アール・エフ・ラジオ日本
株式会社アール・エフ・ラジオ日本(アール・エフ・ラジオにっぽん)は、神奈川県を放送対象地域として中波放送(AM放送)をする特定地上基幹放送事業者である。 通称はラジオ日本、1422ラジオ日本(いちよんにーにーラジオにっぽん)。 旧社名はラジオ関東。
目次
概要
ラジオネットワークに属さない独立放送局であるが、ラジオ関西、岐阜放送と提携して番組を相互供給している[1]。 かつては極東放送(現:FM沖縄)ともネットを組んでおり、この4地区(神奈川県・兵庫県・岐阜県・沖縄県)のみの天気予報を放送していた時期もある。 AMステレオは実施しなかったが、radikoにはステレオで配信している[2]。
長期にわたる聴取率低迷と経営の混乱(#「社会の木鐸」宣言参照)から、日本テレビの資本参加を受け事実上傘下に入った(2011年(平成23年)4月現在非連結子会社)。日本テレビの公式ウェブサイトでも「日本テレビ系ラジオ中波放送」として紹介され、中堅アナウンサーが輪番制で当局に出向するなど、関係が強化されている。神奈川県の局ながらも日本テレビ・読売新聞社が資本に関連していたため、いずれも東京都が本拠である読売ジャイアンツ(東京ドーム主管試合)、東京ヴェルディ1969(味の素スタジアム・国立霞ヶ丘陸上競技場他都内主管試合)において広告看板(なんだろうマーク付き)を掲示したことが有る[3]。
「社会の木鐸」宣言
ラジオ関東は、開局以来『洋楽のラジ関』の通称で親しまれ、イベントでラジオ日本が出展するブースには、決まって自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示された。
また、その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていた[4]他、1970年代後半には吉崎四平プロデューサーがコールサインの「JORF」を「JOロックフレンズ」と読ませ、ロック音楽に力を入れた[5]。
しかし、創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久は、1977年(昭和52年)に巨人戦ホームゲームの独占中継権を獲得したことに乗じてワンマン体制を強化させ、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に変更した後の1982年(昭和57年)には、「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共主義色の濃い論説や演歌の多い、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、タクシーやトラックの運転手、一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になった。
神奈川の県域放送として免許されたが、関東平野一円(特に東京都)で聴取できる実態があり、遠山時代には東京支社に社員の9割が配置されるなど、東京支社が実質的な本社・演奏所として機能していた。1986年(昭和61年)に横浜市土地開発公社が払い下げた横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮し、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画には演奏所も送信機もアンテナ塔も無い単なるテナントビルである事が暴露され、慌てて放送設備等を備えた計画に変更されるなど、社会的非難を浴びる問題も生じた。
会長として従前権勢を揮っていた遠山は、大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年(平成元年)4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る[6]。さらには、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行した。
長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部は、1993年(平成5年)12月21日に取締役会全会一致で遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任し、ワンマン体制に終止符が打たれた[7]。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。
後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同じく、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、1994年(平成6年)2月に「乱脈経営で会社に損害を与えた」として遠山を告訴し、遠山の土地・家屋を差し押さえて、一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させ、事実上の日本テレビ傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た[8]。
