牛込
テンプレート:Pathnav 牛込(うしごめ)は、東京都新宿区の地域名の一つで、旧東京市牛込区、その内特に市ヶ谷地域を除いた範囲を指す。地理的には新宿区北東部にあたる。
概要
テンプレート:Seealso 江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で、伝統ある山の手の住宅街である。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色である。狭い路地はほぼ江戸時代のままであり、また住居表示に伴う地名の改廃が他地域にくらべて極めて少ないため、江戸の雰囲気を感じ取ることができる。
近代以降も夏目漱石(父祖の代からこの地の生まれである)や尾崎紅葉をはじめとする作家・文化人が数多く住んだ。小石川同様、印刷・出版関係の会社が多く立地する。
牛畜と牛込
地名のとおり、牛込の歴史は少なからず牛に縁がある。
701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」、「馬込」の地名で残されているところから、「牛込」がこの牛牧に比定された。
1872年(明治5年)頃から東京各地に、ホットミルクを一杯頼めば新聞が閲覧できるという「新聞縦覧所」ができはじめると、にわかに牛乳の需要が増え、その名に違わず牛込区内でも神楽坂、若松町、市谷等において牛畜が広く営まれ、渋谷・代々木辺の畜農家と良き競争関係にあった。
牛込に関連した史跡など
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- 確実な史料は伝わっていないが、伝承によれば、現在の光照寺(新宿区袋町)を中心とした一帯に牛込城があったとされる。
- 上野の豪族であった大胡重行が上杉から北条へと主君替えをして後の1526年頃、武蔵国牛込から日比谷あたりにかけての領地を北条氏からあてがわれ、息子・勝行が移封してきた。勝行は地名をとって牛込氏を名乗り、牛込城を築いて居館とした。領地を一望にできる高台の館であり、江戸湊に出入りする船をも視認することができたという。
- 北条氏の滅亡(1590(天正18)年)および徳川家康の江戸入城の後、館は廃止され、跡地に神田光照寺が移転してきたのは1645年のことであったとされる。
- 現在、城の遺構の類は一切遺っていない。
- JR飯田橋駅西口から左へ進み、跨線橋(牛込橋)を渡りきったあたり、日本基督教団富士見町教会前の交差点近辺に江戸城牛込門の枡形があった。道を挟んで向かい合っていた2基の見附櫓の基部が残っている。名称は(城内から)牛込方面へぬける門の意。門から北西へ延びる道がいわゆる神楽坂である。
- ※行政区画としては千代田区内。
- JR飯田橋駅と市ヶ谷駅の間、線路に沿って見られる、外濠の一部を構成する濠(お堀)。
- ※行政区画としては新宿区と千代田区の区境にあたる。
- 上記牛込濠に面して、牛込見附にほど近く、昭和初年まで存在した旧国鉄の駅。
- ※行政区画としては千代田区内。
歴史
- 1555年ごろ 後北条氏に属する大胡氏がこの地に牛込城を築き、牛込氏を名乗る。
- 1878年 郡区町村編制法により東京15区の一つとして牛込、市ヶ谷地域を管轄する牛込区が発足。
- 1880年 小石川区新小川町一~三丁目を牛込区に編入。
- 1889年 市制町村制施行で東京市牛込区となる。
- 明治時代~戦前 神楽坂が山の手を代表する繁華街・花街として賑わう。
- 1947年 四谷区・淀橋区と合併し新宿区となる。なお、牛込は区名が「新宿」になることに当初反対した。
江戸時代の牛込冠称町名
現行の旧牛込区地域
大半が住居表示未実施である。 テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-5
施設
- 「牛込」を冠する施設等
- 牛込警察署
- 牛込消防署
- 牛込箪笥区民ホール - 箪笥町特別出張所内
- 牛込保健センター
- 牛込郵便局
- 牛込柳町駅 - 東京都交通局 都営地下鉄大江戸線の駅
- 牛込神楽坂駅 - 同上
- 牛込北町停留所 - 東京都交通局 都営バスの停留所
- 牛込弁天町停留所 - 同上
- 新宿区立牛込第一中学校
- 新宿区立牛込第二中学校
- 新宿区立牛込第三中学校
- 主な施設
かつて、フジテレビの本社が牛込地域内(新宿区河田町)にあった。そのときの郵便物の宛先は「東京都牛込局区内 フジテレビ」となっていた(新宿区北山伏町にある牛込郵便局の管内である)。