足利義教

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テンプレート:基礎情報 武士 足利 義教(あしかが よしのり、異体字:足利義テンプレート:CP932フォント)は、室町時代中期の室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍足利義満の三男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義圓(ぎえん、新字体:義円)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。

生涯

ファイル:Ashikaga Yoshinori Hōkan-ji.jpg
足利義教像(法観寺蔵)
還俗間もない頃の姿かという

将軍就任まで

応永元年(1394年6月14日足利義満の三男として生まれた[1]。幼名は春寅。

応永10年(1403年)6月、青蓮院に入室し、応永15年(1408年)3月4日に得度して門跡となり義圓義円)と名乗った。同じ日に異母弟の足利義嗣が従五位下に叙爵されており、義圓は義満の後継者候補から外れた[2]。応永20年(1413年)頃には准后宣下を受けている[註 1]。応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた。その後一時大僧正も務めた[1][3][4]

将軍就任

第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていたが、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、僧体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済管領畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果[4]石清水八幡宮籤引きを行い[註 2]、義持の弟である梶井門跡義承大覚寺門跡義昭相国寺虎山永隆青蓮院門跡義圓の中から次期将軍を選ぶことになった。

1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義圓だった。このことから彼は籤引き将軍とも呼ばれる[註 3][5]。結果は19日に諸大名によって義圓に報告され、義圓は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。これを受けて、同日中に青蓮院を退出して裏松(日野義資)邸に移った。この時、後小松上皇称光天皇共に日野資教有光の父で義資の大伯父にあたる)を勅使として義圓の相続を賀したという[5]

幕閣は権力の空白状態を埋めるべく、1日も早い将軍就任を望んだが、義圓は元服前に出家したため俗人としてはいまだ子供の扱いであり、無位無官だった。さらに、法体の者が還俗して将軍となった先例もなく[註 4]武家伝奏万里小路時房は法体の者に官位を与えるのは罪人に官位を与えるようなものであると反対し、義圓の髪が伸びて元服が行えるようになってから次第に昇任させるべきと回答、公卿の大半も同意見だった。幕閣はこの意見に従い、義圓の髪が生えるまで待つことにした[6]。幕府は将軍の書状である御教書を発給させて義圓に政務を執らせようとしたが、これも朝廷の反対に遭ったために管領下知状で代用することとなった[7]

3月12日に義圓は還俗して義宣(よしのぶ)と名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。4月14日には従四位に昇任したが、将軍宣下はなかった。このため鎌倉公方足利持氏が将軍となるという流言が走り、京都に不穏な空気が流れた。

同年の正長元年(4月27日に改元)7月6日、称光天皇が危篤に陥った。義宣は密かに伏見宮貞成親王の皇子・彦仁王を伏見宮御所から京都に移し、後小松上皇に後継者を決めるよう要請した。上皇が彦仁王を後継とする意向を伝えると、義宣は王が京都にいることを伝えた。この配慮に上皇は喜び、20日の称光天皇崩御後に彦仁王は即位した(後花園天皇[8]

正長2年(1429年)3月15日、義宣は義教(よしのり)と改名して参議近衛中将に昇った上で征夷大将軍となった。改名の理由は「義宣」(よしのぶ)が「世忍ぶ」に通じるという俗難(噂)があり不快ということだった[9]。当初は公家が協議して新たな名に「義敏」(よしとし)を決定していたが、よく考えると「教」(「テンプレート:CP932フォント」)の字の方が優れているということで、追って摂政二条持基(もちもと、二条家)を通じてこれを訂正させたという経緯がある[10]

