アテルイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:複数の問題 アテルイ(? - 延暦21年8月13日802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)[1][2]

本項ではアテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても記載する。

史料にみるアテルイ

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い

この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏

その後に編成された大伴弟麻呂坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。

日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない[3]。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があった[4]が、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇山を植山とする説は消えた。

現代のアテルイ像

評価

坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。 これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

石碑、顕彰碑

上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作

1982年に第3回吉川英治文学新人賞を受賞した澤田ふじ子著『陸奥甲冑記』がアテルイを題材としている。1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。1992年(平成4年)当時、岩手県の小学校教師だったジョヴァンニ安東が創作人間影絵劇『アテルイの涙』を児童と共に制作・発表し、地元岩手で大きな反響を呼ぶ。その後、2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著『火怨』や、これを原作としたミュージカル『アテルイ』(わらび座)などが続く。後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子小田島雄志賞を受賞している。他に高橋克彦原作による漫画『阿弖流為II世』(『火怨』とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演『アテルイ』(松竹株式会社)が有名である。2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション『アテルイ』が制作された。2013年(平成25年)1月、『火怨』を原作としたテレビドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』(主演:大沢たかお)がNHK BSプレミアムで放送された(NHK総合では2013年3月放送)。


モレ

モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 青木和夫稲岡耕二笹山晴生白藤禮幸校注『続日本紀』五(新日本古典文学大系 10)、岩波書店、1998年。ISBN 4-00-240016-6
  • 黒板勝美『新訂増補国史大系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
  • 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年。ISBN 4-642-06627-6
  • 新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2
  • 大塚初重岡田茂弘工藤雅樹佐原眞新野直吉豊田有恒『みちのく古代 蝦夷の世界』、山川出版社、1991年。ISBN 4-634-60260-1
  • 細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏『岩手県の歴史』(県史3)、山川出版社、1999年。ISBN 4-634-32030-4
  • 岡田桃子『神社若奥日記』、祥伝社、2003年。ISBN 4-396-31339-X
  • 馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』2006春号、史敏刊行会、2006年。ISSN 1881-2066

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

  • 伊藤博幸「エミシの世界」56ページ
  • 細井計他著 山川出版社 2002年
  • 『日本紀略』の写本における地名の異同は、『日野昭博士還暦記念論文集:歴史と伝承』掲載の神英男論文に詳しい。
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』