スクーデリア・フェラーリ

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スクーデリア・フェラーリテンプレート:Lang-it-short[※ 1])は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリが運営するワークス・レーシングチームである。組織としては、同社のモータースポーツ部門 (Gestione Sportiva,GES[1]) にあたる。現在はF1のコンストラクターとして活動しているが、かつてはスポーツカー世界選手権にも参戦していた。

スクーデリア(Scuderia)」はイタリア語厩舎から転じた、「チーム」に当たる言葉で、英語のsquadに相当する。

概要

ファイル:Ferrari F1 championship winning cars Museo Ferrari.jpg
ムゼオ・フェラーリに展示されるF1の歴代チャンピオンマシン

元々はアルファ・ロメオのレーシングチームとして発足し、独立後は一貫してシャーシとエンジンを内製するフルコンストラクターとして活動を続けている。

母体企業であるフェラーリ社も、スクーデリア・フェラーリの活動資金を得るために高級スポーツカーを市販したのが始まりである。チームのファクトリーはマラネッロのフェラーリ本社の近くにあり、隣接地には社有のテストコースであるピスタ・ディ・フィオラノフィオラノサーキット)がある。

F1世界選手権に創設時から参戦し続ける唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のドライバーズチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。

1970年代以降はF1活動に専念しているが、それ以前はF2ヒルクライムレースGT/スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、各種カテゴリーでも成功を収めている。ル・マン24時間レースでは歴代3位となる9勝を記録した。 テンプレート:See also

歴史

創成期

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セミワークス時代に使用したアルファロメオ・ティーポC

1929年アルファ・ロメオのレーシングドライバーエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初はレース愛好家をサポートするディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[2]。エンツォは現役を引退してチーム運営に専念し、アルファ・ロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして活躍した。1935年ドイツGPでは、タツィオ・ヌヴォラーリが強力なドイツ勢を破り、歴史的な勝利を記した。

1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。第二次世界大戦後の1947年にフェラーリ社を興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。ミッレ・ミリアやル・マン24時間レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

1950年代

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1952年 - 1953年に活躍した500F2

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファ・ロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファ・ロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファ・ロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年1953年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカーリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌年も連覇を達成した。アスカーリの個人9連勝、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付きの記録)。

メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(フェラーリ・ランチア)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノ」V6エンジン搭載車でマイク・ホーソンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

1960年代

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPウォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

1970年代

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1976年ドイツグランプリ予選中のニキ・ラウダ312T2
明くる決勝日、クラッシュによる猛火に包まれ、重いやけどを負うことになる。

新たに開発された水平対向ボクサー12気筒エンジンが、名門復活の鍵となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。横置きトランスミッションを採用したマシン、312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年ジョディー・シェクタージル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締めくくった。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

1980年代

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年ナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。

1990年代

1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。1991年も引き続きプロストが残留。ナイジェル・マンセルの入れ替わりにジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いにも絡めなかった。この年はフィアットからルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した。1992年F92Aの信頼性がなく、完走もできないレースが続いた。1993年は、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据えるが、結局3シーズンの間、1勝もできない最長の低迷期に陥っていた。

この危機にモンテゼーモロはチームマネージャー(監督)に、WRCル・マン24時間レースに参戦していたプジョーで、実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは1993年フランスGPから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。1994年ドイツGPでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。1995年にはアレジもカナダGPで自身初勝利を上げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了。当時2年連続ドライバーズチャンピオンミハエル・シューマッハベネトン)とエディ・アーバインジョーダン)との契約を締結し、1996年シーズンからドライバーを一新した。

同年、スペインGPでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウンロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築。この体制で1997年以降、タイトル争いに毎シーズン絡んでいくこととなる。1997年はウィリアムズ1998年はマクラーレンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。1999年は、途中シューマッハの事故で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアGPで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあったが、最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。

2000年代

2000年代に入り、マシン開発はエアログリップを重視する傾向が強くなる。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など、要因は複数ある[3]が、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降勝利から遠ざかっている。皮肉にも、(モナコほどではなくとも)ホームサーキットたるモンツァもマシンコンセプトと相性が悪い。

2000年は、前年第8戦イギリスGPミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止めてマシンの熟成をそれ以上行なわない代わりに、2000年シーズン用F1-2000の開発に注力する決断をしたことが功を奏し[4]、コンストラクターズと合わせ、シューマッハが21年ぶりのドライバーズタイトルをももたらした。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップは1999年から2004年まで6連覇し、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年カナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は、新型マシンである「F2005」がレギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーフェルナンド・アロンソにあけ渡してしまう。翌2006年フェリペ・マッサが加入するが、新車の信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年に現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたため、同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なお、ブラジルGPではマッサも2位に入って1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204とし、マクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り[※ 2]、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。

