淀橋
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淀橋(よどばし)とは
- 東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋の名称。以下はこれに由来する。
- 東京都(東京府東京市)が35区制を敷いていたの当時の区名の一つ。→淀橋区
- 現在の東京都新宿区西新宿のうち5丁目と6丁目の西半分及び2丁目と4丁目の一部を町域としていた旧町名。
- 1889年から1932年まで東京府南豊島郡(後に豊多摩郡)にあった自治体の名称。→淀橋町
淀橋(よどばし)は、東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。元々は青梅街道の南側に広がる農村であったが、新宿駅の発展とともに、駅周辺を中心とする繁華街が形成された。さらに、1960年代後半以降の淀橋浄水場跡の開発(新宿副都心計画)により超高層ビルが林立する街となった。1990年、東京都庁もこの地に移転し、現在では副都心と呼ばれる。
1932年に発足した旧・淀橋区には、現在の新宿駅東口一帯、及び大久保から落合にかけての一帯が含まれる。
名称の由来
淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
- 姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
- 放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と改名した。
- 豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった。
- 柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。
沿革
- 1889年 - 角筈村と柏木村が合併し淀橋町誕生、大字角筈字淀橋となる。また、これに隣接して大字柏木字淀橋姿(これで「よどばし」と読む)も同時期に存在した。
- 1889年 - 市制町村制で南豊島郡淀橋町・大久保村・戸塚村・落合村となる。
- 1896年 - 南豊島郡と東多摩郡が合併し豊多摩郡の所属になる。
- 1932年 - 淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が東京市に編入、4町の区域をもって淀橋区が発足。大字角筈のうち以下の字(淀橋・本村・砂利場・二軒家前・長町・東田・豊水・鷹場・谷中前)の区域が淀橋区淀橋となる。
- 1947年 - 四谷区・牛込区と合併して新宿区となる。新宿区淀橋として地名が存続。
- 1970年 - 新宿区淀橋の名称が住居表示の変更により消滅、西新宿5丁目、西新宿6丁目(公園通り西側)、西新宿2丁目と西新宿4丁目(それぞれ一部)になる。
主な施設
その他
1964年に公開された映画『砂の女』(監督:勅使河原宏)では、岡田英次演ずる主人公の本籍地が東京都新宿区淀橋に設定され、ラストシーンで「失踪宣言 七年以上生死不明の為、失踪者とする。本籍地・東京都新宿区淀橋 本名・仁木順平 昭和三十九年一月十日 東京家庭裁判所」と書かれた書類のアップが映し出される。