由布院温泉

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テンプレート:日本の温泉地 由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市湯布院町(旧国豊後国速見郡)にある温泉。すぐそばに聳える由布岳(火山:標高1,584m)の恵みを受けた豊富な湯量を誇る。

概説

かつてはひなびた温泉で団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかったが、それがプラスに転じた。

昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。

泉質

温泉湧出量は全国3位の量である。源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位である。

温泉街

由布院駅から温泉街の方向に延びる通称「由布見通り」や、そこから金鱗湖(きんりんこ)に続く「湯の坪街道」(ゆのつぼかいどう)には、しゃれた雑貨屋やレストランが並び、周辺には各種の美術館が点在する。この付近は近年商店の出店が激しく、2006年1月現在のこの近辺の地価は、人口10万人以上の大分市別府市に次いで、大分県内で3番目となっている。このことからも温泉街のにぎわいの様子が見て取れる。

各宿泊施設はにぎやかな町並みから外れた周辺の川端や林の間、丘の上などに点在している。湯量が豊富で広い範囲で湯が湧くため、旅館が一箇所に集積する必要が少なかったことから、一軒の敷地も比較的広く、町の造りはゆったりとしている。しかも開発規制により高層の巨大旅館・ホテルもなく、田園的な名残を残している。なお、ネオンサインの煌く歓楽街は無い。また、このようなまちづくりに深く関わってきた由布院玉の湯亀の井別荘をはじめとして高級旅館が多い。

このような特徴から、由布院温泉は、数多くの調査で九州の温泉の第1位に選ばれている [1] [2] [3] 。連休には多くの人が訪れ、湯の坪街道には人があふれる。昭和の大規模温泉街に多く見られた歓楽性を極力排しており、女性に特に人気が高い。逆に、そうした客層を目当てにした外部資本の観光・土産物業者が進出してきており、田園的な雰囲気を損ねているとの指摘がある。

共同湯

ファイル:Shitan yu gaikan.jpg
共同浴場・下ん湯

豊富な湯量のおかげで安価な値段で入浴できる共同温泉も多い。金鱗湖脇には一般客も入浴できる簡素な下ん湯(したんゆ)がある。その他に土地の人だけが利用できる共同温泉が各所にある。

特徴

由布岳
駅前から温泉街への方向の正面には由布岳が見え、町のランドマークとなっている。
山間の盆地特有の朝霧が、独特の雰囲気をかもし出す。朝霧は、冬季で気温が低く、放射冷却の起こりやすい晴天の日の朝によく見られる。盆地のすぐ東には標高1160mの倉木山があるため、盆地に朝日が届いて霧が晴れるのは下の写真のように周辺が明るくなってからである。

アクセス

鉄道利用

バス利用

路線バス

高速バス

  • とよのくに号(福岡 - 大分)各停。
  • サンライト号(長崎 - 大分)ノンストップ・各停。
    • 以上の便は湯布院インターで下車。そこから約100m先の「道の駅ゆふいん」停留所より路線バス(ただし本数はかなり少ない)、またはタクシー、約3km。
  • ゆふいん号(福岡 - 湯布院・別府)全便。
  • 空港リムジン(大分空港 - 湯布院)全便。
    • 以上の便は由布院駅前バスセンター(由布院駅より約100mの位置)で下車、すぐ。
  • 九州横断バスくじゅう号(熊本 - 別府)全便。
    • 以上の便は湯布院(由布院駅より約700mの位置・亀の井バス「湯布院営業所」隣接)で下車、すぐ。

高速道路利用

歴史

古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つに数えられていたが、大正時代の行政区画の変更により塚原温泉とともに別府十湯から外れた。その結果、別府温泉は現在の別府八湯の形となった。現在でも、由布院温泉は「別府の奥座敷」とも言われる。