幕府の権威復興へ

将軍就任を果たした義教の目標は、兄将軍の長い治世のうちに失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活であった。施策の手本は父・義満に求めたと思われ、前述の称光天皇死後の皇位継承問題を手がけたのもその一端であり、後花園天皇新続古今和歌集は義教の執奏によるものである。まず、三宝院満済を政治顧問に儀礼の形式や訴訟手続きなどを義満時代のものを復活させ、参加者の身分・家柄が固定化された評定衆引付に代わって、自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰を協議機関とすること、管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接諮問する[註 5]など、管領の権限抑制策を打ち出した。また、管領を所務沙汰の場から排除する一方で、増加する軍事指揮行動に対処するために、軍勢催促や戦功褒賞においてはこれまでの御内書と並行して管領奉書を用いるようになった[註 6]。また義満と同様に、みずから駿河国へ下向し、富士山の遊覧を行っている。

さらに財政政策においても、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させ、兵庫へ赴いて遣明船を視察するなど、幕府権力の強化につとめた。また社寺勢力への介入を積極的に行った。

軍事力についても、将軍直轄の奉公衆の整備など軍制改革を行って力を得る。そして鎌倉公方足利持氏が、正長から永享に改元したにも拘らず正長の年号を使い続け、また鎌倉五山の住職を勝手に決定するなどの専横を口実とし討伐を試みる。これは関東管領上杉氏の反対に遭い断念するが、代わりに大内盛見に九州征伐を命じた。盛見は戦死したが跡を継いだ甥の大内持世山名氏の手を借りて渋川氏少弐氏大友氏を撃破、腹心となった持世を九州探題とし九州を支配下に置いた。

延暦寺との抗争

もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。永享5年(1433年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀[註 7]らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。

しかし翌年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。

しかし義教は本心では許しておらず、同7年(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。

永享の乱

鎌倉公方足利持氏は自分が僧籍に入っていないことから、義持没後には将軍に就任できると信じており、義教を「還俗将軍」と呼び恨んでいた。先の年号問題は持氏の妥協で決着が付いたものの、比叡山の呪詛問題、それに永享10年(1438年)には嫡子足利義久の元服の際に義教を無視し勝手に名前をつけた(当時は慣例として将軍から一字の2文字目、通字の「義」でない方)を拝領していた)ことなどから幕府との関係は一触即発となっていた。そんな時にたびたび持氏を諌めていた関東管領上杉憲実が疎まれたことにより身の危険を感じて領国の上野に逃亡し、持氏の討伐を受けるに至る。義教は好機と見て憲実と結び、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に認定し、同11年(1439年)に関東討伐に至った(永享の乱)。持氏は大敗して剃髪、恭順の姿勢を示した。しかし義教は憲実の助命嘆願にも拘らず持氏一族を殺害した。その後は関東に自己の勢力を広げていくために実子を新しい鎌倉公方として下向させようとしたが、これは上杉氏の反対にあって頓挫している。なお、8代将軍義政(義教の三男)の代になって政知(義教の次男)が幕府公認の鎌倉公方として関東に送り込まれ、義教の計画が実行に移されたかたちになったが、結局政知は鎌倉入りを果たせぬまま伊豆堀越にとどまり、堀越公方と称されることとなった。

関東平定と中央集権の実現

鎌倉を平定した義教であったが、永享12年(1440年)に逃亡していた持氏の遺児の安王丸・春王丸兄弟が結城氏朝に担がれて叛乱を起こした(結城合戦)。義教は隠居していた憲実に討伐を命ずるも、関東諸将の頑強な反抗に遭い、力攻めから兵糧攻めに切り替え、翌年の嘉吉元年(1441年)4月には鎮圧された。春王・安王は京への護送途中で斬られた。また大和永享の乱越智氏箸尾氏といった有力国人ともども後南朝勢力を討伐した。これらの乱の鎮定の際には「治罰綸旨」を受けて相手を「朝敵」にする事を行っており、これが戦国期における朝廷の権威復興の一因となったとする説もある[11]

嘉吉元年(1441年)には、京都・大覚寺を逐電して日向国に潜伏していた弟の義昭を、島津忠国に命じて討たせた。また義教は、斯波氏畠山氏山名氏京極氏富樫氏今川氏など有力守護大名に対して、その家督継承に積極的に干渉することにより、将軍の支配力を強める政策を行った。また、意に反した守護大名、一色義貫土岐持頼は誅殺された。