ただし、編成方針については劇的な変化を避け、長年にわたりミッキー安川を複数番組で重用していた他、演歌番組も多く編成するなど、高齢者志向を続ける形で競合他局との差別化を図っている。また、報道面では2009年(平成21年)11月に深夜放送「ラジオ時事対談」を開始する等、遠山時代からの保守的傾向は一部に残っているが、一方では以前排除されたアイドル系タレントが参加する若者向けの番組が主に週末を中心に増えつつあり、イメージ払拭のキャッチフレーズに「こんな番組もやってます」として夜のアイドルパーソナリティの写真を中心に散りばめた広告戦略を打っている。
放送局概要
- 横浜本社 〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5丁目85番地 明治安田生命ラジオ日本ビル
- 東京支社 〒106-8039 東京都港区麻布台二丁目2番1号 麻布台ビル ※三才ブックス発行のラジオ番組表では、横浜本社の住所ではなく東京支社の住所を掲載している。
- 演奏所 東京支社、横浜本社 (廃止)小田原支局
- 代表取締役社長 新井修一郎
- 放送時間 5:00起点の24時間放送(放送機器メンテナンスのため、日曜深夜(月曜未明)1:20 - 5:00は休止)
- 主要株主 日本テレビ、三菱商事、東芝、NTT東日本、横浜倉庫、神奈川新聞社、日本テレビ小鳩文化事業団 他
送信所
同局では、送信所・中継局を放送局と称する。
- 川崎幸放送局 1422kHz 50kW JORF
- 小田原放送局 1485kHz 100W JORL
- 本局(川崎幸放送局)の電波が届きにくい県南西部を補完し、また特に海水浴シーズンの渋滞情報を伝える目的で、1981年(昭和56年)7月20日に開局した。
- 「RADIO WEST」の通称を用い、平日午後に本局とは別のローカルワイド番組(小田原支局廃止後は横浜本社制作)を放送中。それ以外の時間帯は本局を中継している。
- 開局当初は小田原駅前にローカル番組用スタジオ(小田原支局)を擁していた。
- その後酒匂川河畔に送信所を独立させ、支局は廃止した。周波数、出力、コールサインは変わっていない。
- 野毛山放送局(野毛山無線基地=非常用予備送信所) 1422kHz 1kW JORF
沿革
- 1958年(昭和33年)
- 1964年(昭和39年) - 東京支社を中央区銀座から港区麻布台の麻布台ビルに移転。この頃から、実質的な本社機能を横浜から東京へ移転させる。
- 1965年(昭和40年)9月18日 - 台風取材中のラジオカーが晴海埠頭から東京湾に転落。記者・アナウンサー6名水死
- 1966年(昭和41年)10月3日 - 日本初の終夜放送『オールナイト・パートナー』放送開始
- 1968年(昭和43年)4月 - 周波数を1420kcに変更
- 1971年(昭和46年)12月 - 出力を30kWに増力すると同時に、指向性アンテナに改造。
- 1974年(昭和49年)10月 - 『横浜音楽祭』開始(在京ラジオ局による歌謡賞レース序盤の重要な大会であった)。
- 1977年(昭和52年)11月 - 読売新聞社と後楽園球場での巨人戦ラジオ中継独占契約を締結。
- 1978年(昭和53年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)4月 - 「社会の木鐸」宣言(硬派路線に転向。アイドル、ポップス番組を削減)
- 1989年(平成元年)4月 - 若者向け番組を完全に排除
- 1990年(平成2年) - 「大人の放送局」を編成の基本方針とし、50歳以上の聴取者をメインターゲットとする
- 1991年(平成3年)
- 11月2日 - 落雷による停電で川崎幸放送局が停波したが、自家発電装置が自動起動せず、更に道路渋滞で技術部員の到着が遅れ、2時間近く停波。郵政省等の監督官庁から厳重注意処分を受ける。
- 月日不明 - 大林雅美のレギュラー番組を予告なく突如打ち切る。舌禍が原因。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年) - 遠山一族所有のラジオ日本株式を日本テレビが買い取り、連結会社とする。川崎幸放送局の送信機をフルデジタル化
- 1996年(平成8年)10月 - 明治生命ラジオ日本ビル落成に伴い、本社を横浜市西区老松町から現住所に移転。本社制作番組を増やしたが、一時的なものに終わった。キャッチコピーは「ハマって楽しくラジオ日本」
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)6月27日 - 『日曜競馬実況中継』放送中に、川崎幸放送局が遠隔制御装置の故障で1時間半に亙って停波。担当者は社外の2000年問題対策研修会に全員出払っていたため、早急に復旧できなかった。一部で暴動・パニックも起き、抗議が殺到。郵政省等から再度厳重注意処分を受ける。
