皇典講究所
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皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ 明治15年(1882年) - 昭和21年(1946年))は、日本に設置された神道の研究・教育機関である。
明治元年(1867年)に大教宣布の詔[1]が発布され、明治9年(1876年)に神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、明治15年(1882年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 また、内務省の委託を受けて神職の養成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行っていた。
第2次世界大戦敗戦後の昭和21年(1946年)1月25日にGHQ/SCAPによる指導を受けて解散、事業と資産は学校法人國學院大學と神社本庁に継承され、学校法人國學院大學が『皇典講究所』の登録商標を保有している。なお、日本大学の前身である日本法律学校は、開校当初この皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていたが、皇典講究所と組織上の繋がりはない。日本大学においては皇典講究所との関係性から、大正13年(1924年)から神道教師の再教育を目的として神道講座が開講され、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された。
概要
設置課程(開設当初)
本科3年、予科2年
- 文学部
- 修身科
- 歴史科
- 法令科
- 文章科
- 作業部
- 礼式科
- 音楽科
- 体操科
設立に携わった人物
歴代総裁
- 1882年~1886年 有栖川宮幟仁親王
- 1908年 竹田宮恒久王
- 1908年~1924年 北白川宮成久王(竹田宮の弟)
- 1925年~1930年 久邇宮邦彦王(元帥陸軍大将)
- 1930年~1945年 閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)
- 1945年~1946年 梨本宮守正王(元帥陸軍大将、久邇宮邦彦王の弟)
- 守正王は在任中にA級戦犯に指名され逮捕されている。
歴代所長
- 1889年~1895年 山田顕義(司法大臣)
- 1896年~1909年 佐佐木高行[2](枢密院顧問官)
- 1910年 芳川顕正[3]
- 1911年~1918年 鍋島直大[3](元佐賀藩藩主)
- 1919年 土方久元(農商務・宮内大臣)
- 1919年~1920年 小松原英太郎(元文部大臣)
- 1920年~1925年 一木喜徳郎(枢密顧問官、元文部・内務大臣)
- 1926年~1933年 江木千之(枢密顧問官、元文部大臣)
- 1933年 徳川圀順(水戸徳川家13代)
- 1933年~1946年 佐佐木行忠[3](佐佐木高行の孫、貴族院議員)
沿革
- 1882年 研究機関として発足、同時に教育機関としての役目も担う。3府40県に皇典講究所分所が設置される。
- 1885年 第1回卒業式を挙行
- 1888年 補充中学校(現・東京都立戸山高等学校)を設立
- 1889年 日本法律学校(現・日本大学)を設立
- 1890年 國學院(現・國學院大學)を設立。補充中学校を共立中学校に改称
- 1894年 共立中学校を城北中学校と改称し東京府へ移管
- 1898年 財団法人皇典講究所として認可
- 1899年 内務省より神職養成事業を委託される
- 1900年 禮典調査会を設置
- 1909年 神職養成部を設置
- 1923年 澁谷氷川裏御料地に移転
- 1944年 國學研究所を設置
- 1946年 GHQ/SCAPの指導により解散、人員や財産は國學院大學が吸収
- 1955年 國學院大學日本文化研究所が設置され、皇典講究所の研究を承継
- 1985年 日本大学と國學院大學が共同で皇典講究所跡地(千代田区飯田橋3-5-5 東京区政会館前)に発祥記念碑を建立
- 2006年 特許庁により学校法人國學院大學の『皇典講究所』の商標登録が認可される
出身者
関連項目
脚注
参考文献
- 『皇典講究所五十年史』、皇典講究所、1932年、国会図書館デジタル化資料
- 『皇典講究所草創期の人々』、國學院大學、1982年