ル・マン24時間レース

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ル・マン24時間が開催されるサルト・サーキットのピット

ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、24 heures du Mans )は、フランスル・マン近郊で行われる耐久レースである。24時間でのサーキット周回数を競う。主催はフランス西部自動車クラブ(ACO)。ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。

日本で「ル・マン24時間」と言うと、通常は一年の内で最も昼の長い毎年6月の初めから中頃に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地では毎年、オートバイによる24時間耐久レースも開催されている。本項では自動車による24時間レースについて解説する[1]

概要

1923年に初開催された歴史あるレースのひとつで、フォーミュラ1モナコグランプリアメリカインディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれる。そのため世界中の耐久レースに大きな影響を与えており、ル・マン・シリーズ世界耐久選手権の車両規定はル・マンのものに準じている。またデイトナ24時間レーススパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。

レースが中止されたのはコースが大改修された1936年(フランスの自動車工業界のストライキの影響とも言われる)と、第二次世界大戦の開戦とナチス・ドイツによるフランス占領により中止になりコースの改修もされた1940年から1948年にかけての間だけである。

各国のメーカーが開発した最新鋭の耐久マシンを、現役のスタードライバーや若手ドライバーがドライブする姿を見ることができるのはもちろん、スプリントドライバーで一線を退いたスター選手や「ジェントルマン・ドライバー」と呼ばれるアマチュアドライバーの走りも見ることができる。

開催地

競技はフランス中部にあるル・マン市サルト・サーキット[2]と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その殆どは普段は一般道で、スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。各ストレートやコーナーには「ユノディエール」や「ミュルサンヌ」、「テルトル・ルージュ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの名称がついている。

サルト・サーキットの特徴といえばユノディエールという全長6kmに及ぶストレート(右のコース図で言う上のストレート区間)であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、安全上の問題からFISAが再三勧告をし1990年に2箇所のシケインが設けられた。

なお、二輪のレースは「ブガッティ・サーキット」、四輪のレースは「サルト・サーキット」と、ピットエリア周辺一帯は共用しているものの別のサーキットを使用し、各々区別している。

ル・マン式スタート

コース幅の片側に競技車を配置し、ドライバーは車両の反対側からコースを渡るよう駆け寄って乗車する。かねて1925年より用いられる伝統あるスタート方法であり、他のレースでも採用された。

1925年から1927年までは「ドライバーが駆け寄って幌を上げてからエンジンを始動し走行し、20周経過までは幌を下げてはいけない(不確実な幌固定で風圧や振動により下がった時点で失格)」というルールだった。エンジン始動の確度や幌の操作性など自動車としての実用性・完成度を競う方法としては意味があったと言える。

しかしシートベルト装着がスタート号砲のあとになるため、装着状態確認がおろそかになる危険性がある。この危険性を常々訴えていたジャッキー・イクスは、1969年に開催された本レースで他の選手がマシンへ走って向う中、歩いてマシンに向うことで確実なシートベルト装着実行を暗示しこのスタート方法に抗議した。これにより発祥レースである本レースでは同年限りで廃止された。ジャッキー・イクスは当然に最後発スタートになったが、結果としてはこの年2位に130mの差をつけて優勝している。

1970年はドライバーが乗車したまま(すなわちシートベルト装着を終え)コースの片側に斜めに停止した状態から号砲を受けスタートする「変則ル・マン式スタート」となったが、1971年からは一般的なローリングスタートになった。

2012年現在4輪車のレースではほとんど採用されておらず、シートベルトが存在しない2輪の耐久レース(鈴鹿8時間耐久ロードレースなど)のうち伝統的にルマン式スタートを採用しているごく一部のレースだけで行われている。あまり行われなくなった理由は予選順位の意味が失われる,スタート時に事故が起こりやすいなどである。

