日産・スカイライン

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テンプレート:内容過剰 テンプレート:出典の明記 テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Infobox 自動車基本情報 スカイラインSKYLINE )は、かつてプリンス自動車工業(旧:富士精密工業)が開発し製造販売していた、1966年の合併に伴って日産自動車が製造・販売している乗用車である。

概要

昭和32年(1957年)に富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)の主力車種として生産を開始。昭和41年(1966年)にプリンスが日産自動車に吸収合併された後も継続生産され現在に至る。プリンス時代から継続生産され車名が残っているのは唯一スカイラインのみとなった[1]

車名のスカイラインは「山並みと青空を区切る稜線」に由来する。平成19年(2007年3月21日、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、生産50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

長野県岡谷市鳥居平やまびこ公園内には、自動車博物館としては異例の単一車種の博物館「プリンス&スカイラインミュウジアム」がある。

C10型からR34型までは、型式ごとにCMキャッチコピーなどから採られた愛称(通称)を持つ。

沿革

初代 ALSI型(1957年-1963年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

1957年4月
富士精密工業(当時)より発売されたALSI-1型がスカイラインの初代となる。当時の日本における小型乗用車規格に合わせ、当初は1,500ccでの発売となった。グレードはスタンダード(ALSIS-1型)とデラックス(ALSID-1型)の2種類。
構造面は、低床バックボーン・トレー式シャーシを持つセミ・モノコック構造となった。前輪は前年のプリンスで既に採用されていたダブルウィッシュボーン独立懸架、後輪は日本最初のド・ディオンアクスルを採用した。搭載するエンジンは直列4気筒OHV・1,484ccのGA30型で、プジョー系の設計の発展形であるプリンス在来型エンジンの改良である。カタログスペックでは当時の日本製1,500cc車最速の最高速度125km/hを称した。
1958年
マイナーチェンジ。
1958年10月
第5回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー)に、排気量拡大型の試作車「スカイライン1900」(BLSI-1型)を出品。この試作車は当時の皇太子明仁親王今上天皇)の愛車となり、明仁親王が自ら運転した。
1959年10月
エンジン出力を70psへ向上し、ALSIS-2型(スタンダード)、ALSID-2型(デラックス)となる。
1960年2月
マイナーチェンジ。丸型2灯テールランプに変更されたほか、デラックスのみ4灯式ヘッドランプを採用する。
1960年10月
スタンダードがマイナーチェンジにより4灯式ヘッドランプに変更。
1960年秋
第42回トリノショーにイタリアのカロッツェリアジョバンニ・ミケロッティにデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」プロトタイプ(BLRA型/R21B型)を出展。
1961年9月
「1900デラックス」(BLSID-3型)追加。直列4気筒OHV 1,,862cc GB4型を搭載する。10月、「1900スタンダード」(BLSIS-3型)追加。
1962年4月
前述の「スカイライン・スポーツ」(BLRA-3型/R21B型)を追加。「チャイニーズ・アイ」と呼ばれるつり目4灯ヘッドライトのスタイル、クーペとコンバーチブルの2タイプの設定。搭載するエンジンはGB4型。テレビドラマ「ウルトラQ」の劇中で使用されていた。
当時の価格はDXが120万円、クーペが185万円、コンバーチブルが195万円。クーペの価格は当時のブルーバードの3倍に相当した。
1962年9月
「スカイラインスーパー」(S21D型)発表(スタンダードはS21S型と呼称)。4灯式ヘッドランプをもつフラットデッキスタイルとなる。搭載するエンジンは直列4気筒OHV 1,862cc G2型(91ps/4,800rpm、15.0kgm/3,600rpm)。

プリンスにおける乗用車派生型の商用モデルは、1956年に旧型プリンス・セダンの設計をベースに発売された「プリンス・コマーシャル」が最初であるが、1959年にはスカイラインの派生モデルである「スカイウェイ」にモデルチェンジした。ライトバンとピックアップが設定されたが、ライトバンには前席のみ2ドア仕様の他、1960年に車体左側のみに後席ドアを追加した3ドア型が追加された。1961年にはスカイライン同様に1,900ccモデルも追加されている。 テンプレート:- また、1900スタンダードのごく少数の車両が香港に輸出されタクシーとして使用されている。

2代目 S50型(1963年-1968年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

1963年11月27日
S50D-I型発売。1,900cc以上の上級市場はグロリアに譲り、1,500ccクラスの量販車市場を拡充するために、G1型直列4気筒OHV1,484ccエンジンを搭載する、小型ファミリーセダンとして開発・投入された。
モノコック構造を採用したボディバリエーションは、基本の4ドアセダンと、それをベースとした5ドアステーションワゴンの乗用車「エステート」(W50A-I型)の2種類。5ドアステーションワゴンの貨物車は当初スカイラインとは名乗らずスカイウェイ(V51A-I型)と称していたが、後のマイナーチェンジでスカイラインの名が与えられ「バン」となった。メンテナンスフリー化を積極的に進め、4万kmまたは2年間保障の封印エンジン[2]や、1年間3万km無給油シャシーなどを採用。
1963年10月
第10回全日本自動車ショーに、S50型をベースとした2ドアクーペ「プリンス1900スプリント」(R52A型)を参考出品。(デザインは、フランコ・スカリオーネ。)
1964年4月
スタンダードグレード(S50S-I)型追加。
1964年5月
第2回日本グランプリGT-II部門タイトル獲得を目指し、より強力なグロリアスーパー6用のG7型直列6気筒OHC1,988ccエンジンを、防火壁(前部バルクヘッド)直前を200mm延長して空間を確保した特別なシャーシーに搭載したスカイラインGT(S54A-I型)を開発。ホモロゲーション用に100台を生産し販売した。スポーツオプションとして、ウェーバー製サイドドラフト・ツインチョーク気化器3基をはじめとするエンジン関係やサスペンションなどシャーシー強化の各キットも同時に用意され、レース車両にはこれらが組み込まれた。
1965年2月
レースモデルと同様にウェーバー製のキャブを3連装し、125ps/5,600rpmを出力したスカイライン2000GT(S54B-II型)発売(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社、24頁参照)。
1500デラックスに、フロアシフト追加。
1965年4月
米国統治下だった、沖縄でも(S50E)型の輸出開始。
1965年5月
1500デラックスに、スペースフロー(AT)が追加。
1965年9月
生産速度の問題で必要数量を確保し難いウェーバー気化器を、2バレル気化器1基とした仕様(105ps)の「2000GT-A」(S54A-II型)が追加。2月に発売されていた2000GTは「2000GT-B」となった。このとき、GT-Aは青のGTエンブレム(通称;青バッヂ)、GT-Bは赤のGTエンブレム(同;赤バッヂ)を装着した。
1966年7月 
デラックスとスタンダードの中間グレード的存在の「デラックス・ファイン」という車種が追加された。このモデルは、スタンダードをベースにしたボディに、グリルは、デラックスの物を使用し、ボンネットには、「P」と書かれたエンブレムではなく「PRINCE」と書かれたエンブレムを使用した。
ちなみにラジオ、ヒーターは標準装備で、販売期間が同年10月までの3か月だったので、生産台数が少ない。
1966年8月
プリンス自動車が日産自動車と合併したため、車名をニッサン・プリンス・スカイラインに変更。
1966年10月
マイナーチェンジ。グリルが横桟のデザインになる(S50-II型)。
1967年8月
G1型に替わり、G15型直列4気筒OHC1,483ccエンジン(88ps)を搭載するS57D型が登場(但し、スタンダードS50S型、エステートW50A型、及びバンV51型は、G1型エンジンを継続使用)。6万km無給油シャシーとなった。

