える」と問うたが、答えは「日陰になるからそこをどいてくれ」というものだった。アレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという。
毒殺を恐れない
アレクサンドロスが病臥していたとき、侍医のフィリッポスが敵(ダレイオス3世)に買収されて王の毒殺を企てているという報せが届いた。王はその手紙を読んだが、平然として薬を飲み干し、フィリッポスに手紙を見せた。フィリッポスは「今後も、医者としての私の指示に従うようにしてください。そうすれば助かります。」と言ったといわれる。その後、王は激しい高熱に苦しんだが、やがて回復した。
貴婦人への礼遇
ダレイオス3世の母と妃がイッソスの戦いの後で捕えられたが、アレクサンドロスは彼女らに非常に敬意を払って接した。のちにそれを伝え聞いたダレイオス3世はアレクサンドロスの度量を賞賛し、もし自分が不幸にして王国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったという。
「勝利を盗まない」
ガウガメラの戦いの前夜に宿将パルメニオンが夜襲を進言したが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と言って退けた。ペルシア軍は劣勢のマケドニア軍が確実に夜襲を仕掛けてくるものと予想して一晩中厳重に警戒していたが、アレクサンドロスは翌朝遅くまで悠々と寝続けた。ペルシア軍は無駄に体力を消耗し、マケドニア軍は気力充実して戦闘に臨むことができた。
クレイトスの殺害
アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。ある夜の酒宴でアレクサンドロスは武将クレイトスと東方政策をめぐって激しく口論し、衝動的にクレイトスを刺し殺してしまう。まもなく酔いが醒めた王は深く嘆いたという。
砂漠の水
インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛なテンプレート:仮リンクの砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、1人の兵士が王のために1杯の水を見つけてきた。しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。
部下への感情
アイリアノスは『ギリシア奇談集』において「アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスを憎んでいた。アンティゴノスの気前のよさ、アッタロスの品行、プトレマイオスの幸運さは彼の癪に障るものであった」(アイリアノス, XII, 16.なお、引用は[1]より)と述べており、アレクサンドロスの優秀な部下に対する思いは複雑なものであったともされる。逆にアレクサンドロスがヘファイスティオンを寵愛していたのは、彼がとりたてて将軍として抜きん出たところのない人物だったからだともいう。

伝説

テンプレート:出典の明記

ゴルディアスの結び目

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アレクサンドロスがペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンを占領した時(紀元前333年)、町の中心にあるゼウス神殿に一台の古い戦車が祀られていた。その戦車は“ゴルディオスの結び目”と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられており、「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という伝説が伝えられていた。その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言した。
海賊と帝王
海賊が捕えられて縛り首になったが、彼はアレクサンドロスに向かって「俺もお前のように多くの国を攻め滅ぼしていれば、英雄と呼ばれたことだろう」と皮肉った。
海中探検
オリエントの伝説によると、アレクサンドロスは海の中の世界に興味をおぼえ、ガラスの樽の中に入って海中を探検したという。
サンドロコットスとの出会い
プルタルコスなどによれば、アレクサンドロスがインドに侵入した時、マケドニアの陣営に1人の若者が訪れてインド東部への道案内を申し出た。この若者の名はサンドロコットスといい、彼こそがのちのチャンドラグプタであるという。
インドの賢者
アレクサンドロスはインドで裸の賢者たちと世界の神秘についての対話を交わした。賢者たちはアレクサンドロスの問いに次々と答えたが、王は必ずしも納得しなかった。賢者の1人はなめした皮の上に乗り、皮の端に立つと他方の端が捲れるが中心に立つと安定することを示して、栄光を求めて世界をさまよう王を諷した。
トランプの4人の王の1人
フランスでは、トランプクラブのキングのモデルとされている。「古代イスラエル」(ダビデスペード)、「フランク王国」(カール大帝ハート)、「ローマ帝国」(ガイウス・ユリウス・カエサルダイヤ)、「マケドニア王国」(アレクサンドロス)と、当時の「世界」を征服した4人をモデルとしているらしい(但しダビデ王は「世界」を征服していない)。
死因
アレクサンドロスの死因は毒殺説、熱病(マラリア)説などあるが、比較的知られているのは、祝宴中に癲癇発作により突然倒れたというものである。
その他
アレクサンドロス3世は虹彩異色症だった[4][5]。また、当時のギリシア男性の常として両性愛者としても知られている(実際には男色をより好んだ)。

アレクサンドロスと関わった人々

一族

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部下たち(50音順)