コース全長の変遷

  • A (1923年 - 1928年)17.262km - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。
  • B (1929年 - 1931年)16.340km
  • C (1932年 - 1955年)13.492km - 当年からテルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。
  • D (1956年 - 1967年)13.461km
  • E (1968年 - 1971年)13.469km
  • F (1972年 - 1978年)13.640km
  • G (1979年 - 1985年)13.626km
  • H (1986年)13.528km - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。
  • I (1987年 - 1989年)13.535km - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。
  • J (1990年 - 1996年)13.600km - ユノディエールに2ヶ所のシケインが設置された。
  • K (1997年 - 2001年)13.605km - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。
  • L (2002年 - 2005年)13.650km - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。
  • M (2006年)13.650km - ダンロップシケイン付近を改修した。
  • N (2007年 - )13.629km - テルトルルージュ付近を改修した。

優勝車/優勝者一覧

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メーカー別勝利数

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ベントレー・スピード6(1929年)

エピソード

一人で24時間に挑戦

  • ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった[3]。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。
これにより、棚ぼた的に優勝(総合1・2位)を果たしたメルセデス・ベンツであったが[4]、メルセデスのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアは、その後ルヴェーをメルセデス・ベンツチームへ招聘し、1955年に実現する。

1955年の事故

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ジャガー・Dタイプ(同型車)

テンプレート:Main 1955年に発生し、多数の死傷者を出したこの事故は、モータースポーツ界に大きな影響を与えたのみならず、事故の当事者となった自動車メーカーのその後の経営にも大きな影響を与えることになった。

1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットインした。後続オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへメルセデスを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった(当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いても例外ではなく、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる)。

なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ことが続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった[5]。皮肉にも優勝者は大惨事のきっかけとなったマイク・ホーソーンであった。

この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった‥」と、いわゆる「レーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)」であったことを模型を用いて解説している。ちなみに事故後の調査でファンジオの乗ったメルセデスの車体にホーソーンの乗ったジャガーの塗装がこびり付いていたことでごく僅かに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。

メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とはならない)規定違反を疑う声があったが、これについてメルセデスのファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている[6]

モータースポーツの安全性という点で大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはレースそのものが禁止された[7]など全世界に大きな影響を残している。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、1985年のル・マン24時間レースザウバー・C8にて復帰するまで実に30年に渡りル・マンひいてはモータースポーツから姿を消すこととなった。

なおこの事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後に事故の当事者の一人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後のそれぞれの動向が著されている。

1999年のレースに於いてもメルセデス・ベンツは、前年たった2時間で全滅した屈辱を晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選、フリー走行、そして決勝と3度に渡って宙を舞う事態に見舞われ、1955年の悪夢再びか、と騒がれた。そしてこの時もメルセデスはそのままル・マンから去った。

事故の当事者の一人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツの世界を離れてカーディーラーとなったが、2002年にこの世を去っている。

映画俳優の参戦

  • 映画「栄光のル・マン」で主演を務めたスティーヴ・マックイーンは1970年のセブリング12時間レースで2位に入賞するなどレーシングドライバーとしても活躍しており、同映画でも代役を立てず実際にマシンを走らせていた。その後正式レースに出場を希望したが、周囲からの猛反対に遭って止むなく断念せざるを得なくなり、彼は生涯それを悔しがっていたという。後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。
  • ポール・ニューマンが1979年2位となったが、レース中からずっとパパラッチがしつこく付いてくることに嫌気が差し、それ以降エントリーすることはなかった。

ペースカー

その年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージ(ロールス・ロイス・シルヴァーセラフのベントレーブランド版)が起用された。第1回目のレースが国際レース化を謳いながら、殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーと、ベルギーの"エキセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できた、その感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。また同時期、ベントレーの親会社であるロールス・ロイスが自動車業界の再編に伴い、売却の憂き目に遭っており、ベントレーブランドも存亡の矢面に立たされていた時期でもあった。後にロールス・ロイスがBMW、ベントレーがフォルクスワーゲン(VAG -フォルクスワーゲン・アウディグループ)と、それぞれが新しい経営母体の元で存続することになる。日本車では1990年日産・フェアレディZ300ZXが採用され、また日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用されたことがある。

