バシリカ

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バシリカbasilica)は、

  1. 建築の平面形式のひとつで、中央の身廊の2辺ないしはそれ以上の辺を、側廊によって取り囲むものをいう。身廊と側廊は列柱によって分けられる。バジリカ式、長堂式ともいう。
  2. ローマ教皇の発行した教皇小書簡により、一般の教会堂より上位にあることを認められた教会堂のこと。

概説

建築形式としてのバシリカ

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オンブレリーノとティンタナバラム

バシリカはギリシア語で「王の列柱廊」を意味するバシリケーに由来するとされる[1]が、その正確な意味については議論がある。ローマ建築において、バシリカは裁判所や取引所に用いられた集会施設、またはそのような機能そのものを指す言葉として使われていたが、やがてローマ伝統の礼拝堂建築(および礼拝形式)ではなく、集団が一堂に集まる礼拝を必要とするキリスト教の教会堂の建築として取り入れられ、一定の平面形式を指す言葉となった。

バシリカは、長方形の平面を持ち、内部にクリアストーリ(採光用の高窓)と列柱のアーケードを持つ建築物で、古代ローマにおいて確立された特定の公共建築と、そこから派生したキリスト教の教会堂建築を指す。建物の短辺方向は、屋根を構成する横架材の強度、あるいは水平方向への応力[2]によってその幅が決定するが、長辺方向については敷地と費用の許す限り、どこまでも連続させることができる[3]。また、垂直方向についても、ゴシック建築に代表されるように壁面に控壁を設置することによって高層化させることが可能である。

バシリカの内部は単純な構成で、ある程度は多目的に使用することができ、実際に古代ローマでは、雨天の際のフォルムとして利用されているが、細分化された特定の儀礼、典礼に対応するには不都合が生じるため、ロマネスク建築では西構えや西正面、アプス、方形内陣、小礼拝堂などを組み合わせてその機能を補った。ゴシック建築ルネサンス建築でも、多少の違いはあるが、多くの教会堂の基本構成はバシリカである。

特権を付与された教会堂としてのバシリカ

カトリック教会では伝統的に、ローマ教皇の発行する公式文書(教皇小書簡、小勅書などと呼ばれる)によって種々の特権を付与された教会堂をバシリカと呼称している。これらの特権は具体的には「一般の教会堂より上位の教会堂として扱われる権利」「オンブレリーノ[4]を備える権利」「ティンタナバラム[5]を備える権利」「聖務日課において聖堂参事会員が大カッパ(cappa magna)[6]を着用する権利」の四つである。

なお、ある教会堂がバシリカであると同時に司教座聖堂である例も珍しくない。教会堂としてのバシリカの中でも最も著名なのが、ローマにある、いわゆる「四大バシリカ」[7]である。バシリカは世界中に数多く存在しており、2006年時点で1476のバシリカがある。大半はヨーロッパにあるが、南北アメリカにも200弱、アジアやオーストラリアにも若干のバシリカが存在している。

歴史

ローマ建築のバシリカ

バシリカの語源がギリシア語であることから、この建築は古代ローマのなかでもギリシア語が話されていたイタリア半島南部、カンパーニア一帯で形成された可能性が非常に高い[8]。その後ローマ帝国の西方属州の都市に建設され、悪天候の際に使われるもうひとつのフォルムとして、商売などの私的事業のほか、裁判所集会所などの公的活動にも使用される、一種の多目的ホールとして機能した。バシリカはローマにおける最も重要な公共建築となり、西方属州にあっては、帝政初期にフォルムの一辺がバシリカで占有され、神殿などと完全に融合したバシリカ・フォルム・神殿複合体と呼ばれる公共空間が建設された。これは紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、イタリア半島北部で形成され、都市計画のなかに組み込まれたものである[9]

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ポンペイのバシリカ
右側がフォルムへの出入口、左側がトリブナル
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マクセンティウスのバシリカ

バシリカは、一般に木造天井で覆われたホールを持ち、内部に列柱廊を設け、短辺に裁判などの際に執政官が着席する高壇(トリブナル)が作られた。その反対側はフォルムに解放されていたが、巨大なものでは短辺の両側にトリブナルやアプスを設けたため、長辺側にフォルムへの複数の出入り口を備えるものもある。また、しばしば皇帝崇拝のための礼拝堂、公文書保管所、書記局などの付属室を備える。ただし、多くが長方形平面で身廊と側廊、入り口に対応するトリブナルなどを備えていたとは言え、正方形平面でほとんど単一の空間しかないものや、側廊を持たない平面のものもあった。