2009年シーズンは苦戦を強いられた。この年から搭載が認められたKERSF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録せず、かつコンストラクターズでも4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットを直撃し、長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況の中で、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。

なお、マッサの代役は当初はミハエル・シューマッハが起用される予定であったが、バイクレースでの事故の首の痛みがとれず、断念。テストドライバーのルカ・バドエルを起用した。しかし成績不振のため、ヨーロッパGP・ハンガリーGPの2戦のみにとどまり、イタリアGP以降はフォース・インディアより移籍したジャンカルロ・フィジケラが担当することとなった。

2010年代

2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組んだ。2005・2006年の王者であるアロンソが5勝を挙げ、ランキングトップで最終戦を迎えたが、ピット作戦などのミスが重なり、それまでランキング3位だったセバスチャン・ベッテルに年間王者をさらわれた。

2011年の序盤戦はマシンのパフォーマンスに苦しみ、テクニカルディレクターのアルド・コスタが5月に解任されるに至った[5]。フェラーリの風洞には不備があり、風洞での結果と実際のコース上でのパフォーマンスが一致しないという問題を抱えていた[6]。中盤になるとレッドブルやマクラーレンとほぼ互角に戦えるようになり、イギリスGPではフェラーリのF1初勝利から60周年の節目でアロンソが勝利を飾った。アロンソが最終戦までバトン、ウェバーとランキング2位を争ったが、最終的にはアロンソがランキング4位、マッサがランキング6位、コンストラクターズランキングでは3位となった。

2012年、マシンの競争力が低かったが、アロンソが第2戦で優勝し、マシンの大幅なアップデートが行われた第5戦以降、着実にポイントを積み重ね、第8戦と第10戦で優勝し、ランキングトップとなった。しかし、第12戦、第15戦でスタート直後に他車に接触されてリタイアし、ベッテルに逆転を許し、最終戦までチャンピオンを争ったものの、3ポイント差のランキング2位でシーズンを終えた。

風洞の不備はこの年も解決されず、フェラーリはドイツ・ケルンのトヨタの風洞設備を使用してマシンを改良した[7]。そして、自社の風洞を2013年8月まで閉鎖し、問題の解決にあたることを決めた。2013年型マシンの開発は全てトヨタの風洞設備で行われた[8]


2013年、アロンソが第3戦と第5戦で優勝したが、レッドブルとのマシンの性能差が大きく、コンストラクターズランキング2位をメルセデスAMGと争うのが精いっぱいだった。

2014年、4月にチーム代表のドメニカリが責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリ北米部門のCEOを務めるマルコ・マティアッチが就任した[9]

ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

シャシー・エンジン供給

ファイル:Ferrari 056 engine 2011 Tokyo Motor Show.jpg
フェラーリ・ティーポ056エンジン(2.4リッターV8)

1960年代まではイタリア、イギリス、ベルギーのプライベーターチームにもマシンを供給しており、1951年にはブリティッシュ・グリーンに塗られたマシン(シンウォール・スペシャル)がF1に出走した。1961年フランスGPではFederazione Italiana Scuderie Automobilistiche (FISA) チームのジャンカルロ・バゲッティが優勝した。フェラーリのF1コンストラクターとしての通算勝利数には、非ワークスチームが獲得したこの1勝が含まれる。

1990年代以降はプライベーターチームへエンジンを供給している。2008年イタリアGPではトロ・ロッソセバスチャン・ベッテルが、フェラーリのカスタマーエンジンユーザーとして初優勝した。2011年以降はKERSやギアボックスもセットで供給している。

フェラーリエンジン使用チーム

また、A1グランプリではF2004をベースにしたワンメイクマシンが2008 - 2009シーズンに使用された。

特色

マシン

他チームに比べると、マシンの命名法に一貫性がない。ロードカーと同様のエンジン型式(総排気量・気筒数・1気筒あたりの排気量)にちなんだネーミングや、開発年度(西暦)にちなんだネーミングを基本としているが、639 - 643系(社内開発コード)、F60(F1参戦60周年)、150°イタリア(イタリア建国150周年)など、時折イレギュラーな名前が出現する。