ユノディエールとその分割

ユノディエールは以前6kmに及ぶ直線であり、最高速度300km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400km/hに近づき45秒ほどで走り切る車両が登場したが、非常に長い時間アクセルを踏みっぱなしにして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車の前照灯だけが頼りとなる。初めて走行すると永遠に続くのではないかと思われるほど長く感じられ、非常に勇気が必要で、異次元に迷いこんでしまうのではないかという錯覚に陥るという。加藤真は日本チームとして最初に参戦したシグマの監督として赴いた際に走行車両を見て、マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないかという印象を持ったほどであった。

WM・セカテバ・プジョーは成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度に命をかけており、1986年に407km/hの公式記録を残している。しかし実際には計測されていないだけで400km/hを越えていたマシンが数多くあったといわれており、1989年には決勝走行中にメルセデス・ベンツのザウバー・C9が400km/hを記録した。

国際自動車スポーツ連盟(FISA、現国際自動車連盟)は安全性の観点から2km以上の直線を認めない旨ルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブはこれこそル・マンの特徴である旨主張し1989年はスポーツカーシリーズから外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるためシケインを2つ挿入するコース改修がなされたが、工事完成は1990年のレース直前となり、2ヶ月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため1990年もスポーツカーシリーズからは外れることとなった。

各国自動車メーカーの活動

フランス

地元でもあり第一回の1923年総合優勝を含め初期には有力であった。

ロレーヌ
1925年1926年と連覇している。
ブガッティ
1937年1939年と総合優勝している。
ドライエ
1938年総合優勝している。
DB/ボネ/マートラ
DBは戦後最初に開催された1949年から1961年までの長年休みなしで参戦し、性能指数賞を1954年1956年1959年1960年1961年と獲得している。オトモビル・ルネ・ボネ体制になってからも1963年まで継続して参戦した。この頃は総合優勝を狙える力はなかったが、さらにその後はマトラ体制になり1966年から参戦、1972年には総合優勝、その後1973年1974年と三連覇した[8]
タルボ
1950年総合優勝している。
アルピーヌルノー
1978年総合優勝している。
ロンドー
地元に育ったジャン・ロンドーは、自分の名前を冠したマシンでルマンに優勝するという夢を1980年に果たした。
プジョー
1992年1993年と総合優勝している。また2009年にも総合優勝した。

イギリス

ベントレー
当初より参戦し、第2回大会(1924年)でフランス以外の外国車として初優勝。富裕層出身のドライバーたちは「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれた。1927年から1930年にかけて4連勝し、黎明期に非常に大きな足跡を残した。2001年にはアウディグループ傘下でル・マンへ復帰し、2003年スピード8が73年ぶりの総合優勝を果たした。
ジャガー
先駆的なメカニズムを持つCタイプDタイプを擁して1951年1953年1955年から1957年で3連勝。またトム・ウォーキンショーと組んで1988年1990年に総合優勝している。
ロータス
1954年、創始者コーリン・チャップマン自らマーク9で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった[9]。参戦2回目の1956年にはイレブンで1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。1962年にロータス・23を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できなかった。
その後長いブランクがあったが、1997年にエリーゼGT1で参戦。2013年にはLMP2クラスにT128(開発はコデワ)を投入した。
その他
アストンマーチン1959年に、ガルフ・ミラージュが1975年に総合優勝している。

イタリア

アルファ・ロメオ
8Cで1931年から1934年まで4連覇した。
フェラーリ
創業間もない1949年に初優勝。その後、1954年1958年1960年から1965年まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、フォードの物量作戦に敗れる。覇権をポルシェに譲る形で1973年に撤退したが、今日でもル・マン復帰が噂されている[10]
ランチア
1982年にグループ6のLC1で参戦したが、ポルシェ・956の前に惨敗に終わった。1983年からグループCのLC2にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した1984年は注目を集めたが、この時もヨースト・レーシングに惨敗した。