当時の価格はGTが86万円であった。 テンプレート:-

3代目 C10型(1968年-1972年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:ハコスカ又は愛のスカイライン

1968年8月
開発はプリンス自動車工業時代からS7型として始められており、日産との合併後初めて新規発売されたモデルである。基本の4ドアセダンボディ(C10型)、ステーションワゴンボディの乗用車「エステート」(WC10型)と商用車「バン」(VC10型)が発表された。
エンジンはプリンス製の直列4気筒OHC1,500cc G15型を搭載する。
足回りはフロントがマクファーソンストラットとコイルスプリングの組み合わせに変更された。リアはリーフリジッドである。
グレード展開は、スタンダードとデラックスのみであったが、デラックスにはシート形状とトランスミッションにより、ファミリーデラックス(3速コラムシフトベンチシート)、ツーリングデラックス(3速コラムシフト・セパレートシート)、スポーティデラックス(4速フロアシフト・セパレートシート)の3種のほか、女性仕様の「Lパック」がメーカーオプションとして用意された。
1968年10月
直列6気筒エンジン搭載の2000GT(GC10型)を追加。S5型同様、フロントノーズを延長しているが、S54型と違い、開発当初から6気筒化を配慮した設計構造とデザインが行われた。
S54型に搭載されていたプリンス製G7型エンジンに代わり、日産製直列6気筒、OHC、2,000ccのL20型(シングルキャブ)を搭載する。発売当初はかまぼこ型シリンダーヘッドと呼ばる後年主流となるL系(全排気量)エンジンとは形状が異なる物が搭載された、最高出力は105ps。1969年以降日産のL20型エンジンを搭載する全車種で新設計のシリンダーヘッド搭載エンジンに順次切り替わり、115ps(レギュラーガソリン仕様)となった。新旧を区別するため、新型をL20Aと呼称(車検証上の原動機の型式に変更はない)した。サスペンションは、フロントは4気筒同様のマクファーソンストラットであるが、リアはセミトレーリングアームとコイルスプリングへ変更され、4輪独立懸架となる。
当時米国統治下だった沖縄でも販売開始。
1969年8月
1500のマイナーチェンジおよび1800(PC10型)を追加発売。
フロントグリル、テールランプのデザイン変更。3分割式のフロントグリルが一体成型のワンピースグリルとなった。細部ではラジオアンテナが左フロントフェンダーから右Aピラーへ位置変更されるなど外観の変更が実施された。
1800はローレルに先行搭載されていたプリンス系の直列4気筒OHC1,800cc G18型(100ps)を搭載。1800はエステートにも設定された。尚、「愛のスカイライン」のCMキャンペーンはこの時スタートした。
1969年10月
2000GTシリーズをマイナーチェンジ。こちらも一体成型のワンピースグリルとなり、テールランプの意匠変更などが実施された。
1970年6月
2000GTにニッサンマチック・3速ATを追加発売。
1970年10月
マイナーチェンジおよび2ドアクーペボディの「ハードトップ」を追加発売。当時の欧州におけるセダンベースクーペのデザインセオリーであったハードトップスタイルのルーフ構成と後席フットクリアランス短縮によるショートホイールベース化を採り入れた。
新意匠のダッシュパネルなど室内の大幅変更が施されたほか、フロントグリル、テールランプや前後のバンパーなど外観の変更。
「ハードトップ」を1800(KPC10型)および2000GT(KGC10型)に追加。
1971年9月
マイナーチェンジおよび新グレードを追加発売。
フロントグリル、リアガーニッシュがハニカム調のデザインに変更されたほか、シート縫製基調など細部の変更が施された。
1500を88ps→95ps、1800を100ps→105psにパワーアップ。
ハードトップ2000GT-Xを追加。エンジンはフェアレディZなどに採用されていたL20SUツインキャブレター仕様で最高出力は125ps(ハイオクガソリン仕様は130ps)、その他のGTとの相違点は部分クロス張りのシートやパワーウインドウなど。エンブレムはGTが青色、GT-Rは赤色なのに対し「金色」。
セダンボディの1500/1800スポーティGLおよびハードトップ1500デラックス(KC10型)を追加。ハードトップ1800はスポーティGLとなった。
1972年3月
セダンボディに2000GT-Xを追加発売。
1972年5月
2000GTシリーズは5MTが標準装備化された。
1972年
モデル末期頃に日産車統一仕様の一環として5MT車の左テールランプ下部に「5speed」のエンブレムが追加取り付けされた、次代C110型へのフルモデルチェンジ間際であったため取り付けられた車輌は極めて少ない。

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4代目 C110型(1972年-1977年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:ケンメリ、ヨンメリ(セダンモデルのみの愛称)

