藤原頼経

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藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍五摂家の一つ九条家出身で、九条道家の三男。

生涯

九条道家西園寺公経の娘・倫子の子として生まれる。生まれたのが年・寅日・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。

建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。

北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、加えて天福2年(1234年)には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。しかしながら、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として朝廷・幕府の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。そのため、頼経と執権・北条経時との関係が悪化し、寛元2年(1244年)経時により将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされた[1]

翌寛元3年(1245年)鎌倉久遠寿量院で出家、行賀と号する。その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により寛元4年(1246年)に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)。

その後、宝治元年(1247年三浦泰村光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)。また、建長3年(1251年足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる。建長3年(1252年)、頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された。まもなく父・道家は失意の内に没した。

4年後の康元元年8月11日1256年9月1日[2]、赤痢のため39歳で京都で死去[3]。翌月には頼嗣も死去している。この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之は九条家3代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している[4]

頼経と頼嗣の2代を摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。

頼経の死に際して、中流公家の吉田経俊の日記『経俊卿記』は「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記している。

官歴

日付=旧暦

系譜

登場作品

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
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  1. 吾妻鏡』では頼経の意志によるものと記されるが、状況から勘案して信じるに足らないとされる(石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫,1974年,415頁)。
  2. 偶然にも北条時利(のちの時輔)が元服をした日でもある(佐藤和彦樋口州男『北条時宗のすべて』(新人物往来社、2000年)、p.272)。
  3. 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.152
  4. 吉川弘文館「鎌倉北条氏の興亡」、新人物往来社「鎌倉・室町人名事典」の九条頼経の項目(共に奥富による執筆)など。また奥富が時代考証を担当した大河ドラマ『北条時宗』では、北条時頼に乱を鎮圧する名目で差し向けられた刺客によって九条親子共々殺害された描写となっている。
  5. 嘉禄元年12月29日はユリウス暦では1226年1月28日。
  6. 『尊卑分脈』では綸子、『百錬抄』では淑子とする。