神道

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テンプレート:Sidebar with heading backgrounds 神道(しんとう・かんながらのみち)は、日本の宗教。山や川などの自然自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[1]

概要

ファイル:Kobayashi Izanami and izanagi.jpg
国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)

神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。宗教名の多くは何教と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[2][3]。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である[4]

神道には確定した教祖、創始者がおらず[5]、仏教の経典やキリスト教の聖書にあたる明確な聖典がなく[6][7]、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象が宿ると考え、天津神・国津神祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[6]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる[8]。教えや内実は神社と祭りに中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌〔わらべうた〕『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。

神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。しかし薩長が中心となり成立した明治政府は、天皇を中心とした国民統合をはかるため、神仏分離を進めるとともに、水戸学や後期国学に由来する国体神学から国家神道をつくった。さらに全国各地の氏神を祀ってきた神社に記紀の皇統神を合祀し、国による組織化を進めるなど、それまでの民衆の信仰とはかなり違う性質のものとなった。[9]

神道と仏教の違いについては、神道神話に登場する神々のように、元来(国家神道以前)は地縁血縁などで結ばれた共同体部族など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[2]

神道は日本国内で約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、これは神社側の自己申告に基づく数字である。約85,000の神社が登録されている。

分類

神道は、

皇室神道(=宮中祭祀
皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である[10]
神社神道
神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[11]
民俗神道
民間神道ともいう。民間でおこなわれてきた信仰行事をいう。道祖神田の神山の神竈神など。修験道や密教や仏教、あるいは道教の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流なども入る。
教派神道(神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。他の神道とは少し性質が異なる。
古神道(≒原始神道)
江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が研究され、復古神道古道・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう。
国家神道
特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である[12][13]

以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。

また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。

  • 祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」等のことである。

以上のように分けられる[10]。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道の一つではあるが、教え型とも祭り型とも決められない。

由来と教義

神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている[8]

「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[14]神道は「神(あや)しき道」と言う意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し鬼道という表現がなされるが、これはテンプレート:要出典範囲ことからも、日本での呼称とは全くの別物であることが分かる。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが[15]、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[16][17]

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説[18]、稲作の様な自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある[18]

明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始め、同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[19]、学問上でも「神道」の語が確立した[20]

もともと、神道にはイエス・キリスト釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった[6]。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」[21]だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。

実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道をはじめとして、吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく[22][23]。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、近世以降の儒家神道も勢力はさほどではなかったものの、そこで主張された名分論は各神道説に影響を与え、尊王攘夷思想を広めるとともに討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識して、大日本帝国憲法でも信教の自由を認めざるを得なかった[24]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。

神道における「神」

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利の後、天照大神が最高の神格を得たが[25]、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[18]

気象、地理地形等の自然現象に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める[18]。いわゆる「八百万の神々」である[18]アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている[26]。詳細は神道における神を参照のこと。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神[18]

自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」がやっていた仕事の一つである。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂[18]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったと捉えることが出来る[27]

人間も死後神になるという考え方があり、社会的に突出した人物や、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物なども、「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[18]

神道の研究

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[18]。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった[28]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[29]

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[30]

戦前の教科書の神と神代

戦前は、学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史についての、以下の説明がある。 「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである。」[31][32]

現代の神道

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[33]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。

皇室と神道

宮中祭祀に見られるように、歴史的事実として皇室と神道は密接なかかわりを持つ[26]。また、神道の信仰の対象としての天皇(その祖先神を含む)の存在がある[26][18]

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。

歴史

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神話

古代

奈良時代

神仏習合厭魅

平安時代

延喜式(第9-10巻を通常「神名帳」と称し、全国の朝廷、国司が祭る社格を定めた一覧表になっている)

御霊信仰

中世

伊勢神道神道五部書中世日本紀渡会神道(鎌倉時代)

近世

神儒合一国学復古神道垂加神道(江戸時代)、烏伝神道(経済と性に重きを置いた神道で、幕末期に賀茂規清によって大成された)[34][35]禊教(幕末に井上正鉄が唯一神道をもとに興した一派)[36]黒住教(幕末に黒住宗忠が興した天照大神の陽気に生命を求める神道)、天理教不二道(幕末に小谷三志が広めた富士講の一派で、日常道徳に重きを置いた)。

近代

国家神道神仏分離祭政一致皇典講究所教派神道國學院皇學館大学神社整理神社合祀)、神道指令 

参拝の方法

簡易な参拝

以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。

参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清めるが必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが[37]、現代であれば、一般参拝では入浴シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居をくぐる際は「一揖(身体を45度折り曲げる会釈)」するのが望ましい。このときには服装もきちんと整えるようにする。

