律令法
テンプレート:参照方法 律令法(りつりょうほう)は律令格式(きゃくしき)などの制定法および平安時代になって律令を基礎にして成立した各種の慣習法をふくめたもの。大化改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系である。
なお、律令それ自体については律令の項を、律令に基づく制度各般については律令制の項を、それぞれ参照されたい。
目次
律令法の階級性
律令法は、大化改新によって支配権を握った畿内および近国の貴族層が、従来のように地方豪族を媒介として全国を支配するのではなく、官僚機構によって人民の末端にいたるまで統治するための法であった。従って貴族制的な身分秩序を法によって確立することが律令法の骨格となっている。
律令法の身分制度は人民を良・賤(せん)に二大別することを特徴とし、両者の中間に大化前代の部民(べのたみ)の後身である品部(しなべ)、雑戸(ざつこ)の身分がおかれた。
賤民の身分は、陵戸、官戸、家人(けにん)、公奴婢(ぬひ)、私奴婢の5階層に区別され、各階層は同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度によって隔離されていた。この複雑な賤民の等級は、唐令の賤民制度の継承であるが、それは中世武家法における賤民制度とちがった律令法の特徴をなしている。
良民は階級的には貴族と平民に二大別されているが、両者の区別は法的には明確ではなかった。ただ五位以上の位をもつものの経済的・政治的特権は法によって保証され、また有位者は一般に課役その他の義務を免除されていた点で、租、庸、調、雑徭(ぞうよう)などの課税および兵役の義務を負っていた一般平民と区別されていた。
律令法は貴族層が、その特権と支配を維持するための法であるから、賤民制度をふくめた全体の身分の体系は、法によって明確に規定しておく必要があった。
天皇
律令法によって規定された身分秩序において、独特の地位を占めているのは、天皇の地位である。律令においては、天皇の地位、権限その他については、なんらの規定がない。これは天皇が法を超越した存在と考えられていた結果であって、天皇の政治的重要性と矛盾するものではない。律令制には一種の罪刑法定主義の原則があって、裁判は成文の法規に準拠しなければならなかったが、天皇は法によって拘束されない存在であった。
律令法において、天皇の地位、権能について規定がないのも、それが国家的祭祀の執行など大化前代以来の宗教的機能をもっていたことと、専制君主的性格をもったことの結果であって、法を超越した存在と考えられていたからである。
また、天皇と律令法との関係で重要であったのは、生命刑である死罪執行の大権は天皇のみに帰属していたことである。たとえ、刑部省などで死罪が適当とする判決が出されたとしても、3回天皇に覆奏(三覆奏)を行って天皇から許しを得た場合に死罪が執行されることとなっていた。従って、天皇の許可が出なければ、流罪に減刑されることとなった。なお、流罪の場合でも非常赦と呼ばれる特別な恩赦が出ない限りは生涯流刑地から離れることは許されず、また死刑の際に付随される親族の連坐や除名、資財田宅の没官は宥免されなかったことから、当時の社会においては社会的に完全に抹殺される効果はあった。
まとめ
天皇を除けば、すべての身分・階層が法のもとに拘束される原則が支配している点で、律令法は一種の法治主義の特色をもっている。しかしこの原則は律令法の階級性を否定するものでなく、たとえば現実の刑の適用にみられる貴族の特権的地位の保証は、律令法が貴族階級のための法であったことを示している。刑罰について特別の斟酌(しんしゃく)をうける六議(ろくぎ)の制度のみならず、有位者がその位階に応じて罪の軽減をうけたり、また現実には、八虐(はちぎやく)・殺人などの重罪を犯さないかぎり一般の刑罰をうけることがなかったことは、その一例である。
国家機構と官制
特権的な貴族層が、全国の人民を直接支配するためには、中央から地方の末端にいたるまでの体系的な行政・司法の機構を必要とした。 武家法と異なる律令法の特色の一つは、この体系的な国家機構および官僚制度の精密な規定にあった。それはいちじるしく形式主義的な官制となってあらわれている。
