名古屋城

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名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区北区)にあった日本の城である。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

概要

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏織田氏那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

姫路城熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。

大小天守と櫓、門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが名古屋大空襲(1945年)によって大部分を焼失した。戦後に天守などが外観復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

歴史・沿革

戦国時代

テンプレート:See 16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。

信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。

江戸時代

  • 清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康1609年(慶長14年)に、九男義直尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
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現代にみる清須越しの距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月。
  • 清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的なものであった。
  • 1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。

近代

  • 明治維新1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、ドイツの公使マックス・フォン・ブラント大日本帝国陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
  • 1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
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    離宮時代の名残、本丸西南隅櫓に残された菊花紋瓦
    保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。
  • 1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開した。また建造物(24棟)は1930年に、本丸御殿障壁画は1942年に当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定された
  • 1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。
  • 太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。

現代

  • 戦後、三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。
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雪が積もる本丸御殿跡と天守。雪のため御殿跡の配石がわかりやすくなっている。2008年2月10日
  • 市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立された。
  • 名古屋市は2002年(平成14年)から本丸御殿復元のための「名古屋城本丸御殿積立基金」の寄附募集を開始した。
  • 2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に復元工事が着工された。2010年(平成22年)に第一期工事のうちの玄関部分の復元過程の一部が特別公開された。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められている。2018年(平成30年)の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元される。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定された。
  • 2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。計画を考えるプロジェクトチームを8月24日に発足させ、2010年度予算案に調査費を盛り込む考え。
  • 2013年(平成25年)1月4日、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。市では2010年度予算案に調査費1500万円を計上し、2012年(平成24年)3月には市民検討会を開き準備をすすめてきた。試算では復元にかかる費用は300億円で寄付金を含め調達方法を検討する。
  • 平成23年から西南隅櫓と東二之門の修理が行われた[3]

構造

立地

名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った名古屋台地の西北端に位置する。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野の北を一望に監視できる軍事的な要地にあたる。

築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。 テンプレート:-

縄張

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戦災被害前の航空写真

名古屋城の縄張は、それぞれのが長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。

構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二之丸、南西を西之丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三之丸が囲む。

西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。

さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、国境の木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備が整備されている。

本丸

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多聞櫓と接続する本丸未申隅櫓
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お堀には鹿が放たれている

本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。

本丸の3つの虎口のうち南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に高麗門櫓門の2重の城門で構成される枡形門[4]があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた[5]

馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。

隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)で、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われ櫓台のみ残っている。多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため現存しないが、名古屋城の多聞櫓は、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。

馬出しと桝形虎口の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた[5]。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式であったが、戦災により焼失した。

南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。

  1. まず馬出しへの土橋を渡り、石塁[5]に突き当たり横に折れ、
  2. 本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、
  3. 馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、
  4. 二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、
  5. 一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。

なお、現在空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放されている。

天守

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辰巳隅櫓から見た再建された大天守と小天守。2008年4月

天守は本丸の北西隅に位置する。連結式層塔型[6]で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。

大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する。高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び史上最大級の規模である。その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7)が敷き詰められていたといわれる。層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残である。

大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が2層目以上のすべてに葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、1755年(宝暦5年)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が石垣の上に設けられた。

壁面は大砲による攻撃を考慮しての厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は化粧板が張ってあった。また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。

小天守は2層2階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の三重天守を凌駕する規模である。

大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたという説がある。 根拠としては大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図[7]が残されており、また大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる[8]

天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれている。

1954年(昭和29年)名古屋市民から声があがった名古屋城再建基金はじまる。[9][10]

1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったが、焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とした。起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日であった。なお竣工式は大々的に行なう予定であったが、伊勢湾台風襲来直後だった為に極めて簡素な形で挙行された。再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっている(5階から最上階展望室までは階段のみ)。外観はほぼ忠実に再現されたが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓と意匠が異なる。

本丸御殿

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再建中の本丸御殿(2010年10月)

城主藩主)が居住する御殿であったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用とすることになり、以後藩主は二之丸御殿に居住した。しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠家光のみで、その後は尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。

