大垣駅
大垣駅(おおがきえき)は、岐阜県大垣市高屋町一丁目にある、東海旅客鉄道(JR東海)・樽見鉄道・養老鉄道の駅である。
目次
乗り入れ路線
JR東海の東海道本線、樽見鉄道の樽見線、養老鉄道の養老線が乗り入れている。JR東海道本線に関しては本線と美濃赤坂支線との分岐駅となっている。樽見線は当駅を起点としている。樽見線は1984年までは東海道本線ともども日本国有鉄道(国鉄)の路線であり、樽見鉄道へ転換されて以降も同線の駅は国鉄(→JR)との共同使用駅となっている。
以下、東海道本線美濃赤坂支線については、案内上の名称である「美濃赤坂線」と記述する。
駅構造
JR東海・樽見鉄道
テンプレート:駅情報 地上駅。単式ホーム1面1線(1番線)と島式ホーム2面4線(2・4・5・7番線)、および4番線ホームの西側にある切欠きホーム1面1線(3番線)、5番線ホームの東側に作られた切欠きホーム1面1線(6番線)、合計3面7線のホームを持つ。
2・4番線が東海道線の本線、6番線が樽見線の本線となっている。この他のホームがある4線は副本線で、7番線の北側にもホームのない副本線が1本、その北側に側線3線が引かれている。また構内東側には保線基地も置かれている。 当駅のアナウンス(駅員)は、東海道線上りを「岐阜・名古屋方面(上り 名古屋方面と放送される場合あり)」、下りを「垂井・関ヶ原方面」、美濃赤坂線を「荒尾・美濃赤坂(美濃赤坂は省略の場合あり)方面」と放送される。
JR東海と樽見鉄道は共同の橋上駅舎を使用する。駅ビルは6階建(床面積約13,000m2)で商業施設「アピオ」が入居しており、2階部分に改札口が設けられている。東海道本線(美濃赤坂支線を除く)利用時にTOICAおよびTOICAと相互利用可能なICカード(対象カードはTOICAを参照)が利用できる。
JR東海の駅は駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、垂井 - 醒ヶ井間の各駅および美濃赤坂支線の2駅(荒尾駅・美濃赤坂駅)を管理している。みどりの窓口(JR全線きっぷ売り場)、自動券売機、自動精算機(改札内)が設置されており、JR東海ツアーズの支店もある。
ホーム | 路線 | 方向 | 行先 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:ColorJR東海道本線 | 下り | 米原方面[1] | 待避・始発列車 |
上り | 岐阜・名古屋方面[1] | 当駅始発のみ | ||
テンプレート:ColorJR美濃赤坂線 | - | 美濃赤坂方面[1] | 一部のみ | |
2 | テンプレート:ColorJR東海道本線 | 下り | 米原方面 | 特急「しらさぎ」「ひだ」含む |
テンプレート:ColorJR美濃赤坂線 | - | 美濃赤坂方面 | 一部のみ | |
3 | テンプレート:ColorJR美濃赤坂線 | - | 美濃赤坂方面 | |
4・5 | テンプレート:ColorJR東海道本線 | 上り | 岐阜・名古屋方面 | 特急「しらさぎ」「ひだ」は4番線 |
6・7 | テンプレート:Color樽見鉄道樽見線 | - | 本巣・樽見方面 | 7番線は1日2本のみ |
ダイヤ・ホーム
2013年現在でも多くの列車が起終点とする名古屋都市圏の西端に位置するターミナル駅である。日中は快速を中心に豊橋・名古屋方面への列車の充実が図られている。また1日3往復のみであるが、大阪・京都方面からの西日本旅客鉄道(JR西日本)の列車も当駅を起終点とする[2]。
原則として、当駅を跨ぐ東海道線の下り列車は2番線、上り列車は4番線を使用する。