ドイツ

ポルシェ
1951年、未だフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘によりポルシェ・356で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく小排気量車によるクラス優勝を続けた後、ポルシェ・917を開発して1970年に初の総合優勝を果たした。その後は1971年1976年1977年1979年1981年から1987年まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。1994年ダウアー・ポルシェ1998年TWRポルシェの優勝をバックアップした。
ワークスチームの1998年の優勝を最後に沈黙が続いていたが、2014年よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。
メルセデス・ベンツ
1952年に総合優勝するなど強豪であったが、1955年の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。1985年からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、1988年からワークス参戦となり、1989年には総合優勝を果たしている。
1955年は大惨事、1988年はタイヤバースト、1999年はCLRが3度宙を舞うアクシデントによって、3度もレース撤退の決断を強いられ、「西暦下2桁ぞろ目のジンクス」が囁かれた。
アウディ
1999年に初出場で3位入賞。その後、21世紀に入ると圧倒的なペースで優勝を重ね、様々な記録を更新し続けている。
R8を開発し2000年から2002年荒聖治に日本人2人目のル・マン優勝をもたらした2004年、そして2005年に総合優勝を達成。翌2006年に投入したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上初のディーゼルエンジン搭載車による総合優勝に加え、2007年2008年と2度目の3連覇を達成した。2010年には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝し、2011年に10勝目を挙げた。2012年にはアウディ・R18 e-tron クアトロが初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成した。

アメリカ

カニンガム
カルフォルニアの大富豪ブリッグス・カニンガムが自分の財産をつぎ込んでキャデラックのレーシングバージョンを製作し、1950年代に参戦していた。
シャパラル
テキサスの石油王ジム・ホールが個人の資産で作った自動車研究所で空力特性の良い車両を独自の方針に従って開発し、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援を受けて参戦した。
フォード
1963年にシェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦し、スターリング・モスがマネージャーを務めるACカーズが総合7位に入賞し、これをフォードが評価してGTプロジェクトに繋がった。フォードはフェラーリ買収に失敗し、フォード・GTを投入した1965年のル・マンでも惨敗、最終的にシェルビー・アメリカンの協力を得て1966年に勝利、これがアメリカ車初の勝利となった。フォードは1969年まで4連覇し撤退した。
パノス

日本勢の活躍

ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。

1970年代は排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、プライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。1980年代以降はマツダ日産自動車トヨタ自動車本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦したが、総合優勝したことのあるのはマツダ(1991年)だけである。(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝しているが、日本メーカー車に日本チーム、日本人ドライバーというオールジャパンチームとしての優勝はまだない。

