尾崎紅葉
テンプレート:Infobox 作家 尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。江戸生まれ。帝国大学国文科中退。
1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)明治期の文壇の重きをなした。1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる。
俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された。
生涯
1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。父は幇間で根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。紅葉は父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していた。伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんのもとで育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎、狩野亨吉らがいたが、中退。愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。
紅葉の学費を援助したのは、母方荒木家と関係の深い横尾家であった。紅葉が1899年(明治32年)に佐渡に旅した際に新潟で立ち寄ったのが、大蔵官僚で当時新潟の税務署長をしていた横尾の伯父(母庸の姉婿)であり、紅葉の三女三千代は、荒木家(母庸の弟)に養女に出された後に、横尾の伯父の養子石夫(海軍)に嫁いでいる。石夫の実父(養父の兄)は内務官僚であったが、安濃郡長(島根県)の時に若くして亡くなった。石夫の弟に東京帝大医学部教授の安夫がいる。
1883年(明治16年)に東大予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。そして1885年(明治18年)、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らとともに硯友社を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが、好評のために活版化するようになった。1888年(明治21年)、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになる。しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになった。
1889年(明治22年)、「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を出すことになった。「新著百種」と名づけられたそのシリーズの第1冊目として、紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』が刊行された。戦国時代に材をとり、戦で死んだ若武者を弔う二人の女性の邂逅というストーリーと、会話を口語体にしながら、地の文は流麗な文語文という雅俗折衷の文体とが、当時の新しい文学のあらわれとして好評を博し、紅葉は一躍流行作家として世間に迎えられた。このころ井原西鶴に熱中しその作品に傾倒、写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。
一方、大学予備門の学制改革により、1886年(明治19年)に第一高等中学校英語政治科に編入。1888年(明治21年)、帝国大学法科大学政治科に入学、翌年に国文科に転科し、その翌年退学した。この前年の末に、大学在学中ながら読売新聞社に入社し、以後紅葉の作品の重要な発表舞台は読売新聞となる。「伽羅枕」「三人妻」などを載せ、高い人気を得た。このほか「である」の言文一致を途中から試みた「二人女房」などを発表、幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮となり、この時期は紅露時代と呼ばれた。
1895年(明治28年)、『源氏物語』を読み、その影響を受け心理描写に主を置き『多情多恨』などを書いた。そして1897年(明治30年)、「金色夜叉」の連載が『読売新聞』で始まる。貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会を背景にしていて、これが時流と合い大人気作となった。以後断続的に書かれることになるが、もともと病弱であったためこの長期連載が災いし、1899年(明治32年)から健康を害した。療養のために塩原や修善寺に赴き、1903年(明治36年)に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、3月、胃癌と診断され中断。10月30日、自宅で没した。紅葉の墓は青山墓地にあるが、その揮毫は、硯友社の同人でもある親友巌谷小波の父で明治の三大書家の一人といわれた巌谷一六によるものである。
作家評
紅葉の作品は、その華麗な文章によって世に迎えられ、欧化主義に批判的な潮流から、井原西鶴を思わせる風俗描写の巧みさによって評価された。しかし一方では、北村透谷のように、「伽羅枕」に見られる古い女性観を批判する批評家もあった。国木田独歩は、その前半期は「洋装せる元禄文学」であったと述べた。山田美妙の言文一致体が「です・ます」調であることに対抗して、「である」の文体を試みたこともあったが、それは彼の作品の中では主流にはならなかった。ただし、後年の傑作『多情多恨』では、言文一致体による内面描写が成功している。
紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出したときに、最初に売れた3部のうちのひとつは紅葉が買ったものだったという。(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)[1]。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子としてとりいれたものも多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘された。
年譜
- 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、 江戸芝に生れる。
- 1883年(明治16年)9月、東京大学予備門に入学。
- 1885年(明治18年)
- 1887年(明治20年)4月、東京女子専門学校で漢学の教師のアルバイトをする。
- 1889年(明治22年)
- 4月、『二人比丘尼 色懺悔』を刊行。
- 12月、読売新聞社に入社。
- 1890年(明治23年)帝国大学を退学。
- 1891年(明治24年)3月10日、樺島喜久と結婚。
- 1892年(明治25年)3月、「三人妻」を『読売新聞』に連載。
- 1893年(明治26年)
- 1月10日、長男弓之助が生れる(早逝)。
- 6月、「心の闇」を『読売新聞』に連載。
- 1894年(明治27年)
- 2月3日、長女藤枝が生れる。
- 同21日、父惣蔵死去。
- 1896年(明治29年)
- 2月、「多情多恨」を『読売新聞』に連載。
- 3月10日、次女弥生が生れる。
- 1897年(明治30年)1月、「金色夜叉」を『読売新聞』に連載。
- 1899年(明治32年)、健康を害する。6月に塩原、7月から8月にかけて新潟へ赴く。
- 1900年(明治33年)3月26日、三女三千代が生れる。
- 1901年(明治43年)
- 5月、療養のために修善寺へ赴く。
- 同20日、次男夏彦が生れる。
- 1902年(明治35年)、読売新聞社を退社し、二六新報に入社。
- 1903年(明治36年)10月30日、牛込区横井町(現在の新宿区横寺町)の自宅で胃癌により死去。
門下生
20歳代で多くの弟子を抱えた。特に泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。このような肌合いがちがう弟子たちをうまくまとめることができたところに紅葉の人徳がある。その点では、同時代の文学者たちの中で、出色であったといえよう。
主な作品
- 二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)(1889年)
- 伽羅枕(きゃらまくら)(1890年)
- 二人女房(にににょうぼ)(1891年 - 1892年)
- 三人妻(1892年)
- 心の闇(1893年)
- 不言不語(いわずかたらず)(1895年)
- 多情多恨(たじょうたこん)(1896年)
- 青葡萄
- 金色夜叉(こんじきやしゃ)(1897年 - 1902年)
- 名曲クレーツェロワ(トルストイ、小西増太郎共訳)
その他
- 芝神明榮太樓の銘菓「江の嶋」最中は、1902年(明治35年)2月に紅葉が名づけ題字を認めたものであり、紅葉の本を装丁した武内桂舟の下絵とともに今でも用いられており、現在まで続くロングセラー商品となっている。芝神明町は、母庸が若くして亡くなった後、紅葉を育てた医者の祖父荒木舜庵の家があった場所である。
- 江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もありよく小言を言っていた。だがその叱り方は口の悪さと諧謔さがまざりあった独自のもので、泉鏡花ら弟子たちは叱られるたびに師の小言のうまさに感心した。
- 紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だったという。