御成専用とするだけあって、当時の二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の番所が建てられていた。 車寄の屋根は将軍家と身分の高い一部の大名だけが使用を許された唐破風で、黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の将軍邸の形式で天下人の象徴とされた。[11]

これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。現在本丸御殿の復元計画が実施されており、2009年(平成21年)1月19日に着工。2013年(平成25年)5月29日より、玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開されている[12]2016年度(平成28年度)対面所等公開、2017年度(平成29年度)工事完了、2018年度(平成30年度)全体公開を予定している。

二之丸

当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二之丸に将軍の御座所を設けていた。家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折にはこちらに滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二之丸にあった平岩親吉1611年(慶長16年)没)の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二之丸御殿とした。それ以後、二之丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。

本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西之丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二之丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三之丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二之丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。二之丸御殿は二之丸の北側に位置し、南側に馬場があった。

二之丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。

黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二之丸庭園があった。この二之丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。

現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二之丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二之丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。

西之丸

西之丸(にしのまる)は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三之丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。

西之丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1910年(明治43年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西之丸には名古屋城総合事務所天然記念物カヤの木がある。

御深井丸

御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西之丸とも狭い通路でつながっていた。

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戌亥隅櫓(清洲櫓)南西より 2009年2月
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乃木倉庫 2009年2月

櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。3層3階の三重櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3メートルある。その規模は宇和島城天守(高さ約15.7メートル、桁行6間、梁間6間)を上回り、3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル、桁行8間、梁間6間)とは高さでは及ばないものの平面規模では凌駕している。1611年(慶長16年)に清須城天守または小天守を移築したものと伝えられているため清洲櫓とも呼ばれている。解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清須城から移築されてきた可能性も指摘されている。戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。

御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。

また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された。

その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。

三之丸

三之丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(はばしたごもん)(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二之丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。

三之丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町泰岳寺一宮市妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。名古屋東照宮、三之丸天王社は三之丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。

明治以降は官庁街として発展した。また三之丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された(後述)。

現在、三の丸には愛知県庁名古屋市役所愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。

名古屋城の金鯱

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天守屋根に載る現在の金鯱(2009年4月)
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焼失前の金網に覆われた金鯱

1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。

しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730年(享保15年)・1827年(文政10年)・1846年(弘化3年)の3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(後述の通り、実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されたのち、雌雄金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。

徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88キログラムである。

盗難事件

江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では4回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。

  • 1871年(明治4年)3月 - 廃藩置県後、宮内庁への献上の際、鱗3枚盗難。犯人の陸軍名古屋分営番兵は銃殺刑。
  • 1876年(明治9年)4月 - 東京博物館保管中に盗難。犯人は懲役10年。
  • 1878年(明治11年) - 復元作業中に盗難。犯人は陸軍兵卒であるとされ軍の機密として処理されたため詳細不明。
  • 1937年(昭和12年)1月6日 - 名古屋城下賜記念事業で実測調査中の1月6日朝、名古屋市建築局技師が雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難されている事に気付く。愛知県刑事課は報道を全面禁止し全国指名手配。下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。同月27日、金鯱の売却現場で犯人が逮捕され懲役10年。

名古屋の金鯱に由来するもの

金鯱の外部施設展示

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金鯱が公開された金鯱ドーム
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市民にお披露目される金鯱

名古屋城の金鯱が2005年(平成17年)3月24日に開会した愛・地球博開会式典で展示された。これまでにも名古屋城の博覧会開催により、天守から地上に降ろして名城公園内の博物館に展示された事はあった(今回の場合は愛・地球博に併せて開催された新世紀・名古屋城博のための展示だった)が、外部施設での展示は1959年(昭和34年)に再建されてからは初めてのことだった。

また前日の3月23日は名古屋市内16区を雄・雌に分けて周り、一般市民にお披露目し中区栄では2体揃ってのパレードを行った。

その時の公開された各区の場所は以下のとおり。

城周辺

お堀電車

名古屋城三之丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、お堀(濠)電車とも呼ばれた。

大曽根瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三之丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。堀の原形を保ったことから、堀の角部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりしていた。

瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。 なお、路線廃止後も名鉄が敷地を保有している。

名城国家公務員宿舎跡地再開発

テンプレート:Main 名古屋城と大津通を挟んだ33,800m²の敷地は2009年まで国家公務員宿舎(名城住宅)として利用されていた。新宿舎の建設に伴い、中国政府が領事館設置のため跡地を購入しようとしているが、名古屋市民が反対活動を行うなど[13][14]、再開発は凍結状態となっている。また、愛知学院も当該敷地の購入を希望していたが、結局2011年9月に北側の23000㎡の土地を購入し、愛知学院大学の経営学部、商学部と2013年度から新設の経済学部の3学部が入る「名城公園キャンパス」を2014年4月よりオープンする。

金シャチ横丁

河村たかし名古屋市長の公約として、2012年に策定された「世界の金シャチ横丁(仮称)」基本構想[15]に基づき計画されている観光施設である。三重県のおかげ横丁をモデルに名古屋城の城下町を再現するというもので、名古屋城正門前駐車場の東側用地や二の丸東駐車場[16]名古屋めしを提供する飲食店や芝居小屋などを整備する予定。

2014年2月8日には正式名称が「金シャチ横丁」となることが決定している[17]。なお、開業は2016年度を予定している。

遺構・文化財

第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内に現存していたが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守を含むほとんどを焼失した。

現在残る尾張藩時代の建物は、本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧二之丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみ。すべて重要文化財である。現存する門3か所はもとは櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えであったが、いずれも高麗門のみが現存する[18]

また、昭和27年(1952年3月29日に城域内が国の特別史跡に指定され、昭和28年(1953年)に二之丸庭園が名勝に指定された。このほか、二之丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。

現存する有形文化財

重要文化財
  • 西南隅櫓(本丸未申隅櫓)
  • 東南隅櫓(本丸辰巳隅櫓)
  • 西北隅櫓(御深井丸戌亥隅櫓) 
  • 表二之門(本丸南二之門)

(以上4棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、1950年(昭和25年)文化財保護法施行にともない重要文化財となる。)

  • 二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)
  • 旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門) - 愛知県体育館建設に伴いいったん撤去され、本丸東二之門跡に移築

(以上2棟は1975年(昭和50年)、重要文化財に指定、所有者は財務省)

  • 旧本丸御殿障壁画 331面(附16面)(明細は後出)
  • 旧本丸御殿天井板絵 331面(附369面)(明細は後出)

焼失した文化財

  • 大天守
  • 小天守
  • 東北隅櫓(本丸)
  • 表一ノ門(本丸)
  • 東一ノ門(本丸)
  • 東二ノ門(本丸)
  • 不明門(本丸)
  • 正門(旧江戸城蓮池門)
  • 本丸御殿(以下の12棟)
    • 玄関(附 車寄)
    • 大廊下
    • 表書院(附 溜ノ間、渡廊下)
    • 対面所
    • 梅之間および鷺廊下(附 廊下)
    • 上洛殿(附 廊下)
    • 湯殿書院
    • 黒木書院(附 朝顔廊下)
    • 上御膳所(附 廊下)
    • 下御膳所
    • 柳之間および孔雀之間
    • 上台所

以上20棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定。1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。本丸御殿障壁画の一部(壁貼付絵などの移動不可能だったもの)や、(足場を築き取り外し中だったもの)も同時に焼失した。

本丸御殿障壁画

ファイル:Nagoya Castle Honmaru Goten (81).JPG
表書院上段の間 床貼付「梅松禽鳥図」(戦災焼失前)
ファイル:Nagoya Castle Honmaru Goten (57).JPG
玄関一之間 床貼付「竹林群虎図」(戦災焼失前)
ファイル:Nagoya28.jpg
表書院一之間「桜雉子図」
ファイル:Nagoya30.jpg
上洛殿一之間「帝鑑図」(褒奨守令)