次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手祝詞を行なう手口(さらには)を清める意味合いを持つ、一つの禊である。手水の作法としては、

  1. まず柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手にかけて清める。
  2. 柄杓を左手に持ち替え、右手を洗い清める。
  3. 柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
  4. これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
  5. 洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。
  6. これらの作法は一連の動作で行うのが好ましい。

なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼をおこなうために参道を通り神前へと向かうが、その際に参道の中央は避けて歩くことが望ましい。これは参道の中央が「正中」と呼ばれ、神の通る道とされていることによるもの。神前ではまず神への供物として(供物を捧げる他にお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する[38]。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う[37]、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる[39][40]

鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこなう。拝礼の基本的な作法は「二拝二拍手一拝」である[37]。すなわち、

  1. 拝(直立姿勢から身体を90度折り曲げる礼)を二度おこなう。
  2. 拍手を二度打つ。より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせてを出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め最後に両手を下ろす[41]
  3. 再度一拝する。(祝詞を奏上する場合は奏上した後におこなう)

というもの。二拝二拍手一拝の前後に一揖を行うとより望ましい。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に居住地および氏名と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、お礼を述べたい場合も同様である。かつて、拝礼の作法は各神社によってさまざまだったが、現在の二拝二拍手一拝に統一されたのは明治期の神仏分離によるものである。現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社[37]宇佐八幡宮彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている[42]

注意事項

  • 身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある[37][43]死穢の観念からである[44]
  • 神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合神聖な炎として厳粛に起こされた火を用いるのが望ましい[45]
  • 一部で女性は音をたてて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違いである。音を立てない拍手は「忍び手」と言って、葬儀のためのものであり、性別は関係ない。[46]

神道諸派

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク

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  1. 岡田荘司 2010年 22-23ページ
  2. 2.0 2.1 『世界大百科事典』 217-218頁。
  3. 『神道』 12-13頁。
  4. 岡田荘司 2010年 ⅲページ
  5. 岡田荘司 2010年 ⅲページ
  6. 6.0 6.1 6.2 『神道』 18頁。
  7. 『神道』 140頁。
  8. 8.0 8.1 大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房
  9. 安丸良夫『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』岩波書店 1979年 ISBN 978-4004201038
  10. 10.0 10.1 『神道』 20頁。
  11. 『世界大百科事典』 219頁。
  12. 『神道』 134頁。
  13. 教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった。テンプレート:Cite book現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮を中心とした神社本庁傘下の宗教法人へと変更された経緯がある。石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社、2002年12月23日) 26頁。
  14. 『世界大百科事典』 216頁
  15. 即位前紀。
  16. 『世界大百科事典』 216-217頁。
  17. 『神道』 16頁。
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 18.7 18.8 18.9 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社
  19. テンプレート:Cite book
  20. 山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版、1995年。
  21. 万葉集』巻第13「柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く」。国歌大観番号3253番。
  22. 『世界大百科事典』 218-219頁。
  23. 『神道』 128頁。
  24. 『日本史大事典』平凡社1993年、「国家神道」の項参照。
  25. 『古神道の本』 学研 30頁。
  26. 26.0 26.1 26.2 菅田正昭 『面白いほどよくわかる神道のすべて』 日本文芸社
  27. 直木孝次郎の説、1982年。岡田荘司 2010年 24ページ
  28. 『神道の本』 学研 174、175頁。
  29. 岡田荘司 2010年 ⅴページ
  30. 岡田荘司 2010年 15-16ページ
  31. 石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社、2002年12月23日) 52頁。
  32. 前田晁 『少年國史物語』 早稲田大学出版部
  33. 『神社』 136頁。
  34. 大日本神社志, 第 1 巻、大日本敬神会本部, 1933
  35. 賀茂規清kotobank
  36. 井上正鉄kotobank
  37. 37.0 37.1 37.2 37.3 37.4 『神道』 120頁。
  38. テンプレート:Cite web
  39. 外山晴彦、『サライ』編集部 編 『神社の見方』 小学館 122頁。
  40. テンプレート:Cite web
  41. 『神道の本』105頁。
  42. 井沢元彦 神霊の国日本 p.32
  43. テンプレート:Cite web
  44. 『神道行法の本』 学研 195頁。
  45. 『神道の本』43頁。
  46. 細木数子の参拝作法は「誤り」 全国の神社から苦情JCASTニュース、2007/3/ 1