丸の内 (名古屋市)

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テンプレート:Pathnav 丸の内(まるのうち)とは、愛知県名古屋市中区の一地域であり、区の北部に位置するビジネス街である。住居表示実施により新しく設置された町丁で、丸の内一丁目から丸の内三丁目までがある。

概要

丸の内は名古屋城の南側、東を久屋大通、西を堀川、南を桜通、北を外堀通で囲まれた地区である。町丁として丸の内一丁目から丸の内三丁目までが設置されており、丸の内一丁目は堀川と伏見通を東西の境とした地区、丸の内二丁目は伏見通と本町通を東西の境とした地区、丸の内三丁目は本町通と久屋大通を東西の境とした地区である。町丁としては1966年(昭和41年)3月の住居表示実施により設置されたが、町域としては江戸時代初期の清須越による名古屋開府にまで遡ることができる。2012年時点における丸の内は名古屋の代表的なビジネス街の1つであるが、江戸期尾張藩時代からの町域であることを示す施設も現存している。太平洋戦争後の名古屋市の復興計画実施により、地域内はほぼ碁盤目状に道路が整備され、幹線道路下に市営地下鉄も引かれも地区内に設置されているなど交通の便は良い。

歴史

町丁「丸の内」は、1966年(昭和41年)3月の住居表示実施により、旧中区和泉町・梅枝町・小田原町・京町・車町・茶屋町・研屋町・中市場町・西魚町・西万町・東魚町・東万町の計12町と旧中区伊勢町・上園町・大津町・上長者町・桑名町・木挽町・呉服町・桜町・材木町・三の丸三丁目・七間町・菅原町・関鍛冶町・長島町・西菅原町・東桜町・伏見町・皆戸町・南外堀町・御幸本町通・東区久屋町・東区南外堀町の計20町の一部から成立した[1]。その後1976年(昭和51年)に中区三の丸三丁目・南外堀町の一部を丸の内三丁目に編入している[1]

この地域が町としての発展を始めたのは、徳川家康の命による清須越が1610年(慶長15年)に開始してからである。同年ないしは翌年とされる[1]堀川の開削により資材運搬が容易になったこともあり、当地域を始めとする清須越の町割は数年のうちに名古屋台地の上に形成されていった。当地域には清須越により清須から移ってきた豪商らが店を並べていたとされている[1]。1660年(万治3年)の大火により当地域も被害をうけたが、防災面の観点から道幅の拡張へとつながったりもしている[1]。明治期に入り1876年(明治9年)には名古屋城内三の丸にあった三之丸東照宮(現在の名古屋東照宮)が名古屋鎮台設置に伴い当地域に遷座された。太平洋戦争時には空襲により当地域も甚大な被害を受け、戦後の名古屋市の復興計画により区画整理が行われた。1966年には前述のとおり当地域にて住居表示が行われている。

名古屋を代表するビジネス街として、1973年(昭和48年)のタキヒヨー丸の内ビル建設を始めに企業による大規模ビルの建設が当地域で多く見られる。2012年現在当地域で最も高いアルペン丸の内タワー(最長部地上高115.866m、2007年竣工)を始めとして伏見通・桜通・大津通といった幹線道路には高層ビルが多数見られる。

ビジネス街としての丸の内を支える要因の1つである公共交通面では、1981年(昭和56年)11月に地下鉄鶴舞線の伏見駅 - 浄心駅間延伸により丸の内駅が開業した。その後1989年(平成元年)9月には地下鉄桜通線中村区役所駅 - 今池駅間開業に伴い、桜通線丸の内駅・久屋大通駅が開業している。またかつての名古屋市電時代には外堀通に行幸線・東片端線が走り、地区での最寄り駅としては西から順に景雲橋・名古屋城・大津橋の各電停があった。外堀通上を走る名古屋高速都心環状線は、1994年(平成6年)9月に丸の内出口が供用開始され、1年後の1995年9月には丸の内出口 - 東新町出入口間が開通し都心環状線全線が開通となっている。