戦災焼失前の旧本丸御殿の諸室には、狩野探幽狩野派の絵師による障壁画と天井画があり、このうち345面が1942年に旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定された。本丸御殿は太平洋戦争中の1945年5月14日の空襲で焼失した。障壁画のうち、襖、障子、天井画など取り外し可能なものは空襲直前の1945年1月に取り外し、城内御深井丸の乃木倉庫に移動してあったため難を逃れたが、取り外し不可能であった壁貼付絵、床(とこ)貼付絵などは建物とともに焼失した。焼失をまぬがれた襖絵等は1950年の文化財保護法施行以降は重要文化財となっている。その後、従来未指定であった襖絵、天井画などが重要文化財に追加指定され、指定物件は附(つけたり)指定を含めて計1,047面となっている。[19]

本丸御殿の諸殿のうち、障壁画があったのは玄関、表書院、対面所、梅之間、上洛殿、黒木書院、上御膳所、御湯殿書院などである。これらの諸殿の障壁画は、各建物の用途や格式に応じて、技法や画題に変化をつけていた。[20]

戦災焼失以前の旧本丸御殿の建物のうち東側の玄関、表書院、対面所などは慶長度造営(1615年完成)、西側に位置する上洛殿などの奥向きの諸殿は寛永度造営(1634年完成)で、両者の年代には約20年の開きがある。慶長度造営と寛永度造営とでは建物の細部様式や障壁画の筆者も異なっており、こうした異なった時期の建築や絵画の様式変遷がたどれるという意味でも本丸御殿は貴重な文化財であった。[21]

慶長度造営の御殿は慶長20年(1615年)に落成。当初は藩主徳川義直の居所として使用されていたが、元和6年(1620年)に義直は二之丸御殿に移り、本丸御殿は賓客の宿舎などとして臨時に使われるとき以外は空家となっていた。その後、将軍徳川家光の上洛時の宿舎として使用するために本丸御殿の大改修が行われた。このとき、西側にあった奥向きの諸殿は取り払われて、御成書院(上洛殿)などの建物が新たに建立された。これら寛永度造営の諸殿は寛永11年(1634年)に落成したが、家光の上洛時に宿舎として使用された後はほとんど使用されることがなかった。こうして長年空家状態であったことが、結果的には障壁画の劣化を防いだ。本丸御殿は、明治維新後は陸軍の司令部として使用され、明治26年(1893年)からは皇室の名古屋離宮として使用されたが、昭和5年(1930年)に離宮は廃止され、建物は名古屋市に下賜された。[22]

玄関(遠侍とも)は、御殿の正式の入口であり、藩主に面会する者の控えの場でもあった。一之間と二之間からなり、障壁画は金地著色の竹虎図であった。絵の筆者は不明であるが、一之間の竹虎図は狩野長信の作と推定されている。[23]

表書院は近世には「広間」と称され、藩主との正式の対面に用いられた、表向きの儀礼的空間であった。表書院は上段之間、一之間、二之間、三之間、納戸之間の5室からなり、納戸之間を除く4室に障壁画があった。各室の障壁画は金地濃彩の花鳥図が主体である。障壁画の筆者は不明であるが、上段之間の梅松禽鳥図(大部分が戦災焼失)は、当時の狩野家の当主であった狩野貞信の筆と推定されている。[24]

表書院(広間)が公的・儀礼的空間であったのに対し、対面所は藩主の私的な対面などに用いられた建物である。対面所は上段之間、次之間、納戸一之間、納戸二之間の4室からなり、各室に障壁画があった。上段之間と次之間の画題は風俗図で、吉田神社上賀茂神社愛宕山などの京名所図や職人尽し風の図があった。これらの風俗図は大和絵風の穏やかな筆致で描かれており、金地濃彩で人物の登場しない表書院の障壁画とは対照的である。筆者は狩野甚之丞と推定されている。[25]

