山田顕義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 山田 顕義[1](やまだ あきよし、天保15年10月9日1844年11月18日) - 明治25年(1892年11月11日)は、日本江戸時代末期(幕末)の武士長州藩士)、明治時代の政治家陸軍軍人は顕孝、のち顕義と改めた。幼名市之允(いちのじょう)。階級陸軍中将栄典正二位勲一等伯爵

日本の「小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。

また、山田自らが所長を務めた皇典講究所においては、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大學)を創設しており、とりわけ日本大学は彼を学祖としている。

吉田松陰は山田顕義の師であり、その吉田松陰が扇面に綴った詩を山田顕義に贈っている[2]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[3]」である。

生涯

生い立ち

天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[4](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる。一門に村田清風山田亦介河上弥市らがいる。

安政3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の山田亦介により、中村九郎竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術柳生新陰流)を学び、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した。

安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。

幕末期

文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ。

元治元年(1864年)、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。なお、7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった。

慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命される。陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した。

明治維新

明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。8月、山口凱旋。顕義と改名。9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜される。しかし、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。

明治3年(1870年)、大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。

明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる[5]。 これは徴兵の質及び、指導士官や施設の不足等の根本的な問題の為だった。7月、陸軍少将に任命された。

同年10月、岩倉使節団に兵部省理事官として随行。サンフランシスコソルトレイクシティシカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設等を見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリンオランダベルギーローザンヌブルガリアロシア等欧州各国で軍制を調査。ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く。

欧米視察後

明治6年(1873年)6月、帰国。9月、「兵は凶器なり」と指摘した上申書(理事官功程)提出、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた。7月、東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ清国特命全権公使に任命される。山田本人に渡清の意思はなく、木戸孝允も大久保利通に対して同職の解任の働き掛けをしている。しかし、清国駐在に至る前の明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、乱鎮圧のため九州出張。乱は翌3月に平定。同年7月、佐賀の乱鎮圧の戦功を賞され、一方で伊藤博文等の説得により、現役陸軍少将のまま司法大輔に就任。帰国以来、山縣有朋と徴兵令施行等の意見衝突によって対立していた山田は陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な地位はなく、政府内で微妙な立場にあった為、方向転換せざるをえなかった。

明治8年(1875年)9月、刑法編纂委員長に就任。明治10年(1877年)3月、西南戦争勃発により、司法大輔を辞職する覚悟で単身京都に出張し、鎮圧出征を懇願する。木戸孝允等の協力の末、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。同年9月、西南戦争終結し、同年11月、戦功によって勲二等を賜る。

明治11年(1878年)2月、刑法草案審査委員として法典編纂に従事。同年11月、陸軍中将に任ぜられる。明治12年(1879年)7月、長男・金吉誕生。9月、参議兼工部卿に任ぜられる。11月、工部大学校第一回卒業式で卒業生一人一人に証書を手渡す。明治13年(1880年)2月、専任参議に任ぜられる。3月、長男・金吉死亡。明治14年(1881年)8、9月頃、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出し、さらに改定したものを右大臣・岩倉具視に提出した。同年10月、参議兼内務卿に就任。

明治16年(1883年)4月、東京府知事・芳川顕正に対し、衛生上の理由から、東京府においても下水道改良整備を示達。同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任。明治17年(1884年)、伯爵を受爵。

司法大臣として

ファイル:AkiyoshiYamada.jpg
日大法学部本館前にある山田顕義胸像

明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣司法大臣に就任した。明治20年(1887年)、大日本私立衛生会会頭に就任。同年10月、法律取調委員会委員長に就任し、民法商法訴訟法の編纂事業に携わった。関西法律学校創立にも尽力した。

明治21年(1888年)4月、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任。12月、民法、商法の各法案を黒田首相及び内閣に提出した。

司法大臣として法典整備を進めるなかで、日本の人種習慣風俗言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするため、その基礎となる国典の研究の重要性を認識したことにより、明治22年(1889年)1月、皇典講究所所長に就任したうえで皇典講究所の改革を推し進めた。10月4日、同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として日本法律学校を創設した。12月、引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任。

明治23年(1890年)4月、民法中の財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編、民事訴訟が公布。7月 、皇典講究所内に国文・国史・国法を研究する教育機関として國學院を創設した。10月、民法人事編・財産取得編中贈与・遺贈・夫婦・財産契約が公布されるも、「民法出デテ、忠孝亡ブ」との民法典論争が巻き起こり、施行が延期される。12月、商法施行延期の責任をとって司法大臣を辞任。