フェラーリ製エンジンといえば、甲高いエキゾーストノートを放つV型12気筒 (V12) が有名であるが、スポーツカーレースで華々しい成績を残す一方、F1ではタイトルを獲得したことがない[※ 3]。F1チームの中では最後(テンプレート:F1)までV12エンジンを使用したが、その後は主流派のV10へとスイッチした。2000年代以降のF1レギュレーションでは、もはや12気筒エンジンは認められていない。

カラーリングとスポンサー

ファイル:Marlboro-Ferrari.jpg
たばこ広告禁止前のマールボロのカラーリング(2006年)

フェラーリ社のコーポーレートカラーは黄色 (giallo modena) だが、ワークスのカラーリングはイタリアのナショナルレーシングカラーである赤色 (rosso corsa) が定番である。創設期はアルファ・ロメオに似た暗色(海老茶)系の赤色だったが、年代とともに紅色の混じった濃い赤色へと変化していった[10]。1970年代以降、F1にスポンサーカラーが普及しても、フェラーリは伝統を守り、マシンにサプライヤー以外のスポンサーロゴを付けないという姿勢を貫いた。

テンプレート:See also 1984年、マールボロがドライバーの報酬を支払う形 (Marlboro World Championship Team) で、マシンにマールボロのロゴが描かれるようになった。1997年にはチーム初のメインスポンサーに就任し、チーム名は「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」、マシンカラーも蛍光色系の明るい赤色になった(映像メディアのデジタル化に対応したという説もある[10])。2007年後半から2008年にかけては、マシンがメタリックレッドにペイントされた[10]

2006年には他のタバコスポンサーがF1から撤退したが、マールボロはその後もフェラーリへの支援を継続している(2012年の年間スポンサー料は推定63億円[11])。2010年にはエンジンカバーのバーコード模様にサブリミナル効果があると批判されて廃止し[12]、2011年にはチーム名からも「マールボロ」が外された[13]

人事

イタリアを代表するチームであるが、ドライバー選考に関してはイタリア人を優遇していない。1950年代から1960年代にかけて、チームに在籍したイタリア人ドライバーが死亡した際、国内のマスコミから糾弾されたことが原因とも言われる[14]。スポット参戦は数名いるものの、1992年のイヴァン・カペリを最後にイタリア人のレギュラードライバーは誕生していない。2005年以降、2輪MotoGP王者のバレンティーノ・ロッシを招いて何度かテスト走行を行ったが、フェラーリ加入は実現しなかった。

F1ドライバーならば1度は乗ってみたいと憧れるチームであるが、成績が悪いと内紛(お家騒動)が起こり、ドライバーやチーム幹部の更迭を繰り返した歴史を持つ。過去にはファン・マヌエル・ファンジオジョン・サーティースニキ・ラウダアラン・プロストといった名立たるチャンピオンがチームと喧嘩別れした。

基本的に実績のあるドライバーを採用する方針だが、2010年より若手育成プログラムとしてフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) を運営し、セルジオ・ペレスジュール・ビアンキを輩出した。ペレスは次期フェラーリドライバー候補と目されたが、ライバルチームのマクラーレン入りを選択した。

政治

レースの興行的価値という点でフェラーリの参戦は重要であり、フェラーリ側もその立場を認めて、運営団体に対して政治的駆け引きを行ってきた。

1964年には、スポーツカー世界選手権250LMがGTカーとして公認されなかったことに抗議してイタリア自動車協会を一時脱退し、同年のF1シリーズ終盤戦にはノース・アメリカン・レーシング・チーム (NART) からエントリーした。

1985年には、F1のレギュレーション改定案に抗議して、北米のCARTシリーズへの転向を示唆し、実際にプロトタイプのインディカー (開発コード637) を製作した。

2001年には、F1に参戦する他の自動車メーカーと共にGPWCを設立し、独立シリーズ構想の旗振り役となったが、コンコルド協定の更改に同意して2005年1月にGPWCを離脱した[15]。この裏切り行為は他メーカーの反感を買い、フェラーリ以外のチームが団結してGPMAを結成した[16]

2008年には、F1チームの連合体であるFOTAの設立を主導し、興行主のFOMに対して分配金の増額を訴えた[17]。FOM会長のバーニー・エクレストンはこれに反撃し、フェラーリのGPWC離脱に関して「我々はフェラーリを契約で買収した」と暴露し、この取引によってフェラーリは他チームよりも8000万ドル多く受け取っていると述べた[18]。FOTA副会長(当時)のジョン・ハウェットは「フェラーリの歴史的立場は誰もが知っており、たいした意味はない」と受け流した[19]