1972年9月
C110型にモデルチェンジ。ボディバリエーションは基本の4ドアセダン、5ドアステーションワゴンの乗用車「ワゴン」と商用車「バン」、2ドアクーペの「ハードトップ」を有し、先代同様、セダンとクーペにはホイールベースを延長し6気筒エンジンを搭載した2000GT系の設定がある。プラットフォームは日産・ローレル(C130型)と基本的に共通。クーペのルーフ処理は引き続きハードトップ装着風であったが、ホイールベース短縮は行われていない。
サーフィンラインのプレスラインは、ごく浅く、プレーンな面構成となっは太いCピラーを特徴とし、「ワゴン/バン」はクオーターウインドウを廃し、スポーティーさを演出した。プレスラインが見えにくい、白いボディカラーの「ハードトップ」にのみ、リアフェンダーにデカール式のピンストライプが設定されている。
搭載するエンジンはG15型をボアアップした直列4気筒OHC1,600ccのG16型、タクシー教習車用のG16LPG仕様(販売は1975年まで)、先代より継続されたOHC1,800ccのG18型、およびL20型の4機種。足回りはフロントがマクファーソンストラット、リアは4気筒モデルがリーフリジッド、6気筒モデルがセミトレーリングアームとコイルスプリングの組合せである。
4ドアセダンのGT系、および「ハードトップ」の全グレードのテールランプが丸型4灯式となった。これは、以後スカイラインのアイデンティティの一つとして、10代目のR34まで受け継がれていくことになる。
この代から警察庁パトロールカー警らパトカー)として導入された。当時の警察の規定により、エンジンは6気筒(L20S型)、内装は血液汚れなどの手入れの楽なビニールトリムとなった専用モデルとなっている。警らパトカー仕様はR32型まで設定されている。
C110型の輸出車名は「ダットサン・240K」。その名の通りエンジンは2.4リットルのL24型が搭載されている。欧州等一部地域にはショートノーズ4気筒1,800cc搭載車を「ダットサン・180K」として輸出された。
通称は、広告キャンペーン「ケンとメリーのスカイライン」から。これは、先代のC10型の時代に展開された「愛のスカイライン」キャンペーンを継承、発展させたもので、「愛のスカイライン」のキャッチコピーも引き続き使用された。内容としては、若い男女のカップルがスカイラインに乗り、日本各地を旅するというシリーズもののCMで、この二人の名がケンとメリーである。性能の高さや、レースでの栄光といった旧来のスカイラインの硬派なイメージとは異なるソフトなイメージのCMシリーズであった。
4ドアセダンはヨンメリと呼ばれる事もあるが、これは、「4(ヨン)枚(ドア)のケンメリ」の略である。
1975年5月
マイナーチェンジ。4気筒モデルのエンジンは、旧・プリンス系のG16型、G18型から、日産系のL16型、L18型に変更された。
1975年9月
50年排出ガス規制 (A-) 対応の、電子制御燃料噴射(ニッサンEGI)を採用するL20E型を搭載する「2000GTX・E」と「2000GTR」以来の4輪ディスクブレーキや赤バッジを装備した「2000GTX・ES」をセダンとクーペ(「ハードトップ」)に追加。パワーステアリングをオプション設定。
1975年10月
セダンおよびクーペ(「ハードトップ」)の1600・1800・2000(L20S型搭載車)系をNAPSにより50年排ガス規制 (A-) に適合。同時にマイナーチェンジ、フロント/リアのデザインが変更される。最下位グレードがセダン1600DXとなりLPG営業車と「ワゴン」が廃止される。
1977年2月
1800GLエクストラと2000GT-Lエクストラ、2000GT-ELエクストラを追加。

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5代目 C210型(1977年-1981年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:ジャパン

1977年8月
C210型発売。通称は、自ら「日本の風土が生んだ名車」であると名乗った広告キャンペーンのキャッチコピー「SKYLINE JAPAN」から。プラットフォームは日産・ローレル(C230型)と基本的に共通。外観は先代のキープコンセプトとされた。ボディバリエーションはC110型と同様、基本の4ドアセダン、5ドアステーションワゴンの乗用車「ワゴン」と商用車「バン」、2ドアクーペの「ハードトップ」を設定し、セダンおよびクーペ(「ハードトップ」)には直列4気筒エンジン搭載車と直列6気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,515mm, 2,615mmとされた。ステーションワゴン(「ワゴン」、「バン」)は直列4気筒エンジンのみの設定であった。
搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1,595cc)、L18S型(1,770cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCがL20S型(1,998cc 115ps/5,600rpm、16.5kgm/3,600rpm)、およびL20E型(130ps/6,000rpm、17.0kgm/4,400rpm)の2機種。
自動車排出ガス規制の影響を受け、高出力のDOHCエンジンは設定されず(その時点で日産には、量産車に搭載し販売可能なターボチャージャー付きエンジン、DOHCヘッドを持つエンジンどちらも存在しなかった)、後にターボ付エンジンが追加された。
グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとではラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。ヘッドライトは、前期型はGT系、TI系とも丸目4灯式であった。後期型ではGT系は角目2灯式となったがTI系は丸目4灯式であった。テールランプは、GT系が丸型4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角型4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式。リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、2000GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT-E・Sが赤バッジとされた。2000GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。2000GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、2000GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。
スカイラインの象徴ともいえるフロントSエンブレムが、若干の違いはあるもののR30、R31までほぼ同じデザインで使用され、R34でも復活する。(R32とR33は違うデザイン)
1978年3月
ハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70%扁平ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。
1978年8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジンに変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排出ガス規制に適合し、車両型式がC211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。
1979年7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。2000GTシリーズは角型異型2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。
1979年8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応及び一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。
1979年11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティマグネシウムホイールクロモドラ製)、「ハードトップ」はカンパニョーロホイールを装備した。
1980年3月
2000GT系においてE・SおよびE・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュランタイヤを装備した。
1980年4月
ターボエンジンを搭載したモデルを追加。L20E型エンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145ps/5,600rpm、21.0kgm/3,200rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。「セドリック/グロリア[3]、「ブルーバード[4]に次ぐ日産において3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組合わせた車種である。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。
1980年6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはこの当時の国産ディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。また、2000TIはリアサスペンションがセミトレーリングアーム式独立懸架となり、4輪ディスクブレーキを装備するなど4気筒エンジンながらGT系と同等のメカニズムを持つ。

宮城県登米市にある警察資料館には実際に宮城県警察が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。グランツーリスモシリーズでは当代のみ未収録となっている。 テンプレート:-

6代目 R30型(1981年-1990年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:ニューマンスカイライン鉄仮面(後期型RSの通称)

