永野修身
永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。
目次
経歴
1880年6月15日高知県で士族(上士)永野春吉の四男として生まれる。海南中学を卒業。若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。1898年海軍兵学校第28期に116名中2番の成績で入学、1900年12月13日105人中次席の成績で卒業[注釈 1]、少尉候補生。1902年1月18日海軍少尉に任官。1903年9月26日海軍中尉に進級。明治天皇の閲兵の際には常に天皇のお供をし、度々、明治天皇が愛用されていたお召し物、双眼鏡などを天皇より直々に賜ったりした。
日露戦争
1904年(明治37年)2月8日日露戦争開戦。仮装巡洋艦香港丸に乗組み後、旅順工作部員名義で重砲隊に転じる。旅順要塞攻撃の時には海軍陸戦重砲隊中隊長として旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊の撃滅に参加。艦隊を直接狙う高地を占領できなかったため、山越えの目算砲撃を強いられた。この時、永野は重砲隊指揮官の黒井悌次郎大佐に座標をもとに、大孤山(後に陸軍が二〇三高地を占領)から着弾地点を観測して無線連絡を取りながら補正していく案を進言し、着弾観測と照準補正連絡のために最前線で陣頭指揮を執り、砲撃を成功させた。この作戦によって、旗艦ツェサレーヴィチ及びレトヴィザンに命中弾を与え、ロシア太平洋艦隊を旅順港から誘い出すことに成功。黄海海戦のきっかけをつくった。この海戦によって事実上、ロシア太平洋艦隊は壊滅した。海軍重砲隊指揮官の黒井大佐には部下の手柄を横取りする悪癖があり当初は永野の実績も伝えられなかったが、引退後は「永野君の砲座が最もよく撃った」と永野を絶賛するようになった。
1905年1月12日海軍大尉に進級。日本海海戦第2艦隊第4戦隊副官。5月日本海海戦に参加。巡洋艦厳島砲術長。1908年の練習航海で僚艦の松島が馬公港で爆沈した際には港内はパニックに陥り混乱を極めたが、永野は冷静に短艇を派遣し、真っ先に救助に着手した。
1909年5月25日海軍大学校甲種学生拝命。1910年12月1日海軍少佐に進級。1913年1月10日アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。1914年12月1日海軍中佐に進級。1915年帰国。1915年5月日進副長。1918年10月1日海軍大佐に進級。海軍省人事局第一課長。海軍大臣・加藤友三郎に、この懸案は「駄目だ」と一言いわれ、永野は懸案に対し、説明も弁明もすることなく黙ったまま佇立していたという。両者一言もないまま2時間経過後、大臣は「ああ面倒くさい!」というなり烙印をしたという。
1919年11月1日防護巡洋艦平戸艦長。ある時、某砲術長が研究射撃の実施方策を持ってきた。永野は一読して、その方策ではうまくいくまいと思ったが、黙って許可を出した。実施してみると思った通りうまくいかなかった。某砲術長は叱り飛ばされると思って報告に来たが、永野艦長は「君、こうしてやったらどうだ?」と一言いったという。その結果、研究射撃は上々にでき、某砲術長は、今まで艦長がとった処置に感謝と畏敬の念を抱いたという。このことは部下の指導方法に大いに参考になるのではないかと久保田芳雄は述べている。
1920年12月1日在アメリカ合衆国大使館付武官。1921年10月7日ワシントン会議全権随員。1923年12月1日海軍少将に進級。
1923年12月1日海軍少将に進級。1924年2月5日海軍軍令部第三班長。12月1日第三戦隊司令官。1925年4月20日第一遣外艦隊司令官。1926年軍令部出仕。1927年2月1日練習艦隊司令官。12月1日海軍中将に進級。
海軍兵学校長
1928年12月10日海軍兵学校校長。兵学校長時代は、伊藤整一とともに自学自習を骨子とするダルトン式教育を採用、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。永野はダルトン教育の導入することで、これまでの受身一辺倒の兵教育を改め、自主性、積極性、創造性を重視し、個々の生徒が持つ才能や資質、専門性を開花させ、自由に伸ばす方向へと転換させようとした。そのため、生徒達から「永野校長の頭を叩けば,自啓自発の音がする」といわれたという。ダルトン教育の導入は永野が軍令部次長に転じた後に消滅したが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した55期(吉田俊雄によれば58期から60期)を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。一方、他律的な型嵌め教育を受けていないために任官先の他の期の士官からは上官に対する意見(提案)が多く、理屈っぽく意見が多いと評判が悪かったという。また、大戦中に兵学校長を務めていた井上成美は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判しており、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から慣例となっていた生徒向けの訓話を行わせなかった。但し、ダルトン教育を受けた者の中には新たな爆撃術の研究開発を行った関衛など数々の有能な人材を輩出している。
また、玉川学園の小原國芳とは特に仲がよく、自宅に玉川学園の生徒を呼んでは園遊会などを開いたり、学園視察に度々出かけるなど交流を深めていたという。
1930年6月10日海軍良識派の代表的な人物として知られた谷口尚真軍令部長のもとで、軍令部次長を務めた。1931年12月9日ジュネーブ会議全権。1933年11月15日横須賀鎮守府司令長官。1934年3月1日海軍大将に進級。1934年11月15日軍事参議官。1935年9月第四艦隊事件を巡る話し合いではじめてこの永野の様子を見た三代一就は「大きな口をあけて寝ていたが、会議の中盤辺りで、急に目を覚まし、今までの話を聞いていたかのように、鋭いことを発言して周囲を唖然とさせていた。どう凄いのかわからないが、怪物みたいなんですよ」と語っている。
1935年11月4日第二次ロンドン海軍軍縮会議全権。1936年会議において日本の脱退を通告する。
1936年2月二・二六事件が起きた際には「陸軍を粛正せねば国家遂に危かるべし」と前途の不安を、ある皇族に語っている他、陸軍を粛正するように昭和天皇に直接、働きかけられないか談義を交わしている。