中央政府は二官、八省、一台、五衛府で構成され(二官八省)、各省は職、寮、項目名司の名をもった若干の官庁をしたがえている。これらの官庁は原則として長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の4等級の官吏で構成され(四等官)、それぞれの権限も法によって規定されている。この精神は、地方政府組織の末端にいたるまで貫徹し、全体の官僚機構は、相互に秩序ある階層制によって連結された官庁から成っていた。その形式主義的な機構は、行政の慣行と経験に基づいて形づくられた武家法の官制といちじるしく相違しており、律令法の基本的特徴の一つをなしている。
律令法では、行政官と司法官の区別はなかった。以上の行政機構は同時に司法の体系であるのを特色とした。下級の裁判所は、地方では郡司、京では諸司であり、その上に地方では国司、京では刑部省があり、最後に太政官と天皇があった。
裁判所の管轄は刑の軽重によって区別され、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5種があった。これを五刑又は五罪と言った。
- 郡司は笞罪のみを決し、
- 在京諸司は笞罪・杖罪を決し、
- 国司は杖罪、徒罪、
- 刑部省は徒罪、
- 太政官は流罪、
- 天皇は死罪
を決するという規定であった。
唐の律令の継受
以上のような律令法の特色は、大化改新後の公地公民制に基づく新しい国家組織そのものの必要から生まれたものである。同時に律令法が「中国古代法典[1]」を母法として継承したことにも理由があった。
律令法は形式、内容ともに主として唐の律令(唐律、永徽律)を模範とした法制であって、この時代の東洋で一種の世界法の役割を果たした唐の律令の日本における分枝とみるべきである。したがって継受法としての律令法と、大化前代の固有法との間には断絶があって、固有の慣習法を基礎として成立した武家法制とは性格を異にする点が多い。
ただ唐の律令を継受するにさいして、日本独自の条件を考慮に入れて重要な修正を行っている事実も注意する必要がある。たとえば、唐の均田制を模範とした日本の班田制は、刑法や官制などとちがって、従来の土地所有制度と調整しなければ実行しがたい制度である。日本の令では唐令を意識的に修正して実施した形跡がみえる。また大化前代の土地私有制の発展段階の相違が考慮されていることも明らかである。
唐田令では、
- 官人永業田および賜田は無制限に売買・貼賃(ちようちん)(質入れあるいは賃貸のこと)の自由を有し、
- 庶人の永業田は特別の場合には売買を許され、
- 口分田(くぶんでん)は原則としては売買を禁じ、例外的にこれを許し、
- 諸田地の貼賃なども、原則的に禁止されるにとどまった。
これに対して日本令では、すべての田地は絶対にその売買を禁止し、とくに1年間の賃租を許しているにすぎない。このような相違は、国家権力の強さ、土地私有性および交換経済の発展の状態などの相違を反映させたものとみられる。田令ほど重要でない修正は令の各所にみられるが、それに対して律は唐律模倣の傾向が顕著であった。
継受法としての律令法が7世紀以降長期にわたって強行されたことについては、国家権力の強大さ、人民一般の政治的無権利が第一にある。
例えば、律令法の行政組織の最末端にある郷里制にもあらわれている。国・郡・里の里は、50戸をもって構成された。この地方制度は画一的・行政的につくりあげられたもので、大化前代からの自然発生的な集落とはまったく関係のない組織であった。地方の民衆生活のなかでは、「村」は基本的な共同体の単位であったが、それが、法的には全然認められていない事実のなかにも、律令法の特徴がみられる。
したがって律令法のなかに、日本の古代社会の内部に行われていた法慣行を見いだすことは困難である。記紀、隋書倭国伝、祝詞(のりと)などの資料によっても、大化前代の地方族長社会においては、神判制度や宗教からまだ完全には分離しない形での法が存在した。また邪馬台国(やまたいこく)でも公的な秩序・権威の維持のための法が存在したとみられる。
ヤマト王権の時代になれば、刑法を中心とした法が、中国古代法の影響をうけながら不文法の形で発展していたことが推測される。唐の律令の継受も、このような土台のうえに可能となったのであるが、秦・漢以来の歴代の専制主義的法制を集大成した唐の律令と大化前代の日本の法とでは、段階の差が、あまりにはげしかったので、律令法は継受法としての性格を強くもたざるをえなかったとみられる。
儒教的性格
律令法の継受法としての性質を強調するあまり、それが日本法制史上に果たした役割を過小に評価するのは、事実と合致しない。
