後深草天皇

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テンプレート:基礎情報 天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日1246年2月16日) - 正元元年11月26日1260年1月9日))。久仁(ひさひと)。持明院統の祖。自身を差し置いて、弟亀山天皇を寵愛する父上皇の決定に不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。

系譜

後嵯峨天皇の第二皇子(出家したものも含めると第四皇子)。母は太政大臣西園寺実氏女、大宮院西園寺

主な妃、皇子女は以下の通りである。

系図

テンプレート:皇室鎌倉後期

略歴

寛元元年(1243年)6月、外祖父太政大臣実氏の今出川邸第にて誕生、生後2ヶ月で立太子。同4年(1246年)正月、後嵯峨天皇の譲位により4歳で即位。在位中は後嵯峨上皇が院政が敷き、直接政務を見ることは無かった。正元元年(1259年)に瘧病を患い、同11月、後嵯峨上皇の要請で、17歳で亀山天皇に譲位。

この間に、鎌倉幕府による朝廷への介入が進み院評定制が置かれ、院政もまた幕府の管理下に入った。また建長4年(1252年)には後嵯峨天皇の第三皇子・宗尊親王将軍として鎌倉に迎え入れられている。

文永5年(1268年)に、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草院皇子熈仁を差し置いて亀山皇子世仁親王が立太子した。ここから、後深草天皇の血統(持明院統)と亀山天皇の血統(大覚寺統)の対立が始まる。同9年(1272年)、後嵯峨院が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で崩御すると、幕府が後深草・亀山の兄弟どちらとも決めかねて、2人の母后大宮院に諮問したところ法皇の素意が亀山天皇親政にあるとの返答を得、2年後、文永11年(1274年)正月、亀山天皇は後宇多天皇に譲位し治天の君として院政を開始した。これに不満を抱いた後深草院は、翌建治元年(1275年)、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、時の関東申次で後深草院寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と折衝し、後深草天皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。その後、弘安3年(1280年)頃から後深草院方による後宇多退位と皇太子擁立の動きが強まり、ついに同10年(1287年)10月、伏見天皇即位に伴い院政を開始した。また正応2年(1289年)10月には第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させ、その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。

正応3年(1290年)2月、出家し法諱を素実とし、公式の院政を停めたが、その後も政治への関与が続き、持明院統の中心としてその繁栄につとめた。嘉元2年(1304年)、冷泉富小路殿で崩御、享年62。

在位中の元号

諡号・追号・異名

御陵(深草北陵)に因んで「後深草院」と追号。第54代仁明天皇の別称が深草帝だったため、後の字が付くが、普通の天皇の加後号のように音読みすると「後深草(ごふかうさ)=御不孝者」に通じるのを憚り、この天皇に限って、「後」の字を訓読みして「のちの―ふかうさ」院と称したという(『和長卿記』)。しかし、別の資料によれば宮中では依然として「ごふかうさ」と読んでいたとされ、不審でもある。明治以後、院号は廃止され、後深草天皇と称されるようになる。それに伴い、読みも正式に「ごふかくさ」に定着。ほかに居所とした常盤井殿や冷泉富小路殿にちなんだ異名もある。

陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。

深草山中に葬られたのは、天皇の生前の希望という。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

関連項目

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