征夷大将軍
テンプレート:Redirectlist 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷の令外官の一つである。
目次
概要
「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり[注 1]、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年)9月29日に任命された多治比縣守である[注 2]。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である[注 3][注 4]。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使[注 5]に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。
また「征夷大将軍」は「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていった。鎌倉中期から明治維新まで、武人である武士が政権を握っていたことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることから、天皇には世俗的な実力はなくとも、権威は維持することとなった。
建久3年(1192年)源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸時代末期まで約675年間にわたって征夷大将軍を長とする武家政権が続いたが、慶応3年(1867年)徳川慶喜による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。
歴史
奈良・平安時代
延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年)10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に征夷将軍[注 6]に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。
また、天慶3年(940年)に藤原忠文が、元暦元年(1184年)に源義仲[注 7]が、征東(大)将軍に任じられているが蝦夷征討を目的としたものではない。
なお、征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹、また征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)、征東軍監、征東軍曹などの役職が置かれた。
鎌倉時代
源頼朝は当初、東国武士団の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位を持たなかった。即ち、当初は平将門等と同じ地方叛乱の首領でしかなかったのである。その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたのではないかといわれている。
- 平氏政権は、貴族の家格秩序の中の既定のコースに従って官位昇進を遂げ、朝廷の内部に勢力を確立することによって、国家権力を掌握する道を選んだ。これに対し頼朝は、朝廷から相対的に独立した「東国王権」の王であることから出発して、武士の自主的統治権を朝廷に認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
- 中央・京都に進出した源義仲は、過去に存在した「征東大将軍」という官職に任官された。征東大将軍の地位は東方の勢力を成敗する使命を暗示するもので、その裏には義仲の頼朝に対抗する意図が推定される。
- 当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を獲得し、自らの居所を「柳之御所」「柳営」と称した。柳営とは幕府の別名である。鎮守府将軍は、陸奥国、出羽国内で軍政という形での地方統治権が与えられており、辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の司令官という性格を持つが故に京都在住の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。これは頼朝政権の格好の雛形となったろう。
建久元年(1190年)、頼朝は、権大納言右近衛大将(右大将)に任官され、公卿身分となって自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、東国での独立を志向するには不向きだった。そこで頼朝は任官から半月も経たずして権大納言と右大将の職を辞任し、公卿としての特権のみを手元に残した。「前右大将」という名目を鎌倉政権の歴代首長の地位としていく構想もありえなくはなかったと思われる。だが、右大将では形式上の官職こそ高いが、すでにライバルだった源義仲が征東大将軍だったことに比べると、中央近衛軍司令官という性格上、積極的に地方の争乱を武力で鎮圧する地位ではない。また奥州藤原氏の鎮守府将軍と比較すると「武士の自治」という重要な積極的要素が欠けていた。
そこで頼朝が注目したのが、「征夷大将軍」という官職であった。これは軍政(地方統治権)という意味では鎮守府将軍と同様である。かつ、坂東(関八州のこと)の兵を率いて奥羽の蝦夷(この場合は奥州藤原氏)を征伐するという目的からしても、鎮守府将軍より故実からして格上でもある格好の官職であった。
つまり、
を、全て纏め上げて公的に担保するのが征夷大将軍職であった。