周辺状況

「丸の内」とは本来は城の本丸の内側又は外堀の内側という意味であるが、当地域は実際に名古屋城の本丸の内側にあるわけではなく、名古屋城外堀(当地域の北側の境となっている外堀通の北側)の南に置かれた町人町が当地域の前身である。この町名は住居表示実施に際してまったく新しく当地域にあてられたもので、これにより清洲越し以来の由緒ある町名が住所としては失われ、一部が通りの名としてその名を残すのみとなった[注 1]。こうした経緯もあり地下鉄丸の内駅付近を丸の内と呼ぶことはあるが、久屋大通駅に近い丸の内三丁目の南部(桜通大津交差点周辺)はむしろ広い意味でのと呼ぶことがあるなど、丸の内という呼称が広域地名として一般的に用いられることは少ない。

丸の内は久屋大通・堀川・桜通・外堀通で囲まれた町丁であり、西に名駅、東南に錦三丁目[注 2]名古屋を代表する繁華街を抱える地区が隣接している。また北側には名古屋の官庁街である三の丸地区があることも影響し、地域内には企業ビルが林立し名古屋を代表するビジネス街になっている。その一方で、名古屋の古くからの町域であることを示す名古屋東照宮のような施設もわずかながら残っている。

施設・建物

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名古屋でも代表的なビジネス街の一つとして、企業の大規模ビルが幹線道路沿いに多数建設されている。反面、江戸期尾張藩時代からの名古屋の町域であったことを示す施設もわずかではあるが残されている。

丸の内一丁目

丸の内二丁目

丸の内三丁目

公立小中学校の学区

丸の内地区の大部分が地区内に所在する名古屋市立名城小学校区であるが、丸の内一丁目の一部は名古屋市立御園小学校区となっている。なお御園小学校は名城小学校の分校から分離独立したという経緯を持つ。

これら2校の公立中学校進学先は、名古屋市立丸の内中学校となる[注 3]。名古屋市においては公立学校選択制が導入されていないことから、学区の移転を伴う住居移転がない場合、卒業した小学校に対応して進学する公立中学校が決まる。

2010年国勢調査実施時における世帯数・人口は、丸の内一丁目が1049世帯1569人、丸の内二丁目が1173世帯1859人、丸の内三丁目が1067世帯1819人となっている。丸の内以外の地域も含まれることとなるが同じく2010年国勢調査時における名城小学校区全体での人口密度が1km2あたり2259人、御園小学校区全体での人口密度が1km2あたり4063人と中区全体での値1km2あたり8355人を大幅に下回っている。

※記述にあたっては、『名古屋の町(大字)・丁目別人口(平成22年国勢調査)』行政区別統計表[2]を参照した。

交通

鉄道駅については地下鉄丸の内駅テンプレート:ウィキ座標2段度分秒が地域内に所在し最寄り駅であるが、地域東部にあたる丸の内三丁目近辺では地下鉄久屋大通駅の方が最寄りとなることが多い。

道路については太平洋戦争後の名古屋市の復興計画による区画整理実施により碁盤目状に整備されている。伏見通・本町通・大津通などの幹線道路以外はほとんどが一方通行となっている。

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丸の内駅鶴舞線ホーム 伏見通地下に所在(2010年3月)

脚注

注釈

  1. 『なごやの町名』P83 - P84には、中区中心部での住居表示実施においては特定の旧町名を住居表示の新町名とすることは難しいため、新町名は丸の内・錦・という新しい名として、旧町名は通りの名として残すことで大多数の市民の理解を得ることとした旨が記されている。
  2. 広域地名として栄をとらえた場合には錦三丁目はその中に含まれることとなる。
  3. 丸の内中学校は丸の内地区ではなく、隣接する地区である中区三の丸一丁目に所在する。
  4. 日本銀行名古屋支店(中区錦二丁目)が接する日銀前交差点(桜通・伏見通交点)を境として、東側が国道19号、西側が愛知県道68号となる。

出典

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関連項目

テンプレート:名古屋市の地域 テンプレート:名古屋市中区の町名

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『なごやの町名』(名古屋市計画局 1992年3月31日発行)。
  2. テンプレート:Cite news