1981年8月
R30型発売。
アメリカの俳優ポール・ニューマンを広告キャラクターに起用した事により「ニューマン・スカイライン」や、後期型のRSでは薄型ヘッドランプとラジエーターグリルレスのデザインで「鉄仮面」の通称で親しまれていた。グレード体系はC210型同様の直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TIシリーズ」の2系列だが、ホイールベースは1種類となった。ボディバリエーションは、基本の4ドアセダン・2ドアクーペの「ハードトップ」・5ドアセダンの「ハッチバック」・後に追加されるステーションワゴンの商用車「エステート」の4種。
5ドアセダン(「ハッチバック」)はスカイライン史上初である。テンパータイヤ採用、スペアタイヤの空気圧減少警告灯も装備されていた。搭載エンジンは、Z18S型(エステート・TI)、Z18E型/Z20S型/Z20E型(TI)、L20E型/L20ET型/LD28型(GT)の7機種。
1981年10月
直列4気筒4バルブDOHC FJ20E型エンジン(150ps/6,000rpm、18.5kgm/4,800rpm)を搭載する「2000RS」(DR30型)を追加。直列6気筒でないエンジンを採用したこの車両はRSという新しい名を与えられた。RSは4気筒モデルであるが、GT系と同じ丸型4灯式テールランプ。同時にZ18S型を搭載する新ボディ形式「エステート」が追加された。
1982年10月
一部変更。「TIシリーズ」の1,800cc Z18型エンジンを直列4気筒OHC CA18型/CA18E型エンジンへ変更(FJR30型)。「TI Lエクストラ」および「GT Xエクストラ」を追加し、「2000RS」に60%扁平タイヤを装着。
1983年2月
FJ20E型にターボチャージャーを追加した、FJ20ET型(190ps/6,400rpm)を搭載した「2000ターボRS」(DR30JFT型)を追加。歴代スカイラインのどれよりも高出力であったことから「史上最強のスカイライン」というキャッチコピーが用いられる。また、日産は、このモデルにてC10型(ハコスカ)以来となるワークスとしてレースに復帰。
1983年8月
マイナーチェンジにより後期型へ。前後の意匠変更、大型バンパーの採用等を行う。RSの後期型は薄型ヘッドランプ、ラジエーターグリルレスのデザインにより「鉄仮面」と呼ばれた。パワーランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様「2000ターボRS-X」(DR30XFT型)を追加。また、従来GT-EXエクストラに標準装備されていたぼかし入りフロント合わせガラス&リア合わせガラスが廃止され、全グレードのフロントガラスが部分強化ガラスのみとなる。
ファイル:R30-pnv.jpg
ポール・ニューマンバージョンのサインデカール
1983年10月
日本初のAT専用グレードであるNAの豪華仕様「2000RS-X(DR30XFE型)」、および15インチアルミホイール、ブロンズガラス、専用ステッカーを装備する「2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン」(HR30JFT型)を追加。
1983年11月
日産50周年記念限定車「50アニバーサリー バージョン」を設定。これはハードトップ2000ターボRS-Xをベースに、メッキドアミラー、専用エムブレム、「ハイタッチモケット」と呼ばれる専用の内装(後にオプション設定)を備え、白のほかにガンメタ/赤茶ツートンの専用ボディカラーも用意された。
1984年1月
「2000GT-E・Xパサージュ」(HR30GAE型)を追加。
1984年2月
インタークーラー搭載モデルである「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」(DR30JFS/DR30XFS)を追加。このモデルには日産が正式に「ターボC」の愛称を与える。RS-XターボCでは、前述のハイタッチモケット仕様の内装が選択可能となった。インタークーラー付きFJ20ET型エンジンはグロス表示で205ps/6,400rpm、25.0kgm/4,400rpmを発生させた。外観上の大きな違いは、トランクリッドに取り付けられたエンブレムとフロントバンパー左下エプロンのインタークーラー用ダクトが開けられている。ターボC以外は開けられていない。
1984年8月
エンジンの点火系を変更した「プラズマスパークシリーズ」を発売。高パフォーマンスのエンジンでのイージードライブを可能とした「2000ターボインタークーラーRS-X A/T」(DR30XAS型)、および「2000ターボGT-E・II」(HR30HFT型)を追加。
1985年8月
モデルチェンジにより販売はニューモデルのR31型に切り替わるが、商用車の「エステート」は1990年2月まで生産販売が継続される。[5]

なお、この型式をもって、カタログにおいて「開発者」である「桜井眞一郎」のコメントは登場しなくなっている(「R30」でも「桜井眞一郎」の記述はどこにもなく、あくまでも「開発者」とされている)。 テンプレート:-

7代目 R31型(1985年-1989年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:7thセブンス)、R31アールサンイチ)、都市工学スカイライン

ボディバリエーションは、「4ドアセダン」・ピラーとサッシュを排した「4ドアハードトップ」・5ドアステーションワゴンの乗用車「ワゴン」・「2ドアスポーツクーペ」の4種。

1985年8月
R31型発売。プラットフォームはローレル(C32型系)やレパード(2代目.F31型系)と共通。発売当初は「4ドアセダン」とスカイライン初の「4ドアハードトップ」の2ボディタイプのみであったが、翌年早々に「ワゴン」が、そして「2ドアスポーツクーペ」[6]と、相次いで追加された。メカニズム面では、S20型エンジン以来の直列6気筒4バルブDOHCエンジンで、180ps(ネット表示。発売当初はグロス表示210ps)を発生するRB20DET型を搭載している。4輪独立操舵システムであるHICASを搭載したモデルである。搭載するエンジンは前述のRB20DET型のほか、直列6気筒がDOHC RB20DE型、SOHCターボ RB20ET型、SOHC RB20E型、SOHCディーゼル RD28型。直列4気筒はSOHC CA18S型の計6機種。サスペンションはフロントがストラット式、リアがセミトレーリングアーム式。但し「4ドアセダン」・「4ドアハードトップ」の各1800シリーズおよび「ワゴン」全車はリアが5リンク式リジッド。グレード体系は豪華版の「パサージュ」と普及版の「エクセル」が各エンジン版に用意されていた。
1986年1月
「ワゴン」を追加。
1986年5月
「2ドアスポーツクーペ」のGTSシリーズを追加。ターボ・チャージャーのタービン素材に軽量なセラミックを採用しターボラグの低減を図った「セラミック・ターボ」を採用している点が特筆される。時速70kmを超えるとフロントエアダムから自動でせり下がる「GTオートスポイラー」もオプション設定された。
1986年8月
「4ドアセダン1800エクストラG」を追加。
1986年9月
「2ドアスポーツクーペ」に引続き、「4ドアハードトップ」にもGTSシリーズを追加。
1987年2月
「2ドアスポーツクーペGTSツインカム24VターボNISMO」を限定1000台にて設定。イタルボランテステアリングホイール、バケットシート等を装備する。
1987年5月
「4ドアセダン1800エクストラGリミテッド」、および「4ドアセダン1800Gリミテッド」を追加。
1987年8月
マイナーチェンジ。4ドアのフロント周りの造形をクーペと共通するデザインへ変更や量産車で世界初のプロジェクターライト採用など、外観とエンジン[7]に手が入る。マイナーチェンジと同時に、当時のグループAのホモロゲーションモデルとして「2ドアスポーツクーペGTS-R」を800台限定で販売。大型コンプレッサーのターボ、大型空冷式インタークーラー、等長排気マニフォールドの採用などで210ps(ネット表示)を発生するRB20DETを搭載。フロントスポイラーは「GTオートスポイラー」と同形状で固定化し、大型で専用のリアスポイラーを装備している。1987年11月のインターTECにてレースデビューした。[8]
1988年5月
日産の子会社であるオーテックジャパンが独自にエンジンや足回りをチューニングし、GTS-Rと同じ210ps(ネット値)を発揮する限定車「GTSオーテックバージョン」が登場(限定200台)[9]。注文数が大きく上回り、発売日には抽選で販売した。