海軍大臣
1936年3月9日広田弘毅内閣の海軍大臣を拝命。「国策の基準」の策定を推進。三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えて、中央の改革を行い、大角人事によって追放されてしまった条約派や軍政畑軍人を再復活させ、後の海軍三羽烏(米内光政・山本五十六・井上成美)の礎を築いた。また、海軍内にあった対立論(大艦巨砲主義論と航空主兵論)の調整を行い、大和型戦艦2隻、翔鶴型航空母艦2隻の建造を提案、予算案を帝国議会において成立させている。
海軍の制度と人事を刷新すると意気込んで部下にその検討をさせた。高木惣吉は軍務局でこの時の制度調査会に参加させられており、岡敬純・神重徳等と共に作業にあたり11月に兵備局の新設を提言するとともに、海軍内部の長年に渡る懸案とされていた兵機一系化についての提言を井上成美にまとめさせた。提言書には、精神主義に傾斜する兵科士官教育を、科学、合理的な教育に改めること、そのためには兵学校を廃止して機関学校に統一するべきことなどがまとめられていたが、永野が改革に乗り出す前に大臣を辞職してしまったため、改革は実現に至らなかった。しかし、1940年に高田利種少将が制度改革に手をつけた際にはこの時の経験を参考とし、海軍機関学校の一系化などの類似した内容の改革が行なわれている[1]。また、その時の調査は、後の防衛大学校の創設にも影響を与えている。
1936年6月11日の放送では次のような話をしている。 テンプレート:Quotation
腹切り問答の際に民政党と陸軍の仲裁を試みたものの陸軍は国会を解散に追い込もうと意気込んでいたため先手を打たれ、広田内閣は総辞職に追い込まれると共に、永野は就任10ヶ月余りで連合艦隊司令長官に転出した。制度改革も提言の際に守旧派の反対に遭ったまま進展は無いままであったため失敗した。1937年2月2日広田内閣総辞職。
軍令部総長
日米開戦まで
1941年4月9日軍令部総長。開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦強硬派の長谷川清や百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。ただ、永野も本来は避戦派であり、山本と同様、留学経験・在米武官の経験も長く、軍縮会議などでは各国の将官と討論などをしており、国際関係にもよく精通していた。 永野は、軍令部総長に就任すると、軍令部次長を親独派の近藤信竹から米国関係に精通している伊藤整一に変更している。千早正隆は、近藤と永野の性格不一致から永野が近藤を第二艦隊に転出させ、かわりに山本五十六に近い伊藤整一と福留繁を引き抜いたと指摘している[2]。
1941年6月11日の連絡懇談会で原嘉道枢密院議長や松岡洋右外務大臣らが、ソ連を打つの好機到来と北進論を陸軍首脳部に訴える中、永野は「仏印、タイに兵力行使の基地を造ることは必要であるとし南部仏印進駐を強く推し、これを妨害するものは、断乎として打ってよろしい。叩く必要のある場合には叩く」と述べた。また、7月21日の連絡会議では、新たに外相に就任した豊田貞次郎から「米国は、基幹物資の貿易禁止、日本の資金の凍結、金の購入禁止、日本船舶の抑留などの政策を実施するだろう」とアメリカが事実上の報復措置を実施すると報告があった。これに対し、永野は、対ソ開戦については絶対反対とした上で「対米戦においては、現在ならば勝利の可能性がある。しかし、その機会は時間の経過とともに薄れる。来年の後半には、米国と戦うのは困難になるだろう。そしてその後の情況は、いっそう悪化する。米国はおそらく、その軍備増強が出来上がるまで引き伸ばし、そして決着をはかってくるだろう。もし我々が戦争抜きで問題の解決が図れるなら、それに越したものはない。しかし、もし我々が対決が最終的に回避できないと結論するのであれば、時間は我々に味方しないことを心得ておかれたい。さらに、もし我々がフィリピンを占領したら、海軍の立場で言えば、戦争の展開をその最初から充分に有利とするだろう」と海軍の立場を説明している。
7月30日には昭和天皇に上奏し、海軍としては対米戦争を望んでいないこと、しかし三国同盟(アメリカを仮想敵国とした条約)がある限り、日米交渉はまとまらず対立関係に入る事、日米交渉がまとまらなければ石油の供給を絶たれること、国内の石油備蓄量は2年、戦となれば1年半しかもたないことを述べた上で、この上は打って出るしかないと戦争決意について述べた。しかし、勝算を問われると、自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と率直に述べた。
そのため、昭和天皇の目には永野は頼りない人物に映り、永野も信任を得ていない旨を自覚していたと言う。この原因には健康状態が優れないこともあり、永野(と海軍大臣であった及川)の更迭が秋口まで水面下で画策され、首相の近衛文麿、岡田啓介などがそれを支持した。そうした密議に関わった豊田貞次郎は、軍令部総長が国策に関わるのは大本営政府連絡会議のときだけで閣議への出席はしない事を示し、「海相さえしっかりしていれば総長など物の数ではない」と述べ、海相更迭を重視した。豊田は永野の真意を知っており、永野の態度は有事への備えの上でも日米交渉を行う上でも抑止力として有効に機能しており、問題は機能を果たさなくなっていた及川海軍大臣にあると考えていたが、実際は統帥権の独立により総長の政治的影響は大きいものがあった。結局永野に総長の座を禅譲した伏見宮博恭王の了解を取り付ける見込みがたちそうにないことや軍令承行の制約などから、総長・海相更迭案は共に消える事となった。
一方、この7月30日の永野上奏については、日華事変以来悪化の一途を辿っていた日米関係を改善させるための第一歩であり、三国同盟を解消して日米交渉をまとめない限り、難しい戦争をしなければならなくなることを、昭和天皇に伝えることで、同盟問題を閣議に上げようにとしたのではないかという説も最近の研究で出てきている。
8月頃には北進論は、アメリカによる石油禁輸による影響から完全に影を潜めた。陸軍は年内の北進を実行に移すことを諦め、外交交渉の可能性も言及しつつも、来年の北進に備えて南方資源地帯の確保を視野に入れはじめた。これに対し、永野は、日米両国間の最大の懸案となっている日華事変の早期解決を実現するため、援蒋補給路遮断を目的とした昆明封鎖作戦を昭和天皇に上奏するが、海軍の一連の動きを知った杉山元参謀総長と木戸幸一内大臣の働きによって3日で葬られてしまった。昆明を封鎖することで、日本の外交優位を作り、支那事変講和のための糸口を作ろうとしたのではないかと推察している。