明治24年(1891年)2月、司法大臣に復職。5月、第1次松方内閣の司法大臣に留任。直後に大津事件が発生した時は犯人・津田三蔵への死刑適用に奔走した。6月、病気療養を理由に司法大臣を辞任した[6]。 以後、翌年まで三崎の別荘などで療養と謹慎の生活を送る。

晩年

明治25年(1892年)1月、枢密顧問官に就任。同年11月、但馬(兵庫県北部)にて、幕末の生野の変に敗れ21歳で自刃した再従兄弟の河上弥市(変名:南八郎、奇兵隊第2代総監)の最期の地に建立された碑に参拝した後、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま立てずに死去[7]。享年49。正二位。勲一等旭日桐花大綬章。法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。

死後

葬儀は母鶴子により仏葬で営まれたが、本人は生前から神葬を希望していた。それを汲んでか、皇典講究所の有志によって「皇典講究所葬」として神式の葬送も行われた。墓所は東京都文京区大塚護国寺日本大学豊山高校所在地)にある。

昭和54年(1979年)、日本大学が建学90周年を記念し山口県萩市の誕生地に「顕義園」が設けられた。園内には「山田顕義先生之像」などが設けられている。

経歴

※日付は明治5年までは旧暦。

  • 安政3年(1856年)3月、長州藩校・明倫館に入校。
  • 安政4年(1857年)、松下村塾に入塾。
  • 文久2年(1862年)12月5日、上洛。
  • 元治元年(1864年
    • 1月28日、高杉晋作とともに脱藩し、大坂に移動。
    • 2月、江戸に移動。
    • 7月19日、上洛し、禁門の変に参戦。
  • 慶応3年(1867年)5月27日、長州藩整武隊総督に就任。
  • 慶応4年(1868年
    • 1月4日、維新政府の軍事副参謀に就任。
    • 4月27日、丁卯丸に乗船し同船の司令となる。
    • 7月21日、海軍参謀に異動。
    • 11月9日、陸奥青森口陸軍参謀に異動。
  • 明治2年(1869年
    • 4月4日、海軍参謀を兼帯。
    • 6月12日、陸軍海軍両軍参謀を罷免。
    • 7月8日、兵部大丞(明治4年(1871年)7月28日迄在任)
    • このころ、五位叙位か。
  • 明治4年(1871年
  • 明治6年(1873年
    • 6月24日、帰国。
    • 7月7日、東京鎮台司令長官(1873年11月迄在任)
    • 11月24日、清国特命全権公使(明治7年(1874年)7月2日迄在任。但し、着任せず)。このころ従四位昇叙か。
  • 明治7年(1874年
    • 2月9日、西海鎮台司令長官に異動。
    • 7月5日、司法大輔に異動。(陸軍少将を兼帯。司法大輔は明治12年(1879年)9月10日迄在任)
  • 明治8年(1875年
  • 明治10年(1977年
    • 3月28日、別働第二旅団司令長官を兼帯。(西南戦争
    • 4月18日、別働第二旅団司令長官から別働旅団総轄に異動。
  • 明治11年(1978年
    • 2月27日、刑法草案審査委員を兼帯。
    • 3月5日、議定官を兼帯。
    • 11月20日、陸軍中将に転任し司法大輔・議定官従前通り兼帯。
  • 明治12年(1979年
    • 9月10日、参議に異動し、工部卿を兼帯(工部卿は、明治13年(1880年)2月28日迄兼帯。参議は、明治18年(1885年)12月22日迄在任)。議定官は従前通り兼帯。
    • 11月1日、勲一等旭日大綬章を受章。
    • 11月15日、正四位に昇叙。
  • 明治14年(1881年
    • 8月23日、皇典講究所設立(國學院大學の源流。同所設立に関与)
    • 9月、皇典講究所賛襄に推挙。
    • 10月21日、内務卿を兼帯(明治16年(1883年)12月12日迄兼帯)
  • 明治16年(1883年)12月22日、内務卿の兼帯を解き、司法卿を兼帯(明治18年(1885年)12月22日迄兼帯)
  • 明治17年(1884年
  • 明治18年(1885年)12月22日、司法大臣就任(第1次伊藤内閣。明治21年(1888年)4月30日迄在任)
  • 明治20年(1887年
    • 10月21日、法律取調委員会委員長を兼帯。
    • 月日不詳、大日本私立衛生会(財団法人日本公衆衛生協会の前身)会頭を兼帯(明治25年(1892年)11月11日迄兼帯)
  • 明治21年(1888年
    • 4月30日、司法大臣就任(黒田内閣。明治22年(1889年)10月24日迄在任)
    • 12月25日、予備役編入。
  • 明治22年(1889年
    • 1月10日、皇典講究所所長を兼帯(明治25年(1892年)迄在任)
    • 8月17日、現行法律規則調査委員長を兼帯。
    • 10月4日、日本法律学校(日本大学前身)を創設し、同校の評議員を兼帯。
    • 12月24日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。明治23年(1890年)12月25日迄在任。病により山縣首相に辞表を提出するも保留扱いとなる)
  • 明治23年(1890年
    • 7月10日、伯爵議員を兼帯(明治25年(1892年)11月11日まで兼帯)
    • 10月23日現在、従二位(叙位の年月日は不詳)。
    • 11月22日、設立に関与した國學院(國學院大學の前身)開院。
  • 明治24年(1891年
    • 2月8日、司法大臣就任(第1次山縣内閣。4月9日迄在任)
    • 4月7日、正二位に昇叙。
    • 5月5日、法律取調委員会委員長を免ず。
    • 5月6日、司法大臣就任(第1次松方内閣。6月1日迄在任)
  • 明治25年(1892年