なお、カタログモデルでタクシー仕様車が設定されたのは同型が最後となった[10]。 また、時期的にフェンダーミラー車から買い替えが多かったためか、運転席側をドアミラー、助手席側をフェンダーミラーとする左右非対称のアンシンメトリーミラーがオプション設定されていた。[11] オーストラリアでは1986年からCA20E搭載の4気筒モデルをピンターラ (Pintara) という名称で、豪州日産のクレイトン工場で現地生産された。加えて、これまでのセドリック(430型まではDATSUN 220C/280C)の輸入販売中止に伴う代替対策として6気筒モデルは、日本では販売されなかったRB30Eエンジンを搭載したセダンとワゴンが、スカイラインの車名のまま1988年から90年にかけて生産された。なお、2代目ピンターラはブルーバードU12型と同一となり、日本には5ドアハッチバック・モデルが、BLUEBIRD AUSSIE(ブルーバード・オーズィ)として輸入・販売された。

コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000ccSOHCのRB30E型エンジンのシリンダーブロックにRB20DEのパーツを組み合わせたDOHCエンジンを搭載した、コンプリートカートミーカイラM30として市販した。これは、日本初の公認チューニングカーとしてトミーカイラが世に出した最初のモデルでもある。このM30は2007年2月時点での日本での現存が8台(R31HOUSE調べ)。同じくコンプリートカーとしてM20も存在した。こちらも生産台数30数台。

南アフリカでも29,305台のR31型4ドア・セダンが生産され、エンジンラインナップはRB30E、RB20EそしてCA20Sが搭載された。

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8代目 R32型(1989年-1993年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

通称:R32アールサンニィ)、超感覚スカイライン

1989年5月22日

4ドアセダン7グレード、2ドアクーペ5グレードで登場。FR車のみ同日発売でGT-Rを含む4WD車は8月発売とアナウンスされた。5ナンバー枠の限界近くまで大型化していた先代と比べて大幅なダウンサイジングが行われたと同時に、GT-R以外の系列は最後の5ナンバースカイラインとなる。ボディタイプは、サッシュレス4ドアセダンである「4ドアスポーツセダン」と「2ドアスポーツクーペ」のみとなった。

標準モデルの搭載エンジンは直列6気筒が215psまでパワーアップされたRB20DET型(GTS-t、GTS-t TypeM)を筆頭に、RB20DE型(155ps,GTS)、SOHCのRB20E型(125ps,GTE)と直列4気筒SOHCのCA18i型(91ps,GXi)もあった。なお、R31型まで設定されたディーゼルエンジンは設定されなかった。後にマイナーチェンジで2,500ccのRB25DE型(180ps)が搭載され、5速ATを組合わせたGTS25も追加された。このように、GT-R以外の3ナンバーモデルも発売されたものの、A31型セフィーロのように全車3ナンバー化はされなかった。またこのモデルから4気筒、6気筒に関わらず、すべてのグレードにおいて丸型4灯テールランプが採用されている。GTS-t TypeMにはアルミ対向キャリパーが採用され、フロント対向4ポット(ローター直径280mm×厚さ30mm)、リア対向2ポット(297mm×18mm)のブレーキシステムを装備する。

前期・後期共に教習車仕様が存在していた。

パトカー仕様の設定はこの代が最後となる(YHR32型車が1991年8月まで製造)[12]。なお先代R31型までは中東やオセアニア向けなどの輸出仕様が存在したが、このR32型は日本国内専用モデルであった。

1989年8月21日

GT-Rと共にGTS-4販売開始。RB20DET型エンジンにGT-Rと同じアテーサE-TSの組み合わせが採用されている(鉄パーツ多用による重量と、ブリスターフェンダー非装着なのでトレッドの狭さがありGT-Rほどの高性能は得られていない)。

1991年8月20日

マイナーチェンジ。フロントバンパー、フロントグリル、ヘッドライト、バッジ類などを小変更(4ドアのみテールランプのデザインも小変更)。内装はクロスの素材や色、メーターパネルなどを変更。またサイドドアビームや運転席エアバッグをオプション設定するなどの衝突安全対策を充実・GTS-tグレードの消滅(前期型にはGTS-tというRB20DET搭載ながら片押しキャリパー、ステアリングがGTSなどと同じグレードがあったが、GTS-t TypeMのみとなった) セダン・クーペ共にRB25DE型エンジンを搭載したGTS25を追加、世界初の5ATが搭載される(代表的な型式はE-ECR32)。GTS25にはGTEとGTSより大径であるブレーキシステム(前期GTS-tで採用されていた)が装備される。前:ローターの厚みはそのままに大径化 280mm×22mm、後:ローター直径はそのままにベンチレーテッド化 266mm×16mm。

1992年2月

オーテックジャパンより、4ドアスポーツセダンGTS-4をベースに、GT-R用RB26DETT型をNA化し、鍛造ピストンや高回転カムシャフトを採用するRB26DE型(220ps/6,800rpm、25.0kgm/5,200rpm)と4速ATを組合わせた「オーテックバージョン」[13]が発売された。