1999年12月3日以前は快速系統を含む大半の普通列車が当駅を起終点としていた。1999年12月4日のダイヤ改正で快速系統を除く大半の普通列車の起終点が岐阜駅に変更された。但し、早朝・深夜帯の普通列車は当駅起終点になっている。7番線の西側部分のホームは南北自由通路の工事に伴い6番線から発着していた樽見鉄道のホーム使用が一時停止され、同鉄道の列車発着に使用することになったため、樽見鉄道車両の出入口高さに合わせて高さを切り下げ、簡単な柵で仕切られている。樽見鉄道の切符売り場として使用される事務所(営業時間8:00 - 16:00)も設置された。南北自由通路の完成ならびに旧自由通路の撤去に伴い2010年2月末に樽見鉄道のホームは再び6番線に戻った。
樽見鉄道の改札ではTOICAの処理はできず、当駅までTOICAで乗車し樽見鉄道に乗り換える場合は一旦改札口を出て樽見鉄道の乗車券を自動券売機(JR東海の券売機と共用)で購入するか、乗車駅からの運賃を現金で支払い証明書を受け取り次回のTOICA使用時に入場状態を解除してもらう必要がある。樽見鉄道を無人駅から乗車し、当駅で降車する場合は車内で運賃を精算した上で運転士から出場証を受け取り、改札口で駅員に渡すか自動改札機に入れることになる(JRへの乗り換えの際は車掌に見せて切符を購入する)。
その他
1969年10月のダイヤ改正以来、2009年3月まで「大垣夜行」の愛称で知名度のあった、東京からの夜行普通列車(1996年より快速「ムーンライトながら」、2009年4月より臨時快速化)の終着駅であった。青春18きっぷ利用可能期間の早朝には、「ムーンライトながら」から米原方面へ乗り継ぐ旅行者で混雑し、改札前や階段には「構内10km/h以下」と構内の乗客に向けて注意を喚起する看板が掲げられている。
当駅ではホーム係員が発車ベル扱い及びブザー式出発指示合図を行うが、JR東海の中京圏の駅で見られる車掌操作用の発車ベルスイッチと従来の駅員操作用ベルが共存する駅である。
東海道本線は美濃赤坂駅への支線である通称「美濃赤坂線」および下り本線と下り垂井駅経由の別線である「垂井線」との分岐駅であるが、実際の分岐は大垣 - 垂井間の南荒尾信号場である。また、垂井方面にJR東海の車両基地(大垣車両区、かつての大垣電車区・大垣機関区)がある。
2008年現在、当駅を跨いで運行される普通列車・区間快速・快速・新快速・特別快速の運転士および車掌は、ごく一部の例外を除き当駅で交代する。
- Oogaki5.jpg
樽見鉄道線ホーム(6・7番線)
- Oogaki6.jpg
1番線 停車しているのは当駅止まりの「ムーンライトながら」
- Oogaki.jpg
JRの1番線の階段を上りきったところには「構内10km/h以下」という注意書きがある
養老鉄道
養老鉄道は独立した地上駅舎を持つが、ホームは中間改札を挟んでつながっている。頭端式ホーム1面2線を有する地上駅で、桑名方面から揖斐方面へはスイッチバックとなる。だが渡り線が片方向であるため、1番線は桑名方面からの出入りしか対応していない。
ダイヤ上では当駅を跨いで直通運転する営業列車はなく、それぞれの方面へは乗り換えが必要である[3]。
JRの1番線西側に乗換改札口があり、JR自動改札機(TOICA対応)が設置されている。ただし券売機はないので定期券等に限られる。この改札口は養老鉄道の改札口とは独立しており、それぞれの改札口でそれぞれの切符を処理する必要がある。
また、出口付近には精算券の券売機がある。無人駅から乗車した場合はこの券売機で精算券を購入し、乗車駅で発行された乗車票と一緒に改札係員に渡して出場することになる。
ホーム | 路線 | 方向 | 行先 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:Color養老線 | 上り | 養老・多度・桑名方面 | |
2 | テンプレート:Color養老線 | 下り | 池野・揖斐方面 |
- KT-OgakiStation-1.jpg
養老鉄道ホーム内にある看板
- Oogaki4.jpg
養老鉄道ホームは1面2線で、「人」の字状に線路が分かれていく
連絡改札口
