細川潤次郎
細川 潤次郎(ほそかわ じゅんじろう、1834年3月11日(天保5年2月2日) - 1923年(大正12年)7月20日[1])は、幕末の土佐藩藩士、明治・大正時代の法制学者[2][3]・教育家。男爵。幼名は熊太郎、諱は元(はじめ)[3]。十洲と号した[2]。
政治的要職としては司法大輔・貴族院副議長位であったが、日本の近代法導入の功績に関しては江藤新平と並んで高く評価されている。また、福沢諭吉に明治新政府に出仕するよう最後まで説得にあたった。
生涯
幕末土佐藩
天保5年(1834年)、土佐藩に仕える儒者細川延平の次男として生まれる[2]。藩校で優秀な成績を修め、土佐藩の三奇童の一人と謳われた[2](他の二名は岩崎馬之助(秋溟)、間崎哲馬(滄浪))。
幕末の緊張する内外の情勢に関心を持ち、安政元年(1854年)には長崎に遊学して高島秋帆に入門し、兵学・砲術を学んだ[2]。帰郷後の安政5年(1858年)には、藩命により江戸の海軍操練所でも勉学に励み、航海術を習得した[2]。また、この時期に中浜万次郎の知遇を得て英語も併せて学ぶようになった[2]。
帰藩後、吉田東洋にその才覚を認められて山内容堂の侍読及び藩校教授として洋学を教えた。また、吉田東洋政権の下での藩政改革に関わり、松岡時敏・福岡孝弟らとともに土佐藩の新しい藩法である「海南政典」・「海南律例」の編纂に参加する[2]。
明治維新後
明治政府に出仕して開成学校権判事を務めている[2]。新聞紙条例[3]・出版条例[3]・戸籍法の起草に参加する。その深い法律知識を見込まれて民部省に入った。1870年に平民に苗字を許す規定を提案したのは細川である。続いて同省から分離した工部省に移る。明治4年(1871年)にはサンフランシスコ博覧会の視察を目的にアメリカに渡り、そのまま同国に留学する[2]。
帰国後は文部省・元老院と移り、柳原前光・福羽美静・中島信行とともに「国憲取調委員」に任じられる。ここで彼は「法律起草のエキスパート」としての能力を発揮して、刑法・治罪法・陸海軍刑法・日本海令草案・医事法・薬事法起草の中心人物として活躍する。
1876年(明治9年)元老院議官に選ばれ[2]、また、1881年には司法大輔となる。
1890年(明治23年)には貴族院議員勅撰議員となり[2]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。1893年(明治26年)に枢密顧問官となり、死去までその席にあった[2]。1900年(明治33年)5月、勲功によって男爵を授けられた[5][2]。
教育者として
教育者としては、明治初年に開成学校権判事を務め、その基礎を固めている[2]。
女子高等師範学校校長を務める。女子高等師範学校付属女学校・付属高等学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)の同窓会組織で明治24年に設立された「作楽会」の名称は、細川によるものである[6]。その後学習院院長心得などを歴任する[2]。
『古事類苑』の編纂総裁を務めた[2]。新しい印刷・農業技術の紹介などに力を尽くして、晩年には文学博士・帝国学士院会員の称号が贈られた。
著作集に、『十洲全集』全3巻がある[2]。
家族・親族
妻は西村勇之進の長女、正(まさ、1844年 - 1918年)。
『平成新修旧華族家系大成』によれば4男4女。長男の一之助(かつのすけ)が大山巌の二女である芙蓉子(ふよこ)を、三男の源三郎(げんざぶろう)が青山幸宜の二女である孝子(たかこ)を、それぞれ夫人に迎えている。また、三女の滋(しげ)は黒井悌次郎夫人、四女の淑(よし)が山岡熊治夫人となった。
家督は長男の一之助(1871年 - 1945年)が継いだ。一之助の後は、婿養子となった細川直知(なおのり、奥田直恭の二男。1909年 - 1987年)が継ぎ、1947年の華族制度廃止を迎えている。
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年
外部リンク
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