その他、コンプリートカーメーカーのトミーカイラがオーストラリア向け車両に搭載されていた3,000ccSOHCのRB30E型エンジンをRB26DETT型のパーツを流用しDOHC化したモデルを製作した。このモデルは、NAながら280psを発揮させるRB30DE型を独自開発したものであり、オーテックと同じくGT-Rではなく2ドアスポーツクーペGTS-tの車体に搭載しコンプリートカーとして市販した。 テンプレート:-

9代目 R33型(1993年-1998年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:R33アールサンサン)、GT9ジーティーナイン

キャッチコピーは本流グランドツーリングカー。ボディをふたたび大型化。主力は2.5Lとなり、全車3ナンバーとなった。GT-Rは1995年1月に発売された。R32型に比べて全体的に大型化された事により、居住性は大幅に上がった。R33デビュー前より「ボディ大型化」が噂されており、車両重量増加を懸念する声が多かったので、車両重量をR32と同等になるように軽量化された。しかし、ボディ剛性がスポーツ車としては十分でなかったため、R34では重量増加を覚悟の上でボディ剛性強化を行なった経緯があった。

サスペンション形式はR32と同じくマルチリンクだが、前アッパーアームをI型からA型に変更、後ダンパーのストローク増、などの改良が図られている。

クーペ全てとセダンの前期モデルは、バッテリーをトランク奥に設置するハイトラクションレイアウトを採用している。

セダンはここでサッシュレスドアからプレスドアに変更された。ただし、クーペはサッシュレスドアのままである。

エンジンのラインアップは2.5L RB25DET型とRB25DE型、および2.0L RB20E型(R33型唯一のSOHCエンジン)の4タイプとなり、4気筒のモデルは消滅した。またスカイラインとして初めて、全グレードに「GT」が冠されることになった。トランスミッションは5速MTと4速AT、5速AT(2.5LNAモデルの5速ATはマイナーチェンジにて4速ATに変更される)であった。RB25DET型エンジンは『リニアチャージコンセプト』により過給圧を抑えレスポンスの向上を図った。4WDモデルのGTS-4は、ノンターボ化されブレーキ等を変更してスポーツモデル路線から実用重視モデルに変更されている。

1995年1月
一部変更。運転席SRSエアバッグ、およびテールパイプフィニッシャーを標準装備としたほか、外装を一部変更。セダンのラジエータグリル、ヘッドランプ周りをスモークシルバーに変更し、GTSタイプG系にアルミホイールを標準装備化。クーペのラジエータグリルをボディカラー化し、「エアロパッケージ」を設定。「セダンGTS25タイプG・SE」および「セダンGTS-4タイプG」を追加。
1996年1月

ビッグマイナーチェンジ。外装が大幅に変更され、セダンとクーペの差別化が明確にされた。またセダンではトランク容量確保のため、トランクルームにあったバッテリーをエンジンルームに戻した。牧瀬里穂が出演するCMが放送され、当初は「男だったら、乗ってみな。」というキャッチコピーを使用していたが、この表現が性差別に該当するとして「キメたかったら、乗ってみな。」に差し替えられたというエピソードがある。

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10代目 R34型(1998年-2001年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 通称:R34アールサンヨン

1998年5月
R34型発売。キャッチコピーはドライビングボディ。先代の反省からかホイールベースを短縮し、ボディ剛性が向上され、同時に安全性も向上された。搭載するエンジンは全て直列6気筒DOHCであり(スカイラインとしてはこの代より全て4バルブDOHC化)、2.0LのRB20DE型、2.5LのRB25DE型、および2.5Lターボ付のRB25DET型の3種類。スカイライン最後の直列6気筒エンジン車。マニュアルモード付ATを2.5L 2WDモデルに設定した。MTはクーペの全仕様、セダンのターボモデル、4WDモデルおよび2.0Lモデルに設定された。
標準での最スポーツモデルでRB25DET型を搭載する「25GT-t」はついに280psを発揮するまでに至った(さらにマイナーチェンジでR32・GT-Rの最大トルクをも上回った)。
1999年2月
4ドアセダンに電動SUPER HICAS、リヤビスカスLSD等、ターボ車同様の足回りを持つ「25GT-V」を追加。R34型登場時には設定のなかった2WDセダンのNA 2.5LとMTの組み合わせとなる。
3月末までの期間限定モデルとして売り出されたが、4月以降も生産され翌年発売された2ドアと共に、後期型ではカタログモデルとなった。
1999年9月
2ドアスポーツクーペ・4ドアセダンともにリヤビスカスLSDをヘリカルLSDに変更。また細かいところでは、エンジンカバーに書かれた「Turbo」「NEO STRAIGHT 6」の文字に施された赤い塗装が廃止されたことがカタログから読み取れた。
2000年1月
2ドアスポーツクーペに「25GT-V」を追加。
2000年8月28日
マイナーチェンジ。内外装を一部変更したほか、RB25DET型の5速MT車にて、エンジンのトルクアップを施した。ただし、このマイナーチェンジ車はGT-Rを除きわずか10か月しか販売されていない。
2001年6月
RB型エンジン搭載最後のモデルで3年という短いサイクルでV35型へバトンタッチ。その後もGT-Rは継続販売された。なお、2ドアクーペは交通取締り用のパトカーとして数台採用された。4ドアセダンのGTターボは交通取締り用の覆面パトカーとして50台が導入された(前期型)、しかし少数ながら後期型も埼玉や和歌山などの高速隊には存在している。その後捜査用車両としてNAエンジンの4ドアセダンが127台導入された、最近では交通取り締まり用はクラウンの覆面パトカーにその座を譲ることが多くなった。

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11代目 V35型(2001年-2006年[14]

テンプレート:Double image stack セダン テンプレート:Main 1999年10月の第33回東京モーターショーに、コンセプトカー、「XVL」を出品。当初はスカイラインとは別のモデルとして発表され、日産の新しいセダンとして開発が始められた。2001年6月18日には「XVL」をV35型スカイラインとして発売。10代目の項の通り、R34型登場から3年後にV35型が登場したが、先代までのフルモデルチェンジのサイクルと比較して短い。この型から、直列6気筒エンジンに替わり、V型6気筒直噴ガソリンエンジンのVQ30DD型、VQ25DD型を搭載した。また、丸型のテールランプが廃止(後のマイナーチェンジで復活)など、デザインの変更も行われた。

一方、国外では、日産の上級ブランドであるインフィニティブランドにおいてインフィニティ・G35として販売された(「インフィニティ・G20」、日本名プリメーラの後継車)。

