気多大社
気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)は、石川県羽咋市にある神社。式内社(名神大社)、能登国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「気多大神宮」。
目次
概要
祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物の社叢「入らずの森」で知られる。
祭神
- 大己貴命 (おおなむちのみこと)
歴史
創建
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという[1]。
また、『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一体を巡行して鬼神を追放したと記される[1]。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される[1]。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、[[[:テンプレート:座標URL]]37_2_13.47_N_136_57_51.41_E_region:JP-17_type:landmark&title=%E5%85%83%E5%AE%AE%E3%81%8B%EF%BC%9A%E8%83%BD%E7%99%BB%E7%94%9F%E5%9B%BD%E7%8E%89%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E6%B0%97%E5%A4%9A%E6%9C%AC%E5%AE%AE%EF%BC%89 位置])し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる[1]。
概史
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見[2])。
国史では、古くは『続日本紀』神護景雲2年(768年)の記事が見え[原 1]、同記事では封戸20戸・田2町が支給されている[1]。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から[原 2]、貞観元年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る[原 3]。
平安時代中期の『延喜式神名帳』では「能登国羽咋郡 気多神社」として名神大社に列している。また、能登国一宮とされた。
中世・近世の間、畠山氏・前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。
神階
- 延暦3年(784年)3月16日、従三位から正三位 (『続日本紀』) - 表記は「気太神」。
- 嘉承3年(850年)6月2日、従二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「気多大神」。
- 仁寿3年(853年)8月15日、正二位勲一等 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「気多大神」。
- 貞観元年(859年)正月27日、従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「気多神」。
神社本庁離脱関連
平成17年(2005年)11月28日づけで神社本庁との包括関係を解消し単立神社となる決定を行い、同時に「財産の管理および処分に関する役員会の決議事項は神社本庁に報告する」と定めた神社規則変更を決議した。
石川県はこの規則変更決議を認証するも、平成18年(2006年)1月に神社本庁が県の認証を取り消すよう文部科学省に取り消しを申請し、2006年5月に文部科学省は石川県の認証を取り消す決断をくだす。これにより、神社本庁からの離脱が事実上、無効となった。神社本庁は2006年8月29日附で宮司を懲戒免職とし、翌30日に石川県神社庁長(当時)を兼任宮司に特任した。
気多大社側ではこれらの処分を不服とし、2006年9月、文部科学省に対する提訴を行った。平成19年(2007年)9月13日、東京地裁は気多大社側の主張を認める判決を出したが、平成20年(2008年)9月、二審の東京高裁では一審判決を破棄し、文部科学省の判断を支持する判決を出した。気多大社側は最高裁へ上告した。平成22年(2010年)4月20日最高裁第3小法廷は二審判決を破棄し、気多大社による神社規則変更を認め、「宗教法人の規則は、財産処分に関する事項を定めた規定が存在しなくても、それだけで宗教法人法に違反するとはいえない。」と指摘して文部科学省の裁決を違法だと結論づけ、同裁決の取り消しを命じた一審判決が確定した[3][4]。
境内
社殿
主要社殿のうち本殿は、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間社(桁行3間、梁行4間)の類例の少ない両流造で、檜皮葺である。拝殿は、江戸時代の承応2年(1653年)または承応3年(1654年)に大工・山上善右衛門による造営とされる。入母屋造妻入で、檜皮葺。神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584年))の造営。切妻造、四脚門で、檜皮葺。これら3棟はいずれも国の重要文化財に指定されている。
神庫は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。方一間の校倉造檜皮葺。もとは「宝蔵」と呼ばれていた。随身門は、境内南東の旧参道口に立つ([[[:テンプレート:座標URL]]36_55_26.32_N_136_46_8.58_E_region:JP-17_type:landmark&title=%E9%9A%8F%E8%BA%AB%E9%96%80 位置])。本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間一戸の八脚門、切妻造。いずれも石川県の有形文化財に指定されている。
- Keta-taisha shinko.JPG
神庫(県指定文化財)