JR大垣駅の1番線、米原・美濃赤坂方の養老鉄道への乗換通路上には連絡改札口が設置されている。この連絡改札口は2段階で設置されていて、JR東海側は自動改札機(無人改札)、養老鉄道側は有人改札口になっている。この連絡改札口には自動券売機、自動精算機等が設置されていない為、JR東海から養老鉄道へ乗り継ぐ場合で、乗車券の乗り越し精算が必要な場合、TOICA等のIC乗車券利用の場合でチャージが不足している場合、複数枚の乗車券で乗車の場合でそれが自動改札機に対応していない場合、養老鉄道の乗車券を所持していない場合や、養老鉄道からJR東海へ乗り継ぐ場合で、JR東海の乗車券を所持していない場合やJR東海の乗車券で青春18きっぷ等の自動改札機に対応していない乗車券を所持している場合はこの連絡改札口が利用出来ない為、駅ビルアピオ内2階にあるJR東海の改札口へ向かう必要がある。
利用状況
JR東海・樽見鉄道
「大垣市統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。
年度 | JR東海 | 樽見鉄道 |
---|---|---|
2002年 | 16,419 | 702 |
2003年 | 16,402 | 685 |
2004年 | 16,240 | 692 |
2005年 | 16,528 | 663 |
2006年 | 16,305 | 745 |
2007年 | 16,572 | 626 |
2008年 | 16,619 | 631 |
2009年 | 16,330 | 594 |
2010年 | 16,368 | 602 |
2011年 | 16,455 | 627 |
2012年 | 16,531 | 651 |
養老鉄道
「大垣市統計書」によると、1日の平均乗降人員は以下の通りである。
- 2000年度 - 10,340人
- 2003年度 - 8,997人
- 2005年度 - 8,911人
- 2008年度 - 8,790人
- 2010年度 - 8,469人
- 2012年度 - 7,789人
年度 | 当駅分輸送実績(乗車人員):人/年度 | 乗降人員調査結果 人/日 |
特記事項 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
通勤定期 | 通学定期 | 定期外 | 合 計 | 調査日 | 調査結果 | ||
1956年(昭和31年) | ←←←← | 401,399 | |||||
1957年(昭和32年) | ←←←← | 415,706 | |||||
1958年(昭和33年) | ←←←← | 413,524 | |||||
1959年(昭和34年) | ←←←← | 373,211 | |||||
1960年(昭和35年) | ←←←← | 452,205 | |||||
1961年(昭和36年) | ←←←← | 499,633 | |||||
1962年(昭和37年) | ←←←← | 514,044 | |||||
1963年(昭和38年) | ←←←← | 503,606 | |||||
1964年(昭和39年) | ←←←← | 510,246 | |||||
1965年(昭和40年) | ←←←← | 474,307 | |||||
1966年(昭和41年) | ←←←← | 444,428 | |||||
1967年(昭和42年) | ←←←← | 462,911 | |||||
1968年(昭和43年) | ←←←← | 412,368 | |||||
1969年(昭和44年) | ←←←← | 418,225 | |||||
1970年(昭和45年) | ←←←← | 401,000 | |||||
1971年(昭和46年) | ←←←← | 376,000 | |||||
1972年(昭和47年) | ←←←← | 354,000 | |||||
1973年(昭和48年) | ←←←← | ||||||
1974年(昭和49年) | ←←←← | ||||||
1975年(昭和50年) | ←←←← | ||||||