『正倉院文書』その他の資料によると、律令法の公法的部分は、奈良時代においては、継受法とは考えられないほど実際に施行されていた。したがって、中世の武家法の基礎となった慣習法も、純粋な固有法ではなく、律令法を媒介として成長した固有法であった。 また律令法は単に法としてばかりでなく、思想史的にも重要な意味をもった。律令法の基本思想は、母法と同じく、儒家と法家の思想であったが、ことに儒家の思想は、日本の律令法でも指導的な意義をもっていた。養老の名例律が、不孝を、不義などの罪とならべて、八虐の一つとした。例えば、祖父母・父母、夫の祖父母・父母をなぐり、また殺傷する罪を悪逆のなかにいれて、恩赦のさいにもこれをゆるさない規定を設けているのは、儒教の道徳を法制化したものにほかならない。
律令の改変
律令法は、奈良・平安両時代を通じて国家の基本法であることに変りはなかったが、 10世紀の『延喜式』の制定公布の時代前後を境として、重要な変化がみられた。摂関政治や院政などの新しい政治形態の出現、班田制の衰退と荘園制の発展、律令法的身分秩序の解体などにみられる各種の歴史上の変化によって、律令法に基づく新しい慣習法が律令法の各分野で形成されてきた結果である。これを公家法の時代として区分することができる。
律令と官職制度
たとえば、官職制度のなかにも各種の重要な変化がおこったが、そのなかで著名なものは蔵人所(くろうど)および検非違使庁(けびいし)の制度である。検非違使は、刑部省および太政官が司法上の機能を果たさなくなるにしたがって平安初期に設置されたもので、司法警察上の追捕(ついぶ)のみならず、糾弾・断獄の諸権をももつにいたった。
まもなく民事裁判に関与するようになり、追捕使とともに諸国にもおかれるようになると、百姓からの年貢所当の徴収にまで参与するにいたった。律令制の最盛期とちがって、租税を強力な力なしには徴収できない階級関係の変化が、検非違使の機能の変化にも反映した。
検非違使の庁例は、使庁の流例ともいわれ、律令の刑法とはちがった性質の慣習法として通用した。官庁内部の慣習法は例または行事という言葉で奈良時代からすでに法的に認められてはいた。
明法道の確立と貴族社会
神亀5年(728年)、大学寮に律令法の教授を目的とした律学博士が設置され、程なく明法博士と改称された。明法博士による法曹教育の仕組は後に「明法道」と称されるようになるが、その結果全ての貴族・官人が律令法の知識を有してその運用に携わっていく前提が崩壊し、明法道を学んで明法博士を務め、あるいは刑部省や検非違使に所属した「明法家」と呼ばれる法律家集団によって律令の解釈が行われることとなり、官司請負制の展開とともに世襲化の様相を呈することになる。
律令国家から王朝国家へと転換した後も、天皇や摂関、太政官の公卿らの支配階層によって理念上は律令法に基づく統治が行われていたが、現実には彼らは律令に関する知識[2]を全く持っておらず、明法家も彼らが律令法に関与することを批難した(例:『春記』永承7年5月18日条・『左経記』長元7年8月24日条など)。従って、太政官における陣定によって罪名定(五位以上の官人に対する裁判)が行われる場合にも、実際には明法家が法解釈を示した明法勘文に基づいて裁決が出されるだけで、複数の明法家が出した明法勘文に矛盾があった場合には太政官の公卿は「法令に通じていない」ことを理由に裁決が行えず(明法勘文を踏まえずに裁決を出すことは「先例に反する」として問題視された)、偶々先例の知識から明法勘文に重大な誤りの存在が発覚した場合でも、具体的な問題点を追及できなかった。こうした状況にやや変化がみられるのは、院政期に入ってからで源経信や藤原宗忠、藤原頼長といった律令に通じた公卿も登場する。これは本人たちの知的興味の側面も無視できないものの、後三条天皇が記録所を設置して以後、明法家以外の公卿・官人も実際の訴訟などに携わる機会が増大していったことが背景にあったと考えられている。また、訴訟機関の整備と明法家の訴訟直接関与は表裏一体の関係にあり、訴訟を起こすものがあらかじめ明法家の明法勘文を得て提訴を起こしてその証拠としたために、太政官が訴訟の利害関係者となった明法家に諮問することができなくなって従来の太政官での訴訟形態が停滞して、従来の明法家の判断のみに拘束されない新たな訴訟機関の充実が必要とされた。九条兼実は自身も明法家を呼んで質問(「法家問答」)を行い、また「記録所が出す勘文に律令が引用されているのは当然で、全ての官司にある者は法令に通じているべきだ」(『玉葉』建久6年9月2日条)と指摘している。こうした支配階層の律令知識への関心の高まりが、明法家の活動とともに、鎌倉時代以後の公家法の形成や院評定の成立に影響を与えたと考えられている[3]。
