執事

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執事(しつじ)は、一般に事務を管轄する者を意味し、高位の人物の家や寺社で家政・事務を執りしきる者を指す。日本語の「執事」は海外における複数の役職に対応しており、例えば英語でこれに当たる語には butlerchamberlainarchdeacondeacon などがあり、後二者はキリスト教における職位を指す用語である[1]。文脈により指す対象が異なる。

本項では英語での butlerchamberlain に相当する執事を扱う。

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世俗の執事、使用人頭

欧米の使用人を指す。各国に似たような職はあるがイギリスのバトラー (butler) が特に有名である。日本でも明治以降、華族、資産家が導入し、従者たちに指示する管理職として大きな力を振るった。現代では王侯か、かなりの資産家の家に存在するのみである。

使用人頭としての男性の執事は、フィクションではよく「(じい)」と称されることがある(キャラクターも当然高齢である)。

日本史における執事

寺院に常駐し、住職の代理を務める僧侶

摂関家の執事

藤原氏一門の長である藤氏長者を兼ねていた摂関家の家政を掌握する政所家司の筆頭で執行家司(しぎょうけいし)の別名を持つ。諸流の公家の中でも有力な日野流あるいは勧修寺流の実力者が任命されて、摂関家領の管理などを行った。

院の執事

院執事(いんのしつし)あるいは執事別当(しつしべっとう)と呼ばれ、院別当の筆頭。白河院藤原国明顕隆基隆鳥羽院藤原公教後白河院藤原家明隆季兼雅らが知られる。後嵯峨院政の時代に院評定が積極的に開催されるようになると、評定衆の中心人物として院政の実務の責任者となり、大臣・公卿が任命される慣例となった。院政衰退後も幕末に至るまで置かれていた。

室町幕府の執事

鎌倉幕府においては、政所問注所に執事職が置かれていたが、室町幕府の成立後には代々足利氏家宰を務めてきた高氏高師直がそのまま将軍家の家政を預かって執事と呼ばれるようになった。だが、幕府という仕組みそのものが将軍家の家政機関としての側面を持っていたことから、恩賞所務沙汰など重要な政務にも関与するようになった。だが、高師直はその後攻め滅ぼされ、以後は仁木氏細川氏といった足利一族が執事に就任する。細川清氏が執事に任命された際に管領(かんれい)という別称が用いられるようになり、続いて斯波高経が後任となった際に自らは「管領」を名乗り、嫡男義将に「執事」の称号を名乗らせて共同で政務を執ったが、当然父である管領・高経が実権を持ち執事・義将はその補佐役に過ぎなかった。貞治6年(1367年)、細川頼之足利義詮遺言によって新将軍・義満の補佐・後見を任されると、管領として幕府の全権を掌握した。これ以後「管領」の呼称で統一されて執事は使われなくなった。

また、幕府機関である政所・問注所の長も「執事」と呼称された。問注所は次第に形骸化していったが、政所では15世紀後半より財政再建などで実績を挙げた伊勢氏の事実上の世襲となった。

一方、鎌倉府においても関東公方鎌倉公方)・関東執事が置かれ、高師冬上杉憲顕畠山国清高師有が相次いで任じられる。その後、上杉憲顕が関東執事に復帰し、続いてその子能憲が後を継いで上杉氏による世襲が確立すると、幕府中央に倣って関東管領と呼ばれるようになった。なお、享徳の乱によって関東管領である上杉氏と対立した鎌倉公方(古河公方足利成氏が幕府の追討を受けると、将軍足利義政の弟政知が新しい鎌倉公方として鎌倉に下った。その際、補佐役に付けられた上杉教朝渋川義鏡が関東執事職を任命された。だが、義鏡が関東管領である上杉氏の権力を剥奪しようとして上杉一門である教朝を倒したことから、上杉氏の反感を買ってしまったために政知・義鏡の鎌倉入りを拒まれて伊豆国において堀越公方と名乗らざるをえなかった。この件がもとで義鏡が失脚すると、上杉教朝の嫡男政憲が後を継いで関東管領との協調を進めたが、後に政知と対立して自害を命じられた。その後、後任が任じられることなく堀越公方が伊勢盛時(北条早雲)によって滅ぼされてしまったために、関東執事もそれとともに廃された。

日本のサブカルチャーにおける執事

サブカルチャーではバトラーの役割がおおきい。

脚注

  1. 小西友七・南出康世編集主幹『ジーニアス和英事典第2版』大修館2004、「執事」。

関連項目

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