大覚寺統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である。亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの名称が付けられた。

概要

院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。

後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。

これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。吉野に逃れた大覚寺統の天皇南朝)と、足利尊氏に擁立された持明院統の天皇(北朝)の対立時代=南北朝時代となる(以後の詳細は南朝の項目を併せて参照のこと)。

観応の擾乱の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、半年で崩壊する。後に足利義満の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は終わった(南北朝合一)。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を15世紀半ばまで続けた(後南朝)。

大覚寺統の天皇

系図

テンプレート:皇室鎌倉後期

テンプレート:皇室南北朝

参考文献

  • 森 茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ、2004年) ISBN 4-06-258334-8

関連項目