永野はあくまで軍人は極力政治に関わるべきでないと言う信条を持っており、政府に対して、役職柄海軍の代表者として海軍の実情について報告はするものの、政府が決めた方針について賛成も反対もせず、日米戦開戦の時も回避のための行動は公には見られなかった。この永野の姿勢には1941年6月初旬に日蘭会商からの石油の供給が完全に停止されたという海軍の実情も反映しているともいわれている。1939年以来、アメリカからの経済的制裁を受けるようになっていた日本は石油などの不足資源の多くを蘭印からの輸入に頼っていた。1941年6月5日に海軍省で算定した結果によると日本国内には1年半~2年分しか石油備蓄がなく、このことは海軍の軍令を司る立場にあった永野にとって死活問題だった。また、一部報道では過激な開戦派によるクーデターとそれに伴う国家の暴走を警戒していたともいわれている。7月30日、ABCD包囲網について昭和天皇から意見を求められた際には、海軍としては対米戦を決断するならば早期に開戦をした方が有利と奉答している(詳細は下記)。その手段として、日米交渉が決裂した場合に備え、連合艦隊司令長官だった山本五十六が進めていた真珠湾攻撃作戦を採用した。山本のハワイ作戦ついては、その投機性の高さから軍令部内では反対する意見が根強くあった。当初、永野自身もアメリカとの戦いについては南方資源地帯の確保と本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦を構想しており、太平洋まで出てアメリカと直接対決する想定しておらず、「余りにも博打すぎる」と慎重な態度を示した。しかし、山本が本作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職すると強く詰め寄ったため、1941年11月5日、最終的に永野が折れる形で決着した。
『帝国国策遂行要領』が陸海軍中央の折衝を重ねて起草され、1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて決定された。最初、海軍案では「戦争ヲ決意スルコトナク」という文字があったが、これに陸軍が難色を示し、戦争決意の文字をいれるように強く迫った。海軍は苦慮し「戦争ヲ辞セザル覚悟ノモト二」とニュアンスを若干緩める形で会議はまとまった。一方で永野は、木戸内大臣の執務室を訪れ、対英米戦の施策について説明したという。鳥居は、軍令部総長の異例の訪問は帝国国策遂行要領から対米戦決意の文字を抹消するため、内大臣の協力を求めたのではないかと推察している。 この時期、永野はアメリカという国を知る者として、軍事的外交の専門家として、会議の場では常に決まったいくつかの助言している。まず、中途半端な態度で臥薪嘗胆をして交渉を長引かせたとしても何の解決にもならず、軍事、外交上、日本の立場を不利にするだけであること、臥薪嘗胆で行くなら腹を据えてアメリカに譲歩するつもりで挑んだ方が良いこと、戦うなら今以外に戦機はこないこと、但し、海軍としては戦った場合、国力の問題から2年以後は戦う自信がないことなどである。また、首相と外相には開戦に至らない様にする覚悟と勇気が政府にあるか言明を求めていた。 その後9月6日の御前会議にて『帝国国策遂行要領』は付議され採択された。
会議後、永野は統帥部を代表する形で「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」と語った[3]。
11月1日に行われた連絡会議で、最後の国策方針を決める際、東條首相が慣習に沿って、これまでに挙げられた テンプレート:Quotation の3案の他にないかと出席者に尋ねた。この時、永野は、第4案として「日米不戦」を提案。この際、陸海軍は矛を収めて政府に協力し、交渉だけで問題を解決する方針を提示した。これに対し、東條英機首相兼陸軍大臣は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされた。因みに東條陸軍大臣兼首相は、日米開戦の焦点となった支那駐兵問題については撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や木戸幸一内大臣と連帯関係にあった。
第1案に賛成したのは東郷茂徳外務大臣と賀屋興宣大蔵大臣だけだった。これに対し、永野は政府が武力発動を放棄して外交だけで問題を解決することを言明しない以上、責任はもてないとして第1案には反対した。この時、既に米国政府は日本本土に対する先制攻撃作戦を許可していた。海軍は、日本周辺に大量のB25をはじめとする爆撃機が配備されつつあること、来年初頭には米陸軍の戦力配備が完了し、打つ手がなくなることをつかんでいた(フライングタイガース隊を参照*[1])。永野は、幕末期の薩英戦争や下関戦争などに見られるように統制が利かない日本が主戦派主導のもと戦機を逸脱して日本各地で戦闘を実施し、なし崩し的に先の見えない戦争(本土決戦)が勃発していくことを恐れていたという。第2案に賛成する者はなく。陸軍は作戦準備のため、第3案を選択。結果、東條内閣(政府と統帥部)の方針は第3案「戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める」に決まり、外務省が出した乙案を基に日米外交が一方で行われることになり、国策方針が決定した。
11月3日に杉山元参謀総長と列立して作戦計画について昭和天皇に報告した。この時、昭和天皇が作戦(真珠湾攻撃)の決行日について尋ねられた際、永野は開戦予定日を、日本時間で答えるミスを犯している。 [注釈 2]
12月2日に再度参内しZ作戦他の作戦開始日を12月8日とする裁可を得た際は、「武力発動の時機を十二月八日と予定しました主なる理由は、月齢と曜日との関係に因るもので御座いまして、陸海軍とも航空第一撃の実施を実施を容易にし且つ効果あらしめますためには、夜半より日出頃まで月のあります月齢二十日付近の月夜を適当と致します。また海軍機動部隊のハワイ空襲には、米艦艇の真珠湾在泊が比較的多く且つその休養日たる日曜日を有利と致しますので、ハワイ方面の日曜日にして月齢十九日たる十二月八日を選定致した次第で御座います。もちろん八日は東洋におきましては月曜日となりますが、機動部隊の奇襲に重点を置きました次第で御座います。……」と説明した[5]。吉田俊雄は、永野は事前には真珠湾攻撃に反対していたが、ハワイ奇襲が南方進攻と連動した第一段作戦であって、第2段作戦では従来型の艦隊決戦を行なうつもりであり、研究の第一人者が自信をもっていたからこそ認めた旨を述べた[6]。