- 2000年(平成12年)12月1日 - BSデジタル放送開始に伴い、BS日テレラジオの制作を担当。ch.444にて「ヒーリングステーション」、ch.445にて「衛星版ラジオ日本(地上波サイマル中心)」を制作。
- 2001年(平成13年)
- 3月26日 - 開局日以来43年間続いていた平日夜の超長寿帯番組『京急ミュージックトレイン』が終了。
- 9月12日 - アメリカ同時多発テロで各局が終夜特別報道体制を敷く中、唯一通常番組を録音放送。
- 2003年(平成15年)
- コンビニのスリーエフと共同で「男のパワーアップ丼」などオリジナル商品を期間限定販売。
- 2005年(平成17年)
- 10月 - ナイターオフの火曜-金曜19:30-21:30をラジ関RETURNSと題打ち、ラジオ関東時代に好評を博した「ポートジョッキー」、「全米トップ40」、「きのうの続き」の3番組を新装復活。
- 8月 - 24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンの実況生中継を開始。
- 2006年(平成18年)4月 - 千葉ロッテマリーンズホームゲーム(対巨人戦以外)の放送権獲得。「ラジオ日本ジャイアンツナイター」に加え、ラジオ日本マリーンズナイター開始。
- 2007年(平成19年)12月24日 - 開局50周年を前に、「ヒョッとして!?50年!」のキャッチコピーを展開、懐古番組を定期放送化。
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 8月4日 - ザ・ホットライン東京わがままモーニング担当だった片桐八千代が局との方針の違いを理由に突然降板。
- 10月4日 - 菊地亜美の1ami9放送開始。以降、女性アイドルがパーソナリティを務める番組が増加。
- 2010年(平成22年)1月18日 - 『勝負』シリーズを担当し、局の看板パーソナリティであったミッキー安川が死去。番組は息子のマット安川が引き継ぐ。
- 2011年(平成23年)4月12日 - radikoでのサイマル放送開始。配信地域は本来の放送対象地域である神奈川県のほか、東京都、千葉県、埼玉県でも聴取が可能。(9月までは実用化試験配信で、10月以降本格運用)。
- 2012年(平成24年)10月1日 - 「ラジオ日本開局55周年プレ・イヤー」と題し、平日ワイドの一新(6:30 - 15:00)を核とした改編率43%にも及ぶ改編を実施[15]
- ニュース提供を従来の読売新聞社単独からNNNを追加し、タイトルを「読売新聞ニュース」から「ラジオ日本ニュース」に変更。
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)
- 4月1日 - 「radiko.jpプレミアム」による日本全国への配信が開始。
番組・オープニング / クロージング・時報
テンプレート:Seealso いわゆる「社会の木鐸」宣言以降の異常さからは近年は落ち着いて来ているが(特に2013年春改編では女性アイドルのトーク番組を複数、新規に開始し、また集中的に放送する曜日を置いた)、毎月番組の突然の打ち切りや時間移動は絶えず不安定な編成が続いている。突然の打ち切りなどに関してはInter FMも同じような状況である。極端なケースではタイムテーブルや公式サイト上の「本日の番組」並びに放送中番組名表示の変更が間に合わず、終了した番組名が表示されることもしばしばある。
なお前述の通り、実質的な本社機能を東京支社が担っていることもあり、生ワイド番組を含め自社制作の殆どの番組は東京支社スタジオからの送出となっている。横浜本社では平日午前ワイド、小田原放送局向け平日午後ワイドの送出や、本社ビル1階に設けられたラジアントホールでの公開録音などに限られている。
アナウンスは岡本美紀のものであるが、過去に男性アナウンサーが行ったものがある。何れも「こちらはJORF アール・エフ・ラジオ日本、JORL アール・エフ・ラジオ日本小田原放送局です」というアナウンスが入っている。
また、1981年(昭和56年)秋頃に「なお、ラジオ関東は10月1日からアール・エフ・ラジオ日本と社名変更します」とのアナウンスがあった。
- オープニング
毎週月曜日4:56頃からややアップテンポな音楽が始まり、「1422 ラジオ日本」と歌って終わる。また、「エフエム東京」でおなじみにあったBGMも「シュネルポルカ」といった曲を流したことがあった(このあたりでアナウンスがあったかどうかは不明)。その後岡本の声で、放送開始であることを告げる。その後5時の時報を挟んで月曜日の朝一番の番組へと繋ぐ。