1976年(昭和51年) | ←←←← | ||||||
1977年(昭和52年) | ←←←← | ||||||
1978年(昭和53年) | ←←←← | ||||||
1979年(昭和54年) | ←←←← | ||||||
1980年(昭和55年) | ←←←← | ||||||
1981年(昭和56年) | ←←←← | ||||||
1982年(昭和57年) | ←←←← | 11月16日 | 11,564 | ||||
1983年(昭和58年) | ←←←← | 11月8日 | 11,289 | ||||
1984年(昭和59年) | ←←←← | 11月6日 | 11,139 | ||||
1985年(昭和60年) | ←←←← | 11月12日 | 10,982 | ||||
1986年(昭和61年) | ←←←← | 11月11日 | 10,914 | ||||
1987年(昭和62年) | ←←←← | 11月10日 | 11,211 | ||||
1988年(昭和63年) | ←←←← | 11月8日 | 12,941 | ||||
1989年(平成元年) | ←←←← | 11月14日 | 11,366 | ||||
1990年(平成2年) | ←←←← | 11月6日 | 12,618 | ||||
1991年(平成3年) | ←←←← | ||||||
1992年(平成4年) | ←←←← | 11月10日 | 11,774 | ||||
1993年(平成5年) | ←←←← | ||||||
1994年(平成6年) | ←←←← | ||||||
1995年(平成7年) | ←←←← | 12月5日 | 11,711 | ||||
1996年(平成8年) | ←←←← | ||||||
1997年(平成9年) | ←←←← | ||||||
1998年(平成10年) | ←←←← | ||||||
1999年(平成11年) | ←←←← | ||||||
2000年(平成12年) | ←←←← | 11月7日 | 10,340 | ||||
2001年(平成13年) | ←←←← | ||||||
2002年(平成14年) | ←←←← | ||||||
2003年(平成15年) | ←←←← | 11月11日 | 8,997 | ||||
2004年(平成16年) | ←←←← | ||||||
2005年(平成17年) | ←←←← | 11月8日 | 8,911 | ||||
2006年(平成18年) | ←←←← | ||||||
2007年(平成19年) | ←←←← | ||||||
2008年(平成20年) | ←←←← | 11月18日 | 8,790 | ||||
2009年(平成21年) | ←←←← |
駅周辺
- 大垣城
- 大垣城郷土博物館
- 大垣城ホール
- 常葉神社
- 大垣市役所
- 大垣市守屋多々志美術館
- 大垣法務合同庁舎
- 岐阜地方裁判所大垣支部
- 岐阜家庭裁判所大垣支部
- 大垣簡易裁判所
- 大垣税務署
- 大垣郵便局
- ゆうちょ銀行大垣店
- 大垣駅前郵便局
- 大垣藤江郵便局
- 大垣室町郵便局
- 大垣林町郵便局
- ソフトピアジャパン - バス連絡。
- エフエム岐阜 - 同上。
- 大垣車両区 - JR東海の車両基地。
- ヤナゲン大垣本店 - 百貨店。
- アクアウォーク大垣
- アピタ大垣店
- 三菱東京UFJ銀行大垣支店 - 旧UFJ銀行の店舗。
- 大垣共立銀行大垣駅前支店 - 本店は駅の南1kmにある[4]。
- 大垣競輪場 - 無料送迎バス連絡。
- 大垣日本大学高等学校
- 大垣市立北中学校
- 大垣市立北小学校
- 大垣市北公園野球場
- イオンタウン大垣
- ハローワーク大垣
- 大垣平野学園
- 大垣文化総合専門学校
駅周辺の整備計画状況
人口およそ40万人(後に30万人)の大型中核都市となるはずだった合併構想が破綻したために、駅の高架化計画が不透明になっている。