1941年11月30日保科善四郎(海軍省兵備局長)に、日本軍の実情を聞いた軍令部員の高松宮宣仁親王が軍機を犯して燃料不足を理由に、昭和天皇に開戦慎重論を言上したという。これを受け不安を感じた昭和天皇は、東条英機首相、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣を急遽呼んで事情を聞いたという。昭和天皇は「いよいよ時期は切迫して矢は弓を離れんとしておるが、いったん矢が離れると長期の戦争となるのだが、予定通りやるかね」と訊ねたのに対し、長々と戦争決意を語る首相及び海軍大臣とは異なり、永野は「いずれ明日詳細奏上すべきも、大命降下あらば予定通り進撃いたします」とだけ奉答したとされる。翌12月1日の御前会議の結果、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)を決意し、昭和天皇によって大命が下された。戦後、米内光政は、武見太郎に「まさか海軍は勝てると思っていた訳ではないですよね」と尋ねられると「軍人は一度大命を受ければ戦わねばならぬのです」と答えている。
なお、永野総長は軍機を破った高松宮宣仁親王を処罰することはしなかった。戦後、千早正隆GHQ戦史室調査員が親王に当時の心境を尋ねられると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)としての責務である」と語っている。
太平洋戦争
1941年12月太平洋戦争開始。開戦劈頭の真珠湾攻撃から帰還した兵士達の戦果を労ったり、訓示した際には涙を見せたという。それを見た反戦派軍人は「軍令部総長は年を取りすぎた」と嘆く者もいた。
戦中、実務は次長以下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。
1942年(昭和17年)5月15日には東久邇宮稔彦王や小原國芳をはじめとする有志らと共に、興亞工業大学(興亜工業大学と表記される場合もある)を玉川学園内に(現在の千葉工業大学)創設。同校は、明治維新以来の欧米化政策などによる西洋主義を模倣した偏知教育(エリート教育)を改め、人間本来の性に適したる教育を建て直し、国家を担い世界文化に貢献する人材の養成を行うため、各有志らが明治から昭和期にかけて教育界で培ってきた経験則と江戸時代までの教育理念(主に吉田松陰の松下村塾・広瀬淡窓の咸宜園・上杉治憲の興譲館の精神)を融合させた教育機関を目指して創立された。その大学内の空気は戦時下としては珍しく、自由な環境だったとされ、講義では敵性語として禁止されていた英語教育をはじめ、国定科目からはずされていた中国古典や音楽、道徳などの教養科目の授業が戦時中一貫して続けられるなど学問の自由が保障されていたという。また、制服は帝大の様な学生服に黒マント、白線帽姿ではなく、紳士服姿(背広にネクタイ)で、小さい紳士を育てるためのマナー教育が実施されていた。
海軍反省会によると、永野は戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たったとされる。しかし、後に一般公開された海軍反省会による海軍関係者の証言などによると、実際に戦ってみた感想が述べられており、日本軍の兵器の殆どが欠陥品・粗悪品[7]で、明治以来の日本の技術力と欧米列強の技術力の差は歴然としていた上、明治の欠陥憲法と明治以来の教育によって生み出されたセクショナリズム化の為、陸海軍を統制出来る役職、あるいは調整できる人材が存在せず[8]、単に海軍という一組織、一軍人の技量だけで大局的な総力戦の勝敗を決するのは困難を極めたという。一方で、永野は万が一に備えて興亜工業大学を創設、日本再建のために優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた[9]。興亜工業大学とその所属学生は、大戦期を通じ(国への奉仕・戦争一辺倒の時代において)他の高等教育機関(大学や軍学校)とはまったく異っており、世俗からは極力隔離され、国家枢要を担う人材、世界文化に貢献する人材を養成するための中枢機関となるよう物心共に特別な配慮がなされていた[10]。現在においても哲学の講義ではカント哲学と西田哲学が重要視されている。
1943年5月16日、インド独立の為に来日したスバス・チャンドラ・ボースと面会。
1943年6月21日元帥。1943年9月、陸軍の押しで絶対国防圏構想が陸海統帥部の間で纏まろうとしていた際(同30日御前会議で裁可)には、参内した折、同構想の後方要線の防備が手付かずであることを理由に、従来通りマーシャル沖での決戦方針を堅持することを主張した(ソロモン諸島に大量の戦力をつぎ込んでいた事もあって、絶対国防圏構想への反発は古賀峯一連合艦隊司令長官などをはじめこの時期の海軍内では一般的な見方のひとつであった)。昭和天皇は永野の意見を陸軍との調整が取れていないものとみなし、それまで陸海軍で会議を重ねた事を指して「なんのために、あれだけやったのか」と立腹した[6]。ただ、陸軍が主張する絶対国防圏の要であるグアムやサイパン島などの島々は戦前の条約によって防備化が遅れており、戦略上、前線基地であるソロモンを即放棄するわけにもいかなかったという。
1943年11月5日から11月6日にかけて東京で大東亜会議が開催される。
1943年12月黒木博司中尉と仁科関夫少尉から「人間魚雷」の提案があったが、永野総長は「それはいかんな」と却下した。
南方方面及び中部太平洋方面の米反攻に伴い海軍部内では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、連合艦隊長官古賀峯一大将は、嶋田繁太郎海相と永野総長に対し陸兵力の同方面進出をたびたび要求するが、困難であり、二人への不満は高まっていった。1944年2月昭和19年度航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、大型機の多い海軍は陸軍より航空機を生産できなかったため、嶋田、永野に対する不満はさらに高まった[11]。 1944年2月19日嶋田は責任上辞任を考慮し、海相後任を豊田副武大将、軍令部総長後任を加藤隆義大将にする意向を東條英機首相兼陸相に伝えるが、東條の参謀総長兼任の決意を知った嶋田海相が決意と趣旨に賛同して、伏見宮博恭王元帥の支持を背景に永野を軍令部総長から更迭し、嶋田が軍令部総長も兼任する決心をした[12]。