※参考:日本大学編『山田顕義傳』(1963年、非売品)

親族

長男の夭折後、甥の久雄が選定相続人となって伯爵位を継ぐが若くして死亡。これにより、久雄の実父で山田の実弟である河上繁栄夫婦が再び山田家に戻って継承し、三代目伯爵となる。その後は山田の長女梅子(山田死亡当時6歳。龍子が養育)が成人後、会津松平家より、松平容保の三男・松平英夫を婿取った。英夫は陸軍歩兵中佐に進み病のため現役を離れ、貴族院議員を務めた。英夫の次男・貞夫インパール作戦に参加し戦死した陸軍大尉[8]。なお、薩摩治郎八の妻千代子は山田の孫娘にあたる。曾孫にあたる顕喜は日本大学芸術学部映画学科で教授を務めている。

山田顕義を扱った作品

小説

テレビ番組

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 日本大学編『山田顕義傳』(1963年、非売品)
  • 日本大学史編纂室編集『山田伯爵家文書(宮内庁書陵部蔵筆写本)』全8巻(1991年、新人物往来社)
  • 日本大学総合科学研究所編集発行『山田顕義――人と思想』(1992年、非売品)
  • 新井勉著『大津事件の再構成』(1994年、御茶の水書房)

関連項目

外部リンク


  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
- |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon司法大臣
初代:1885年12月22日 - 1891年6月1日 |style="width:30%"|次代:
田中不二麿 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
大木喬任 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon司法卿
第5代:1883年12月12日 - 1885年12月22日 |style="width:30%"|次代:
- |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
松方正義 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon内務卿
第8代:1881年10月21日 - 1883年12月12日 |style="width:30%"|次代:
山縣有朋 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
井上馨 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon工部卿
第3代:1879年9月10日 - 1880年2月28日 |style="width:30%"|次代:
山尾庸三 テンプレート:S-reg |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
- |style="width:40%; text-align:center"|山田伯爵家
初代:1884年7月7日 - 1892年11月11日 |style="width:30%"|次代:
山田久雄(甥)

  1. 転送 Template:End

テンプレート:皇典講究所総裁 テンプレート:内務大臣 テンプレート:司法大臣

テンプレート:学校法人日本大学の学校
  1. 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。
  2. 日本大学HP>日本大学紹介>日本大学の歴史>学祖>吉田松陰の薫陶
  3. 現代語訳すると以下の通り。テンプレート:Quotation
  4. 山田本人が明治政府に提出した『履歴書』では「長門国阿武郡松本村」と記している
  5. 実際には8月まで募兵は続いている
  6. 実情は大津事件で犯人を死刑に処せとの明治天皇の指示に副えなかった責任をとっての辞任であった
  7. 死因は脳溢血と見られている。
  8. 高木俊朗によればその死は花谷正に強要された自決である。