今日、その遺構を見ることのできる最も古いバシリカは、紀元前2世紀に建設されたポンペイのバシリカである。首都ローマフォルム・ロマヌムに最初に建設されたバシリカ、バシリカ・アエミリアも紀元前184年から紀元前170年の間に建設されており、両者はほぼ同時期に建設されていると考えてよい。ただし、現在のバシリカ・アエミリアの遺構は、紀元前25年頃にバシリカ・センプロニア(以後バシリカ・ユリアと呼ばれる)とともにガイウス・ユリウス・カエサルによって再建されたものである。

バシリカ・ユリアは、政務官の職務として司法に重点が置かれるようになったため、裁判専用のバシリカとして割り当てられ、百人法院裁判官の法廷として民事裁判のみが行われた。今日残るバシリカ・ユリアの遺構はカエサルの時代のものではなく、12年オクタウィアヌスによって再建されたものである。

このほか、現在でも目にすることのできるローマの重要なバシリカは以下の通りである。

バシリカ・ウルピア(113年完成)
トライヤヌスによって建設されたトライヤヌスのフォルムの付属建築物。北東と南西に半円形のアプスを持ち、長辺方向に数カ所の出入り口が設けられている。今日では一部の遺構しか目にできないが、プリニウスによってローマ最美の建築のひとつに挙げられ、属州においても広く模倣された。また、コンスタンティヌス1世が、このバシリカをキリスト教の聖堂のモデルとしたことは確実と目されており、コンスタンティヌス2世もローマを訪問した際に、この建築物に特に驚嘆した記録が残っている。重要なバシリカである。
レプティス・マグナのバシリカ(193年〜218年頃に完成)
セプティミウス・セウェルスによって建設されたフォルム・バシリカ・神殿複合体の一部を成す。床面から天井面までが30m近くある巨大なバシリカで、バシリカ・ウルピアとほぼ同じ平面を持ち、現在でも内部空間を想像できるほどの状態で残っている。使用されている大理石マルマラ海プロコネソス島で産出・加工されたもので、施工も東方で訓練された工人集団によって行われたらしい。
マクセンティウスのバシリカ(302年〜325年頃に完成)
マクセンティウスによって起工され、コンスタンティヌス1世によって完成したバシリカ。従来のバシリカとは違い、身廊と側廊を隔てる列柱が排除され、皇帝浴場から着想したと思われるコンクリート・ヴォールトの形態をより強調した造りになっている。現在では平面のうち北側の側廊にあたる部分のみが残る。キリスト教化以前に建設された最後の大バシリカである。

初期キリスト教建築のバシリカ

建築において、初期キリスト教建築と呼ばれるものは、おおよそ4世紀から7世紀までの間に建設された宗教建築を指す。コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、帝国の特恵宗教[10]となると、キリスト教徒は各地に礼拝用建築物を盛んに建立するようになった。キリスト教徒の礼拝建築の雛形として最も多く採用・応用されたものが、ローマ建築のバシリカであったが、これがいつごろから行われていたかについては明確でない。伝承では、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂312年に建設されたとされるが、史実的な裏付けはない。ただし、4 世紀の歴史家エウセビオスの記述によると、314年から317年の間に建設されたティルスの教会堂が、確実に初期キリスト教建築のバシリカであり、シリアやパレスティナでは4世紀初期に、すでにいくつかのバシリカ式の教会堂が建設されていたようである。このため、ディオクレティアヌスによる大迫害が行われる303年よりも前に、キリスト教徒の典礼用建築としてバシリカが採用されていたと考えられている[11]。古代の教会には既存のバシリカを転用したものも知られている。当時のキリスト教徒が、わざわざ古くさい建築であったバシリカの平面をなぜ採用したのか、その経緯については様々な議論があるが、おおむね以下のような理由が挙げられているテンプレート:要出典

  • キリスト教徒がローマ・ギリシア神話の神々を祭る神殿を忌避したため、ローマ神殿が典礼空間の雛形にはなり得なかった。バシリカは公共建築だったので、異教礼拝を思わせなかったために採用された。
  • キリスト教は多人数が参加する集会的なものであったうえに、典礼に対してもよく合致したために採用された。
  • どこにでもある材料で大量生産が可能な上に、内部の仕上げ材によって品のある建物にすることができるために採用された。