2009年には予算制限規定(バジェットキャップ)に反対してF1撤退を示唆し[20]、その後もモンテゼモロ会長はF1撤退というカードをちらつかせて改革を要求している[21][22]

イベント・CM

ファイル:Ferrari Formula 1 lineup at the Nürburgring.jpg
ニュルブルクリンクに並ぶ
歴代のフェラーリF1マシン
(第10回フェラーリ・トラック・デー
2003年7月23日

1981年には、ジル・ヴィルヌーヴが運転する126CKとジェット戦闘機F-104スターファイターが滑走路で競走するというイベントを開催した。静止状態から並んで同時にスタートし1,000m走るというこのレースは、126CKが勝利している。

1998年、スポンサーであるロイヤル・ダッチ・シェルグループのCMとして、走行中のF1マシンが空中給油機から給油を受ける、という実写CMを放送し話題になる。

2003年12月11日にもイタリアのバッカリーニ空港にて、ミハエル・シューマッハが乗るF2003-GAとジェット戦闘機ユーロファイター・タイフーンの競争を開催した。600mではF2003-GAが勝利したが、900mと1,200mではユーロファイターが勝利。雨天もありユーロファイターの2勝1敗という結果になった。

2006年トリノオリンピック開会式では、リアウィングに五輪マークが描かれたF2005をリザーブ兼テストドライバーのルカ・バドエルがステージ上でドライブし、ドーナツターンを披露した。

例年、10月の末から11月の初めにムジェロ・サーキットにおいて「ファン感謝デー」ともいうべき「フィナーリ・モンディアーリ」、1月にはフィリップモリス主催により、ドゥカティと合同でマスコミ向けのスキーイベント「Wrooom」を開催している。1月のイベントは新シーズンの体制発表も兼ねている。

ティフォシ

ファイル:Tifosi GP Monza 1996.jpg
ティフォシ(1995年イタリアGP)

熱狂的なフェラーリファンのことをティフォシ (tifosi) と呼ぶ。これはイタリア語で「熱狂的スポーツファン」「チフス患者」の意味を持つ「ティフォーゾ(tifoso)」の複数形であるが、元々はフェラーリファンを特定するものではなく、その熱狂振りに対する侮蔑表現を含んでいるため、彼らは自らのことを通常フェラリスタと呼ぶ。

地元開催に当たるイタリアGPでは、来場したティフォシによってモンツァ・サーキットの観客席が赤く染められる。レース後の表彰式ではコースに乱入し、ホームストレート上で応援旗を広げるのが名物になっている。彼らはフェラーリがリタイアするとレース途中でもさっさと帰ってしまう(テレビ視聴者はテレビを消してしまう)。 テンプレート:-

関連人物・企業

人物

現在のF1ドライバー

現在の主要関係者

フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)

パートナー

スポンサー

過去の主要スポンサー

サプライヤー

公式サプライヤー
サプライヤー
過去のサプライヤー

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

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外部リンク

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  1. テンプレート:Cite web
  2. "The Scuderia Ferrari". Museo Casa Enzo Ferrari. 2013年2月13日閲覧。
  3. ソニー・マガジンズF1グランプリ特集 2005年6月号、他
  4. Sports Graphic Number』 688号、文藝春秋、45頁。
  5. テンプレート:Cite news
  6. テンプレート:Cite news
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  9. F1=不振のフェラーリ、ドメニカリ代表が辞任 - ロイター・2014年4月15日
  10. 10.0 10.1 10.2 「フェラーリF1 Q&A」『モデルアート 2010年3月号』 モデルアート、2010年、pp.10 - 12。
  11. 『F1速報PLUS Vol.26』 イデア、2012年、p.50。
  12. "スクーデリア・フェラーリ・マールボロのバーコードに終止符". オートスポーツ.(2010年5月7日)2013年2月13日閲覧。
  13. "フェラーリのチーム名からマールボロが消える". オートスポーツ.(2011年7月9日)2013年2月13日閲覧。
  14. 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニー・マガジンズ、1997年、72頁。
  15. "【新グランプリ設立か】F1とGPWCの動き---総括". レスポンス.(2005年5月5日)2013年2月6日閲覧。
  16. 田中詔一『F1ビジネス-もう一つの自動車戦争』 角川Oneテーマ21、2006年、pp.136-139。
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  18. "バーニー・エクレストン、フェラーリとの特別契約を暴露". F1-Gate.com.(2008年12月22日)2013年2月6日閲覧。
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