ただし、征夷大将軍職は奥州藤原氏を討つための奥州合戦においてこそ必要とされた官職であって、実際に任官した建久3年(1192年)においては、既に頼朝にとって必要性はなくなっていたという説もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執しておらず、2年後には辞官の意向を示している。また源頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官されており、征夷大将軍職を宣下されたのはその3年後である。更に比企能員の変に際しては総追撫使・総地頭の地位の継承が問題となっており、将軍職は対象とされていない。従って、この段階では将軍職は、武家の棟梁の絶対条件ではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。一方、源実朝の家督継承に際してはまず将軍職が宣下されている。
だが近年、これらの通説を覆す新史料が発見された。『三槐荒涼抜書要』[注 8]所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかったのである。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)[出 1]。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている[出 2][出 3]。
また、源頼朝が征夷大将軍を望んだものの、後白河法皇に阻まれたとされる事情については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は源義経の使者が、頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、後白河法皇が源義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、法皇から与えられるはずであった全ての官職を辞退して、叙位のみを受けたことが記されている。この事態を説明するには、後白河法皇が既に終わった合戦の戦功として頼朝に征夷大将軍と同義の征夷将軍を与えようとしたものの、頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わってから久しい当時において、後白河法皇・源頼朝が共に征夷将軍(=征夷大将軍)を名誉的な官と見なして、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職として認識してはいなかった可能性がある。更に寿永以後、頼朝が実際に征夷大将軍に補任されるまでの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できないとされる。その場合、鎌倉殿の持つ権限の根拠は特定の官職に依るものではなく、寿永二年十月宣旨や文治の勅許等、頼朝以来の代々の鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝以来3代の征夷大将軍補任の実態は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている[出 4]。
その後の武家社会
鎌倉時代以降、源頼朝が「征夷大将軍」の位を得て幕府を開いて後は、幕府の政治力が徐々に高まっていった。しかし、鎌倉時代を通じては、朝廷も全国支配を行う政府として存続し続けた。一方、鎌倉幕府においては執権職を独占した北条氏が覇権を握り、征夷大将軍は名目上の武家の棟梁ではあるけれども、実際は北条氏の傀儡となった。室町幕府が成立すると、3代将軍足利義満の時期に、義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、「征夷大将軍」は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。この時期以降、朝廷は単なる形式だけの政府で、幕府こそが日本全土を統治する実質上の政府となったと言える。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
※小槻家当主は、左大史任官が原則なので、右大史は誤記とも考えられる。
歴史上存在した俗説
源平交代思想と源氏将軍
源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)がテンプレート:独自研究範囲交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍テンプレート:独自研究範囲が存在した。テンプレート:独自研究範囲しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、平氏を自称していた織田信長は天皇によって征夷大将軍に推任されている(三職推任問題)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
明智光秀
豊臣秀吉
テンプレート:独自研究範囲、近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある[出 5]。また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康
徳川家康についてのテンプレート:独自研究範囲
天皇との関係
テンプレート:単一の出典 武家政権の征夷大将軍と天皇の関係について、ベン・アミー・シロニーの説を説明する。
天皇による任命
征夷大将軍は天皇の勅令によって任命された[出 6]。これを将軍宣下という。だが、武家政権下においては天皇の従順な臣下というよりは、天皇の統制者だった[出 7]。