上洛殿(書院)は寛永11年(1634年)に落成したもので、将軍御成りの際の宿舎として建てられたため、「御成書院」と呼ばれた。上洛殿の障壁画は、尾張藩の公式記録(『事績録』)と作風の両面から狩野探幽の筆とすることが定説である。上段之間、一之間、二之間、三之間、松之間、納戸之間の6室からなり、各室に障壁画がある。慶長度造営の諸殿と異なり、上洛殿の上段之間、一之間、二之間、三之間では、各室の長押上の小壁まで障壁画で飾られており、上段之間、一之間、二之間の格天井には水墨と淡彩で山水や花鳥が描かれていた。さらに欄間には彩色彫刻を施し、長押には大型の飾金具を打つなど、装飾に富んでいた。上段之間、一之間、二之間、三之間の障壁画は、表書院のような濃彩ではなく、水墨を主体にして、要所に彩色を加えたものである。当時の狩野派においては、水墨がもっとも格上の技法であった。上段之間と一之間の障壁画の画題は帝鑑図、すなわち為政者の戒めとするための絵であり、古代中国の皇帝の善行が主題となっている。上洛殿の北側から西側に連なる上御膳所黒木書院御湯殿書院(上り場御殿)は上洛殿と同時期に建立された内向きの諸殿で、上御膳所の上段之間と上之間、黒木書院の一之間と二之間、御湯殿書院の上段之間、一之間、二之間に障壁画があった。前述の『事績録』には、狩野采女(探幽)と狩野杢之助に障壁画を描かせたとあり、杢之助は御湯殿書院などの絵を担当したと推定される。[26]

1992年から障壁画の復元模写が開始されている。これは江戸時代の技法や材料を用いて、制作当時の障壁画を忠実に再現しようとするもので、林功(2000年没)、加藤純子の指導のもと、愛知県立芸術大学の協力を得て行われている。また、名古屋市では2009年から本丸御殿の建物の伝統工法・材料による復元に着手し、2013年から一部復元建物の公開が開始されている。復元された本丸御殿には前述の復元模写された障壁画が設置されている。名古屋城には、昭和戦前期に作成された各建物の詳細な実測図と、古写真のガラス乾板が保存されていたため、建物、障壁画ともに焼失前の状況が明らかであり、これらの資料をもとに、オリジナルに忠実な復元が行われている。なお、戦災をまぬがれて現存するオリジナルの障壁画は、名古屋城天守閣の展示室で順次公開されている。[27]

文化財指定履歴
  • 1942年6月26日、本丸御殿障壁画345面が当時の国宝保存法に基づく旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。この時指定されたのは、玄関(一之間、二之間)、表書院(上段之間、一之間、二之間、三之間)、対面所(上段之間、次之間)、上洛殿(上段之間、一之間、二之間、三之間)、黒木書院(一之間、二之間)の障壁画である。(昭和17年文部省告示第519号)(明細は後出)
  • 1945年5月14日、空襲により本丸御殿は焼失。取り外して保管されていた襖、障子、天袋などの絵は難を逃れたが、移動不可能であった壁貼付絵や床(とこ)・棚の貼付絵など140面余は建物とともに焼失した。焼失分については、1949年10月13日、昭和24年文部省告示第179号により正式に指定解除された。
  • 1950年8月29日、文化財保護法施行に伴い、焼け残った障壁画は、重要文化財となった。
  • 1955年6月22日付で、従来未指定であった襖絵、杉戸絵などが重要文化財に追加指定された。この時追加指定されたのは、対面所(納戸一之間、納戸二之間)、上洛殿(松之間、納戸之間、菊之廊下)、梅之間、黒木書院(一之間廊下、二之間廊下)、上御膳所(上段之間、上之間)、御湯殿書院(上段之間、一之間、二之間)の障壁画83面と杉戸絵66面の計149面である(昭和30年文化財保護委員会告示第38号)。これにより、重要文化財指定点数は計347面(附指定16面を含む)となった。
  • 1956年6月28日付で旧天井板絵331面(附指定369面)が重要文化財に指定された。(昭和31年文化財保護委員会告示第29号)