1944年2月21日軍令部総長辞職。軍令部の大井篤によれば同時に辞任した陸軍の杉山元参謀総長と合わせ、既に長老ぶりの弊害を自認していたかのような状態だったという[13]。副官の吉田俊雄にも「年をとり過ぎていたよ」と述べた。
1944年6月25日サイパン陥落に伴う今後の作戦方針を決める元帥会議に参加[14]。
1944年11月20日頃、神雷部隊を視察。隊員に賛辞を送り絶句慟哭する[15]。
東京裁判
1945年8月14日、ポツダム宣言を受託するにあたって昭和天皇が元帥府の意見を聴取した際、「皇室の安泰は敵側において確約しあり,大丈夫」との天皇の所信を伝えられ、これに従った。その後、身辺整理を終え遺書まで書いて自決をしようとするも、海兵同期で、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」「責任者がこんなにどんどん死んでしまって誰が陛下を戦犯からお守りするのだ、貴様は辛いだろうが生きていろ」と諭され自決を思いとどまった。
1945年8月15日終戦。
1945年12月22日から第二復員省(旧海軍省)で行われた日本海軍の首脳会議(なぜ日本が太平洋戦争に突入したかを検討するための会議)に参加すると共に、昭和天皇への訴追回避させるため、開戦当時の海軍トップを集め、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行った。
アメリカ戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には、なぜ日本海軍は無差別潜水艦作戦を実施しなかったのかという潜水艦の用兵に関する質問があった。永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く務めたにもかかわらず「残念ですが、私は潜水艦については詳しく知りません」と陳述した[16]。
アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1947年1月5日に死去した(『海よ永遠に元帥海軍大将永野修身の記録』南の風社では1月5日11時50分に両国の米陸軍第361野戦病院で死去したこととなっている)。永野の死は虐待によるものだと言われている。
永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。
元外務大臣重光葵は、永野の死を悼み「元帥の 居眠りついに さめずして 太平洋の 夢路たどらん」と詠んだ。
享年66。墓は東京都世田谷区奥沢7丁目の浄真寺と高知市の筆山墓地にある。
1978年戦死ではなく病死ではあったが、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。
人物
総長時代の副官を務めた吉田俊雄によれば、海軍内でも常に指揮官先頭で、創意と意欲の塊と言われていたという[17]。 中澤佑中将は永野を「天真爛漫で物事に捉われず、実にのびのびとした人材で、武将というより政治家、政将と申した方が適評」「細々としたことには口出しせず、大綱を把握して細目はすべて部下に一任するという性格の方で部下が計画を提出する際、意に満たないことがあると必ず意見を述べられ、かつ自分の対策を明示された。この点は同提督の特長であり、私の敬愛するところでありました」という[18]。 当時の新聞記者の回想によると見た目とは異なり、性格は温和で権威主義が優先されていた当時の日本としては珍しく、国籍や身分、性別などを問わず、分け隔てなく人と接する完全人格を備えた人物だったという。
海軍部内でのあだ名は、男女川(みなのがわ)で、その由来は永野の容貌が第34代横綱男女ノ川登三の魁偉な容貌に似ていたため名づけられたもので古賀峯一も大戦中の私信で永野のことを「男女川」と記している。
愛犬家であり、園芸を趣味とし、郷土の英雄坂本龍馬を深く尊敬していた。
哲学や科学などをはじめとする教養学や人格を重んじ、物事を学ぶ時には物の真理から学ぶように家族には説いていた。
永野は教育分野に深い関心を持っており、時には兵士達の艦隊勤務での運動不足を解消するため、狭い艦内でも効率的に体を動かせるように(艦内は狭く、長期間勤務する兵士たちの運動不足が深刻だった)、スウェーデン体操やデンマーク体操などを参考に海軍体操を考案して導入した。これは教育家の小原國芳の影響を受けたものとされ、永野が連合艦隊司令長官の時、小原を旗艦陸奥に招待した際「君の体操が始まるよ」と述べたという。
永野個人は軍人は極力政治に関わるべきでないと言う考えを持っており、高度な政治性を持ちえる海軍三顕職にあってもそれは変わらなかったという。
太平洋戦争を避けるために渡米し日米交渉に奔走した野村吉三郎(海兵26期)や戦争末期に昭和天皇に直接聖断を仰ぐよう鈴木貫太郎首相に働きかけ、終戦工作を実現した左近司政三(海兵28期)と親しかった。
永野も山梨勝之進(海兵25期)や野村吉三郎(海兵26期)と同様、小原國芳の良き理解者であり、支援者だった。
私生活は家庭に恵まれず、次々と妻、子息を病気・空襲(仙台空襲)で亡くした。結婚は4回、戦後まで生存した子どもは5名である。4回目に結婚した京子夫人は永野の獄死直後に、脳出血により病没している。墓は東京都世田谷区九品仏と高知県高知市筆山(分骨)にある。九品仏浄真寺は浄土宗の寺であるが永野本人は神道信者として埋葬されている。
日米開戦
軍令部総長として日米開戦を決めた理由
永野は1941年9月3日、大本営政府連絡会議の冒頭で提案理由を次のように述べている。 テンプレート:Quotation
1941年9月6日御前会議で『帝国国策遂行要領』が付議され採択された際、昭和天皇は杉山の奉答を聞いて立腹した。その際、永野は例え話を交えて次のように発言し、天皇をなだめたとされる。吉田によれば永野のとっさの例え話は永野が海相であった時代から有名であったという。
天皇が「絶対に勝てるか?」と尋ねた際には
と答え、大阪の役に例えて
と述べたという[19]。
この際、枢密院議長原嘉道その他から、「二年以後のことはわからないでは明瞭を欠く。何かもっと具体的に言えぬか」との指摘がなされたが、永野は同じ言葉を繰り返すのみであったと言う。亀井宏はこれを「韜晦するつもりはなく、彼独特の無駄をはぶいた簡潔な表現であって、当人としたらかけ値のないギリギリのところを明かしたつもりであったろう」と評した[3]。一方、大井篤は戦後、この発言について「わからぬ」という点が曖昧であり、「アイマイな言葉しかあの際使えなかったとしても、他の方法で「二年以後は(国内から石油が完全に無くなり戦うにも)負け戦になる」ことは説明すべきであった」と評した(ただし大井は御前会議の日付を9月8日としている)[20]。