毎週日曜深夜25:30(月曜未明1:30)を回って、岡本の声で放送が終了することを告げる。クロージングでは「どちら様もごきげんよう」のフレーズも入り、その後はカーメン・ドラゴン指揮、キャピトル・シンフォニー・オーケストラが演奏するウェールズ民謡の「夜もすがら(All Through the night (Ar Hyd y Nos))」が流れる。これは前身の「ラジオ関東」当時から使われているもの。
オープニングもクロージングもコールサインの読みが特徴的で、「JORF」は「じぇいっお〜う、あ〜るえふ」、「JORL」は「じぇいっお〜う、あ〜るえる」と聴こえる(これは毎日放送も同様で、JOORを「じぇいおう・おう・あ〜る」と読み上げる)。
- 時報
時報は 教会等のパイプオルガン的な音色の 電子音で4秒前から「ソ・シ・ソ――ポーン」(“3, 2, 1”のカウントダウンではない)。1989年(平成元年)頃までは「ソ・シ・ソ」の部分がチューブラーベルの演奏であった(文化放送の1979年(昭和54年)までの時報と同様)。現在は、地方局と同じ音程の時報だが、「ポーン」と延ばさず「ポン」と鳴った瞬間に音が絞られる時報である。時報広告は少なく、散発的に聞かれるのみである。時刻案内もまれに女性の声で「○時をお知らせします」とある程度で、多くはされない。
所属アナウンサー
男性
- スポーツ実況・報道他全般(★印のアナウンサーは中央競馬実況中継を担当しない。)
- 中央競馬実況中継実況のみ(契約)
- 報道のみ(契約)
女性
(全て契約アナ)
- 報道のみ
- 中央競馬実況中継実況のみ
元アナウンサー
男性
- 大野義和(退社後、tvk→FMヨコハマ、FMヨコハマでは後年取締役)
- 窪田康夫(1958年(昭和33年) - ?、文化放送から移籍)
- 島碩弥(1958年(昭和33年) - 1995年(平成7年)、山陰放送から移籍)
- 木島章夫(1958年(昭和33年) - ?、九州朝日放送から移籍)
- 永井敬二
- 加賀佑治
- 長崎節
- 大林晃(退社後東京アナウンスアカデミー校長)*2012年2月1日没*物故者
- 林洋右(1980年(昭和55年) - ?)
- 樋口忠正(1961年(昭和36年) - 1998年(平成10年) 定年後も引き続き競馬中継に出演していたが、 2008年(平成20年)6月1日日本ダービー実況をもって競馬実況から引退。以降競輪実況を2010年(平成22年)3月まで担当。)
- 田島喜男( - 2003年(平成15年)、ラジオたんぱから移籍)
- 竹脇義果
- 内藤幸位(1962年(昭和37年) - 2000年(平成12年))
- 早川建二(1964年(昭和39年) - 2002年(平成14年))
- 橋本文雄(晴海埠頭への台風取材中に事故死)
- 浅木勝(1965年(昭和40年) - 2001年(平成13年))
- 坂井隆夫(1965年(昭和40年) - ?)
- 工藤健策(1965年(昭和40年) - ?)
- 山田透(1975年(昭和50年) - 1983年(昭和58年)、ニッポン放送へ移籍、後フリー、2000年(平成12年) - 2003年(平成15年)一時復帰)
- 武田肇(1975年(昭和50年) - ?)
- 染谷恵二(1978年(昭和53年) - 2005年(平成17年)3月、フリー)
- 山本剛士(1984年(昭和59年) - 1990年代、ニッポン放送へ移籍)
- 仙田和吉(1992年(平成4年) - 2001年(平成13年)、毎日放送へ移籍)
- 浅見源司郎(1993年(平成5年) - ?、日本テレビより出向)
- 若林健治(1995年(平成7年) - 1998年(平成10年)、2002年(平成14年)10月 - 2006年(平成18年)6月、日本テレビより出向、2007年(平成19年)12月・日本テレビ退職・フリー)
- 小倉淳(1998年(平成10年) - 2000年(平成12年)、日本テレビより出向、2006年(平成18年)8月・日本テレビ退職・フリー)
- 山下末則(2007年(平成19年) - 2008年(平成20年)日本テレビより出向。営業職兼務。定年のため2008年(平成20年)3月で退社し、現在はスピーチコンサルティング会社経営)
- 吉田填一郎(2003年(平成15年) - 日本テレビより出向。2008年(平成20年)6月ラジオ日本営業局へ異動。のちに常務取締役営業局長。2011年退職)
- 佐藤一司(1998年(平成10年) - 2010年(平成22年) アナウンス職から異動)
- 今井伊左男(2008年(平成20年) - 2011年(平成23年)、日本テレビより出向。常務取締役総務局長、編成局長を歴任。報道、ナレーションなどアナウンス業務も担当。)
女性
- 清水明江
- 安藤八重子(1958年(昭和33年) - 1990年(平成2年))
- 森純子
- 青津ナナ子(1959年(昭和34年) - 1992年(平成4年))
- 井口保子(1960年(昭和35年) - 1995年(平成7年)、日本初の競馬実況女性アナウンサー)
- 岡本美紀(1962年(昭和37年) - ?)
- 石倉辰子(1964年(昭和39年) - ?)