義教の時代には正長の土一揆や後南朝勢力の反乱など、室町幕府を巡る政治・社会情勢が不穏であり、義教は幕府権力の強化に一定の成果をあげた。

最期

永享9年(1437年)頃から赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れていた。永享12(1440年)、義教は満祐の弟・赤松義雅の所領を没収して、その一部を義教が重用する赤松氏分家の赤松貞村に与えた。ついに嘉吉元年(1441年)6月24日、「鴨の子が多数出来」したことと、結城合戦を終えた慰労という名目に、満祐の子の赤松教康は義教の「御成」を招請した。当事、将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であった。義教は少数の側近を伴って赤松邸に出かけたが、猿楽を観賞していた時、突如屋敷に馬が放たれ門がいっせいに閉じられた音がした。義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた義教の義兄(正室・尹子の兄)・正親町三条実雅正親町三条公治の父)は「雷鳴でありましょう」と答えた。その直後、障子が開け放たれ甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の武士安積行秀(あさか ゆきひで)が義教の首をはねた[註 8]。将軍に同行していた山名熙貴京極高数大内持世、正親町三条実雅らは、その場で応戦し死傷するが、強権的であった将軍が殺害されたため指揮系統が混乱。京都市内ではそれ以上の混乱は生じなかったばかりか[12]討手を差し向けられることもなく、満祐・教康父子は播磨に帰国する。

同年7月11日、ようやく討伐軍が編成され、細川持常山名持豊(宗全)らに追討されて赤松氏は滅亡[註 9]した。これを嘉吉の乱という。

この結果、義教によって復興された権力はこの後弱体化していくが、義満の北山文化を支えた将軍の中央集権権力は、義教の代に再び確立されたことも事実である。また義教の設立した奉公衆制度は将軍権力を支え、応仁の乱を経て明応の政変まで将軍権力を維持していくことになる。

人物

悪御所」の綽名で呼ばれた義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで激怒し厳しい処断を行ったと言われる。主な例としては以下のようなことがある。

  • 永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられている。
  • 永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒。義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。
  • 義教は側室日野重子の兄である日野義資に対して青蓮院門跡時代から恨みを持っており、将軍に就任すると義資の所領を没収し、謹慎させた。永享6年、重子が子(後の足利義勝)を産むと、叔父になる義資のもとに祝賀の客が訪れた。これを不快に思った義教は訪れた客すべてを処罰した。さらに6月8日には義資が何者かに斬殺され首を取られた。犯人については明らかにならなかったが、義教の討手であるという噂が流れた。この噂をした参議高倉永藤硫黄島流刑となった。
  • 比叡山根本中堂の炎上に関する噂をすることを固く禁じ、その禁に触れた商人は斬首された。
  • 酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた[註 10]
  • 説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないようにを切られた。

これにとどまらず「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰したことが当時の記録に数多く記されている[13]

永享6年(1434年)6月、中山定親は日記『薩戒記』において義教に処罰された人間を数えたてているが、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名が処罰されたとしている。中には日野西資子といった天皇の生母や、皇族、関白なども含まれる。斎木一馬は義教の全統治期間ではこの2倍に上るものが処罰されたとしている。なお、これらの数には武家や庶民は含まれておらず、総数は相当数に上ると見られている。

これらの事跡は義教が暴君で、恐怖政治を志向したことや、嗜虐性を有していた事を示す逸話として伝えられた。伏見宮貞成親王は『看聞日記』で、商人の斬首についてふれ「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ(永享七年二月八日条)」と書き残した。この「万人恐怖」を義教時代を象徴する一語と見ることも多い。