ただし、キリスト教徒はローマ建築のバシリカをそのまま採用したわけではなく、一定の方向への強い指向性をもって建設した。中央に大広間に相当する身廊(ネイブ)を取り、左右に側廊(アイル)を設ける点はローマ建築の典型的なバシリカと変わらないが、教会堂はおおむね東西に長く、身廊東端部はアプスを設けて至聖所とし、反対側に出入り口が設けられた[12]。身廊のみで構成されるものを単廊式バシリカ、身廊の両側に側廊があるものを3廊式バシリカ、側廊がさらにその外側に付加されたものを5廊式バシリカと呼ぶ。身廊・側廊の間に続く列柱は、祭壇に向かって視線を集中させる効果もあったが、バシリカはしばしば非常に巨大な建築物となることもあり、奥行きの深い建物では司祭は大声で説教を行わざるをえず、平均2〜3時間も語り続けることは大変だったと思われる。

あまりにも多くの教会堂がこの形式で建設されたため、単調で画一的な建築のように見えるが、大きさは様々で、トランセプト(袖廊)を構成するなどの変種もある。地域的には、東の首都の周辺部では側廊が2階建てになっていることが多く、シリアはイタリア半島と同じく木造の平天井を架けるが、構造は切石による組積造である。アナトリア半島とアルメニアでは、ヴォールトを架けたバシリカが多く建設されている。初期キリスト教の代表的なバシリカとしては、次のようなものがある(初期キリスト教建築におけるバシリカの導入については、ビザンティン建築の項も参照)。

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サンパオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂内部
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カルブロゼのバシリカ
旧サン・ピエトロ大聖堂(ローマ 390年頃)
現在の大聖堂はルネサンス・バロック時代に再建されたもので、伝統的なバシリカの平面ではなく、プレ・ロマネスク期に見られる単廊式教会堂に近い構成になっている。それ以前の旧聖堂は、身廊を二重の側廊が取りまく5廊式バシリカであったが、ローマ総主教の司教座大聖堂ではなく、聖ペテロの墓とされるものを参拝するための記念礼拝堂であったので、通常は東に設けられるはずのアプスが西側に設置され、教会堂としては東西逆の構成になっている。
アヒロピイトス聖堂(テッサロニキ 5世紀)
コンスタンティノポリス近郊で多く建設された、側廊が2階建てになったバシリカ。2階建て側廊の意味はあまり明確ではないが、男性と女性の参列者を分離するため、あるいは一般信徒と貴族らを分けるための措置と考えられる。現在は、高窓のあった部分やモザイクなどの内部装飾は失われているので、やや空虚な空間となっている。ラヴェンナに残る聖堂と比較すると、バシリカの空間の象徴性は、内部装飾に依存することが分かる。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(ラヴェンナ 534年頃起工)
ラヴェンナにある、現存する美しいバシリカのひとつ。内部装飾はアプスのもの以外は失われているが、空間の構成はほとんど創建当時のままである。列柱によってスクリーンのようにゆるやかに分節された身廊と側廊、身廊の上部に並ぶ高窓など、典型的なバシリカの特徴をよく備える。創建当時、アプスだけでなく、身廊の内壁も同じくラヴェンナに残るサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のようにモザイクで装飾されていた。
カルブロゼのバシリカ(5世紀 カルブロゼ
初期キリスト教建築のなかでも、ビザンティン建築の伝統とは異なるシリア特有の形式を持つバシリカ。身廊と側廊を分離させないように、アーチを大きく架けるため、列柱は円柱ではなく角柱で構成される[13]。従って、内部はロマネスクの時代にヨーロッパに出現した広間式教会堂に近い。また、入り口にロッジアを備え、その両脇に双塔を造る構成も、当時のシリア建築特有のものである。塔の意味については分かっていないが、鐘楼[14]のようなはたらきをしたものと考えられる。

このように、古代のキリスト教徒たちは教会堂建築としてバシリカを好んだが、礼拝堂・洗礼堂、そして大聖堂も、円形平面・多角形平面を持った構成で建設されることが珍しくなかった。これらは、バシリカ(または長堂式)教会堂に対して集中式教会堂と呼ばれる。キリスト教建築の集中式教会堂の起原ははっきりしていないが、王宮謁見室にその起原があるとする説がある[15]。現在では、建設者がバシリカと集中式をどのように使い分けていたのかは推論するよりほかない。

