足利義勝

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足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。6代将軍足利義教嫡男

生涯

生まれてすぐに政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されたが、嘉吉元年(1441年)に嘉吉の乱が起こり、父が赤松満祐暗殺されたため室町殿へ移され、翌嘉吉2年(1442年)に管領細川持之らに擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。千也茶丸(せんやちゃまる、のち義勝)は幼年で政治能力が無いため持之が実権を掌握、彼の死後は畠山持国山名持豊や生母の日野重子らが実権を握り、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐、嘉吉の徳政一揆などを平定した。

嘉吉3年(1443年)6月19日には、義教への弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見している(『康富記』)。しかし、同年7月21日に死去。享年10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。死因は落馬暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている[1] 。後任の将軍には同母弟で8歳の三寅(のち義成、義政)が選出された。

義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。

墓所は安国寺慶雲院にあったとされるが、焼失したため現存せず、遺骨等も所在不明となった。木像は等持院に現存している。

官歴

偏諱を受けた人物

義勝時代(1442年11月17日~1443年7月21日)

関連項目

TVドラマ

脚注

  1. 國史大辞典の引く建内記公名公記などによれば、7月12日に病を発し7月21日に薨じたと有り、落馬の説信じ難しとしている。 (國史大辞典 大正14年2月25日大増訂p.44。) ちなみに、のちの江戸幕府第7代将軍となった徳川家継も幼少にして将軍となっては8歳という若さで病死しており、偶然にも境遇が類似している。

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