また、江戸時代に至ると、将軍は実際上の国内統治権や対外的な代表権のみならず、政治的な権威の面でも天皇を抑える様になった。江戸幕府の確立以降、四代徳川家綱以降の将軍宣下に当たっては勅使が江戸城に赴き、将軍が上座、勅使が下座に立つのが礼法であり[出 8]、天皇への書面上も『公方様より禁裏へ』と対等の文言を使い[出 9]、さらに徳川秀忠・徳川家光は天皇との会見の際、太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面する[出 10]など、政治的権威の面でも天皇と同格となった。しかし幕末には天皇の権威が尊王思想の影響により回復し始めると、待遇が変更され、勅使が上座に立ち、将軍が下座に立つ[出 11]、また、将軍徳川家茂上洛の際も、朝廷の高官たちが家茂への礼遇を低くする[出 12]という変化が見られた。
鎌倉時代から江戸時代まで、幕府の長であり、武家の棟梁が位に就いて子孫が世襲する形を取った。だが、平氏政権と織豊政権は、征夷大将軍に任じられず、幕府を開かずに武家政権を確立した。一部の将軍は、天皇と同様、子供時代に将軍職に就き、後継ぎに職を譲って引退した[出 13]。また、徳川将軍家には、皇室と同様「御三家(ごさんけ)」という傍系の家門があった[出 13]。19世紀の初めには、将軍職にも皇位にも傍系の出身者がのぼっている[出 13]。
天皇と征夷大将軍の地位
天皇は非力な存在で支配者ではないにもかかわらず、征夷大将軍を含めたいかなる支配者よりも上位にあった。征夷大将軍にとって、天皇は権力の正統性を付与する者として重要であった[出 15]。権力を握った人物は望んだ官職や称号を手に入れたものだったが、天皇の任命なしに手に入る訳ではなかった。天皇は朝廷の官人の上奏にもとづいて、手続きを延期できた。天皇にその地位を任じられ、またその地位に相応しい位階が授与されない限り、征夷大将軍として扱われることはなかったのである[出 15]。
源頼朝は、1192年(建久3年)、12歳の後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命される迄7年も待たされ、受領した位階も正二位でしかなかった。130年もの間日本を支配した北条氏の執権達も、従四位に甘んじなくてはならなかった[出 16]。徳川家康も、関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、実質的な武門の首座となったものの、後陽成天皇によって征夷大将軍に任命されるまで3年待たなくてはならず、その地位も位階が正二位から従一位太政大臣になったのみであった。
征夷大将軍らのドグマ「天皇不可侵」
権力闘争の競技者全員は、天皇なくして国家なく、皇室なくして天皇無し、というドグマを共有していた。日本人は宗教や政治についてドグマチック(教条的)ではないのだが、君主についてとなれば他国よりずっと厳しい教条主義を発揮するのである。天皇はソヴリン(最高権威者)であり、太陽神(天照大神)の末裔であり、権力に対する正統性を付与する者であり、日本の「本家」の当主であった。天皇は最高の社会的なステータスを享受していた。貴族であれ、大臣であれ、そして征夷大将軍であれ、いかなる権力者でも、このステータスに手が届かなかったのである。
そもそも「天皇」とは、天武天皇らによる「風土記」「古事記」「日本書紀」等の「現人神」思想のたまものであって、日本においてはヨーロッパにおけるカトリック教会法王と同等の「聖職者」であったとみなされる。天皇がめったに御簾を上げずに顔をさらさないのも、宮中という「聖域」の住人であったのも、さらには世俗的な政治・行政を行わなかったことも、「神」であり「公」の存在であったためである。そのため、「関白」は政務を担当し、「大将軍」は日本の軍事・警察の最高司令官として軍務を担当した。室町から江戸が終わるまで、「公領」以外の土地は、その土地の軍人たる「侍」が行政をすべて行っていたので、その「侍」の「世俗」的な最高指令官である「征夷大将軍」が支配するという構造になった。戦国後期において、各地の大名が自らを「公儀」と称したのは、「公」である「天皇」の「神」性が大義名分として必要になった。いわば、「征夷大将軍」という官職は、ヨーロッパの「王権神授説」の日本版と解釈することもできる。
皇位に手を出さなかった源平・戦国大名
平氏・源氏の2つの氏族は、どちらも天皇の後裔(こうえい)だった。だが、一度皇族を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になることはできなかった。この原則は殆どの場合順守された[注 9]。平清盛は12世紀半ばの日本の権力者であり、白河天皇の落胤と目されていた。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
源頼朝も天皇になれない立場だった。1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いで平氏に勝利すると、将軍職を世襲する一種の王朝を樹立しようとした。だが、頼朝の跡を継いだ2人の息子、頼家と実朝が死んで3代で絶えてしまった。
次に政権を握った北条氏は、自らは将軍にならなかった。将軍の代行者である「執権」として国政にあたり、幕府の執権職を継承する一種の傀儡政権を樹立した。将軍職は皇族や藤原氏の分枝である九条家が、名目的な地位に据えられた[出 19]。この時代は、天皇も将軍職も、権力者の手には及ばなかったのである。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした[出 20]。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった[出 20]。16世紀には、朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった[出 20]。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのである[出 20][出 21]。
足利義満の野望「太上法皇と日本国王」
