執権

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執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。元来は、政所別当の中心となるものの呼称であった。

ただし、朝廷においても用いられた語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。

由来

職名として「執権」が最初に用いられたとみられるのは、後三条天皇が設置した記録所勾当の別称であったと考えられているが、文献上で確認できるのは1186年(文治2年)以後である。また、職事蔵人の筆頭(通常は蔵人頭)を執権職事(しっけんのしきじ)と称した。

続いて、院庁でも別当のうち器量の者を1名執権に任じて院中雑務の責任者とした。これは後鳥羽上皇葉室光親が任じられたのが初めとされ、鎌倉幕府の執権成立と前後している。ただし、院庁の執権は当初は非常設で、1246年(寛元4年)に任じられた葉室定嗣(光親の子)が常設化された院執権の最初と考えられている。これ以降の院執権は院司の筆頭として伝奏評定衆を兼務して院庁の運営や評定の議事進行を担当した。院執権は江戸時代末期光格上皇の時代まで存続した。

鎌倉幕府の組織は、もとは平家追討の功労によって公卿に列した鎌倉殿源頼朝家政機関から始まったものであり、政所がその中核にあった(従って、1192年(建久3年)の頼朝の征夷大将軍任命以前より鎌倉幕府の諸機関は存在していた)。その政所職員である家司の筆頭に、朝廷の記録所や蔵人所で使われた「執権」を称する職名が与えられたと考えられている。伊豆へ配流された頃からの頼朝を支え、娘の政子を頼朝に嫁がせて2代に渡り将軍の外戚となった政所別当北条時政は、鎌倉殿の家司筆頭として「執権」を名乗るのに相応しい立場にあったと考えられている。

鎌倉幕府滅亡後も室町幕府管領が鎌倉幕府の例に倣って「執権」と呼ばれた他、諸大名の重臣に対しても「執権」と呼ばれた事例がある。

沿革

いわゆる初代の「執権」は、1203年(建仁3年)に北条時政が外孫である3代将軍源実朝を擁立した際に政所別当とともに合わせて任じられたのが最初とされている(異説として、初代政所別当である大江広元を初代執権とする説もあるが少数説である)。時政の就任以来、北条氏の権力確立の足場となる。2代執権の北条義時侍所の別当を兼ねてからは、事実上、幕府の最高の職となった。源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは、摂関家、皇族から名目上の鎌倉殿を迎え、その下で執権が幕府の事実上の最高責任者となる体制となった。基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿と御家人の主従関係で成り立っており、北条氏も御家人のひとつに過ぎなかった。

しかし、ライバルとなる有力御家人を次々と滅ぼし、また執権以外の幕府の要職の多くを北条氏が独占していくにつれて、御家人の第一人者に過ぎなかった北条氏の実質的権力は、暫時増大していった。北条氏の権力が増大するにつれて、幕府の公的地位である執権よりも、北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動していく事になる。6代執権の長時の時代に、出家した執権の座を譲った得宗である時頼が依然として幕府内の権力を保持し続けた事が、得宗への権力移動の端緒となる。これ以降、得宗と執権が分離し、実際の権力は得宗が持つようになり、執権は名目上の地位となった。さらに、9代北条貞時が幼くして得宗と執権の両方を継承すると、得宗家に仕える御内人が貞時の補佐を名目として幕府の政治に関与するようになり、北条高時の時代になると、北条家の執事とも言うべき内管領長崎氏が権力を握るようになった。

近代になって龍粛1922年(大正11年)に著した『尼将軍政子』の中で源実朝没後に執権が鎌倉幕府の実権を掌握してからの体制を執権政治(しっけんせいじ)と表現して以後、この語が広く用いられるようになった。ただし、近年では実朝の死後は北条政子が「尼将軍」として実権を掌握しており、執権政治への移行は政子の死後であるとする見方が出されている他、執権政治を2つに分けて8代北条時宗の急死後、幼少の9代北条貞時が幼くして得宗と執権をともに引き継いでからの体制を得宗専制(とくそうせんせい)と呼んで、それ以前の執権政治と分ける区分方法も行われている。

参考文献

関連項目

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