公家法の時代
公家法の時代には、法のあらゆる分野で、慣習法の体系が重要な法的意義をもつようになった。
荘園制を基礎にして発達した本所法もその一つであるが、地方の行政組織の内部に発達してきた国衙法(こくが)ともいうべき慣習法もその一例である。
国司制度は、基本の形式は平安時代になっても律令法と変りはなかったが、国司の職が封禄と化し、任地におもむかない遥任の国司が増加するにつれて、諸国の行政は留守所あるいは在庁官人が行うようになった。そのさい、国衙領は、百姓名(みよう)が奈良時代の戸に代わって基本単位となっていた。租庸調、雑徭および各種の臨時の賦課も、それに対応した徴収方法を採用しなければならないことになった。特に国衙領の内部に成立した荘園との関係を規制するためには、律令法にない新しい法をつくり出す必要があった。
当時の文書において「当国之例」といわれるような慣習法は、このような必要に基づくものであって、それは本所法とならんで、中世の武家法の基盤の一つとなった。
幕藩体制と明律研究
養老律令以後、日本では律令の編纂は行われなくなり、遣唐使の廃止によって中国律令の導入もなくなったが、当然のことながら中国ではその後も歴代王朝で律令の編纂や改訂が行われてきた。江戸時代も中期に差し掛かると、世の中は平和になる一方で社会が発展するにつれて新たな社会問題も生じ、古い戦国期以来の法体系を継承した従来の幕藩法体系では対応出来なくなってきた。更に戦国時代の遺風を残した過酷な刑罰に対する批判も出てくるようになった。そこで旧来の法令に欠けている分野を補完する目的で江戸幕府や諸藩の中で明王朝で使われた明律の研究が始められた(中国では既に清の時代に入っていたが、明の法律文献が多く日本に伝来していたことや清律も明律をほぼ踏襲していた事が影響している)。初めは紀伊藩主徳川光貞や加賀藩主前田綱紀といった有力藩主とその周辺の学者によって行われたのをその嚆矢とするが、光貞の子・徳川吉宗が江戸幕府の第8代将軍になると、幕府内部でも研究が進められるようになった。その代表格は高瀬喜朴(本名:忠敦、1668~1749)と荻生北渓(本名:観、1669~1754)である。
高瀬は紀伊藩の医師・学者で光貞時代から明律研究に参加していた。1720年(享保5年)に著された「大明律例訳義」は人道・恤刑思想を重視して正確かつ平易(当時の日本で使われている用語に置き換えた)を旨とした全訳書である。一方、吉宗の侍医として仕えていた荻生は「大明律例訳義」が原文を載せていないことに批判的で1723年(享保8年)に明律原文に校訂・句読を施した「官准刊行明律(訓点本明律)」を著した。後者は法律関連の書籍の発刊が厳しく禁じられた当時に吉宗の特例の許可によって販売が許された。荻生の実兄である儒学者荻生徂徠も弟の影響を受けて「明律国字解」という本を著した。こうした成果をうけて幕府は残虐刑を減らして「過料」「敲(たたき)」「入墨」などの新しい刑罰を導入したが、「享保の改革」自体が保守的な要素をもっていたため、幕府法の全面的な改訂には至らなかった。
これとは対照的に熊本藩主細川重賢は明律研究を参考に大胆な司法改革を行った。1761年(宝暦11年)に制定された「刑法草書」は「徒刑」(懲役刑)制度や保護観察制度、除墨制度を導入した進歩的な法体系であるが、その編纂は明律を参考にしたところが大きいと言われている。また、同藩では死刑執行の日を毎年一定の時期に限定し、その日は領内から死刑を出したことを恥じるとして藩主以下主だった役人が謹慎をする「死刑日慎」という慣例を定めた。
熊本以外の藩でも18世紀末頃から熊本藩を見習って、明律を範とした司法改革を行う藩が次々と登場するようになった。
短期間ではあるが、1870年(明治3年)から11年間に明治新政府で使用された「新律綱領」も明律を継承した清律をモデルにしている。また、荻生徂徠の「明律国字解」が司法官の必読書として推奨された。だが、1881年(明治14年)の旧刑法導入によって、古代以来の中国法系の刑事法制は幕を閉じ、西洋法系の刑事法制に転換される事になった。
研究史