作家井沢元彦は『逆説の日本史』中で、「比叡山制圧や大名統制など、義教の先鞭を織田信長徳川家康らが完成させた」「九州平定・関東制圧など義満でも出来なかったことを成し遂げ、最大領土を獲得した」など、非常に高く評価している。「絶対権力の確立による国内安定・平和の達成」をほぼ完成させたが、絶頂期に暗殺されてしまい、室町幕府はその後成果を霧散させてしまった、との見解を示している。

義教と訴訟

義教は「御沙汰を正直に諸人愁訴を含まざる様に御沙汰ありたき事なり」と自ら語り、訴訟に強い関心を持っていた。将軍就任後間もない頃、義満の頃から実態を持たなくなった評定衆引付頭人を再置して制度改革を行おうとしたが、これは実現しなかった[14]

一方で裁断にあたっては「湯起請」やくじ引きといった神判による裁断を行うこともあった。これは神の権威によって重臣や公家などの衆議を退け、自らの独裁権力を確立するためであったとも、自らが「神意」によって室町殿になったという王権神授意識によるものであったともされる。これらの裁断は主に境界問題や朝廷関連に限られ、守護人事や軍事面では神判は行わなかった[15]

永享2年(1430年)から2年間の間に義教自ら裁許した裁判記録は「御前落居記録」として残されており、重要な資料となっている。

墓所・肖像

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義教の首塚とされる塔 兵庫県加東市安国寺
墓所

法号は普広院殿善山道恵。墓所は京都市十念寺。また、義教の首塚とされるものが大阪市崇禅寺と、兵庫県加東市安国寺に存在する。

肖像

凄惨な死に方をしたためか、没後に鎮魂用の肖像画が多く描かれたようである。知られている現存作品は以下のとおり。

官歴

※ 日付=旧暦

  • 1428年(正長元年)3月12日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。還俗し義宣と名のる。4月14日、従四位下に昇叙。
  • 1429年(永享元年)3月9日、元服。3月15日、参議に補任し、左近衛中将を兼任、征夷大将軍宣下。義教に改名。3月29日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。8月4日、右近衛大将兼任。12月13日、従二位に昇叙。
  • 1430年(永享2年)1月6日、右馬寮御監兼務。10月17日、従一位に昇叙。
  • 1432年(永享4年)7月25日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。8月28日、左大臣に転任。右近衛大将兼任如元。12月9日、淳和奨学両院別当兼務。
  • 1433年(永享5年)8月9日、右近衛大将辞任。
  • 1438年(永享10年)8月28日、左大臣辞任。
  • 1441年(嘉吉元年)6月24日、薨去。6月29日、贈太政大臣。

系譜

永享3年12月に義教の下に上がるも、永享9年11月、密通事件により離縁


義教の偏諱を受けた人物

義宣時代

(※該当者なし)


義教時代(*「教」は「テンプレート:CP932フォント」とも表記する。)

'

*義教は公家に対しても積極的に「教」の1字を下賜していたと言え、一条教房、今出川教季、勧修寺教秀、近衛教基の4人は、各家の歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受けた人物である。それまでは二条家だけが将軍の1字を賜っていたが、義教以降は一条・勧修寺・近衛各家も代々の慣例として将軍の1字を受けるようになる。今出川(菊亭)家に関してはその慣例は続かなかったが、のちに菊亭晴季が12代将軍足利義晴の1字を受けている。


武家
「義」の字


「教」の字

脚注

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註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

登場作品

小説
漫画
TVドラマ

関連項目

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  1. 1.0 1.1 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.228
  2. 桜井、72p
  3. 今谷、52p
  4. 4.0 4.1 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.237
  5. 5.0 5.1 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.241-242
  6. 今谷、177-179p
  7. 桜井、126p
  8. 横井、292-294p
  9. 桜井、145p
  10. 横井、296-297p
  11. 今谷明『戦国大名と天皇』(講談社学術文庫、2001年) ISBN 4-06-159471-0
  12. テンプレート:Cite news
  13. 『満済准后日記』『看聞日記』『薩戒記』等
  14. 桜井、134p
  15. 今谷明『籤引き将軍足利義教』


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