久保田芳雄は大戦に参加することに反対だった海軍がなぜ、陸軍に押し切られたのか疑問を持つ日本人が多いとした上で、永野から直接、所信を聞いた訳ではないが以下の通りの所信だったと聞いていると述べている。
吉田俊雄は、アメリカの国力を知るからこそ、その戦力が強大化しないうちにタイミングを見計らった行動をとるべきと考えていた旨を推測している[6]。永野は渡米経験を含め海外勤務の経験が豊富であり、アメリカの底力を良く知っていたため、この種の強い開戦決意の姿勢は元来からのものではなく、亀井宏によれば1941年6月頃から表出してきたものであったという。吉田・亀井は、「バスに乗り遅れるな」といった言葉に代表される欧州の戦局と日独伊三国軍事同盟などの国際関係、軍令部内の作戦課の意向と詳細な分析結果、陸軍との調整役として重宝された結果大陸での駐兵を譲らない陸軍強硬派の影響を受けていたとされる海軍省軍務局の石川信吾やドイツ駐在組(あるいは渡米経験のない高級士官全般)の報告、それらによる下からの突き上げなどが影響しており、奉答の際も部下の用意した書面を読み上げている際と、永野個人の意思で述べている際とではニュアンスが大きく違っていたこともあったと指摘する。また、国内での軍事革命への胎動を警戒していたと言う[6][3][21]。
一方、鳥居民は永野の南仏印進駐における一連の言動は、陸軍による独ソ戦介入を避けようしたものであり、日本が二正面戦争という愚を冒そうとしたのを避けようして海軍省に一部同調したのではないかと推察している。あの時、仮に日本が独ソ戦に参戦した場合、日本は蒋介石政府とソ連を相手に戦いをしつつ、背後で緊張関係にある(戦争準備を進めている)アメリカと対峙せねばならなくなるが、6月の時点で蘭印との交渉は決裂しており、石油、鉄、アルミ、ゴム、航空燃料など、日本が必要とする物資の供給は完全に絶たれており、国内に残されていた限られた備蓄だけで先の見えない戦争をしなければならない事態に陥る上、イギリス支援を焦るアメリカは対独包囲網の形成のためにソ連との結びつきも強めており(レンドリース法を参照)、日本がドイツと共にソ連を挟撃した場合、三国同盟が発動されたと判断し(口実に)、唯一輸入することが許されていた物資である石油の供給をも絶ってきたり、石川信吾大佐が、松岡外相に対して指摘(「ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」)してるように欧州戦線の状況次第では、アメリカの判断で戦を仕掛けてくる恐れがあった。その場合、日本の外交的立場は圧倒的に不利で、最早アメリカと外交交渉を継続できる余地はなく、石油の残量がなくなれば破局の道を辿るほかなかったという。実際、独ソ開戦以来、関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を強く主張し、関東軍特種演習(関特演)などを切っ掛けにドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようと考えていた。特に当時の陸軍はノモンハン事件の大敗や日華事変の泥沼化によって、国民の信頼を失いかけており、陸軍中堅層を中心に大戦果を望む声が強くあった上、陸軍の参戦を願う国民の声もあり、関東軍の挑発行動によって第二の盧溝橋事件・ノモンハン事件を通じて戦闘がはじまること警戒していたのではないかと推察している。陸軍参謀本部の計画では、8月29日前後を対ソ開戦日として設定し、極東のソ連軍がヨーロッパ戦線へ移送するのを見計らって、対ソ開戦に踏み込むというものであったが、特に、当時の陸軍内部では石原莞爾による満州事変以来、関東軍をはじめとする中間階級の人々が中心となって武勲を立てるために、全体を省みない独断専行が常道化し、後の政府及び大本営の政策に大きな影響を及ぼしていた。このことについて海軍反省会では陸軍自体が陸軍内を制御できなくなっていたと、当時の状況について振り返っている[注釈 3]。1941年8月3日には陸軍側の田中新一作戦部長と有末二十班長らがソ連態度案を海軍側に提出したが、対ソ開戦等の文字を削除するように海軍が迫り、5日に妥結した。 同日には永野と同じ軍令部に所属していた高松宮宣仁親王が昭和天皇に対して「アメリカとの戦いは避けられない」と進言しており、なおも北進しようとする陸軍の動きを止めようとしたのではないかと鳥居民は推察している。高松宮日記には「結局南北どちらに進んでも結果は同じことで、北に行ってアメリカが黙っていれば良いがそうもいかない。北に行けば(日ソ戦争が勃発すれば)それ以上のことになる」という趣旨の文があるとし、日米交渉を続けられる見込みのある南を押したのではないかと推察している。南仏印進駐を許可するにあたり、軍令部は情報部長を現地に派遣し、米英の動向を調査させている。その調査結果は「進駐しても武力衝突は起こらない、石油禁輸はあるかもしれない」というものだった[22]。しかし、このことが後に永野を縛り、陸軍首脳部の前で発言が出来なくなってしまったのではないかと推察している。つまり海軍が組織的に陸軍の北進を阻んだことが判明すれば陸海軍の対立が決定的となり、国防上問題となる。
さらに鳥居は、7月30日での永野の上奏は日華事変以来悪化の一途を辿っていた日米関係を改善させるための第一歩であり、三国同盟を解決して日米交渉をまとめない限り、難しい戦争をしなければならなくなることを昭和天皇に伝えることで、同盟問題を閣議に上げようにとしたのではないかと推察している。特に当時の欧州情勢は東西戦線ともドイツ軍が優勢で、米国はドイツ軍によるイギリス本土侵攻とソ連侵攻に神経を尖らせており、日本が同盟から脱して、世界大戦の渦から外れることで(陸軍の管理下にある支那駐兵問題に触れずに)日米関係を修復させる糸口を作ろうとしたのではないかと推察している。日米間で支那駐兵問題が取り上げられるようになるのは欧州情勢が一段落するずっと後だった。この上奏を受けて不安に感じた昭和天皇は、日米戦争を「捨て鉢の戦争」と呼び、閣議で同盟問題を取り上げようとした節があるが、木戸内大臣が米国は日本の三国同盟締結を認めているとし、三国同盟を破棄しないようにと助言、さらに天皇の不安を無くすためにと召還された及川古志郎海軍大臣の助言によって無効化されてしまっている。鳥居は、及川海軍大臣も豊田と同様、永野の真意は知っていたが、当時の及川大臣は三国同盟締結の失態から極度に責任を負わされることを警戒しており、日頃から部下たちにも「下駄を履かされるな」と言明し、組織の機能が正常に機能をしなくなっていたと指摘している。更に及川大臣は大事な局面で辞職する際、引継ぎを一切行わずに辞職してしまい、後任の嶋田海軍大臣は重要な局面で状況を十分に飲み込めないまま公務に就いたため、海軍大臣職が完全に機能不全に陥っていたことも指摘している。戦後出版された昭和天皇の言葉をまとめたとされる独白録にも、三国同盟と石油の関係、そして同盟を結んだことに対する後悔の念が綴られている。