プライベート・チーム

シグマオートモーティブ(1973 - 1975年)
ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973年のシグマ・オートモーティブである。当初はトヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したMC73はリアウイングに「TOYOTA」のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンであった。シグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。
1974年はマツダオート東京と正式にジョイントし、24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこの時のドライバーの一人が、長年参戦を続けたことから後に「ミスター・ル・マン」の異名を取ることになる寺田陽次郎である。
1975年はトヨタからのエンジン供給が実現し、2T-Gターボエンジンを搭載したシグマ・MC75でエントリーしたが、結果はエンジントラブルでリタイア。
これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立されたサードがその後を引き継ぎ、1990年にトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。1994年には旧グループCカーを貸与され出場、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台を獲得している。1995年1996年には独自開発のGTマシン・サード・MC8-RスープラLM-GTで参戦した。
童夢(1979 - 1986年)
1978年ジュネーブモーターショーで、スーパーカー童夢-零」を発表し、その玩具ライセンス収入をきっかけに1979年にル・マンに初挑戦した。零RLはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。
1980年、零RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし、最下位の25位で完走した。1981年は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。
1982年、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。1984年RC-83で出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。
1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体に当時市販されていたグループB車両のトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレース用にモディファイした4T-GT改を搭載する85C-Lで出場。決勝はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。1986年、前年と同様の体制で86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第1期ル・マン参戦は終わった。
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童夢・S101Hbi・ジャッド (2006年マシン)
2001年FIA スポーツカー選手権 (FIA SCC) 参戦用の車としてオープンプロトタイプカーのS101を開発すると、同車を購入したプライベーターによりル・マンに再び参戦するようになった。中でもヤン・ラマース率いるRacing for Hollandが2001年から2007年までル・マンに参戦し、2001年2003年には予選4番手を獲得するなど、打倒アウディ・R8の有力候補として期待されていたが、決勝ではトラブルに悩まされることが多く、最高位は2003年2004年の総合6位と、期待されたほどの成績は残せなかった。
2005年以降はル・マンのレギュレーション変更によりマシンをS101-Hb、S101.5とマイナーチェンジしてきたが、2008年には久々の新車としてクローズドプロトタイプのS102を開発しワークス参戦(総合33位)。2012年には改良型のS102.5でアンリ・ペスカロロと提携して4年ぶりに復帰した。
マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年)
1974年にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、1979年に自らのチームで参戦を果たした。マシンはIMSA-GTO仕様のサバンナRX7・252iであった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により結果は予選落ちとなった。
1980年チーム体制構築のための参戦を見合せ、1981年に再挑戦をする。この際にトム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) と提携した。また1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりでドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の脇雅世をチームの料理長に迎えた。脇は1991年まで料理長を務めることとなる。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。1982年はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/従野孝司/アラン・モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。
1983年、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下のマツダスピードとなり、以後の活動はワークス・チームによるものとなった。
トムス(1980年、1985 - 1986年)
1980年、トヨタ・セリカRA40系ベースのIMSA-GTXマシンで初参戦し予選落ち。
1982年、童夢と共同で日本で初めてグループCカーを開発しWEC-JAPANに参戦。翌1983年以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)にフル参戦するようになる。
1985年、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した85C-L/トヨタで5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌1986年86C-L/トヨタで参戦するが完走は成らなかった。1987年以降はトヨタ・チーム・トムス (TTT) として、トヨタワークスとしての活動になる。