当駅北口周辺では、オーミケンシの工場内の遊休地を利用し、岐阜県内のサティでは初のシネマコンプレックス型[5]となる大垣サティを建設する予定があったものの、南口の商店街や当時駅近くにあった東宝映画館[6]、グランドタマコシ[7]などの反対運動が起こり、運営会社のマイカルそのものも経営不振に陥ったことで中止となった。これにより、サティと共同で計画していた北口ロータリーの整備計画も棚上げとなり、その後もこの問題が長引いたために、整備は行われるものの北口ロータリーの整備面積を縮小する予定となった。2008年1月頃に南北自由通路の付け替え[8]に関する看板が立てられ、看板には北口完成イメージイラストが描かれているとともに、2008年度に着工した工事の状況を携帯サイトからもわかるようにとQRコードも掲載されていた。2009年9月19日に南北自由通路が開通した(愛称『水都ブリッジ』)。北口ロータリーは2012年4月より歩道部分のみ使用開始、9月16日に自噴水を活用した親水広場『水都北口 オアシス(名称は公募により決定)』の運営開始により、全面完成となった。
縮小したオーミケンシ大垣工場の一部敷地利用については、ユニー(アピタ)が進出することになり、建設は2006年9月に大垣市からの許可が下り、2007年1月に着工、アクアウォーク大垣として同年10月23日にプレオープン、同年10月27日にグランドオープンした。そして2009年9月19日、『水都ブリッジ』の開通と同時に当駅北口とアクアウォーク大垣を連絡する高架通路『アクアブリッジ』が開通した。徳洲会病院の建設は2006年7月に着工、2008年4月1日に大垣徳洲会病院として開院した[9]。
なお、残った敷地でプリント基板製造を行っていたオーミケンシ大垣EP事業場は、2009年9月に閉鎖された。2012年09月にオーミケンシが、跡地約6万m2を大手住宅メーカーの積水ハウス、パナホームの計2社に譲渡すると発表した。2社は分譲住宅用地として開発を計画している。
さらに、オーミケンシ跡地南部には2014年2月に「大垣駅北ショッピングモール(仮称)」の整備計画が進んでいることが明らかとなった。岐阜県初出店となるディスカウントストアの大黒天物産(本社・岡山県倉敷市)、家電量販店大手のヤマダ電機(本社・群馬県高崎市)、衣料品販売のAOKI(本社・神奈川県横浜市)、スポーツクラブの東祥(本社・愛知県安城市)の4社がそれぞれ出店する。2014年4月より着工をはじめ、8月以降に順次オープンとなる見通し[10]。
バス路線
以前はイオンタウン大垣まで無料送迎バスが運行されていたが、その後日中名阪近鉄バスが乗り入れるようになったため設定はなくなっている[11]。
歴史
- 1884年(明治17年)5月25日 - 官設鉄道(のちの国鉄・JR)大垣 - 関ヶ原間延伸時に官設鉄道大垣駅が開業。一般駅。
- 1887年(明治20年)1月21日 - 官設鉄道が当駅から加納駅(現・岐阜駅)まで延伸。途中駅となる。
- 1891年(明治24年)10月28日 - 濃尾地震により本屋全壊[12][13]
- 1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
- 1913年(大正2年)7月31日 - 養老鉄道(初代・後の近鉄養老線)養老 - 池野間の開通時に同線の大垣駅が開業。
- 1922年(大正11年)6月13日 - 会社合併により、養老鉄道(初代)の駅は揖斐川電気(現・イビデン)が継承。
- 1928年(昭和3年)4月6日 - 揖斐川電気の鉄道事業分社化により、同社の駅は養老電気鉄道が継承。
- 1929年(昭和4年)10月1日 - 会社合併により、養老電気鉄道の駅は伊勢電気鉄道が継承。
- 1936年(昭和11年)5月20日 - 伊勢電気鉄道が養老線を分社し、同社の駅を養老電鉄が継承。
- 1940年(昭和15年)8月1日 - 会社合併により、養老電鉄の駅は参宮急行電鉄が継承。