活性化の歩み

油屋が開発
由布院の静かで田園的な温泉地・温泉郷というイメージはかなり前からあった。
由布院を最初に温泉保養地にしたのは、大正時代この地に自分の私的な別荘を作った油屋熊八である。彼は、別府における近代的温泉地づくりの祖で、亀の井ホテル亀の井バスの創設者でもある。彼は由布岳の麓の静かな温泉地が気に入り、金鱗湖の畔に私的な奥座敷として別荘を建て、亀の井ホテルの客や内外から著名人を招き接待をしている。彼はこの別荘(現在の亀の井別荘)の管理を中谷巳次郎に任せ、この後に旅館も数軒建てられた。
大正末期には「ロマン主義」を携えてドイツ留学から帰国した林学博士、本多静六がこの地で『由布院温泉発展策』という講演を行い、ドイツバーデンバーデンに学ぶ、自然を多く取り入れた静かな温泉地づくりを提案している。慧眼といえる。
朝鮮戦争が終わって
由布院には米軍基地(現在は自衛隊)があり、朝鮮戦争の頃は半島帰りの米兵がたくさん居り、また米兵相手の娼婦もたくさん居たという。それが戦争が終わり、あっという間に姿を消した。
その反面、国民的観光レジャーブームとなり、別府、熱海などの温泉地はお金を数える時間もないほど大繁盛したという。
ダム反対運動
由布院は二つの大きな反対運動を経験した。
最初の反対運動は1952年のダム建設反対運動である。この時の計画とは、由布院盆地に巨大なダムを作り、出来たダム湖畔を観光地化するという構想であった。地元には莫大な補償金も支払われる一石三鳥の構想とあって、町行政も議会も推進姿勢であった。
しかし、この構想に対して町の青年団は強力な反対運動を行う。結果、翌年にダム建設計画は白紙撤回される。町を二分した議論を糧に、主体的に地域の将来を考えようという雰囲気が地域に根付いた。
湯布院町へ
昭和20年代後半、由布院町は深刻な財政危機にあった。そこで当時、多くの湯治客で賑わい、財政の豊かであった湯平村と、1955年(昭和30年)に昭和の大合併の一つとして合併し、湯布院町が誕生した。先の反対運動のリーダーで青年団長であった医師・岩男穎一が初代町長に当選する。
岩男町長は「産業・温泉・自然の山野の三つの融合」を掲げ、健全な保養温泉地づくりへと邁進した。戦後の高度成長が始まろうとして、「観光開発」により将来の明るい夢がひらけると地方の多くの人が信じていたこの時期、温泉地の歓楽街化に反対し、由布院の自然や環境を守ろうと町をあげて取り組んだのである。
岩男は20年近く町長を務めた。なお、岩男は当時農業協同組合組合長も兼務しており、中谷らの欧州研修旅行費用(後述)は農業協同組合から借りた話はあまりにも有名。
人材を得る
岩男の用意した舞台で育った若者が居た。
中谷健太郎溝口薫平である。中谷は東宝撮影所で映画監督となるべく研鑽を積んでいたが、昭和37年、父親の急逝により帰郷、亀の井別荘を継ぐ。当時28歳。また、溝口は博物館に勤めていたことがあり、自然に詳しく、旅館・玉の湯の経営に当たっていた。こうした個性豊かなリーダーを得たことが、由布院の現在の姿を築く上で大いなるプラスとなった。
時期も恵まれていた。中谷帰郷の2年後の1964年(昭和39年)には東京オリンピックの開催、新幹線の開通、長崎までの九州横断道路(国際観光道路)ができた。
ゴルフ場計画に反対
二つ目の反対運動は1970年(昭和45年)に提示された大手の開発業者によるゴルフ場建設計画への反対運動である。
当時、ゴルフ場建設が計画されていたのは猪の瀬戸湿原という、別府から由布院への入り口に当たり、貫重な自然の動植物の宝庫と言われていた場所である。当初、ゴルフ場建設反対運動は自然保護運動として始められた。中谷・溝口の二人は既に観光協会の中心的存在になっており、「守る会」の事務局も観光協会内に置いた。最終的には、県・町を巻き込むことに成功した。環境を切り開いて施設を作り、拡張していくのが普通の観光業者が環境を守る運動とは…と、マスコミにずいぶんと取り上げられたという。なお、猪の瀬戸は行政区域としては別府市に属し、当時、溝口が環境庁の自然公園指導員をしていた。1973年(昭和48年)にはサファリパーク進出計画があり、これも阻止。
欧州でつかんだもの
1971年(昭和46年)6月、「明日の由布院を考える会」の中心メンバーだった志手、溝口、中谷の三人の青年は、欧州へ50日間に及ぶ町づくり視察研修旅行に旅立つ。そして、西ドイツ(当時)の保養温泉地構想を学んだ。先に西ドイツを視察し、理想の保養温泉地を頭に描いていた岩男町長はじめ関係者の大きな期待がかかっていた。欧州でつかんだもの、それはその後の由布院のありかたを決定付けた。
「守る会」から「考える会」へ
反開発の思想をバックボーンとして、「反対」から「地域づくり」へと舵を切った。1971年(昭和46年)のことである。
地震の危機をばねに〜アイデアの勝利
1975年(昭和50年)4月に試練が訪れた。
地震が由布院を急襲、被害は大きく、由布院内のみならず九州横断道をはじめとした主要道路も壊滅的な打撃を受けた。「由布院は壊滅した」とのうわさが駆け巡った。
ここで「湯布院(本来は由布院と表記すべき)は健在だ」と全国にPRするため、観光協会では辻馬車の運行を決める。震災の翌月には対馬に辻馬車の馬を買い付けに行き、7月には運行開始。田園風景ともマッチし、辻馬車は大評判をとった。
手作りイベントの時代〜知識人・文化人を引き付ける
さらに、「手づくり」を合い言葉に「ゆふいん音楽祭」同年8月開始、「午喰い絶叫大会」10月開始、「湯布院映画祭」翌年8月開始と、イベントを立ち上げた。芸能人、知識人等都会の人間も巻き込みながら、「芸術の町」由布院の存在を全国的に知らしめることに役立った。今では由布院名物として全国に知られている主な催しの多くは、この時期に始まったものである。
メディア・外部の力の活用
由布院の「まちづくり」運動が実を結んだ要因として、「まちづくり」の過程そのものがメディアによく取り上げられたことも挙げられる。
観光協会・旅館組合が合同で作っている湯布院(本来は由布院と表記すべき)観光総合事務所の事務局長を公募したときも、その伝説的な選抜はマスコミで紹介された。もちろん観光地情報のみならず、「まちづくり活動」そのものも映像つきでよく紹介されている。例えば、NHKの『プロジェクトX』などがそれである。
1981年(昭和56年)11月、由布院温泉観光協会に平松大分県知事から「一村一品運動奨励賞」が贈られた。同年、湯布院町は環境庁の国民保健温泉地指定。
「リゾート」「開発」に抗して〜成長管理
1987年(昭和62年)、総合保養地域整備法(いわゆる「リゾート法」)が公布された。リゾート開発の波は由布院にも押し寄せた。農村景観を残しながら温泉保養地としての決して無理をしない由布院にとって、外部資本による用地の物色は地価の高騰を招くやっかいな問題であった。
これに対抗し、湯布院町は1990年(平成2年)9月に「潤いのあるまちづくり条例」を制定。「成長の管理」や「地域ごとの展開の重視」が明記されている。
成長管理を模索する
ただ、福岡・北九州都市圏からを初めとして九州一円からの日帰り客も多く、加えて九州を代表する観光地の一つとして観光ツアーの立ち寄りも非常に多い。それを見込んだ土産物店・キャラクターグッズ店をはじめとした地元外資本も多数入り込んでいる。2004年に発生した温泉偽装問題では、源泉利用許可を取っていない旅館および源泉の無断開発を行った旅館があったと報じられた。マイカーや観光バスが押し寄せ、メインストリートの「湯の坪街道」は賑わい以上のものがある。もはや、かつての田園的な由布院の姿はないとの厳しい見方もある。真にやすらぐ温泉郷とは何か、模索は続いている。

