野中兼山

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野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。

は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。

南学儒者でもあり、灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。

来歴

元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。

祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。

13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。

寛永13年(1636年)、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨陶器養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。

一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。また、郷士の取り立てなどは上士の反発を深めていった。

明暦2年(1656年)、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)、兼山の施政に不満を持つ孕石元政生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年に死去した。なお、報復は過酷で男系が絶えるまで一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であった。

エピソード

  • 垂加神道山崎闇斎の先輩であり、放逐された闇斎を保護した。
  • 母の死に際し、儒葬(儒教による葬儀)を行って切支丹の嫌疑を受けた。
  • 兼山の死後、民衆は密かに小祠を建てて神と崇めた。後に江戸幕府の許可を得て「春野明神」と公称し、明治初年の神仏分離によって「春野神社」となった。
  • 念仏講」という組織を作り、積立金による丁重な葬儀を行わせた。四国は中世からハンセン氏病患者などの巡礼地であり、それらの遺体は粗略に扱われていたが、兼山はこれをも厚く葬らせた。天然痘患者の置棄(おきす)ても禁じ、儒教の精神により火葬を廃し、「棺郭の制」を定めて「厚板契締(あついたちぎりじめ)」の丁寧な棺箱に納めて土葬にさせた。
  • 「春兎通ったあとが百貫目」とは、ある人夫が仕事場を兎が一匹走り抜けたが仲間には黙っていて、休み時間にその話をしたところ仲間は仕事をやめて捕まえたのにと残念がった。その話を聞いた兼山がそのことを仲間にいえば大騒ぎになり仕事も遅れたことだろうと感心をし、その人夫に褒美として山石百貫目の使役料を与えたことによるものである。

土木事業

  • 兼山の功績は土木事業に多く、特に山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術は高く評価されている。
    • 手結港は、日本最初の掘込み港湾として慶安3年(1650年)に着手し明暦元年(1655年)完工している。漂砂による港湾埋設を防ぐため内港まで細長い航路で結び、南側に長い突堤を設けた。当時の規模は、南北60間、東西27間、干潮時一丈。
    • 山田堰は、湾曲斜め堰として有名であったが昭和48年(1973年)に上流に新たな堰ができ用済みとなり昭和57年(1982年)に一部を除き撤去された。工事は寛永16年(1639年)に着手し25年後の寛文4年(1664年)に完成している。堰は、全長180間(324m)、幅6間(10.6m)、高さ5尺(1.5m)とあり築造には松材42800本、大石1100坪を用いたと言われている。
    • 津呂港は、岩礁の中の僅かな窪地を掘り上げる難工事の末に築いた避難港で、航海の難所である室戸岬を航行する船の海難を防ぎ、多くの人命を救ったとされる。
  • 土木事業の功績を伝えるため、手結内港に平成9年6月地元有志により兼山の頌徳碑が建てられている。

家族 

  • 実高祖父:野中道永播磨国出身、のち美濃国大野郡三輪村伊尾に移住す)
  • 実高祖母:美濃斎藤氏
  • 実曾祖父:野中伯仙1513年(永正10年) - 1585年9月7日(天正13年8月14日))
  • 実曾祖母:衣斐氏(1530年(享禄3年) - 1596年10月12日(慶長元年8月21日))
  • 実祖父:野中良平(権之進)(1549年(天文18年) - 1579年(天正7年5月))
  • 実祖母:山内一豊の妹(俗名 合)
    • 実父:野中良明(勘解由)(1573年(天正元年) - 1618年(元和4年7月))
    • 実母:秋田氏(俗名 萬)、(1587年天正15年)- 1651年5月23日(慶安4年4月4日))法名直信院
    • 養父:野中直継(玄蕃)(1587年(天正15年) - 1636年12月15日(寛永13年11月18日))
    • 養母:山内可氏の女(1593年(文禄2年) - 1669年6月19日(寛文9年5月21日))法名玄材院
      • 本人:野中良継(兼山)
      • 正室:野中直継の二女(1620年(元和6年) - 1699年8月4日(元禄12年7月9日))法名栄順院
        • 長男:野中彝継(清七)(1649年(慶安2年) - 1679年7月20日(延宝7年6月13日))
        • 二男:野中明継(欽六)(1651年(慶安4年) - 1683年10月21日(天和3年9月2日))狂死
        • 三男:野中顧一郎
        • 四男:野中畏三郎
        • 五男:野中繼業(希四郎)(1658年(万治元年) - 1698年5月25日(元禄11年4月16日))
        • 六男:野中行繼(貞四郎)(1663年(寛文3年) - 1703年8月10日(元禄16年6月28日))自死
        • 長女:順
        • 二女:高木四郎左衛門室(俗名 米)(1647年(正保4年) - 1667年(寛文7年5月))
        • 三女:寛(1658年(万治元年) - 1729年(享保14年11月))
        • 四女:1661年(寛文元年) - 1726年2月1日(享保10年12月30日))
        • 五女:将(1662年(寛文2年) - 1721年8月19日(享保6年7月27日))

参考文献 

  • 『野中兼山』松沢卓郎著、大日本雄弁会講談社、1941年、(巻末に『事業一覧表』・『系図』・『南学系統図』・『関係年代記(年譜)』あり)
  • 『野中兼山良継―統制経済の先覚者 その思想と行実』吉田喜市郎著、1943年
  • 『野中兼山』横川末吉著、 人物叢書:吉川弘文館、1962年
  • 『野中兼山関係文書』高知県文教協会、1965年
  • 『野中兼山と其の時代』平尾道雄著、高知県文教協会、1970年
  • 『野中兼山』小川俊夫著、高知新聞社、2001年
  • 『野中兼山頌徳碑建立記念誌』、1997年
  • 『漂流』吉村昭、1976年

兼山が登場する作品

小説
映画
  • 『婉という女』(ほるぷ映画 1971年5月、監督今井正

関連項目

外部リンク