- 1941年(昭和16年)3月15日 - 大阪電気軌道と参宮急行電鉄が合併し関西急行鉄道発足。参急の駅も関西急行鉄道の駅となる。
- 1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が近畿日本鉄道に改組され、関急の駅も近畿日本鉄道の駅となる。
- 1956年(昭和31年)3月20日 - 国鉄樽見線が大垣 - 谷汲口間で開業。
- 1984年(昭和59年)1月10日 - 貨物の取扱を廃止。
- 1985年(昭和60年)12月7日 - 橋上駅化。これに伴い、それまで北改札口と南改札口とを結んでいた跨線橋が、北口と駅本屋とを結ぶ自由通路となり、また駅前南側のロータリーも作り直された。それまでの北口改札の建物はPIER BURGERなど数回店舗が入居するが、やがて倉庫となる。
- 1986年(昭和61年)3月19日 - 駅ビル「アピオ」開業。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅は東海旅客鉄道(JR東海)が継承。
- 2006年(平成18年)11月25日 - JR東海にTOICA導入。
- 2007年(平成19年)10月1日 - 近鉄が養老線を分社し、同社の駅を養老鉄道(2代目)が継承。
- 2009年(平成21年)9月19日 - バリアフリー設備を備えた新しい南北自由通路が開通した(愛称『水都ブリッジ』)。これに伴い旧自由通路と旧北口解体。ただし旧北口前のロータリーは残る。
- 2012年(平成24年)9月16日 - 北口広場が全面完成。
隣の駅
- 東海旅客鉄道
- 東海道本線(上り本線・垂井線)
- テンプレート:Colorホームライナー・テンプレート:Color特別快速・テンプレート:Color新快速・テンプレート:Color快速・テンプレート:Color区間快速・テンプレート:Color普通(上り優等列車・貨物列車も経由)
- 東海道本線(下り本線)
- (下り優等列車・貨物列車のみ経由)
- 穂積駅 - 大垣駅 - (南荒尾信号場) → 関ヶ原駅
- (下り優等列車・貨物列車のみ経由)
- 東海道本線(美濃赤坂支線、全列車が各駅に停車)
- 大垣駅 - (南荒尾信号場) - 荒尾駅
- 樽見鉄道
- 樽見線
- 大垣駅 - 東大垣駅
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:東海道本線 (JR東海) テンプレート:養老鉄道養老線
テンプレート:樽見鉄道樽見線- ↑ 1.0 1.1 1.2 駅構内の案内表記。これらはJR東海公式サイトの各駅の時刻表で参照可能(駅掲示用時刻表のPDFが使われているため。2011年1月現在)。ここでは米原方面と美濃赤坂線は一まとめで「米原・美濃赤坂方面」になっているが、改札口の発車標でも同様の措置となっている。
- ↑ 旧国鉄時代は現行ダイヤより多く設定されていた。
- ↑ 2007年1月現在、桑名 - 揖斐間の全区間を直通する列車は、回送列車・近畿日本鉄道塩浜検修車庫で全般検査を受ける車両・電気検測車モワ24系「はかるくん」のみである。
- ↑ 同行のATMは駅構内に2箇所、ヤナゲン店舗外に1箇所、北口の林町出張所とアクアウォーク内(アクアウォーク大垣出張所)にも設置されている。
- ↑ 2005年に開業したロックシティ大垣ショッピングセンター内のコロナワールドに存在する。
- ↑ その後閉館した。
- ↑ その後倒産し、受け皿会社が平和堂東海となった。
- ↑ かつての自由通路は幅が狭い上に階段が多く、バリアフリー対応が困難な状況であった。
- ↑ 元ゴルフ練習場の場所である。
- ↑ 岐阜新聞2014年2月21日
- ↑ 詳細は名阪近鉄バス、ロックシティ大垣を参照。
- ↑ 『日本国有鉄道百年史 2』231頁
- ↑ 「震災報告(鉄道庁)」『官報』1891年11月2日(国立国会図書館デジタル化資料)