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敵対者

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その他

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脚注

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史料

一次史料

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  • カリステネスの従軍記
  • ネアルコスの従軍記
  • ネオシクリトスの従軍記
  • アリストブロスの従軍記
  • プトレマイオスの従軍記
  • クレイタルコスの大王伝
  • バビロン王宮日誌(実在を疑う研究者も多い)
  • バビロン天文日誌

テンプレート:Refend これらの同時代史料は全て散逸している(バビロン天文日誌は、サマリー版の粘土板が発掘されており、アレクサンドロスと思われる王の記録の記載が若干残っている)。

現存する史料

評伝
通史
その他
アレクサンドロスを中心に扱ったものではないが、ある程度まとまった記述があるもの

主な日本語文献

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  • 森谷公俊 『興亡の世界史1.アレクサンドロスの征服と神話』  講談社 2007年
     巻末に詳細な文献案内。以下は関連著書
  • 森谷公俊 『アレクサンドロス大王―世界征服者の虚像と実像』 講談社選書メチエ、2000年
  • 森谷公俊 『王宮炎上―アレクサンドロス大王とペルセポリス』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2000年
  • 森谷公俊 『王妃オリュンピアス―アレクサンドロス大王の母』 筑摩書房ちくま新書〉、1998年
  • ピエール・ブリアン、福田素子訳 『アレクサンダー大王―未完の世界帝国』 創元社「知の再発見」双書11〉、1991年
  • ピエール・ブリアン、田村孝訳 『アレクサンドロス大王』 白水社〈文庫クセジュ〉、2003年
  • 大牟田章 『アレクサンドロス大王―世界をめざした巨大な情念』 清水書院〈清水新書〉、1984年
     アリアノス『東征記』の訳者でもある、以上3冊とも入門書。
  • 『アレクサンダーの戦争 青年王とユーロ・アジア大帝国』 世界の戦争1巻:講談社、長澤和俊編、1985年
  • ニック・マッカーティ 『アレクサンドロス大王の野望』 シリーズ絵解き世界史1:原書房、日本語版総監修本村凌二、2007年   
  • ロビン・レイン・フォックス 『アレクサンドロス大王 (上下)』 森夏樹訳、青土社、2001年-詳細な伝記
  • エドヴァルド・ルトヴェラゼ 『アレクサンドロス大王東征を掘る』 帯谷知可訳、日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2006年
  • NHKスペシャル文明の道.1 アレクサンドロスの時代』  日本放送協会出版 2003年
  • 『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』 東京国立博物館・NHK共同編集、展覧会図録
  • 安彦良和 『アレクサンドロス 世界帝国への夢』 日本放送出版協会 2003年、増補完全版 2008年
     以上の3冊とも「文明の道」放送に併せた出版。 
  • オーレル・スタイン 『アレクサンドロス古道』 前田龍彦訳、同朋舎 1985年、アリアーノスの原典も所収(絶版)。  
    • 別訳 『アレクサンダーの道 ガンダーラ・スワート』 谷口陸男・澤田和夫訳、長澤和俊注・解説、白水社 1984年(品切中)。

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創作上におけるアレクサンドロス3世

書籍

映画

アニメ

ゲーム

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

「アレクサンドロス」の異名を与えられた人物


先代:
ピリッポス2世
マケドニア王
紀元前336年 - 紀元前323年
次代:
ピリッポス3世
アレクサンドロス4世
先代:
-
アジア王
紀元前331年 - 紀元前323年
次代:
ピリッポス3世
アレクサンドロス4世

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テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. プルタルコス「英雄伝」によると、史上最も優れた指揮官としてアレクサンドロス大王を挙げている
  2. プルタルコス「英雄伝」によると、アレクサンドロスの銅像をみたカエサルは、自分の業績は、彼に比べればとるにたらないと言って泣いたという逸話がある
  3. Mémoires de Napoléon Bonaparte, Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne 1821 年は、ナポレオンに同行した秘書の回想録であるが、「アレクサンドロスはナポレオンが最も尊敬する偉人であり、同列に並べられることを常に願っていた。」「エジプト遠征時も、自分とアレクサンドロスを重ねていた」という趣旨の内容が度々登場する。
  4. Ashrafian H. "The death of Alexander the Great--a spinal twist of fate." J Hist Neurosci. 2004 Jun;13(2):138-42. PMID 15370319.
  5. Pearce, John M. S., "Fragments of Neurological History". Imperial College Press: 2003, p. 248. ISBN 1860943381