- 竹内満佐美(1964年(昭和39年) - ?、大相撲力士・雅山の母、旧姓不明)
- 林紀子(元日本共産党参議院議員)
- 深澤美津子(1969年(昭和44年) - 1990年(平成2年))
- 塚本美也子(→ 東京MXテレビ → フリー)
- 大島典子(1995年(平成7年) - 1997年(平成9年)、日本テレビより出向、その後『午後は○○おもいッきりテレビ』プロデューサーを務めた)
- 山下美穂子(2003年(平成15年) - 2005年(平成17年)3月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 延友陽子(2005年(平成17年)4月 - 2006年(平成18年)9月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 金丸幸代(ラジオたんぱ契約アナ → RFラジオ日本報道契約アナ → フリーアナウンサー)
- 神原智己(2007年(平成19年)4月 - 2008年(平成20年)10月)
- 坪内千恵子(ニュースアナは2009年(平成21年)12月まで、「ジャイアンツナイター」のナイターナビゲーターは継続)
- 草野真梨子(2010年(平成22年)4月迄、「中央競馬実況中継」のみ出演。元さくらんぼテレビ)
アナウンサー以外の過去の在籍者
- 中村慶一郎(元報道部長・政治評論家)
- 南丘喜八郎(元報道部長、取締役論説委員長、『月刊日本』主幹で出版元社長)
- 品田英雄(現:日経BP社『日経エンターテインメント』編集委員)
- 岩田暁美(元読売ジャイアンツ担当記者・ディレクター)
その他
- 1958年(昭和33年)から1964年(昭和39年)まで、東急東横線の乗客向けに鉄道無線を使用して車内でニュースを放送していた。
- 1964年(昭和39年)の旧ラジオ関東時代から、2011年(平成23年)まで日本中央競馬会の重賞競走『セントライト記念』に社杯を寄贈していた。尚、2012年(平成24年)からはサラ系3歳以上のオープン特別競走『ラジオ日本賞』が新設され、社賞が寄贈されることとなっている。
- 1980年(昭和55年)代初頭まで、毎年夏休みに「夏だ!三浦だ!サマーフェスティバル」を、三浦海岸の特設会場で京浜急行電鉄と共催していた。7月下旬-8月初旬の期間中は、アイドルや演歌歌手の歌謡ステージが日替わりで催され、その模様を平日昼時に公開生中継していた。京浜急行電鉄は、品川発三浦海岸行臨時列車「ミュージックトレイン」(同局で同名の帯番組が存在)を運行した。会場に向かう出演者が、ファンサービスとして、その臨時列車に同乗する場合もあった。
- フジサンケイグループ各紙(産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ)の番組欄では、名称を「RFラジオ日本」としている。同じフジサンケイグループのフジサンケイビジネスアイとSANKEI EXPRESSは、ラジオ・テレビ欄でアール・エフ・ラジオ日本を割愛している(在京民放AMラジオ3局と、同じ県域放送局のテレビ神奈川を始め、東京・千葉・埼玉の独立UHF放送局は掲載)。 在京他紙・静岡新聞は「ラジオ日本」、中日新聞の長野県版と静岡県版は「ラジオ日本RF」と記載(ただし中日新聞の東京本社版である東京新聞の静岡県版では「ラジオ日本」と記載)。なお、新聞各紙の番組表に掲載されている問い合わせの電話番号は横浜本社ではなく、東京支社の番号である。
- BSデジタル放送「BS日テレ」のBS445chでは、アール・エフ・ラジオ日本の一部番組の同時放送を行っていた(2005年(平成17年)9月30日付廃局扱い。かつてはテレホンサービスによる同時放送もあった)。
- 2011年(平成23年)に旗揚げされた女子プロレス団体・REINA女子プロレスの協賛スポンサーであり、同団体が認定・管理する王座を「ラジオ日本杯REINA世界女子王座」としている。
- 結果として実現しなかったが、東京支社を日本テレビ麹町分室内に移転させる計画を立てていたことがある[16]。
脚注
関連項目
関連人物
関連放送事業者
その他の神奈川県の放送局
- テレビ神奈川(tvk、独立局 - 首都圏トライアングル - 5いっしょ3ちゃんねる)
- 横浜エフエム放送(FMヨコハマ、独立局)
- NHK横浜放送局