クーペ テンプレート:Main 2003年1月16日にセダンより約1年半遅れて発売(MT車は同年2月6日発売)。搭載するエンジンはVQ35DE型エンジンのみ。なお、クーペではセダンに先立ち丸型テールランプが復活している。

2007年8月にクーペの販売終了。この2か月後にV36型クーペが登場している。 テンプレート:-

12代目 V36型(2006年-[15]

テンプレート:Vertical images list セダン テンプレート:Main 2006年4月にニューヨーク国際オートショーで輸出仕様である新型インフィニティG35セダンが出展され、同年11月20日に日本国内で発売された。目標月間販売台数は1000台と発表されている。 先代モデルからのキープコンセプトであり、エンジンは改良型VQHRエンジンVQ35HR型 V6 3.5LとVQ25HR型 V6 2.5Lを搭載。スポーツグレードである「350GT Type SP」と「350GT Type S」には四輪操舵システム「4輪アクティブステア 」をメーカーオプション設定。

V37型販売後も、車種を絞って販売継続する[16]

クーペ テンプレート:Main 2007年4月のニューヨーク国際オートショーにおいてG37クーペが発表され、同年10月2日に発売。エンジンはVVEL(バルブ作動角・リフト量連続可変システム)を採用した3.7LのVQ37VHR型を搭載。セダンにはなかった6速MTも設定され、日本初となる歩行者との衝突時に瞬時にボンネットを浮かせる「ポップアップエンジンフード」も搭載された。目標月間販売台数は200台と発表されている。

クロスオーバー テンプレート:Main 2009年7月13日に販売を開始。従来型にもアテーサE-TS方式の四輪駆動車はあったが、SUVの設定はスカイライン史上初であり、ハッチバックを持つ車型も、6代目のR30型系以来となる。 テンプレート:-

13代目 V37型(2014年-)

テンプレート:Vertical images list 2013年9月に、北米で新型インフィニティ・Q50が発表された。日本では同年11月11日に13代目V37型スカイラインとして発表され、翌2014年2月26日に発売。スカイライン初の全グレードがハイブリッド車となった[17]。また、「インフィニティ」の開発によって培われた高い技術力やデザインの知見によるモデルのため、その証としてインフィニティのバッジが装着されている。V37型発表後もV36型は2.5L車3グレード(「250GT」・「250GT Type S」・「250GT FOUR」)に集約し、装備の追加や価格改定による車両本体価格の値下げを行った上で販売が継続される[18]。併せて、日産ホームページのWebカタログにV36型スカイラインセダンのページが新設され、元々あるスカイラインセダンのWebカタログとは区別される。国内の商品企画を担当した日本商品企画部リージョナルプロダクトマネージャーの寺田美穂は、「年齢でいうと40代前半の男性。共働きの奥さんがいて、娘が1人。外資系企業で管理職をしており、非常にタフな環境の第一戦で活躍している人。都心のタワーマンションに住んでいる。」をターゲット層としているという[19]

2014年5月には2.0Lターボ車を追加することを発表し、翌月に販売を開始した。

テンプレート:Main テンプレート:-

スカイラインのモータースポーツ活動

スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦している。

特にスカイラインGT-Rの活躍で有名であるが、R30シルエット・フォーミュラ、R31・GTS-RでのグループA全日本ツーリングカー選手権参戦など、GT-Rが無かった時代の参戦もあった。

2代目(S50型)

ファイル:S54 Nissan Skyline 2000GT.JPG
S54 スカイライン 2000GT

1964年5月 第2回日本グランプリT-Vクラスにスカイライン出場、1〜7位独占。GT-IIクラスにスカイラインGT(S54-I型)出場、2〜6位入賞。生沢徹は1周だけポルシェ・904の前を走り、3位でレースを終えた。実際は、友人であった式場壮吉にレース前冗談で「頼む!1周だけでいいからトップ走らせてくれ!」と嘆願したことに対し、式場が応えたとされ、後に式場本人も「生沢に道を譲ったつもりが、日本のモータースポーツ界・自動車産業に道を明けていたのかもしれない」と語っている。[20]ただし、この談合説に関しての生沢と式場の談話は、時期によって内容が二転三転しており、明確な真偽は不明である。

3代目(C10型)

同月 「JAF公認700キロ ノンストップラリー」にて「スポーティデラックス」が優勝を飾る。

1970年6月 「ツール・ド・ニッポン」に2000GTが出場。

1971年5月 「'71日本グランプリレース大会」ツーリングカーbレースにてGT-Rが1-3位、5位を獲得する。

1972年3月 「'72富士GCシリーズNo1 富士300キロスピードレース」スーパーツーリングレースにて、GT-Rが豪雨の中、高橋国光が全車を周回遅れにして1位、通算50勝を達成する。

1972年9月 「'72GCシリーズ 富士インター200マイルレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースにて北野元が駆ったGT-Rが1位、久保田洋史が3位、正谷栄邦が6位を獲得し、通算52勝目を飾る。そして最終的に通産57勝の成績を残した。

同じ年、スパ・フランコルシャン24時間レースに地元ベルギーのディーラーによる支援を受けたシャルル・バン・ストールが4ドア2000GT(GC10)の輸出仕様「ダットサン2000GT」を3台ディビジョン2に出場させ、ガスケットトラブルによりリタイヤした61号車以外の2台が完走、60号車が総合20位、62号車が同じく28位に入るという健闘を見せた。2ドアGT-Rではない理由としてはFIAで国際公認を取得していたのがグループ2のC10(4ドア)だけであったのとGT-Rは日本国内のみの販売だったため。なお、同じレースの同クラスにはマツダスイスレーシングの手により2台のサバンナRX-3も出場しており、予選ではサバンナのほうが速かったものの決勝では65号車の25位という結果に終わった。

C10型の強さを語る上の代名詞として「49連勝」というフレーズが昨今において雑誌、広告、DVD等のメディアにおいて広く使用され認知されている。ただし、この連勝数については諸説があり、例えばプリンスの丘公園におけるC10型の功績を称える碑には50連勝と書かれていることに対して、モータースポーツ誌のRacingOn' の444号では、うち18がクラス優勝[21]、また1971年7月25日に行われた富士1000kmレースにおいて総合6位(クラス2位)となっているため、連勝記録は46で止まっていると指摘している[22]。なお、日産のモータースポーツ部門であるNISMOはHPにおいて「49勝し更に50勝目も挙げた」という表記を取っている[23]

6代目(R30型)

