奇兵隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

奇兵隊きへいたい)とは、江戸時代末期に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、「奇兵隊」も、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語に由来する。主に結成された奇兵隊は以下の通りで、順次詳細をこの項にて述べる。

  1. 江戸時代後期の幕末に結成された長州藩の部隊
  2. 西南戦争のときの西郷軍が組織した部隊

長州奇兵隊

ファイル:Keiheitai.jpg
長州奇兵隊の隊士(一部)

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は1863年文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。その後、河上弥市滝弥太郎の両人が総督職を継いだのを経て、総督は赤根武人、軍監は山縣狂介が務めた。同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。翌1864年(元治元年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、禁裏を侵して会津藩桑名藩などの幕府側と衝突し、長州藩の不穏な動きを警戒していた薩摩藩が援軍として加わると形勢が変わり、長州勢は総崩れになり敗北した。この禁門の変で長州藩は禁裏を侵したために朝敵となった。幕府は朝敵・長州藩を伐つため、第一次長州征伐を行う。この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。

長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉は帰藩。高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌1865年(元治2年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。

1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還を経て、1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した王政復古が行われた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。

奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民町人が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んだ。[1]このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。[2]

奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って廃止された。1869年明治2年)から翌年にかけて、隊士の一部が脱退騒動を起こして山口藩庁を包囲した。騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎は、九州の久留米へ逃れる。大楽は、同志を糾合して再起を図ったものの、騒動は木戸孝允(桂小五郎)により武力鎮圧され、大楽はじめ130人あまりが処刑された。

処罰を逃れた奇兵隊士の一部は農民一揆にも参加しており、明治時代初期に多発した士族反乱にも影響を与えたと言われる。また、生き残りの一部は豊後水道の無人島を根拠地に住み着き、海賊にまで身を落としたと言う。

西郷軍奇兵隊

西南戦争のときに高瀬・田原の戦いに敗れ熊本城の包囲を解いて矢部浜町に退却した西郷軍が大隊を中隊に編制替えしたときにつくられた部隊で、野村忍介が指揮し、豊後国大分県)に進出し、西南戦争の中期・後期に活躍した。

関連項目

資料

  • 『奇兵隊結成綱領』
  • 『長州奇兵隊名鑑』:名簿
  • 『奇兵隊日記』:全4巻。創設から解散までの記録。
  • 星亮一 『会津落城-戊辰戦争最大の悲劇-中公新書1728 』、中央公論新社、2003年、ISBN 4-12-101728-5
  • 井上勝夫 『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新 岩波新書(新赤本)1042 』、岩波書店、2006年、ISBN 4-00-431042-3

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 軍事訓練は昼の2時間の休憩を挟んで午前5時から午後8時まで13時間に及び、文学稽古も早朝と夜間に各2時間行われた。 『幕末・維新』 P137~138
  2. ミニエー銃の有効射程距離は最大500mで、会津戦争に於ける戸の口原の戦いで有効射程距離が100m以内のゲベール銃を所有していた会津藩兵は、新政府軍との戦闘開始直後に潰乱した。 『幕末・維新』 P136、『会津落城』 P114~116
  3. 菅内閣:発足 菅首相自ら「奇兵隊内閣」 毎日新聞2010年6月9日記事

テンプレート:Reflist テンプレート:Japanese-history-stub