「由布院」と「湯布院」

この温泉の本来の名称は「由布院温泉」である。「湯布院」という名称は、1955年(昭和30年)の昭和の大合併の折に、旧湯平村と旧由布院町が合併した際に作られた町名である。それ以来、特に旅行代理店における案内パンフレットや観光ガイドにおいて、温泉名も「湯布院温泉」と書かれることが多くなった。さらに、由布院温泉内にも「湯布院」を冠している宿泊施設が存在する。しかし、実際には湯布院町内(現在は由布市湯布院町)には「湯布院温泉」という名の温泉は存在しない(湯布院町内にあるのは、由布院温泉、湯平温泉、塚原温泉という各々別個の温泉である)。

このような名称をめぐる混乱については、1959年(昭和34年)5月4日に、由布院温泉が湯平温泉とともに国民保養温泉地に指定された際の名称が、湯布院町の温泉という意で「湯布院温泉」とされたことが、「湯布院温泉」の表記を浸透を加速させることになったという説テンプレート:誰2がある。しかしながら、それはきっかけの一つに過ぎず、「由布院」と「湯布院」との混同、すり替えをただすべき機会はたくさんあったテンプレート:要出典にもかかわらず、正確な使い分けがなされてこなかったのが実際のところである。

現在では、知名度の向上に伴い、「由布院」と「湯布院」の使い分けについての理解もある程度進んでいるテンプレート:要出典が、その一方で、平成の市町村合併によって旧湯布院町が「由布市湯布院町」となったために、由布市の中に旧湯布院町があり、旧湯布院町の中に由布院温泉があることになり、状況は一段と複雑になっている。また、最近は、「湯布院温泉」や「湯布院」の代わりに、「ゆふいん温泉」「ゆふいん」「Yufuin」というひらがなやアルファベットを用いた表記が用いられることが多くなったが(とりわけ由布院内においてなされている)、この表記は「由布院」なのか「湯布院」なのかという区別を一層曖昧にする結果を生んでいる。

脚注

  1. この夏行きたい温泉地、1位「湯布院」・2位「黒川」・3位「登別」 - ライフスタイル - nikkei BPnet
  2. JAL国内線 - 九州温泉ランキング(JAL九州キャンペーン2007)
  3. 温泉特集 九州の人気温泉ランキング Best3 - goo 冬特集2006-2007

関連項目

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外部リンク

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