平安京

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ファイル:Daidairi of Heiankyo.jpg
平安京復元模型写真

平安京(へいあんきょう)は、延暦13年10月22日西暦794年)の桓武天皇入京以降、日本首都と見なされた都市。平安城ともいい、現在の京都市中心部に位置した。明治2年(1869年)に政府が東京に移転して実質的には首都機能を失ったが、その位置づけについては争いがある(詳細は東京奠都を参照)。

概要

ファイル:Heiankyo landsat.jpg
平安京の位置(ランドサット衛星写真)

平安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、長安城に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は羅城門の左右を除き造られなかったと考えられている。この地の選定は中国から伝わった陰陽道風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある[1]

平安京の範囲は現在の京都市街より小さく北限の一条大路は現在の今出川通丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。

道幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路では中央に堀川、西堀川)が流れていた[2][3]

歴史

桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の793年(延暦12年)の1月、和気清麻呂の建議[4]もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10km、二つのに挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、に相応しいか否か確めたと云われている。日本紀略には「葛野の地はや川が麗しく四方のが集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などのを整備した。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の堀川と西堀川)を整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。そして長岡京で認めなかったようにここでも官寺である東寺西寺を除き新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は新京に遷り、翌11月8日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。 テンプレート:Quotation 「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。此の勝(形勝 けいしょう)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰(い)ふ」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「謳歌」とは、遷都の翌年正月16日に宮中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言葉「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。

810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという動きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ、国の安定と考え、この動きを退ける。そして平安宮を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の皇居という意)。

京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず[5]律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めた。また鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世近世京都の街が形作られ、京域を示す「洛中」という言葉も実質的に左京を指して用いられた。

平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府江戸幕府の成立によって行政府としての機能を次第に失った。とくに室町時代から戦国時代にかけての時期は、応仁の乱にて市街地の過半を焼失し、衰退した。その後、平安京の市街地は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていた。これが再度一体の市街として復興に向かうのは安土桃山時代であり、織田信長の上洛後のことである。豊臣秀吉大内裏の跡地である内野に政庁である聚楽第を設けたが、関白位を甥の秀次に譲ると伏見伏見城を建設して隠居。間もなく秀次が失脚して聚楽第が破却されると政治の中心は京都から離れて完全に伏見に移ることとなった。

関ヶ原合戦後、徳川家康は、洛中に二条城を建設したがこれは政庁としての城ではなくもっぱら儀礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に復することはなかった。江戸時代には、国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の機関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鑑み京都守護職を新たに置き、一層支配を強めようとした。

明治維新の際には、明治天皇東京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(明治4年廃止)。江戸東京と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「遷都」という言葉は避けられた(→東京奠都)。以後も天皇の京都行幸は度々行われ、その際には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所京都大宮御所)に宿泊することが慣例となった。なお、天皇の玉座である高御座も、京都御所の紫宸殿に据え置かれている。

名称

平安京はふつう音読みの「へいあんきょう」と読むが、ときに「たいらのみやこ」と訓読みした。古来、都の名はその地名を冠することが一般的だったが、藤原の都を「新益京(あらますのみやこ)」と称したようにここでも「平安京」と命名された。唐の都「長安」に倣っての命名であることは容易に理解できるが、長岡京での騒動が原因のひとつとして、再び遷都されたため、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという願いも込められたと考えられている。

平安京全体図(仮)

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注意:図に描かれているもの以外にも、複数の町にまたがる邸宅などにより小路が途切れていることがある。

平安遷都記念事業

1100年記念事業
1200年記念事業

その他

  • 「鳴くよ(794)ウグイス(若しくは泣くよ(794)坊さん)平安京」の年号語呂合わせは有名(ウグイスなら、鳴き声である「ホーホケキョ」と平安京とで韻を踏む。また坊さんなら、平城京の寺院が平安京へ移転するのを禁じられたことなどが関係づけられる)。
  • 1993年(平成5年)から開始されたJR東海そうだ 京都、行こう。キャンペーンはもとは1200年記念にあわせた京都観光促進用のコマーシャルである。

脚注

  1. 四神相応説は今のところ鎌倉時代成立の平家物語が初出。
  2. 当時の「西堀川」は現在の「紙屋川(天神川)」である。西堀川小路は現在の西土居通に該当する。
  3. 平安京右京六条二坊・西堀川跡 現地説明会資料
  4. 清麻呂の建議以前の791年(延暦10年)頃には長岡京の廃止と新たな都の候補地探しが始まっていたとする見方もある(網伸也「平安京造営過程に関する総合的考察」『平安京造営と古代律令国家』(塙書房、2011年) ISBN 978-4-8273-12447-7)。
  5. この説は慶滋保胤(?~1002)が「池亭記」に書いて以来信ぜられてきたが、最近の発掘調査の結果からは、必ずしも右京に貴族の邸宅が建てられなかったとは言えない。


関連項目

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外部リンク


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