開戦への経緯については「ナリユキ任せ」として、他の首脳部一同と同様に厳しく批判があるが、この問題について、『海軍反省会』においては、永野だけの問題ではなく、旧帝国海軍という組織全体の体質に問題があったという指摘もある。当時の日本海軍の伝統では、海軍大臣にある役職の者を除き、政治に干渉してはならないと厳しく教育を受けていた。日本海軍は「サイレント・ネイビー」を合言葉に、満州事変以来、長年に渡って陸軍の横暴を見て見ぬふりしてきたことが、その後の災いに繋がったと振り返っている。亀井宏は職務上永野以外の人物だったとしても統帥部の頂点にいた人物が、戦争に反対することは不可能であったと指摘する。
また、最終的に開戦を覚悟した原因については日本国内の事情だけではなく、アメリカ側も既に日米開戦を決意しており、アメリカ政府主導のもと日本本土への先制攻撃(空襲)を計画していた。「戦争発生と吾人の立場」によると永野自身も日本周辺でアメリカ側が飛行場の整備・航空兵力の増強を進めていた事実を察知しており、最終的に日本として自衛戦を覚悟する他なかったことが書かれている。
戦争発生と吾人の立場
家族に宛てた文書(戦争発生と吾人の立場)には「自衛戦」(太平洋戦争)を覚悟するまでの経緯が事細かに記されており(開戦までの日本国内の情勢と米国政府の態度など世界情勢についてくわしく分析されており)今次大戦の原因は日米双方にあると書かれている。
親族
- 本人
- 戸籍上の表記(戦前):永野脩身 (戦後):永野修身
- 祖父母
- 祖父:永野種次郎
- 親
- 兄弟姉妹
- 長兄:永野正路(検事)
- 次兄:永野道里
- 三兄:永野敬長
- 妹 :永野國子(永野春吉孫、両親死亡のため母実家である永野春吉養女となる。のちに永野正路養女)
- 妻(結婚年順)
- 妻: 永野りつ(山崎家より嫁す。りつ初婚。死別。婚姻期間 1907-1910)
- 妻: 永野信子(國澤家より嫁す。信子初婚。死別。婚姻期間 1913-1916)
- 妻: 永野ユウ(三浦家より嫁す。ユウ初婚。死別。婚姻期間 1917-1930)
- 妻: 永野京子(岩屋家より嫁す。京子再々婚。婚姻期間 1931-1947 前夫・後藤恕作と死別後に再婚。婚姻時期より参考文献に登場する永野修身夫人とは永野京子のことである。)
- 子
- 長女: 永野田鶴子(たづこ)母:りつ 1909-1925(粟粒結核で死亡)
- 次女: 永野侯子 (きみこ) 母:信子 1916-1916(生後半年で死亡)
- 三女: 永野寿子 母:ユウ 1918-1978
- 長男: 永野浩 母:ユウ 1919-1998
- (男子) 母:ユウ 1930-1930(出産時母子ともに死亡・入籍せず)
- 次男: 永野誠 母:京子 1933-
- 四女: 永野美紗子 母:京子 1934-
- 三男: 永野孝昭 母:京子 1937-1945(仙台空襲で死亡)
- 五女: 永野紗貴子 母:京子 1939-
年譜
- 1900年12月13日 - 海軍兵学校卒業(28期)。同期に、左近司政三。
- 1902年1月18日 - 海軍少尉に任官。
- 1903年9月26日 - 海軍中尉に進級。
- 1905年1月12日 - 海軍大尉に進級。
- 1909年5月25日 - 海大甲種学生
- 1910年12月1日 - 海軍少佐に進級。
- 1913年1月10日 - アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。
- 1914年12月1日 - 海軍中佐に進級。
- 1915年5月 - 日進副長。
- 1918年10月1日 - 海軍大佐に進級。海軍省人事局第一課長。
- 1919年11月1日 - 防護巡洋艦平戸艦長。
- 1920年12月1日 - 在アメリカ合衆国大使館付武官。
- 1921年10月7日 - ワシントン会議全権随員。
- 1923年12月1日 - 海軍少将に進級。
- 1924年
- 1925年4月20日 - 第一遣外艦隊司令官
- 1926年 - 軍令部出仕
- 1927年
- 1928年12月10日 - 海軍兵学校校長。
- 1930年6月10日 - 軍令部次長。軍令部長は谷口尚真大将。
- 1931年12月9日 - ジュネーブ会議全権。
- 1933年11月15日 - 横須賀鎮守府司令長官。
- 1934年
- 1935年11月4日 - ロンドン会議全権。
- 1936年3月9日 - 海軍大臣を拝命。
- 1937年2月2日 - 連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官。
- 1941年4月9日 - 軍令部総長。
- 1943年6月21日 - 元帥。
- 1944年2月21日 - 軍令部総長辞職。
注釈
- ↑ 同期は波多野貞夫(首席)、左近司政三など
- ↑ 御上「海軍ノ日次ハ何日カ」永野「8日ト予定シテ居リマス」御上「8日ハ月曜日デハナイカ」永野「休ミノ翌日ノ疲レタ日ガ良イト思イマス」[4]
- ↑ 海軍は軍艦とか駆逐艦に乗せられて、艦長が右、左といっていれば、それに従っていく以外独断専行をやる余地はない訳ですね。ところが、陸軍の方は陸戦でしょう。遠く分散しているから、独断専行をやらんとですね、一々上の人の命令を受けてられない。そういうところから独断専行がだんだん下克上の方にいってしまったんだ
脚注
参考文献
- 永野美紗子 『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』 南の風社。
- 著者は実子(四女)
- 吉田俊雄 「序章」「第一章 永野修身」『四人の軍令部総長』 文藝春秋〈文春文庫〉、1991年、ISBN 4-16-736004-7。(初出1988年)
- 永野の名を関してはいないが永野について200項近くと多くの分量を割いている。著者は副官を務めた。