室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物である。成年に達すると強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続けた。生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名した。こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが幕府が辞退した。1401年(応永8年)、明と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領した。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づいた。しかし、1408年(応永15年)の義満の死で、彼の野望は潰えた。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしなかった。なお、その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている。
指摘するべきは、義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「そんなことはありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことである。
徳川家康の神格化「東照大権現」
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈った[出 23]。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができた。
1615年(元和元年)、徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望した。翌年、家康が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化した。東を照らす太陽神として顕現した薬師如来を意味する「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を与えた。しかも、この神号は「正一位」の神階を伴っていた[出 24][出 25][出 26]。没後の将軍で、最も高い神号や神階だった。
第3代将軍・徳川家光は、家康を祀(まつ)る日光東照宮を造営した。また、伊勢神宮と同等の社格が与えられ、毎年、伊勢神宮と共に天皇の勅使が拝礼のため遣わされた[出 27][出 28]。それ以降、江戸時代の間、100前後の東照宮が日本全国に造られた。アメリカ合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授(日本史)、ハーマン・ウームズは、徳川の将軍達は、<イデオロギー空間の中心>の将軍家・江戸・日光の三要素を確立させようとしたのだ、と示唆している[出 29]。
征夷大将軍の一覧
- 源頼朝以前については、蝦夷征討使の長官にして、征夷大将軍に準じる性質のものを全て採録した。
歴代 | 名 | 補任 | 解任 | 備 考[注 10] |
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巨勢麻呂 | 和銅2年3月5日 (709年4月19日) |
鎮東将軍 左大弁正四位下 | ||
多治比県守 | 養老4年9月29日 (720年11月3日) |
養老5年4月 (721年5月) |
持節征夷将軍 播磨按察使正四位下 | |
藤原宇合 | 神亀元年4月7日 (724年5月4日) |
神亀2年閏1月 (725年3月) |
持節大将軍 式部卿正四位上 | |
藤原麻呂 | 天平9年1月 (737年2月) |
持節大使 参議従三位兼兵部卿 | ||
藤原継縄 | 宝亀11年3月28日 (780年5月7日) |
征東大使 中納言従三位兼兵部卿 | ||
藤原小黒麻呂 | 宝亀11年9月23日 (780年10月25日) |
天応元年8月 (781年9月) |
持節征東大使 参議正四位下兼右衛士督 | |
大伴家持 | 延暦3年2月24日 (784年3月19日) |
延暦4年8月28日 (785年10月5日) |
持節征東将軍 中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使 → 同左 | |
紀古佐美 | 延暦7年7月6日 (788年8月11日) |
延暦8年9月8日 (789年10月1日) |
征東大将軍(『公卿補任』は征夷大将軍に作る) 参議左大弁正四位下兼春宮大夫 → 同左 | |
大伴弟麻呂 | 延暦10年7月13日 (791年8月17日) |
延暦14年1月29日 (795年2月23日) |
初め征東大使、延暦13年(794年)征夷大将軍として初見 従四位下 → 従三位・勲二等 | |
坂上田村麻呂 | 延暦16年11月5日 (797年11月27日) |
延暦20年10月28日 (801年12月7日) |
陸奥出羽按察使従四位下兼陸奥守 → 大納言正三位 贈従二位 | |
(還任) | 延暦23年1月28日 (804年3月13日) |
大同5年9月10日? (810年10月11日?) | ||
文室綿麻呂 | 弘仁2年4月17日 (811年5月12日) |
征夷将軍 参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使 → 参議従三位 | ||
(還任) | 弘仁4年5月30日 (813年7月1日) |
弘仁5年 (814年) | ||
藤原忠文 | 天慶3年1月19日 (940年2月29日) |
天慶3年5月15日 (940年6月23日) |
征東大将軍 参議正四位下修理大夫兼右衛門督 | |
源義仲 | 寿永3年1月10日 (1184年2月23日) |
寿永3年1月20日 (1184年3月4日) |
征東大将軍 従四位下伊予守 | |
鎌倉:1 | 源頼朝 | 建久3年7月12日 (1192年8月21日) |
