毛利高政

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テンプレート:基礎情報 武士 毛利 高政(もうり たかまさ、1559年永禄2年)- 1628年12月11日寛永5年11月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名)。豊後佐伯藩の初代藩主。

父は森高次。母は瀬尾小太郎の女。兄に毛利重政がいる。正室は木曾義昌の娘。子に毛利高定(長男)、毛利高成(次男)、娘(松平重長室)。通称は勘八郎。諱は友重のちに高政。官位は従五位下。豊臣政権下では民部大輔。江戸時代より伊勢守。ただし、諱の友重には別人説がある[1]

生涯

尾張国海東郡荒子荘花筏村で生まれた。当初、森姓を称した。父高次(九郎左衛門)が羽柴秀吉の馬廻衆であったことから、高政は1577年天正5年)より出仕している。1580年(同8年)、森家は播磨明石郡松ノ郷で3,000石(一説には6,000石)を宛がわれた。1582年(同10年)、本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉は主君の仇を討つべく中国大返しを計画する。このとき毛利氏へ人質として送り出されたのが高政と兄・重政である。高政は毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。以後、毛利姓を名乗るようになる。

1583年(天正11年)の大坂城築城、1586年(同14年)の方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めており、この年にキリスト教の洗礼を受ける。1587年(同15年)、九州平定では舟奉行。1589年(同17年)、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務める。1590年(同18年)には兵600を率いて小田原征伐に参陣、戦後に行われた後陽成天皇聚楽第行幸の際には陪従している。1591年(同19年)、朝鮮出兵の備えとして対馬に陣城普請を命じられ、清水山城撃方山城・向ノ平砦を築いている。1592年文禄元年)、文禄の役では舟奉行を務め、テンプレート:要出典範囲

1595年(文禄4年)9月、豊後国日田・玖珠2郡の内で2万石(一説には6万石ともいう)の朱印を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられ代官を兼務した。日隈城(隈城)を居城とし、五階の天守、三階の櫓などを増築している。玖珠に築いた角牟礼城も近年、発掘調査によって大規模な遺構が確認され、学術的に注目されている。1597年慶長2年)、慶長の役では軍目付(いくさめつけ)に任命され、南原城攻略では軍功を挙げている。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでははじめは西軍に与し、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加するも途中、東軍に寝返った。藤堂高虎のとりなしが改易を免れた要因の一つとなった。

1601年(慶長6年)、豊後海部郡(現在の大分県佐伯市周辺)2万石へ転封となった。1606年(慶長11年)、佐伯城を完成させた。前後して城下町の普請も行っている。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によれば慶長11年、「エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師(アウグスチノ会)は、当時豊後から佐伯近くに行き、城下に小さな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下に置いた。伊勢守殿(高政)という大名は一度改宗したことのある背教者であり、自費で天主堂、もう一つさらに大規模な修道院を建てた」とある。

外様大名だったので江戸城駿府城名古屋城大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代江戸藩邸の造営・維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化する。

1628年(寛永5年)11月16日、70歳で死去した。後を次男・高成が継いだ。墓は高輪東禅寺。法名は養賢寺院殿前勢洲剋史乾外紹元。

主な家臣団

【一門】
毛利吉安・毛利高明・毛利兵庫
【家老・重臣】
沼隼人・戸倉織部・西名兵部・岡崎主水・磯部大膳・益田主殿・並河信吉・梶谷左京・三好若狭・豊田元勝・長右京。
以上11名は毛利姓を許された。
【士分】
箕川長兵衛・加島弥左衛門・村田加賀・樋田茂兵衛・財津三郎右衛門・坂本太郎右衛門・羽野作内・高瀬仙九郎・石松五介・関内蔵之丞・斉藤権右衛門・津久見志摩・住藤左衛門・国矢斉兵衛・羽山勘右衛門・梅原与九郎・本永又兵衛・林対馬・鷲塚九左衛門・谷川又右衛門・赤坂次郎右衛門・長谷川与左衛門・内田作右衛門・工藤半右衛門・加藤物左衛門・上田吉右衛門・福泉九郎右衛門・大島彦左衛門・福湊与左衛門・中瀬忠右衛門・佐久間九郎兵衛・脇坂松右衛門・佐久間弥右衛門・間七郎右衛門・坂本瀬兵衛・松本内匠・石川喜左衛門・赤井九兵衛・梶西庄庵・知坂会庵・伴某など

脚注

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  1. 宮下良明「民部大輔友重と高政は同一人物か」 佐伯史談会編『佐伯史談』佐伯史談会 1997年