ジュゼッペ・ファリーナ

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テンプレート:Infobox エミリオ・ジュゼッペ・ファリーナEmilio Giuseppe Farina, 1906年10月30日 - 1966年6月30日)は、イタリア・トリノ出身のレーシング・ドライバーである。1950年に創始されたF1世界選手権の初代チャンピオンでもある。博士号を持つことから、ドクター・ファリーナの異名を取った。また、ニーノの愛称もある。

人物紹介

トリノカロッツェリア・スタビリメンテ・ファリーナを経営するジョヴァンニ・ファリーナの息子として生まれる。叔父のバッティスタ・ファリーナピニンファリーナの創始者である。

10歳のときにモータースポーツの魅力に取りつかれ、1921年に15歳にして自らレースに参加するようになった。その後法学の博士などを経て、1930年ヒルクライムで本格的なキャリアをスタート。しかし、そのレースではクラッシュにより骨折している。

出鼻を挫かれる形となったファリーナだが、その後は順調にキャリアを重ね、1938年頃にはアルファ・ロメオのエースとなっていた。1940年リビアで行われたトリポリGPで勝利後、第二次世界大戦の激化により一時レースが中断となるも、戦後は再び第一線で活躍。1948年には、モナコGPも制している。

F1

1950年に始まったF1世界選手権において、開幕戦のイギリスGPポールポジションを獲得し、レースでも優勝。ポールトゥーウィンを達成し、創設初戦における、それぞれの初代1位獲得者として名を刻んだ。この年3勝を挙げ、ファン・マヌエル・ファンジオルイジ・ファジオーリに競り勝ち、初代ワールドチャンピオンとなった。

1951年はチームメイトの1人だったファンジオがシーズンを圧巻し、ファリーナは1勝に終わる。またこの年をもってアルファロメオが撤退したため、以降フェラーリを駆ることになる。この際、アルベルト・アスカーリのセカンドドライバーとしての契約となったが、年下のアスカーリのセカンドドライバーという立場に不満を抱いていた。1953年以降は勝利から遠ざかったこともあって、1955年半ばにF1から引退した。

スポーツカー

F1でフェラーリをドライブしていた頃、スポーツカーレースにもフェラーリから参戦。1953年ニュルブルクリンク1000kmレース1954年ブレノスアイレス1000kmレースで勝利を収めた。

F1後

F1引退後、1956年にはインディ500に挑戦するが、予選落ちに終わる。これをもって本格的なキャリアは終わりを告げるが、細々とはレース活動を続けた。

1966年6月30日、F1フランスGPの観戦に行く途中、氷上で車が滑ったことにより事故を起こして死亡した。59歳だった。

エピソード

  • そのドライビングポジションは当時としては独特だった。他の多くのドライバーがハンドルを抱えるように持っていたのに対し、ファリーナは上体を後ろに反らし、腕を伸ばした形でハンドルを握る「レイ・バック」と呼ばれるスタイルで、現在に近いものであった。
  • 頑固で熱血型の性格だったといわれる。1947年ピアチェンツァのレースにフェラーリで参加した際には、マシンの不調からマシンを交換するようチームに要求するも、聞き入れられなかった。憤慨したファリーナは、レース前にサーキットから姿を消してしまい、戻って来なかった。
  • 激しいドライビングスタイルだった。エンツォ・フェラーリは、「アクセルを踏み続けることを恐れない勇気あるレーサーだったが、スタート時はクラッシュを起こすのではないかと気を揉んだ」、「他者や自分を危険にさらすこともあり、常に病院に部屋を準備しておく必要があった」などと発言を残している。
  • F1での最後の勝利となった1953年のドイツGPは、昭和天皇の名代としてエリザベス2世戴冠式に参列するなど、6ヶ月間の欧米歴訪中だった当時19歳の皇太子明仁親王(今上天皇)が台覧していた。レース終了後の表彰台で今上天皇がファリーナを祝福し握手を交わした際の写真が通信社を介して各国に配信されており、その時の模様を伝えている。今上天皇が自動車レースを観戦したのは、この1回のみである。

関連項目

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