建久10年1月13日 (1199年2月9日) |
建久5年(1194年)解任の説あり。 正二位前権大納言 → 同左 |
鎌倉:2 | 源頼家 | 建仁2年7月23日 (1202年8月12日) |
建仁3年9月7日 (1203年10月13日) |
従二位左衛門督 → 正二位 |
鎌倉:3 | 源実朝 | 建仁3年9月7日 (1203年10月13日) |
建保7年1月27日 (1219年2月13日) |
従五位下 → 右大臣正二位左近衛大将 |
鎌倉:4 | 藤原頼経 (九条頼経) |
嘉禄2年1月27日 (1226年2月25日) |
寛元2年4月28日 (1244年6月5日) |
摂家将軍、九条道家の子。 正五位下右近衛権少将 → 正二位前権大納言 |
鎌倉:5 | 藤原頼嗣 (九条頼嗣) |
寛元2年4月28日 (1244年6月5日) |
建長4年2月20日 (1252年3月31日) |
摂家将軍、藤原頼経の子。 従五位上右近衛権少将 → 従三位左近衛中将 |
鎌倉:6 | 宗尊親王 | 建長4年4月1日 (1252年5月10日) |
文永3年7月20日 (1266年8月21日) |
宮将軍、後嵯峨天皇の皇子。 三品 → 一品中務卿 |
鎌倉:7 | 惟康親王[改 1] | 文永3年7月24日 (1266年8月25日) |
正応2年9月14日 (1289年9月29日) |
宮将軍、宗尊親王の王子。 従四位下 → 二品 |
鎌倉:8 | 久明親王 | 正応2年10月9日 (1289年10月24日) |
徳治3年8月4日 (1308年8月20日) |
宮将軍、後深草天皇の皇子。 三品 → 一品式部卿 |
鎌倉:9 | 守邦親王 | 徳治3年8月10日 (1308年8月26日) |
正慶2年5月22日 (1333年7月4日) |
宮将軍、久明親王の王子。 不詳 → 二品 |
建武:1 | 護良親王 | 元弘3年6月13日 (1333年7月25日) |
元弘3年9月 (1333年10月) |
宮将軍、後醍醐天皇の皇子。 二品兵部卿 → 同左 |
建武:2 | 成良親王 | 建武2年8月1日 (1335年8月19日) |
建武3年2月 (1336年3月) |
宮将軍、後醍醐天皇の皇子。 上野太守四品 → 同左 |
(足利尊氏[改 2]) | 建武2年8月9日 (1335年8月27日) |
建武2年11月26日? (1336年1月9日?) |
征東将軍 中先代の乱討伐に伴う東下を追認する形で補任される。 | |
室町:1 | 足利尊氏 | 建武5年8月11日 (1338年9月24日) |
延文3年4月30日 (1358年6月7日) |
正二位権大納言 → 同左 贈従一位太政大臣 |
南朝 | 興良親王 | 延元4年? (1339年?) |
宮将軍、護良親王の王子。 二品兵部卿? | |
南朝 | 宗良親王 | 正平7年閏2月6日 (1352年3月22日) |
宮将軍(征東将軍か)、後醍醐天皇の皇子。 一品式部卿 → 同左? | |
室町:2 | 足利義詮 | 延文3年12月8日 (1359年1月7日) |
貞治6年12月7日 (1367年12月28日) |
参議従三位左近衛中将 → 正二位権大納言 贈従一位左大臣 |
室町:3 | 足利義満 | 応安元年12月30日 (1369年2月7日) |
応永元年12月17日 (1395年1月8日) |
従五位下左馬頭 → 准三宮従一位前左大臣 将軍解任後、太政大臣 |
南朝 | (尹良親王) | 元中3年8月8日? (1386年9月2日?) |
宮将軍、宗良親王の王子という。 同時代史料に見えないため、実在が疑問視されている。 | |
室町:4 | 足利義持 | 応永元年12月17日 (1395年1月8日) |
応永30年3月18日 (1423年4月28日) |
正五位下左近衛中将 → 従一位前内大臣 贈太政大臣 |
室町:5 | 足利義量 | 応永30年3月18日 (1423年4月28日) |
応永32年2月27日 (1425年3月17日) |
正五位下右近衛中将 → 参議正四位下右近衛中将 贈従一位左大臣 |
室町:6 | 足利義教[改 3] | 正長2年3月15日 (1429年4月18日) |
嘉吉元年6月24日 (1441年7月12日) |
参議左近衛中将従四位下 → 従一位前左大臣 贈太政大臣 |
室町:7 | 足利義勝 | 嘉吉2年11月17日 (1442年12月19日) |
嘉吉3年7月21日 (1443年8月16日) |
正五位下左近衛中将 → 従四位下左近衛中将 贈左大臣従一位 |
室町:8 | 足利義政[改 4] | 文安6年4月29日 (1449年5月21日) |
文明5年12月19日 (1474年1月7日) |
正五位下左馬頭 → 准三宮従一位前左大臣 贈太政大臣 |
室町:9 | 足利義尚[改 5] | 文明5年12月19日 (1474年1月7日) |
長享3年3月26日 (1489年4月26日) |
従五位下左近衛中将 → 従一位内大臣右近衛大将 贈太政大臣 |
室町:10 | 足利義材[改 6] | 延徳2年7月5日 (1490年7月22日) |
明応2年6月29日 (1493年8月11日) |
従四位下右近衛中将 → 参議右近衛中将従四位下 |
室町:11 | 足利義澄[改 7] | 明応3年12月27日 (1495年1月23日) |
永正5年4月16日 (1508年5月15日) |
正五位下左馬頭 → 参議従三位左近衛中将 贈従一位太政大臣 |
室町:10 (還任) |
足利義稙[改 8] | 永正5年7月1日 (1508年7月28日) |
大永元年12月25日 (1522年1月22日) |
足利義材の還任。 従三位権大納言 → 従二位権大納言 贈従一位太政大臣 |
室町:12 | 足利義晴 | 大永元年12月25日 (1522年1月22日) |
天文15年12月20日 (1547年1月11日) |
正五位下左馬頭 → 従三位権大納言右近衛大将 贈従一位左大臣 |