律令条文の解釈・研究は、701年(大宝元年)に大宝律令が施行された直後からはじめられている。すなわち、その年から翌年にかけて、藤原不比等(ふひと)をはじめとする編纂者たちは、 明法博士(みようぼうはかせ)または令官(りようかん)として、分担して律令条文を講説し、また解釈を治定した。その後は専門学者が令師(りようし)として解釈の治定にあたった。
728年(神亀5年)に大学のなかに律令学者の養成機関としての明法科が設けられると、律令の研究もさかんとなった。これが後の明法道となる。
738年(天平10年)頃には大宝令の私的注釈書「古記」が生まれた。
次いで757年(天平宝字元年)に養老律令が施行されたのを契機に、時の権力者藤原仲麻呂は新律令の講書を開催し、みずからも解釈の治定にあたっている。ただし、以上のうちで律令の研究といえるものは「古記」のみで、他は条文の解釈を公的に確定する作業であったというべきであろう。
次いで律令の研究が興隆したのは 8世紀末から 9世紀はじめにかけての時期で、このとき『令集解(りようのしゆうげ) 』が引用する令釈、跡記、穴記などの多くの私的注釈書が生まれている。 『令義解(りようのぎげ)』はこうした気運のなかで斤定された公的注釈書である。
その後、公的な律令講書が貞観(859年)、延喜(年未詳)、長保(999年)の 3回開かれたことが知られており、またその間に惟宗直本(これむねのなおもと)によって『律集解』、『令集解』が編纂されたが、以後は律・令の全篇にわたる注釈書はみられず、律令学はわずかに惟宗氏、坂上氏、中原氏などに家学として伝えられたにすぎなかった。
降って室町時代に一条兼良は『令抄』を著したが、これも古来の注釈を摘記したものにすぎない。
ついで江戸時代に入ると漢学者、国学者の双方による律令研究が盛行し、注釈書を残した者に壺井義知(つぼいよしちか)(1657‐1735)、 荷田春満(かだのあずままろ)、稲葉通邦(いなばみちくに)(1744‐1801)、 河村秀穎(ひでかい)、河村秀根(ひでね)、 薗田守良(そのだもりよし)(1785‐1840)、 近藤芳樹などがあるが、依然として研究の中心は解釈学におかれていた。
近代史学の発達とともに、律令の研究はその解釈にとどまらず、多方面にわたって深化した。
中田薫の『法制史論集』に収める諸論文や滝川政次郎『律令の研究』は、太平洋戦争以前に発表された代表的な研究文献であるが、これらに共通するものは、中国律令法と日本律令法との相違を明らかにしようとする課題意識である。その点では、日本律令そのものを論じたものではないが、仁井田陞(にいだのぼる)『唐令拾遺』も逸することはできない。
敗戦後に研究はさらに深化したが、全体としてみれば個別化し細分化して、個々の条文の意味やそれによって定められた制度などは詳細に解明されつつある。律令法を総体としてとらえ、法としての構造と特質を明らかにする試みや、律令法に基づいて形成された国家の歴史的特質の解明などは、ようやくその究明に緒がつけられたというのが実情である。また、1999年には寧波の天一閣において、唐の開元25年令とみられる唐令が併記された北宋の天聖令(明代の写本)の一部が発見され、中国と日本双方の律令法研究に新たな知見を加えることになった。
脚注
- ↑ 商鞅、申不害に代表される法家思想を継承した韓非のまとめた著書『韓非子』など。春秋戦国時代に国家同士が存亡を賭けた戦いを繰り広げる中で君主独裁権が確立され、後述の『唐律疏義』へ発展した。
- ↑ 摂関政治期の公卿の日記から彼らの律令法の知識を調査した上杉和彦によれば、検非違使別当を務め、また延喜式に通じていた藤原実資が多少の法知識を有するものの、その実資ですら検断の基本的知識である犯罪者の妻・牛・住居の扱いについて訊ねられて「知らない」と述べている(『小右記』寛仁3年8月23日条)。(参照:上杉「王朝貴族の律令認識」)
- ↑ 上杉「摂関院政期の明法家と朝廷」「王朝貴族の律令認識」
参考文献
- 高塩博「江戸時代享保期の明律研究とその影響」池田温編『法律制度』(『日中文化交流史叢書』2 大修館書店、1997年) ISBN 4-469-13042-7
- 上杉和彦『日本中世法体系成立史論』(校倉書房、1996年) ISBN 4-7517-2590-4
- 「摂関院政期の明法家と朝廷」(初出:『史学雑誌』95巻11号、1986年)
- 「王朝貴族の律令認識」(初出:『日本歴史』474号、1987年)
関連項目
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