テンプレート:Double image stack 1982年5月 当時のグループ5規定に合わせたレーシングカー「スカイライン スーパーシルエット」が登場。「ハードトップ2000RS(KDR30型)」をベースに車体の一部をパイプフレームとするノバエンジニアリング製のシャシーに、大型のフロントスポイラー、およびリアウイングを備えるムーンクラフト製のカウルをまとい、「RS」のイメージカラーである赤/黒の2トーンカラーが特徴。ドライバーはかつてPGC10型GT-Rを操った長谷見昌弘。エンジンはサファリラリーなどで使用された「バイオレット」に搭載されていた直列4気筒DOHC LZ20B型(にエアリサーチ製T05Bターボチャージャー、およびルーカス製メカニカルインジェクションシステムを組合わせ、 570ps/7,600rpm、55kgm/6,400rpmとなった。トミーがメインスポンサーを勤め、トミカのバリエーションとしてモデル化もされた。

また日産自動車の意向により、同様のレーシングカーが「シルビア(KS110型)」および「ブルーバード(KY910型)」でも製作され、それぞれ星野一義、柳田春人がドライブした。「シルビア」のメインスポンサーは日本ラジエーター(現カルソニックカンセイ)、「ブルーバード」のメインスポンサーはコカ・コーラであった[24]。1984年度まで国内外のレースに参戦し、1983年シーズンではR30型のマイナーチェンジに伴い、フロントフェイスおよびテールランプが変更された。また、スプリント用とは別に1982年8月に耐久用マシン(日産・スカイラインターボC)も追浜ワークスで製作され、南アフリカのキャラミ9時間に参加した。翌年グループC規定にあわせマシンも改造され、全日本耐久選手権に参戦する。[25]

そのほか、1985年より国内選手権として開始されたグループA規格によるJTCにも参戦。翌1986年には鈴木亜久里/和田孝夫の手によってシリーズチャンピオンを獲得するも、1987年シーズンはフォード・シエラRS500にタイトルを奪われる事になる。開始年には市販車が既にR31型へと移行していたにも関らず、R30型が投入された背景にはシリーズ開始がR31発表以前であった事が挙げられる。しかし旧型車両と言う事もありエボリューション車両が開発されず、終始苦しい戦いを強いられた。

7代目(R31型)

1987年インターTECにGTS-Rがデビュー。

1988年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

1月 第1戦「新春NRC鈴鹿300km自動車レース」 優勝
3月 第3戦 「西日本300kmレース」優勝

1989年度全日本ツーリングカー選手権にGTS-Rが参戦。主な戦績は以下の通り。

5月 「89ハイランドグループA300kmレース」 優勝
8月 「89レース・ド・ニッポン」 優勝
9月 「SUGOグループA 300kmレース」 優勝
9月 「グレード20ドライバーズレース」 優勝
長谷見昌弘がドライバーズ・タイトル獲得

1995年 全日本GT選手権GT2クラス(後のGT300クラス)に於いて石橋義三によりチャンピオン獲得

9代目 (R33型)

1993年、JTCCに4ドアGTSがデビュー。

DVD「スカイライン CMコレクション」

2010年4月7日には、過去の日産・スカイラインのテレビCMをまとめたDVDスカイライン CMコレクション」(KIBF-731)がキングレコードより発売された[26]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

博物館

テンプレート:自動車テンプレート:NISSAN Timeline(初期) テンプレート:1980-1999 NISSAN Timeline

テンプレート:NISSAN Timeline
  1. プリンス時代の車名としてはクリッパーが、三菱自動車からのOEM軽自動車で車名復活している。
  2. 1960年代初頭までの自動車は、ほこりや砂などでエンジン内が磨耗を起こしがちであったため、ライナーを打ち込んで内部を研削し磨耗代を復元するためのヘッド開閉は頻繁で、これを長期不要としたのは画期的であった。長く用いられた在来エンジンの設計を踏襲してはいるが、「封印エンジン」が実現したのは、材質の改良や、内部の表面加工改良の結果である。
  3. 1979年12月発売。
  4. 1980年3月発売。
  5. 後継は、アベニールカーゴ。その後エキスパートを経て、現在はADエキスパートが販売されている。
  6. R30型までの2ドアクーペ「ハードトップ」と異なり車体剛性確保のためBピラー付きのモデルとなったことからボディ名称にはクーペが用いられた
  7. 若干のパワーアップで、RB20DETが190ps。
  8. 専用カラーのブルーブラックのみ
  9. この限定車も専用色だった。(ゴールドメタリック)
  10. エンジンはCA18P型-LPG仕様。小型タクシーの全長の規定によりマイナーチェンジ後もフロントおよびリヤバンパーの変更は無かった
  11. タクシー仕様、パトカー仕様やメーカーオプションで普通のフェンダーミラーも設定されていた。
  12. 1991年にはV6エンジン(VG20E)を搭載するグロリアが採用されたが、その後同じRB20Eを積むクルーを投入。
  13. スカイラインオーテックバージョンR32公式サイト
  14. クーペ2003年-2007年
  15. クーペ2007年-
  16. 日産自動車「スカイライン」国内仕様はハイブリッドに絞る 世界初のステア・バイ・ワイヤ - Tech-On! 2014年1月24日
  17. 日産が7年ぶり新型スカイライン 13代目は初のHVmsn産経ニュース
  18. 新型「スカイライン」を発表 - 日産自動車 ニュースリリース 2013年11月11日(2013年11月12日閲覧)
  19. 「新型スカイライン」の想定顧客 実は600人位しか実在しない? – ガジェット通信
  20. SUNTORY SATURDAYWAITINGBAR1999年11月27日放送「スカイライン伝説」
  21. 37勝目のレースは総合優勝がダットサン240Z、GT-Rはクラス優勝(総合5位)等。
  22. また43・45勝目はPMCS(プリンス・モータリスト・クラブ・スポーツ)が主催した日産車のみのレース優勝と指摘している。
  23. 日産レースカー名鑑Vol5 SKYLINE GT-R「羊の皮を着た狼」最強グランツーリスモ
  24. 当初は、兄弟車のガゼールとして参戦していたが途中でカウル形状変更・コカコーラがメインスポンサーだったが、途中からオートバックスに変わった。
  25. キャラミに参戦した車両はグループC規定で製作したもの以後グループC規定に変更された国内戦でも使用。別冊ハイパーレブ・スカイラインチューニング3内参照。
  26. KING RECORDS OFFICIAL SITE > スカイライン CMコレクション