福田純
福田 純(ふくだ じゅん、1923年2月17日 - 2000年12月3日)は日本の映画監督、脚本家。満州出身。日本大学芸術学部卒業。
人物
1923年、満州国新京市で生を受ける。父が南満州鉄道に勤務していたため、幼少期を満州で過ごす。日本大学に進学したが、講義にはほとんど出ず、一日の大半を、読書と映画鑑賞に費やしていた。1946年に、東宝の助監督募集を聞いて試験に参加。200人が募集する中で合格。稲垣浩、本多猪四郎らの助監督をする中で、映画製作に必要な、スタッフや出演者間のスケジュールの調整、予算の管理などのノウハウを得る。東宝争議の際には、地方ロケ中だったため争議には直接巻き込まれず、社の収入を確保するために、一緒だったスタッフや俳優と共に即席の劇団を組んでいる。1959年、『恐るべき火遊び』で監督に昇進。以降、東宝において映画黄金期から斜陽期にかけ、若大将シリーズなどの青春映画、ゴジラシリーズをはじめとする特撮映画、アクション映画、コメディ映画など、多様なジャンルの作品を監督した。
軽快な演出を持ち味にしており、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』と続けて担当した二作では、シリーズでおなじみの伊福部昭ではなく、佐藤勝に作曲を依頼しているが、「伊福部さんだとどうしても重くなっちゃうんで、佐藤さんにやってもらいました」とコメントしている。
特撮映画では、それほど特撮班と綿密に打ち合わせをするタイプではなく、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で組んだ有川貞昌特技監督は、「本多猪四郎監督と比べて画面を合わせるのに苦労した」と語っている。
1977年、『惑星大戦争』を最後に、東宝との専属契約を解除。その後、自ら映画プロを設立し、『世田谷文化人シリーズ』などのドキュメンタリー映画の製作に余生を費やした。
2000年、12月3日、肺癌のため死去。テンプレート:没年齢。
主な作品
映画
- 恐るべき火遊び(1959年)
- 電送人間(1960年)
- 情無用の罠(1960年)
- 守屋浩の三度笠シリーズ 泣きとうござんす(1961年)
- 守屋浩の三度笠シリーズ 有難や三度笠(1961年)
- 暗黒街撃滅命令(1961年)
- 吼えろ脱獄囚(1962年)
- 女性自身(1962年)
- 日本一の若大将(1962年)
- 暗黒街の牙(1962年)
- にっぽん実話時代(1963年)
- ハワイの若大将(1963年)
- のら犬作戦(1963年)
- 国際秘密警察 虎の牙(1964年)
- 血とダイヤモンド(1964年)
- 暗黒街全滅作戦(1965年)
- 香港の白い薔薇(1965年)
- 100発100中(1965年)
- 怒涛一万哩(1966年)
- ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘(1966年)
- 怪獣島の決戦 ゴジラの息子(1967年)
- 100発100中 黄金の眼(1968年)
- フレッシュマン若大将(1969年)
- ニュージーランドの若大将(1969年)
- コント55号 人類の大弱点(1969年)
- コント55号 俺は忍者の孫の孫(1969年)
- 大日本スリ集団(1969年)
- コント55号 宇宙大冒険(1969年)
- 野獣都市(1970年)
- 喜劇 ソレが男の生きる道(1970年)
- 3000キロの罠(1971年)
- 西のペテン師 東のサギ師(1971年)
- 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(1972年)
- ゴジラ対メガロ(1973年)
- ゴジラ対メカゴジラ(1974年)
- 喜劇 だましの仁義(1974年)
- エスパイ(1974年)
- 透明人間対火焔人間(1975年、脚本を執筆。未制作)
- 惑星大戦争(1977年)(最後の映画監督作品)
- ゴジラの復活(1977年、未制作)
テレビ
- 泣いてたまるか(1967年)監督
- 平四郎危機一発(1967年 - 1968年)脚本、監督
- 怪奇大作戦(1968年 - 1969年)脚本、監督
- オレとシャム猫(1969年)監督
- 流星人間ゾーン(1973年)脚本、監督
- 日本沈没(1974年 - 1975年)監督
- はぐれ刑事(1975年)脚本
- 西遊記シリーズ(1978年 - 1980年)監督
- 春のかがり火〜箕輪城・戦国の日々〜(1993年)監督
著書
- 染谷勝樹と共著 『東宝映画100発100中!映画監督福田純』(ワイズ出版) ISBN 4898300634
出典・参考文献
外部リンク
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