ワークスチーム

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1991年に総合優勝したマツダ787B 2007年9月24日撮影
マツダ
マツダは日本勢としては最も古く1970年代からル・マン24時間レースに参戦していた。途中1984年にはアメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残している[11]。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールした。
レギュレーションの変更に伴いロータリーエンジンが参加できるのは1990年までとなり、1990年のル・マン24時間レースマツダ・787を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。
結果的に最後の参戦になった1991年、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両はマツダ・787B、ドライバーはジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・ヴァイドラー。同時に参戦していた他の2台も6位と8位に入った。なおこの年はファイナルラップ中に24時間のゴールタイムを迎えたため終了前に観客がコースになだれ込んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受けることになってしまった。更にゴール時にドライブしていたジョニー・ハーバートが脱水症状を起こし、ゴール直後に医務室に搬送されたために表彰台に姿を現さない一幕もあった。
大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきたマツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた。
このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであったレナウンの当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし「こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て」と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地のアーガイルの柄をベースに考案したものである。
この年を最後に事実上ロータリー車が締め出されるため、当初1991年を以てル・マンを撤退する予定であったが、優勝したために急遽レシプロエンジンの車両であるマツダ・MX-R01を開発し、1992年ディフェンディングチャンピオンとして参戦、総合4位に入賞するが、マツダの業績悪化に伴い、この年を最後に撤退した。
その後、レギュレーション改正によりロータリーエンジンが解禁されると1994年にモータースポーツ部門であるマツダスピードがRX-7GTOで単独参戦、久々にル・マンにロータリーサウンドを復活させ、その後はマツダスピードや寺田陽次郎率いるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載マシンがル・マンを走っている。
日産
日産の初参加は1986年ニスモからのエントリーである。前年WEC-JAPANを制覇したR85VR86Vの2台体制。R85Vが16位で完走した。
2年目以降(R87ER88C)は苦戦するが、参戦4年目の1989年、ローラと共同開発のR89Cで、日本車として初めてル・マンでトップ争いに加わるが、3車ともリタイヤに終わった。
1990年には、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からエントリーしたR90CKが日本車初のポールポジションを獲得するも、決勝ではリタイア。日本(ニスモ)からエントリーしたR90CPが予選3位、決勝5位と健闘した。
その後しばらく参戦を休止するが、1995年スカイラインGT-RをベースにしたニスモGT-R-LMで復帰。1997年からは本格的GT-1マシンである日産・R390で参戦した。1998年には星野一義鈴木亜久里影山正彦のドライブするR390が総合3位に入賞し、純日本人ドライバーチームが初めて表彰台に上がった。この年は日産から4台がエントリーしたが、すべて10位以内で完走した。翌1999年にも日産・R391で参戦するがリタイヤ。翌2000年にもニスモがR391によるル・マン参戦を計画していたが、この頃日産のCEOに就任したカルロス・ゴーンの判断により撤退を余儀なくされている。
ファイル:1999 Toyota TS020 01.jpg
トヨタ・GT-One TS020(1999年)
トヨタ
トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは1987年からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌1988年には88Cが12位で完走している。1990年には90C-Vが6位に入賞。1年の参戦中断の後1992年TS010で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位にとどまった。
1994年にはサードからトヨタ94C-Vが参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。
久々の復帰となった1998年TTEを通じて出走したTS020が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前にリタイア。また1999年には片山右京土屋圭市鈴木利男組が1998年仕様と同型の3号車での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ総合2位に終わった。トヨタは2002年からのF1参戦に集中するため同年限りで参戦を休止した。
なお先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、現在のトヨタF1の実働部隊であるトヨタ・モータースポーツ (TMG) の母体となった組織である。ル・マン参戦前はWRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。
2012年にはハイブリッドカーTS030 HYBRIDで13年振りにル・マン復帰。2台で参戦し予選で3位になり、決勝でもトップ争いを繰り広げたものの、1台は周回遅れの車と絡んでクラッシュ、残る1台もトラブルでリタイアした。2013年には、決勝で2位に入賞。2014年は、予選で7号車の中嶋一貴日本人初ポールポジションを獲得、中島は本選途中リタイアだったがもう1台の8号車が決勝では3位に入賞した[12][13]
ファイル:Honda NSX Le Mans Racer.JPG
NSXル・マンレーサー
ホンダ
1994年ホンダNSX GTにより参戦を始めた。初年度はクレマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。
2年目の1995年はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台(チーム国光及び中嶋企画)エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出ることすらできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいたために起きた断線が原因であることが判明している。中嶋企画はタイムアタックがうまく行かず好タイムを出せないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出して撥ねてしまうというアクシデントに見舞われた。幸いオフィシャルは軽傷で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取るうちにタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまった。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の十勝24時間レース鈴鹿1000kmでもチーム国光とは全く明暗が分かれることとなる)。
決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光(高橋国光/土屋圭市/飯田章組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、GT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。
1996年はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。