- Keta-taisha zuishinmon.JPG
随身門(県指定文化財)
その他
境内裏手には、原生林の社叢が広がっている。「入らずの森」として立ち入りは禁止されている。社叢内には、一般の参拝はできないが奥宮が安置されている。30,000平方メートルの広さの中にタブの木はじめツバキ、シイ、クスノキ、カラタチなどの常緑広葉樹が密生し、樹齢百年をこえる木が林立している[5]。国の天然記念物に指定されている。
また、一の鳥居は神社から表参道を進んだ突き当たりに、海に面して立つ([[[:テンプレート:座標URL]]36_55_15.86_N_136_45_58.77_E_region:JP-17_type:landmark&title=%E4%B8%80%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85 位置])。
- Keta-taisha ichinotorii.JPG
一の鳥居
摂末社
摂社
境内社
- 奥宮
- 「入らずの森」内に鎮座し、一般の参拝はできない。境内に遙拝所がある。
- 白山神社
- 本殿向かって右手。社殿は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間社流造檜皮葺。国の重要文化財に指定。
- 若宮神社
- 奥津島神社
- 菅原神社
- 楊田神社
- 太玉神社
境外社
- 大穴持像石神社 (おおあなもちかたいしじんじゃ)
- 鎮座地:羽咋市寺家町ケ([[[:テンプレート:座標URL]]36_55_32.40_N_136_46_15.40_E_region:JP-17_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%A4%A7%E7%A9%B4%E6%8C%81%E5%83%8F%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 式内社「大穴持像石神社」。古来より当社の摂社であったと伝えられる。
末社
いずれも境外末社。
祭事
年間祭事
- 1月
- 元旦祭 (1日)
- 門出式 (11日)
- 奥津島神社例祭 (11日)
- 2月
- 紀元祭 (11日)
- 祈年祭 (17日)
- 若宮神社例祭 (20日)
- 菅原神社例祭 (25日)
- 3月
- 楊田神社例祭 (3日)
- 平国祭おいでまつり (17日 - 23日)
- 4月
- 例大祭 (3日) - 蛇の目神事が行われる
- 鎮花祭 (4日)
- 太玉神社例祭 (4日)
- 5月
- 御贄祭 (1日)
- 白山神社例祭 (1日)
- 6月
- 大祓式 (30日)
- 8月
- 夏まつり (3日)
- 心むすび大祭 (13日・14日)
- 9月
- 御贄祭 (1日)
- 白山神社例祭 (1日)
- 10月
- 神宮祭 (17日)
- 若宮神社例祭 (20日)
- 11月
- 七五三参り
- 新嘗祭 (23日)
- 印鑰神社例祭 (30日)
- 12月
- 鵜祭 (16日)
- 清殿祭 (20日)
- 大祓式 (31日)
- 奥宮例祭 (31日)
- 大多毘神社例祭 (31日)
- 除夜祭 (31日)
- 毎月
- 月次祭 (毎月1日)
- ついたち結び (毎月1日)
鵜祭
鵜祭(うまつり)は、12月8日 - 16日に行われる古式な祭。大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神が鵜を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は鵜捕部と呼ばれ鹿島郡の鹿渡島という所に先祖代々住み、その役に仕えていた。12月8日に鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿で鵜を捕らえるが手法には一子相伝の秘訣があるという。献上された鵜は社殿の階上に放され、宮司がそれを内陣に行くよう図るがその時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽や御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら神官はそれを捕まえて、浜で放す。気多の鵜祭は能楽の曲目にもなっている。
文化財
重要文化財(国指定)
- 本殿 - 昭和57年(1982年)指定。
- 拝殿 - 昭和36年(1961年)指定。
- 神門 - 昭和36年(1961年)指定。
- 摂社白山神社本殿 - 昭和57年(1982年)指定。
- 摂社若宮神社本殿 - 昭和25年(1906年)指定。
天然記念物(国指定)
- 社叢 - 昭和42年(1967年)指定。
石川県指定有形文化財
- 神庫 (附 棟札1枚) - 昭和57年(1982年)指定。
- 随身門 (附 棟札1枚) - 昭和57年(1982年)指定。
登場作品
気多苗裔神
テンプレート:座標一覧 六国史や『延喜式神名帳』には、次に示すような当社の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される[1]。
現地情報
所在地
交通アクセス
古くは一の鳥居前に北陸鉄道能登線の能登一ノ宮駅が存在し、当社までのアクセスを担っていた。
周辺
脚注
参考文献
- テンプレート:PDFlink(公式サイトより)
- 『日本歴史地名大系 石川県の地名』(平凡社)羽咋市 気多神社項
関連項目
- 越国
- 気多本宮(能登生国玉比古神社) - 当社の勧請元とする説がある。
外部リンク
テンプレート:神道 横- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『石川県の地名』気多神社項。
- ↑ 神社由緒書。
- ↑ 「神社本庁離脱の規則変更を認める 文科省の裁決取り消し確定 気多神社」, MSN産経ニュース, 2010年4月20日
- ↑ 「最高裁、神社規則の変更認める 羽咋市の気多神社訴訟」, 47News, 2010年4月20日
- ↑ 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』慶應義塾大学出版会 2009年 118ページ。
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