西ヨーロッパのバシリカ

西ヨーロッパに関しては、西ローマ帝国滅亡後から11世紀までの西ヨーロッパにおけるバシリカの発展については、発掘と文献のみでしか知ることができない。おそらく多くの教会堂はバシリカであったと思われるが、イタリア半島とイベリア半島北部のアストゥリアス以外で9世紀以前に遡る教会堂は現存せず、遺構も基礎部分のみがわかる程度にすぎない。

中世以後も、初期キリスト教建築に連なるバシリカは建設され続けたが、内部の構成に関しては、その印象は初期キリスト教建築のものとは本質的に異なるものとなっている。ロマネスク建築の始まりの時代には、身廊と側廊を分離する列柱は角柱に置き換えられるか、あるいはかなり太い円柱になったため、身廊と側廊は完全に分離したかたちとなり、身廊は長方形の箱形空間となった。また、平面的であった身廊壁面には付柱が取り付けられるなどして意匠的に分節され、加えて、しばしば側廊下の2階に階上席が設けられたため、身廊に向かって開かれたギャラリー、トリフォリウムなどが設置された。この結果、時代が下るにつれて壁面の面積は縮小し(つまり開口部が拡大し)、盛期ロマネスクの時代には建物全体が骨組のような構成を持つ教会堂が現れるようになった。

平面は、旧サン・ピエトロ大聖堂のように身廊とアプスの間に設けられた内陣部に袖廊(トランセプト)が構成され、ラテン十字型の平面を採用するものが多かった。初期ロマネスクの段階では、バシリカを基本単位として、西構えから発達した西正面部分と東側の内陣が足し合わされたような平面を持っていたが、790年から799年の間に建設されたザンクト・リキエ聖堂の版画や記録、820年に作成されたザンクト・ガレン修道院の設計図、そしてケルン大聖堂の発掘などによって、8世紀にはすでにこの形式が採用されていたことが知られている[16]。末期ロマネスクおよびゴシック建築の時代になると、ブロックごとに独立していた空間が統合され、内部空間は再び統一されるようになった。

8世紀から15世紀までの西ヨーロッパのバシリカの発展については、ロマネスク建築およびゴシック建築も参照。

東方教会正教会のバシリカ

円蓋式バシリカ

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カスル・イブン・ワルダンの教会堂

キリスト教に取り入れられたバシリカは、経済的にも文化的にも高い水準にあった東方域で洗練され、いくつかの変形パターンを生み出した。アギア・ソフィア大聖堂もそのひとつといって良いが、東ローマ帝国を発祥とするより一般的な形式として、円蓋式バシリカまたは小型ドーム・バシリカと呼ばれるものがある。

現在最もよく残っているこの形式の建築は、8世紀に建設されたテッサロニキのアギア・ソフィア聖堂であるが、円蓋式バシリカの平面形式は6世紀にまで遡り、561年から564年にかけて建設されたカスル・イブン・ワルダン複合建築群の教会堂が、現在確認できる最も古いものである。こ建築はすでに廃墟となっているが、身廊部分の列柱やアーチ上部のドラムとドームの取り合いを確認できるほどには残存している。意匠的にはコンスタンティノポリスの影響よりはシリアの地方様式が色濃く、当のデザインとしてはかなり斬新なものと言える。ミラのアギオス・ニコラオス聖堂は、コイメシス教会堂よりも大きな建築であるが、ほとんど同じ平面を持っている。こちらは現存しているが、9世紀12世紀19世紀にそれぞれ大規模な改修を受けているため、建設の正確な年代は不明である。9世紀初期に建設されたデレアジの教会堂は、現在では見事な廃墟だが、円蓋式バシリカとしては典型的な平面形式を持つ。