その他のチーム、ドライバー

  • 1990年、東名スポーツがメンテナンスし、その後1992年全日本F3選手権のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ・962Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ・962Cで初参戦、13位で完走する。
  • 1991年にはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR(長坂尚樹/見崎清志/横島久組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川とみ子他女性3名(リン・セントジェームズデジレ・ウィルソンら)での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。
  • 1992年には、粕谷俊二がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦し、総合13位で完走。また、原田淳・吉川とみ子・嶋村健太らがチーム・ニッポン(登録名チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦したが、こちらは途中でリタイアしている。
  • 1993年には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田淳が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川とみ子が参戦したが、両方リタイアに終わっている。
  • 1994年は、チーム・ニッポン(登録名ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田淳・吉川とみ子・近藤真彦の3人で参戦したが、途中リタイア。
  • 1995年には、1985年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳J.J.レートヤニック・ダルマス)を果たした。
  • 2000年にはテレビ朝日チーム郷と共同で、"テレビ朝日・チーム龍(Dragon)"としてパノスLMP-1を2台エントリーさせている。当初はLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを2台投入した"チーム虎(Tiger)"として、二つのクラスで出場を計画していたが、諸事情でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定していたドライバーには高橋国光近藤真彦関谷正徳らが予定され、ル・マン経験者を中心に布陣を固めた「ドリームチーム」として期待されていた。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、レースに出場するエントラントでもあったため他チームのピットを取材しようとして拒否される等のトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。
  • 2002年から2004年にかけてKONDO Racing横浜ゴムとジョイントし、童夢・S101でル・マンに参戦。近藤真彦福田良片山右京加藤寛規らがステアリングを握ったが、2003年に総合13位に入ったのが唯一の完走。
  • 2004年にはチーム郷(アウディ・R8)が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。ドライバーの一人荒聖治は日本人として2人目の総合優勝。
  • 日本車ではないがJLOC(日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年のレースに参戦したものの完走には至らなかった。また2007年にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。
  • その他に太田哲也が1993年~1996年まで、羽根幸浩が1995年に、鈴木隆司が1996年~1997年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。
  • 東海大学において林義正研究室(開発コース)でル・マン参戦のための車両が研究開発されていた。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、2008年の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形のYGKが製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーをモディファイしたものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れていない等の要因からトラブルが多発。メカニックについてR&D SPORTの支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。林が東海大を退官する関係から2012年に同プロジェクトは終了したが、林はYGKと共同で新たなル・マン参戦プロジェクトを立ち上げる方針である。

テレビ中継

日本では、株式会社マクランサ代表の林正史(株式会社童夢代表の林みのるの実弟)の企画により、1979年TBSによる2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより1982年から1986年までテレビ朝日がダイジェスト版を放送し、同局が1987年から2003年まで中継を行っていた。2004年と2005年は、CS放送スカイパーフェクTV!でレース前後を含めた25時間完全生中継、スポーツ・アイ ESPN(現J sports ESPN)でも部分的に中継を行っていた。2006年~2008年のTV中継は行われず、CS放送のG+でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBS/CSスポーツ専門チャンネルのJ SPORTSがスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間[14]の生中継を実施。また、J SPORTSの契約者向けにスカパー!オンデマンドでの24時間ライブ配信を実施。2012年からは、日経CNBCが現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、谷中麻里衣が出向いている。

テレビ朝日のル・マン中継

毎年原則として、スタート直前の日本時間22時59分(現地時間15時59分)フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始と同時に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周程した後オープニングと提供クレジット、日本時間24時頃にニュースなどによる中断を挟み、以降日本時間翌朝5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。日曜午後にも1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールはディレイ録画で日本時間23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。

なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間23時の放送開始で、録画のためスタート進行はダミーグリッドからフォーメーションラップがスタートする場面から放送が開始された。

それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた[15]

競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界ではタブーとされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。

実況

解説

  • 熊谷睦(1987年 - 1990年・1992年) - 『オートスポーツ』編集長(当時)、1991年はスタジオ解説を担当。
  • 津々見友彦(1991年 - 1995年)
  • 由良拓也(1995年 - 2003年) - 長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する「由良拓也が斬る!」というコーナーを持っていた。1995年はピットレポートを担当。

ピットリポーター

  • 赤井邦彦(1987年)
  • ビル大友(1988年・1989年)
  • 大石吾朗(1988年)
  • 粕谷俊二(1993年・1996年-2001年)
  • 服部尚貴(1996年)
  • 近藤真彦(1997年)

現地リポート

ゲスト解説

ゲスト(現地)

  • 酒井法子(1992年) - ピットバルコニーゲストとして登場。
  • 岡本佳織(1994年) - ピットリポートを担当した。
  • MANISH(1996年) - この年のテーマソング(後述)を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。
  • 松岡充SOPHIA)(2001年) - MANISHと同様、この年のテーマソング(後述)を担当。

ゲスト(スタジオ)

