後宇多天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 天皇

後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日1267年12月17日) - 元亨4年6月25日1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日1274年3月6日) - 弘安10年10月21日1287年11月27日 ))。世仁(よひと)。

系譜

亀山天皇第二皇子、母は左大臣洞院実雄の娘、皇后藤原佶子(京極院)。

系図

テンプレート:皇室鎌倉後期

略歴

後嵯峨上皇の意志により文永5年(1268年)生後8か月で立太子。同11年(1274年)1月に亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。

治世中には、高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。

弘安10年(1287年)、後深草上皇が、自分の血統(持明院統)ではなく、弟亀山上皇の血統(大覚寺統)が天皇になったのを不満に思っていたため、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏見天皇に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。

長子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた。

徳治2年(1307年)、遊義門院が亡くなったことが契機となり、仁和寺落飾得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌3年(1308年)には皇子である後二条天皇が崩御したため、天皇の父としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。このころから、真言密教に関心を深め、正和2年(1313年)、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として『弘法大師伝』『御手印遺告』などがある。大覚寺で院政を執ったときに法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨(永代にわたり有効たる宣旨)を出した(ただしこの永宣旨は明治維新を迎えると廃止された)。

持明院統の花園天皇を挟んで、もう一人の皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。元亨4年(1324年)6月25日、大覚寺御所にて崩御。

晩年は後二条天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化することを望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていき、その結果院政停止・天皇親政に至ったと推測されているが、院政停止は後宇多院自身の希望ともいわれ、なお考証を要する。

陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂・石造五輪塔。

大覚寺殿にて崩御し、その3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られたという。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

諡号・追号・異名

遺詔によって宇多天皇の追号に後の字を冠した後宇多院を奉った。嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山・後宇多の皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用された万里小路殿や常磐井殿に基づく異称もある。また、落飾(得度)したため、僧侶としての法諱・金剛性がある。

在位中の元号

関連項目

テンプレート:Sister

テンプレート:歴代天皇一覧