室町:13 | 足利義輝[改 9] | 天文15年12月20日 (1547年1月11日) |
永禄8年5月19日 (1565年6月17日) |
従四位下左馬頭 → 参議左近衛中将従四位下 贈従一位左大臣 |
室町:14 | 足利義栄[改 10] | 永禄11年2月8日 (1568年3月6日) |
永禄11年9月 (1568年10月) |
従五位下左馬頭 → 同左 |
室町:15 | 足利義昭[改 11] | 永禄11年10月18日 (1568年11月7日) |
天正16年1月13日 (1588年2月9日) |
参議左近衛中将従四位下 → 従三位権大納言 将軍解任後、准三宮 |
江戸:1 | 徳川家康[改 12] | 慶長8年2月12日 (1603年3月24日) |
慶長10年4月16日 (1605年6月2日) |
従一位右大臣 → 従一位前右大臣 将軍解任後、太政大臣。贈正一位東照大権現 |
江戸:2 | 徳川秀忠 | 慶長10年4月16日 (1605年6月2日) |
元和9年7月27日 (1623年8月23日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将 将軍解任後、太政大臣。贈正一位 |
江戸:3 | 徳川家光 | 元和9年7月27日 (1623年8月23日) |
慶安4年4月20日 (1651年6月8日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位左大臣左近衛大将 太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位 |
江戸:4 | 徳川家綱 | 慶安4年7月26日 (1651年9月10日) |
延宝8年5月8日 (1680年6月4日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:5 | 徳川綱吉 | 延宝8年7月18日 (1680年8月12日) |
宝永6年1月10日 (1709年2月19日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:6 | 徳川家宣[改 13] | 宝永6年4月2日 (1709年5月11日) |
正徳2年10月14日 (1712年11月12日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:7 | 徳川家継 | 正徳3年3月4日 (1713年3月29日) |
正徳6年4月30日 (1716年6月19日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:8 | 徳川吉宗[改 14] | 享保元年7月18日 (1716年9月3日) |
延享2年9月25日 (1745年10月20日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位 贈太政大臣正一位 |
江戸:9 | 徳川家重 | 延享2年10月7日 (1745年10月31日) |
宝暦10年5月13日 (1760年6月25日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位 贈太政大臣正一位 |
江戸:10 | 徳川家治 | 宝暦10年7月2日 (1760年8月12日) |
天明6年9月8日 (1786年9月29日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:11 | 徳川家斉 | 天明7年3月6日 (1787年4月23日) |
天保8年4月2日 (1837年5月6日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位太政大臣 贈正一位 |
江戸:12 | 徳川家慶 | 天保8年8月5日 (1837年9月4日) |
嘉永6年6月22日 (1853年7月27日) |
従一位左大臣左近衛大将 → 同左 贈太政大臣正一位 |
江戸:13 | 徳川家定[改 15] | 嘉永6年10月23日 (1853年11月23日) |
安政5年7月6日 (1858年8月14日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 内大臣従一位右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:14 | 徳川家茂[改 16] | 安政5年10月25日 (1858年11月30日) |
慶応2年7月20日 (1866年8月29日) |
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将 贈太政大臣正一位 |
江戸:15 | 徳川慶喜[改 17] | 慶応2年12月5日 (1867年1月10日) |
慶応3年12月9日 (1868年1月3日) |
正二位権大納言右近衛大将 → 内大臣正二位右近衛大将 明治維新後、従一位公爵貴族院議員勲一等旭日大綬章 贈勲一等旭日桐花大綬章 |
贈征夷大将軍 (没後に征夷大将軍を追贈された人物) | ||||
徳川綱重 | 宝永7年8月23日(1710年9月16日)追贈 | 甲斐甲府藩主、江戸幕府6代徳川家宣の父。 参議正三位、贈権中納言従三位、のち贈太政大臣正一位 |
- 改名
出典・脚注
出典
脚注
参考文献
- ベン・アミー・シロニー Ben-Ami Shillony 『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、2003年1月、ISBN 978-4062116756。
- 高橋富雄 『征夷大将軍 もう一つの国家主権』 中公新書、1987年、ISBN 978-4-12-100833-6。
関連項目
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