クロス・ドーム・バシリカ

テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂の円蓋式バシリカは、これらよりも年代が新しく、8世紀中期に考案された特殊な変形のひとつである。平面は、身廊と側廊を隔てるアーケードが後退し、ドームを支える巨大なピアが強調されているので、ギリシャ十字型に近い身廊をもつ。これはクロス・ドーム・バシリカ(あるいは単にクロス・ドーム)と呼ばれる形式で、この型の教会堂を内接十字型に移行する前段階と考えている研究者もいる(このような形態の漸進論については確証がないため異論もある)。ニカイア(現イズニク)のコイメシス教会堂は、すでに取り壊されてしまったためその正確な建設時期は不明だが、テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂と同じく8世紀初期に建設されたらしい。今世紀はじめの調査によれば、直径6mのドームを頂くクロス・ドーム・バシリカで、身廊と側廊部分は円柱ではなく長方形断面のピアで隔てられていた。この形式につらなる建築として、6世紀から7世紀にかけて建設されたアンカラのハギオス・クレメンス聖堂(現存せず)、コンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミィがある。

西ヨーロッパでも、バシリカ型とドームを融合した聖堂は建設されているが、ビザンティン建築の歴史的脈絡とは関係がない(これについてはルネサンス建築バロック建築を参照)。

ミストラ型

ミストラ型バシリカはバシリカ平面と内接十字平面の混成型で、上層部分は内接十字平面を持っているが、下層はバシリカ平面となっている。ミストラにおいて最初に発見された形式なので、ミストラ型と呼ばれる。内接十字平面の3方向にギャラリーを追加する必要性によって生まれたものであり、バシリカの発展型というよりは、内接十字型の延長線上に位置する。

直接の起原は、740年に開始されたコンスタンティノポリスのアギア・イリニ聖堂の改修工事で、その後、10世紀頃に建設されたパロス島のアギオス・ニコラオス聖堂においても採用された。ミストラの教会建築群においては、10世紀初頭に建設されたブロントキン修道院の中央教会堂パナギア・オディギトリアが内接十字型平面を、アテネ生神女福音大聖堂府主教座聖堂)がバシリカ型平面をそれぞれミストラ型に改修している。15世紀のパンタナサ聖堂は最初からミストラ型として建設された。

出典・脚注

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参考文献

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  • ニコラス・ペヴスナー他著 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会
  • シリル・マンゴー著 飯田喜四郎訳『図説世界建築史 ビザンティン建築』(本の友社)
  • ハンス・エリッヒ・クーバッハ著 飯田喜四郎訳『図説世界建築史 ロマネスク建築』(本の友社)
  • ルイ・グロテッキ著 前川道郎・黒岩俊介訳『図説世界建築史 ゴシック建築』(本の友社)
  • ピエール・グリマル著・北野徹訳『ローマの古代都市』(白水社)
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  1. P.グリマル『ローマの古代都市』p51。
  2. 天井にヴォールトを架ける場合は、両側の壁面がアーチの水平応力にどの程度まで耐えられるかによって、その幅が決定する。水平方向への応力を地面に伝える役割を担うのが控壁であり、これをアーチで飛ばすものが飛び梁(フライング・バットレス)である。
  3. コリントス近郊のレカイオンにあるハギオス・レオニダス聖堂は、全長110m。世界遺産でもあるエジプトアブ・メナのハギオス・メナス聖堂は80mに達する。
  4. 教皇専用の傘のこと。オンブレリーノはイタリア語だが、各国語に対応語がある。オンブレリーノは通常、主祭壇向かって右手に置かれる。
  5. 教皇を象徴する鈴のこと
  6. カトリック教会において特に格式の高いものとされている儀式用の衣装
  7. サン・ピエトロ大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂。この四つにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンツィオ大聖堂)を加えて五大バシリカと称する場合もある。
  8. J.B.W.パーキンズ『図説世界建築史ローマ建築』p15。
  9. J.B.W.パーキンズ『図説世界建築史ローマ建築』p131-p135。
  10. この時はまだ、キリスト教はローマ帝国の国教というわけではない。
  11. C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p36。
  12. ただし、記念礼拝堂などは聖人の記念物のほうが重要であったため、建物の方向はこだわらずに建設された
  13. 初期キリスト教建築において、円柱を用いた場合のスパンは最大3.5m程度である。角柱による大アーチでは、その倍程度のスパンにすることができた。
  14. ただし、鐘ではなく、木製の板を槌で叩いて祈りの時間を呼びかける、ギリシア正教のセマントロンであるか、あるいは大声によるものと考えられる。C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p86。
  15. C.マンゴー『図説世界建築史ビザンティン建築』p55-p59。
  16. N.ペヴスナー『新版ヨーロッパ建築序説』p44-p45。