作品

映画

ゴジラが堀で転んで天守を壊す場面がある。
空中飛行で名古屋を襲うギャオスに屋根を破壊される。
出現したばかりのバトラに破壊される。

ゲーム

オープニングでWESTコルベットが名古屋城で停車している。
対戦ステージ「名古屋」での舞台。

現地情報

所在地
  • 愛知県名古屋市中区本丸1-1

交通アクセス

鉄道
路線バス
自動車
  • 駐車場520台
30分毎に180円

イベント

ファイル:101001 Pink Nagoya-jo.jpg
ピンク色にライトアップされた名古屋城天守。2010年10月1日。
名古屋城宵まつり(旧称:名古屋城夏まつり)

毎年、8月上旬から中旬にかけて行われる夏祭りである。城内で、大盆踊りやステージイベントなどが催される。

1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵まつりが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。

2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博愛・地球博開催のため中止。なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。

2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。

その他

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 『戦国の堅城II 戦略・戦術に応じた多彩な城郭群』学習研究社、2006年
  • 『名古屋城 尾張を守護する金の鯱』学習研究社、2000年
  • 『復元大系日本の城4 東海』ぎょうせい、1992年
  • 『日本100名城公式ガイドブック』
  • 名古屋城総合事務所編『本丸御殿の至宝 重要文化財 名古屋城障壁画』、名古屋城本丸御殿PRイベント実行委員会刊、2007
    • 麓和善「近世武家文化の精華名古屋城本丸御殿」『本丸御殿の至宝 重要文化財 名古屋城障壁画』
    • 朝日美砂子「名古屋城本丸御殿の障壁画」『本丸御殿の至宝 重要文化財 名古屋城障壁画』
  • 『名古屋城障壁画名作展図録』、石川県立美術館、1989
    • 武田恒夫「名古屋城本丸御殿障壁画について」『名古屋城障壁画名作展図録』
    • 奥出賢治「名古屋城本丸御殿障壁画の保存」『名古屋城障壁画名作展図録』、石川県立美術館、1989、p,32
  • 名古屋城総合事務所編『よみがえる輝き 名古屋城本丸御殿障壁画復元模写』、名古屋城本丸御殿PRイベント実行委員会刊、2009
  • 『名古屋城』(『歴史群像』名城シリーズ)、学習研究社、2000

関連項目

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外部リンク

テンプレート:日本100名城
  1. 西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城』主婦の友社 1995年
  2. 美の巨人たち~建築シリーズ 徳川家康「名古屋城」
  3. 西南隅櫓及び旧二之丸東二之門工事について
  4. 桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。
  5. 5.0 5.1 5.2 南御門の馬出し内西側の石塁は撤去され、その外側の堀は埋められて平地になっている
  6. 大天守と小天守を土橋によって連結した形
  7. 「なこや御城惣指図」中井家蔵
  8. 西ヶ谷恭弘監修『日本の城 [戦国〜江戸]編』世界文化社 1997年
  9. プロジェクトX~挑戦者たち~第174回「名古屋城再建 金のシャチホコに託す」
  10. 美の巨人たち~建築シリーズ 徳川家康「名古屋城」
  11. 美の巨人たち~建築シリーズ 徳川家康「名古屋城」
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. テンプレート:Cite web
  18. 『名古屋城』(『歴史群像』名城シリーズ)、pp.40 - 41, 100 - 101(筆者は三浦正幸)
  19. (朝日、2007)p.154;(奥出、1989)pp.30 - 32
  20. (麓、2007)pp.9
  21. (麓、2007)p.11; (朝日、2007)pp.154 - 155
  22. (麓、2007)pp.7, 8; (朝日、2007)p.154
  23. (麓、2007)p.9; (朝日、2007)p.155
  24. (麓、2007)p.9; (朝日、2007)、p.156
  25. (麓、2007)pp.9, 10; (朝日、2007)p.157
  26. (麓、2007)pp.10, 11; (朝日、2007)、pp.158 - 161
  27. (麓、2007)p.8; 『よみがえる輝き 名古屋城本丸御殿障壁画復元模写』、p.78
  28. テンプレート:Cite web