有川貞昌
テンプレート:ActorActress 有川 貞昌(ありかわ さだまさ、1925年(大正14年)6月17日 - 2005年(平成17年)9月22日)は、東京府出身の撮影技師、特撮監督。日本映画撮影監督協会会員。通り名は有職読みの「ていしょう」。
来歴
1943年(昭和18年)、日比谷の映画館で東宝映画『南海の花束』(1942年、阿部豊監督)を観て、四発飛行艇「川西大艇」に魅せられ、四国の海軍航空隊に入隊。飛行機パイロットの訓練を受ける。
1944年(昭和19年)、台湾南部の航空隊に配属され、雷撃機搭乗隊員として、対潜哨戒作戦に従事する。この航空隊での映画会で、『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を鑑賞し、出来栄えの素晴らしさに感動する。
1945年(昭和20年)、内地で敗戦を迎える。本人によれば、「幾度か死地を脱した末のことであった」という。同年8月、縁故で砧の東宝撮影所に入所。「技術部録音部」に配属される。
1948年(昭和23年)、前々年からの東宝争議で、東宝撮影所は映画製作が止まってしまう。学生野球の経験があることから、有川は若い女優らと地方へ野球の試合に向かわされ、缶詰会社の社員と試合をして、貰って帰った缶詰を組合に供出するというような日々を送った。
撮影所が政治闘争の場となり、映画製作どころか組合の言いなりのような状態に「とにかく嫌になった」という有川は、同年6月に東宝撮影所を退社。この前に、戦時中に観て感激した、『雷撃隊出動』を撮影した円谷英二監督を訪ねたところ、飛行機の話題で意気投合。誘われて円谷が自宅敷地に設置した「円谷特殊技術研究所」の撮影助手となる。この「円谷特殊技術研究所」には、利光貞三、富岡素敬、山本久蔵、樺島幸男、荒木秀三郎、真野田陽一らがいた。
1950年(昭和25年)、東宝に復帰し、正式に専属契約を結ぶ。
この年、GHQによる公職追放でフリーランスの身となっていた円谷が、東宝撮影所内に「円谷特殊技術研究所」を設置。有川は研究所員として加わり、合成撮影などを請け負い、『東宝マーク』の作成も行う。
1953年(昭和28年)、円谷監督が嘱託として東宝に復帰。これに伴い、同じく撮影技師の富岡素敬、真野田陽一と共に東宝砧撮影所のキャメラマンとなる。
同年、『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で円谷組特撮キャメラマンを務める。
1954年(昭和29年)、怪獣映画『ゴジラ』で特撮パートのキャメラマンを務める。以後、数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけ、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人となる。円谷の下では、引き(ロング画面)のキャメラマンを担当。また、円谷監督の代理で本多猪四郎監督との連絡役も務めた。
1957年(昭和32年)、『地球防衛軍』(本多猪四郎監督)のタイトルロールで、初めて「撮影」としてクレジット記名される。
1962年(昭和37年)、『紅の空』(谷口千吉監督)で円谷監督を補佐し、特技演出を務める。
1963年(昭和38年)、円谷監督が「株式会社円谷特技プロダクション」を創設。円谷監督に請われ、同社とフジテレビとの番組企画『WOO』に企画参加する。
1965年(昭和40年)、「円谷特技プロダクション」製作のテレビ映画『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」「1/8計画」で特技監督デビュー。以後、円谷特技プロのテレビ作品で腕を振るう。
1966年(昭和41年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)では、円谷に代わって実質的に特撮演出のほとんどを務める。
1967年(昭和42年)、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、正式に東宝の2代目特技監督の称号を得る。
1968年(昭和43年)、『円谷特技プロダクション』が『円谷プロダクション』と社名変更。登記上の取締役に就任(名義のみ)。
1969年(昭和44年)、円谷とともに大阪万博の『三菱未来館』の「サークロマ立体映像」を制作。
1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。「サークロマ立体映像」の仕上げを行う。円谷の死去直後にクランクインした『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(本多猪四郎監督)で特技監督(クレジットは特殊技術)を担当、これが東宝での最後の特撮劇場作品となる。
1971年(昭和46年)、東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。このことについて、「オヤジ(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。この年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。