外部リンク
テンプレート:Sister
テンプレート:Navbox
テンプレート:読売新聞グループ本社
テンプレート:日本テレビ放送網
テンプレート:Radio-Kanto
- ↑ 特に岐阜放送とは綿密に交換している
- ↑ 基本的に東京のスタジオから送出している番組に限る(但し、ジングルや効果音はモノラルの場合がある)、スポーツ中継ではモノラル配信となる。
- ↑ 東京ヴェルディに関しては、2009年(平成21年)の日本テレビ資本撤退以降もスポンサーを続けている
- ↑ 「社会の木鐸」宣言以前は、愛川欽也、榊原郁恵、三橋美智也らがDJの、平日夜10時からの「電撃ワイド・ウルトラ放送局」がかなり話題になるなど、若年層向けの番組では、他局にひけをとらない人気があった。演歌歌手の三橋は初DJでノリ良い意外な一面を見せ、「フィーバー・フィーバー」の掛け声がカップラーメン「激めん」(東洋水産)CMにも用いられて”ミッチーブーム”を起こした。また全盛期の酒井法子が30分番組を持っていた(もっとも当時の防衛庁が提供していた)
- ↑ 「QJ」63号、p125。
- ↑ この影響で『林原めぐみのHeartful Station』が開始間もない1991年(平成3年)7月に突如打ち切り(制作局を同局と関係の深いラジオ関西に移し、ラジオ日本以外で番組を続行)になった(林原めぐみ『明日があるさ』学研、p58。ただし本文では局名は伏せられている)。
- ↑ 本人が遅刻するにも関わらず、取締役会は定時に開催すべしとの遠山からの連絡を受け、その間に緊急発議で実現した解任劇だった。
- ↑ 花輪如一「ラジオの教科書」データハウス、p290-299
- ↑ 周波数が隣接するKBCラジオ (1413kHz)、ぎふチャン (1431kHz) などの放送区域では、夜間でも地元局が停波しない限り、ほぼ受信不可能である。
- ↑ kc(キロサイクル)は現在のkHz(キロヘルツ)と同義。
- ↑ 看板番組のプロ野球中継でも、一部の曜日で大阪の毎日放送 (MBS) とネットワークを組んでいた( - 1965年(昭和40年))。
- ↑ 毎日新聞社は、1951年(昭和26年)に『ラジオ日本』なる名称で民間放送の開局を目指していたが、読売放送(読売新聞社系)、朝日放送(朝日新聞社系、大阪に現存する同名の放送局とは別法人)、東京放送(電通系)の競願各社と行政指導で一本化され、『ラジオ東京』(後に東京放送、現在のTBSラジオ)として開局した。当然ながら計画頓挫したこの『ラジオ日本』と、現在のアール・エフ・ラジオ日本は別物。
- ↑ 毎日新聞社系列のRKB毎日放送(福岡県)が、東京支社に設置したスタジオの有効利用と関東地区への進出を目的に、神奈川県域放送での免許出願に向けて動いていた。結局、現在のアール・エフ・ラジオ日本に繋がる他社との競願に破れる形となり、RKBは関東地区進出を果たせずに終わってしまった。
- ↑ 局名公募はあくまで表向きで、実際には当時の遠山景久社長の強い意向だった。中吊り広告などで「決定的瞬間 ラジオ日本誕生」と広告していた(10月以降、テレビ・ラジオCMも放送された)が、長年NHKが国際放送に「ラジオ日本(ニッポン)」の名を用いており、世界的に知名度が高かったため、NHKが善処を申し入れたものの、遠山が拒否した。やむなくNHKは、「ラジオ日本(ニッポン)」を1981年(昭和56年)5月に商標登録出願し、遠山に「ラジオ日本(ニッポン)」の名称使用を禁じた。更にニッポン放送も、名称が酷似して聴取者を混乱させると不正競争防止法違反で告訴したため、苦肉の策として社名の頭にコールサインの一部である「アール・エフ (RF) 」を付けざるを得なくなった(ただし、放送では単に「ラジオ日本」のみアナウンスしているため、未だにニッポン放送やNHK国際放送と混同しやすく、NHK国際放送では国際テレビ放送(NHKワールドTV他)が開始されて以後の1996年以後は「NHKワールド」の冠を入れて放送するようにしている。なお前述の広告でも、一部でニッポン放送の社名変更と勘違いされていた)。
- ↑ ラジオ日本 2012年10月改編 開局55周年プレ・イヤー 平日ワイドを一新 改編率43%、新番組が続々スタート!
- ↑ “ラジオ日本、東京・麹町に東京支社”. 毎日新聞 DIGITALトゥデイ. (2003年2月28日)