- 大井篤 『海上護衛戦』 (初出1953年、以後数回に渡り出版社を変え再版)
- 片岡紀明 「『われ開戦の責を負う』 軍令部総長・永野修身の胸中」『正論』1998年6月号、産経新聞社。
- 久保田芳雄 八十五年の回想・第2章 忘れ得ぬ海軍の人びと
- 瀬島龍三 『大東亜戦争の実相』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、ISBN 4-569-57427-0。(1972年11月のハーバード大学での講演を出版、初出1998年)
- 鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』文藝春秋、2010
- 中澤佑刊行会『海軍中将中澤佑 作戦部長人事局長の回想』原書房
- 半藤一利 「永野修身と杉山元」『指揮官と参謀 コンビの研究』 文藝春秋〈文春文庫〉、1992年、ISBN 4-1674-8302-5。 (初出1988年)
- 半藤一利・秦郁彦・横山恵一・戸高一成 「永野修身」『歴代海軍大将全覧』 中央公論新社〈中公新書ラクレ〉177、2005年。
- 山岡兼三 真珠湾への道 日米開戦65年(6)『日本戦略コラム』内
関連項目
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大角岑生
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍大臣
1936年3月9日 - 1937年2月2日
|style="width:30%"|次代:
米内光政
テンプレート:S-mil
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
米内光政
|style="width:40%; text-align:center"|25px 連合艦隊司令長官
第24代:1937年2月2日 - 12月1日
|style="width:30%"|次代:
吉田善吾
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
伏見宮博恭王
|style="width:40%; text-align:center"|25px 軍令部総長
第16代:1941年4月9日 - 1944年2月21日
|style="width:30%"|次代:
嶋田繁太郎
- 転送 Template:End
- ↑ 高木惣吉 「第四章 大陸に戦火ひろがる」内「政党政治の崩れ去る日」『自伝的日本海軍始末記』 光人社〈光人社NF文庫〉、1995年、ISBN 4-7698-2097-6。(初出1971年)
- ↑ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』(プレジデント社、1990年)110頁
- ↑ 3.0 3.1 3.2 亀井宏 「人物抄伝 太平洋の群像2 永野修身」『奇襲ハワイ作戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ1)』 学習研究社、1994年、ISBN 4-0560-0367-X。
- ↑ 1941年11月3日「明治百年史叢書」『杉山メモ』より
- ↑ 実松譲 「第三章 真珠湾作戦と海大」『海軍大学教育』 光人社〈光人社NF文庫〉、1993年、ISBN 4-7698-2014-3。(初出1975年)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 吉田(1991) 「第一章 永野修身」
- ↑ 例えば酸素魚雷は世界最高水準と言われたが、実戦では信管の感度が良すぎて敵艦に到達する前に自爆してしまったり、主砲は機械工作技術の問題で、命中精度が悪かったり、航空機は動力技術の問題から馬力があるエンジンを製作することができず、潜水艦は機関技術の低さから騒音が激しく、すぐに敵に察知され撃破されてしまい戦術・戦略上有効に活用できなかったという。また、マネジメント技術の概念の無さから規格が統一されておらず、各車両、各艦船、各航空機ごとにボルトやネジが異なったり、陸海軍ごとに兵器や弾丸などの共有性が欠けていたりと米軍と比べ共用生・実用性が低く、工業力の効率性も圧倒的に劣っていたという(海軍反省会より)
- ↑ これについて関係者は「戦略を立てるにも統帥権の独立というものがありますので、陛下がそれを統括される以外には陸軍・海軍も統括できない訳ですから、そういう意味でやはりイギリスのウィンストン・チャーチルが陸海空を動かした。アメリカのフランクリン・ルーズベルトが陸海空を動かしてると、こう言う風な政治体制しなければですね、結局ああいう状況になるのはこれはもう必然の結果じゃなかったかという風に私は思うんであります」と述べている(海軍反省会より)
- ↑ 彼ら(優秀な若者)を今のうちから海軍にとっておき戦争中は彼らを海軍で温存しておこうではないか。彼らこそ戦後の日本国再建のための大切な宝ではないか(追想海軍中将中沢佑刊行会編.1978「追想海軍中将中沢佑」p96)
- ↑ 千葉工業大学の今日に通ずる大学教育の根本理念は玉川学園と京大から、技術教育は東大、東北大、東工大から支援を受け形成されていったものである
- ↑ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期92-93頁
- ↑ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期93頁
- ↑ 大井(1953) 「15 トラック異変とその波紋」
- ↑ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期37頁
- ↑ 戦友会『海軍神雷部隊』11頁
- ↑ 吉田(1991) 「序章」
- ↑ 吉田俊雄『四人の軍令部総長』文春文庫
- ↑ 中澤佑刊行会『海軍中将中澤佑 作戦部長人事局長の回想』原書房
- ↑ 瀬島(2000) 「第七章 東条内閣の登場と国策の再検討」
出典:参謀本部第二〇班(戦争指導)保管『御下問奉答綴』(戦後防衛研究所所蔵、当時参謀本部第一部長だった田中新一中将の日誌に基づく手記に拠る) - ↑ 大井(1953) 「2 船はそんなに沈まない」
- ↑ 野村實 「実らなかった山本五十六海相案」『山本五十六再考』 中央公論社〈中公文庫〉、1996年、ISBN 4-12-202579-6。(初出1988年)
- ↑ 吉田俊雄「四人の軍令部総長」文春文庫