1972年(昭和47年)、東宝に請われてTVドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET)の特撮を担当。TVの低予算下での、ミニチュアなど自作しながらの「手作り特撮」が、大いに勉強になったと語っている。
1977年(昭和52年)、元東宝の造形スタッフの村瀬継蔵に招かれ、香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で特技監督を務める。
1979年(昭和54年)、『西遊記II』(日本テレビ)で、プロデューサーを務める。
2005年(平成17年)9月22日、肺癌のため死去。テンプレート:没年齢。告別式は代々幡斎場で行われた。
晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たった。
円谷英二との出会い
有川は戦時中に観た『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、山本嘉次郎監督)や『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を観て感激し、パイロットを目指して海軍航空隊に入隊したが、これらの映像を記録フィルムと信じて疑わなかったという。1947年(昭和22年)に東宝を辞めた際に、円谷英二監督が有川と同じ理由で東宝を辞め、独立したと聞いて、人[1] から聞いた住所をあてに個人的に自宅を訪問した。
映画が記録フィルムであると信じていた有川は円谷に、「『雷撃隊出動』の現場担当者は、どこの部隊の人ですか」と聞いたのであるが、円谷に「あれは映画で、飛行機は模型だよ」と言われてびっくりしたという。このときは特撮の知識など何もなかったが、円谷監督自身三等飛行士であることから、夜中まで飛行機の話題で話し込むこととなった。
この突然の訪問の帰り際に、円谷監督に「どうだ、日本ではもう飛行機(戦闘機)は飛ばせられんが映画ならできる。君も一緒にやらんか?」と言われた有川は、夢中で「はい!」と答えた。これがその後25年にわたる、円谷監督と特撮との歴史の始まりだったと有川は述懐している。
人物・エピソード
円谷英二の愛弟子として薫陶を受け、円谷を「オヤジ」と呼んで慕った。意見の違いでぶつかり合うこともあったが、「そこは信頼関係ですから、根に持つこともありませんでしたね」と語っている。師と仰ぐ円谷と同じく、元は飛行機乗り志望であり、『空の大怪獣ラドン』(本多猪四郎監督)を始め、多くの映画で特撮用の空中撮影のために、円谷と二人でセスナの操縦桿を握っている。
前年の『白夫人の妖恋』(豊田四郎監督)に次いで、日本初の総天然色フィルムによる特撮怪獣映画となる『空の大怪獣ラドン』では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、イーストマン・カラーが用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。
この『空の大怪獣ラドン』で、福岡市天神地区で特撮スタッフとロケハンをしていたところ、地元のチンピラたちが因縁をつけてきた。ところが、彼らが東宝の特撮スタッフだと知ると、チンピラたちは「なんね、この九州にゴジラが来るとね!?」と驚いて態度を豹変させ、歓待してくれたという。
有川によると、『ゴジラの息子』は、有川がオヤジ(円谷)を継いで、東宝の二代目特技監督に就任したことを祝って、「ゴジラにも息子をやろう」と生まれた企画だったという。
川北紘一によれば、現場では非常に厳しい人物であったという。
代表作
映画
テレビ
- 『ウルトラQ』(1966年、円谷特技プロ、TBS)
- 『ウルトラマン』(1966年、円谷特技プロ、TBS)
- 『快獣ブースカ』(1966年、円谷特技プロ、日本テレビ)
- 『ウルトラセブン』(1967年、円谷特技プロ、TBS)
- 『マイティジャック』(1968年、円谷特技プロ、フジテレビ)
- 『戦え! マイティジャック』(1968年、円谷特技プロ、フジテレビ)
- 『天皇の世紀』(1971年、国際放映、朝日放送)
- 『愛の戦士レインボーマン』(1972年、東宝・国際放映、NET)
- 『へんしん!ポンポコ玉 』(1973年、国際放映、TBS)
- 『水滸伝』(1973年、国際放映、日本テレビ)
- 『バトルホーク』(1976年、創通エージェンシー、ナック、東京12チャンネル)
DVDコメンタリー
活躍当時の特撮現場でのエピソードは、以下のDVDの有川自身のコメンタリーで聞くことができる。
- 『ゴジラの逆襲』 (同じ円谷組の特撮カメラマン、富岡素敬との共同コメンタリー)
- 『空の大怪獣 ラドン』
- 『フランケンシュタイン対地底怪獣』
- 『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』
- 『愛の戦士レインボーマン』
脚注
出典・参考文献
- 『東宝特撮映画全史』(東宝)
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- 『てれびくんデラックス ゴジラ超全集』(小学館)
外部リンク
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- 有川貞昌 Movie Walker
- 有川貞昌 - 東宝WEB SITE