スタジオ司会

歴代テーマ曲

  • 1987年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1988年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1989年 - テレビ朝日スポーツテーマ
  • 1990年 - 高中正義「Can You Feel It」
  • 1991年 - 外道「龍神 ~空に舞う (1991 Version)」
  • 1992年 - DIMENSION「Out Of Wind」
  • 1993年 - FORCE「HUNAUDIERES」
  • 1994年 - FORCE「DISTANT VIEW」
  • 1995年 - DIMENSION「Land Breeze」
  • 1996年 - MANISH「It's so Natural」
  • 1997年 - ケンイシイ「DRUMMELTER」
  • 1998年 - CORNELIUS「Count 5,6,7,8」
  • 1999年 - LUNA SEA「G.」
  • 2000年 - 東儀秀樹「COOL RUN」
  • 2001年 - SOPHIA「KURU KURU」
  • 2002年 - SOPHIA「ROCK STAR」
  • 2003年 - B'z「IT'S SHOWTIME!!」

ラジオ中継

1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。実況は同局扇一平アナが担当。

ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム

映画

ドラマ

レーザーディスク

  • '84 24HEURES DU MANS(1984年、パイオニア、プロデューサー:林正史)

ビデオソフト

  • エキサイティング ルマン(1984年、プロデューサー:林正史)
  • 爆走モンスターマシン 24時間の記録
  • ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン(1982年、日本コロムビア、プロデューサー:川野真)
  • DOME&TOM'S IN LE MANS '85(1985年、ファンハウス、プロデューサー:林正史)
  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、アドインターナショナル)
  • Dramas of Le Mans 24Hours(1980年、東映芸能ビデオ)
  • '86 LE MANS 24 HOURS RACE(1986年、デルタポイント)
  • Le MANS 83(1983年、東映ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd)
  • ル・マン カタログ'85(1985年、TDKコア

LP

  • 24HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)
  • TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
  • 童夢ZERO RL(1979年、東芝EMI、プロデューサー:新田和長)
  • FUNKY TRACK/鳴瀬喜博(1984年、徳間ジャパン、プロデューサー:林正史)
  • DIGITAL EXPLOSION '83(1983年、東芝EMI、プロデューサー:林正史)

VHD

  • DOME & TOM'S IN LE MANS '85(1985年、日本ビクター、プロデューサー:林正史)

CD

  • 24 HEURES DU MANS 1983(1983年、Japan Records、プロデューサー:林正史)

小説

  • ニッサンがルマンを制覇する時(高斎正)
  • お気に入りがルマンに優勝する時(高斎正)
  • スーパーカーのル・マン(福野礼一郎) - 「スーパーカー野郎」収録、1994年ル・マンのパラレルワールド的作品

漫画

  • 白と黒の羊(新谷かおる)
  • ミルザンヌの嵐(聖悠紀)

ゲーム

テンプレート:See also

関連項目

脚注

  1. 2輪のル・マン24時間はサルト・サーキットでなくブガッティ・サーキットで行われる。
  2. 日本では「サルテ・サーキット」と表記されることが多いが、「サルト・サーキット」がよりフランス語発音に近いカタカナ表記とされている。
  3. 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。
  4. 1952年のル・マン24時間(英語版)
  5. 二玄社刊・世界の自動車メルセデス・ベンツ」戦後編
  6. 『死のレース 1955年 ルマン』p.214。
  7. ラリーやヒルクライム競技等から徐々に緩和され2007年6月に撤廃された。
  8. 『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』p.42。
  9. 『ワールドカーガイド8ロータス』P131。
  10. "フェラーリが2015年ル・マンへ? WECプロトタイプ参戦計画". Topnews.(2013年8月2日)2013年11月14日閲覧。
  11. マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616
  12. トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」
  13. 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!
  14. 2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間だった。
  15. 主にスタートを担当したアナウンサーは2日目の午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。

参考文献

  • 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN4-87687-161-2
  • 『Gr.Cとル・マン』学研 ISBN978-4-05-604601-4
  • 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN4-08-780158-6
  • マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN4-544-04043-4
  • 大川悠『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』二玄社

外部リンク

テンプレート:ル・マン24時間レース