三浦泰村

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三浦 泰村(みうら やすむら)は、鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の次男。館は、鶴岡八幡宮の東。筋替橋の近く。

経歴

当時の三浦氏は、源頼朝の挙兵に参加して大功を挙げた経緯から、相模国河内国に広大な所領を持つ有力御家人の一人であった。その力は北条氏にも匹敵するほどであったとも言われている。

武勇(特に弓術)に優れた泰村は承久3年(1221年)の承久の乱では、父・義村と共に幕府軍の一軍として参戦して活躍した。泰村の生年については諸説ある(後述参照)が、有力とされる『承久記』の説に従えばおおよそこの頃に元服したと考えられる。その際に烏帽子親であった執権・北条氏得宗家当主の北条泰時[1]から偏諱(「泰」の字)を賜って[2]泰村と名乗る。弓馬に卓越した泰村は、放生会での流鏑馬や、正月の弓始などの儀礼において射手の役割をしばしば担当した[3]

泰村は前述の通り烏帽子親である泰時の娘を娶って[4]北条氏の一門衆となり[5]暦仁元年(1238年)には幕府の評定衆の一人にまでなって幕政に参与するようになる。さらに泰村は三浦氏の幕府内における権勢を強めようと、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄にまでなるようになり、その権勢は北条氏をも凌ぐようになったと言われている。

さらに弟・光村が5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、執権・北条時頼(泰時の孫)から三浦氏は危険視されるようになる。ただ、時頼本人は泰村と三浦氏に政権中枢からの穏便な引退を望んでいた。

寛元4年(1246年)、時頼は六波羅探題に赴任させていた北条重時を招来することを打診したが、評定の場で泰村のみは承諾せず、頑なにこれを拒んだ。重時が帰参することで自らの政治的地位が低下することを懸念したようだが、これによって時頼や北条一門らの心証をより悪化させた。もし重時の招来を承諾していれば、温厚な重時は三浦氏に穏便な措置を計らってくれたかも知れず、穏健派の重時を遠ざけた事で、三浦氏排斥の過激派である安達景盛が積極的に干渉する機会を与えてしまい、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘される。[6]

宝治元年(1247年)、時頼と安達景盛の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかしこの反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた(宝治合戦)。このことによって、北条氏の幕府内における政敵は全て排除され、北条氏における執権政治はいよいよ独裁色を強めることになるのである。この宝治合戦において、泰村は適切な指揮を取れていなかったと指摘されている[7]

泰村は承久の乱における宇治川渡河で足利義氏と共に果敢に攻め込むなど武威に優れた人物であったが、他の御家人と諍いを起こしたり、北条氏に対する方針を巡り弟光村と齟齬を来すなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があり、優柔不断なところがあった。また、安達氏が北条氏の外戚になったことで、幕府における枢要な地位が三浦から安達へと推移していったことを把握できていなかった[8]。そのことが、安達家との軋轢激化、そして三浦家の孤立を助長し[9]、滅亡へと誘引することとなった。また、安達氏以外にも、下河辺氏に対して強い対抗意識を燃やし、幾度か対立したことが、『吾妻鏡』に書かれている[10]。例えば、1241年に泰村と下河辺行光[11]が駿河国で相論を起こしている。これは、秀郷流の故実に精通している下河辺氏が台頭してきたことについて、弓馬に通じ、幕府内でそれに関する儀礼を取り仕切ってきた泰村が危機感を覚えたがゆえに起こった出来事だと言われる[12]。さらに同年には三浦氏と小山氏の郎党が酒の席で乱闘騒ぎを起こし、当事者として泰村の弟の一人、三浦家村と、小山家の小山朝村[13]が出仕停止処分となり、泰村と小山長村結城朝広も叱責された[14]。1247年(宝治元年)3月3日には、泰村自身が闘鶏会の席で喧嘩騒ぎを起こしたと伝わる[15]

有名な話として、宝治合戦の直前、一旦北条時頼らとの間に和睦が成立しかけていた時、緊張のあまり食べていた湯漬けを嘔吐したという話がある。これは恐怖からではなく、合戦の回避を模索する為に精神を働かせた結果生じた、極度の緊張からの嘔吐であろうと解釈されている[16]。承久の乱や儀礼の場で武術の達者ぶりを披露している泰村だが、非常時・切迫した状況では判断力が鈍くなる人物であった[17]永井晋は以下のように評している。

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生年について

生年については『関東評定伝』〈宝治元年条〉に64歳とあるが、『承久記』〈古活字本〉の宇治橋合戦の場面で泰村が「生年18歳」と名乗る場面がある。宝治合戦で死亡した泰村の次男景泰が13歳、九男皆駒丸が4歳である事から、『承久記』の年齢が妥当と考えられる。烏帽子親として「泰」の字を与えた北条泰時(前述参照)が得宗家当主であった1224年から1242年の間に元服[18]したことが「泰村」の名から明らかであることからもこの説を裏付けることができる。承久記の年齢に従えば元久元年(1204年)生まれで享年44[19]

近世以降の書籍では、「北条氏系譜人名事典」が1184年生まれ説を、「鎌倉・室町人名事典」や上横手雅敬著「北条泰時」が、「承久記」の記述を採用して1204年生と主張している。

参考文献

  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点』「吾妻鏡」を読み直す (NHKブックス) ISBN 4-14-001904-2
  • 北条氏研究会「北条氏系譜人名事典」(新人物往来社) ISBN 4-404-02908-X
  • 鎌倉・室町人名事典(新人物往来社) ISBN 978-4-404-01757-4
  • 上横手雅敬「北条泰時」(吉川弘文館・人物叢書) ISBN 978-4-642-05135-4

脚注・出典

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関連項目

先代:
三浦義村
三浦氏歴代当主
次代:
三浦盛時
  1. 三浦一族の歴史 | 横須賀市横須賀市の公式ホームページ内、最終更新日:2010年11月1日)、北条氏の宿敵─三浦一族 より。
  2. 元服にあたっては、それまでの童名幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.162)、田中大喜 「総論 中世前期下野足利氏論」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)p.19))、泰村もその名前から見て泰時から1字を受けたことが分かる。得宗家はそのように本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されている(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年)および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)。詳しくは「北条氏#北条氏による一字付与について」を参照のこと。
  3. 北条氏系譜人名事典・1378頁
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  5. 形式上、泰時の父である北条義時猶子になったという説もある(『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「三浦泰村」の項(執筆:佐々木文昭))。
  6. 永井晋『鎌倉幕府の転換点』(NHKブックス)
  7. 北条氏系譜人名事典・378-379頁
  8. 北条氏系譜人名事典・378頁
  9. 北条氏系譜人名事典・378頁
  10. 北条氏系譜人名事典・378頁
  11. 尊卑分脈』の系図では小山政光の弟で下河辺行義の兄。
  12. 北条氏系譜人名事典・379頁
  13. 小山朝政の子で長村の叔父。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「小山朝村」(コトバンク)を参照。
  14. 北条氏系譜人名事典・379頁
  15. 北条氏系譜人名事典・379頁
  16. 永井・181頁
  17. 北条氏系譜人名事典・378頁
  18. 元服はおおよそ10代前半もしくはその前後で行われることが多かった(→元服)。
  19. 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館