宮将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代征夷大将軍に任じられた4人の親王をまとめて指す用語。皇族将軍親王将軍とも称される。血筋の近い皇族から選ばれたため、鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と記される場合もある。

就任順に宗尊親王惟康親王久明親王守邦親王の4人を指す。

なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王成良親王も宮将軍に含めることがある。しかし、上記の4人は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、彼らは鎌倉幕府崩壊後の南朝を主導する実権を持ち、武家政権の傀儡の性質を持たないことから意味が異なる。

概要

鎌倉幕府の基本的な主従制構造は、武家の棟梁である鎌倉殿(≒征夷大将軍)と御家人との御恩と奉公の関係により成り立っていた。しかし、鎌倉殿の後継であった源実朝の他に源頼朝直系の源氏嫡流の子孫がいないことや、実朝自身に子がないことから源氏将軍が絶え、「皇族から武家の棟梁を」と考えた実朝の母北条政子やその弟北条義時らにより1218年の時点で一度朝廷側に提案された。しかし、翌1219年に起きた実朝暗殺により後鳥羽上皇の拒否に遭い頓挫し、源頼朝と血縁関係にあった2歳の九条頼経が鎌倉に下向することでようやく将軍職を相続することとした。

その後、頼経の子頼嗣が将軍職を継承するが、成長すると独自の政権運営を指向し、父と共に執権に反抗的な態度を取ったために追放される。1252年北条時頼らの奏請により、後嵯峨天皇の第1庶皇子である宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられることとなる。

しかし、すでに幕府の権力は執権の地位にあった北条氏が保持していたため、将軍といえども名目となっていた。そのため、就任は10歳前半までに行い、長じても20歳代までに将軍職を辞任して京都に返され、中務卿式部卿などに任ぜられることが通例であった。ただし、最後の将軍であった守邦親王は京都に戻れず鎌倉で出家している。

なお、宮将軍として2代目となる、惟康親王は将軍在任中に臣籍降下し、源姓を賜与され源惟康として源氏将軍となっているが、最終的には皇族に復帰し宮将軍に落ち着いている。

宮将軍が鎌倉幕府に果たした役割

そもそも、鎌倉幕府は朝廷の律令制度を巧妙に利用して成立した統治機構であった。幕府の政治機構である政所の開設は従三位以上の貴人に許される特権であり、政所の職員は朝廷から叙位を受け官吏としての処遇を受ける。幕府の統治を支えた守護地頭制や大犯三箇条も朝廷の勅許・勅命によるものであった。そのため、源氏将軍であれ摂家将軍であれ、代々の将軍は位階が三位に達しない段階では政所は開設できず、また幕府の命令書も将軍が三位に昇るまでは袖判下文、三位以上となった段階で政所下文とその格式を採用することができた。宮将軍擁立以降は統治機構は政所となり、また、その命令書も政所下文となることが常となった。鎌倉幕府の法的な正当性が常時保たれることとなったのである。まして、親王ともなれば、その命令書は令旨として法的な効果を有するものである。

また、名目上の存在であっても、将軍はあくまでも幕府の首長であり、すべての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力が要求された。そのため、もとは伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さから北条氏は、将軍職に就くことはできなかった。

後鳥羽上皇による承久の乱では鎌倉幕府の勝利に終わったものの、鎌倉幕府が朝廷より征夷大将軍としての任命を受けて成立している以上、朝敵とされれば政権としての正当性を失いかねず、摂家将軍は安定性を欠いていた。実際、頼経が傀儡であることを嫌い幕府の実権を北条氏から奪取しようとしたことは、幕府及び北条氏が摂家将軍に見切りをつける大きな要因となった。その点、宮将軍は鎌倉幕府と朝廷を結びつける役割を果たし、幕府の存在自体を正当化させる上で非常に大きな意義を持った。

8代執権時宗は宗尊親王より偏諱を賜った。これは、執権が宮将軍より偏諱を賜っている唯一の例である。

江戸時代の宮将軍擁立説

江戸時代の延宝8年(1680年)に江戸幕府4代将軍徳川家綱が嗣子なくして死去した後、大老酒井忠清が次の将軍に有栖川宮家より幸仁親王を迎えるよう提案し、堀田正俊らの反対に遇い、実現しなかったとする宮将軍擁立説がある。これは『徳川実紀』にも書かれているが、近年では反対派による中傷の一つで根拠は無いとも言われている。

関連項目

テンプレート:Navbox with columns テンプレート:Japanese-history-stub