梶井基次郎

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テンプレート:Infobox 作家 梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年明治34年)2月17日 - 1932年昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で、20篇余りの小品を残す。文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている[1]。その作品群は心境小説に近く、自らの身辺を題材にしている事も多いが、日本的自然主義私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出した[2]

梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、森鴎外や、志賀直哉などの白樺派大正デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を強く受けていると見られ、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う多くの作家たち(井伏鱒二埴谷雄高吉行淳之介伊藤整武田泰淳吉田健一三島由紀夫中村真一郎福永武彦安岡章太郎小島信夫庄野潤三開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている[3]

生涯

生い立ち

1901年(明治34年)2月17日大阪市西区土佐堀通5丁目(現・西区土佐堀3丁目)に、父・宗太郎、母・ひさの次男として誕生。父母は共に明治3年生で、維新後に没落した梶井姓の商家の出で(ひさは養女)、名字は同じ梶井。宗太郎は貿易会社の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた。宗太郎はひさとは再婚で婿養子。ひさは明治の女子教育を受け、幼稚園の保母として勤めに出ていたが、日露戦争により宗太郎が多忙をきわめた影響で、基次郎が6歳の時に家庭に入った。家族は他に、祖母(宗太郎の母)、祖父(ひさの養父)、5歳上の姉・富士、2歳上の兄・謙一がいた。のちに三人の弟(芳雄、勇、良吉)と、二人の異母弟妹(順三、八重子)をもつ。宗太郎は勤勉だったが、酒色を好む放蕩の人でもあった。

1907年(明治40年)4月、大阪市西区の江戸堀尋常小学校(現・花乃井中学)に入学。ひさは教育熱心で、子供に古典の和歌や物語を読み聞かせる(基次郎は成人してからも、母から久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを勧められたこともあった)。翌1908年(明治41年)1月、急性腎炎を患い危うく死にかけるなど、病弱な幼少期を過ごす。

1909年(明治42年)12月、父の東京市転勤に伴い、芝区二本榎西町3丁目(現・港区高輪2丁目)へ転居。翌1910年(明治43年)1月、芝白金(現・白金台)の私立頌栄尋常小学校へ転入。学校はハイカラな気風で、欧風の自由主義教育や英語教育がなされ、厳谷小波がお伽話の講話を行っていた。酒びたりの父は外で作った異母弟・順三の親子も上京させ養い、梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、姉まで内職をする。

1911年(明治44年)5月、再び父の転勤により、一家は三重県志摩郡鳥羽町社宅に移る。宗太郎は営業部長を務め、羽振りがよくなる。基次郎は鳥羽尋常高等小学校へ転入。海で泳いだり、裏山の神社や城跡を駆けめぐるなど、自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごす。基次郎はこの地方での生活が最も充実した幸せなものであったと綴っている[4]。この年、異母弟・順三の母親が病死し、順三と養祖母が梶井家に同居。翌1912年(明治44年)、基次郎は6年生に進級し級長となる。

1913年(大正2年)、全甲の優秀な成績で小学校を卒業し、兄と同じ宇治山田市の三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)へ入学。同市の兄の下宿先(茶人で郷土史家・杉木普斎の家。兄の同級生の家だった)に一緒に住む。洋楽を身につけた音楽の先生に楽譜の読み方を習い、音楽愛好の基礎となる。6月、祖母が肺結核で死去。10月、父が大阪の安田鉄工所に転勤。家族は大阪市北区に移る。

1914年(大正3年)2月、一家は大阪市西区南通に移転。4月、名門の旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)へ転入。水泳と音楽が好きな少年で、表面的には比較的大人しく、目立たない生徒だった。翌1915年(大正4年)8月、9歳の弟・芳雄が脊椎カリエスで死亡。

1916年(大正5年)3月、小学校を終えた異母弟・順三が奉公に出される。道義心の強い基次郎はそれに同情し、成績上位で3年終了後に中学を中退してしまい、自分もメリヤス問屋丁稚となる(のち商店の住込み奉公に変わる)。この年、父が退職し、両親は玉突き屋を開業。翌1917年(大正6年)4月、母の懸命の説得により中学へ復学する。この頃、同校の美少年・桐原真二に惹かれる。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねる。

1918年(大正7年)、新学期に基次郎も結核性の病で寝込む。その時に兄に差し出された森鴎外の『水沫集』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変わる。『即興詩人』や『漱石全集』を兄から借りて親しむようになる。高校受験の頃、父の知人の美しい娘(高等女学校3年生)に淡い想いを寄せ、そのことを友人に宛て綴る[5]

三高時代

1919年(大正8年)、成績中位で旧制北野中学校を卒業。兄と同じ電気エンジニアをめざし、第一志望に兄が卒業した大阪高等工業学校電気科を受験するが不合格となる。7月、第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)理科甲類に合格。8月、兄と富士山登山をする。9月、三高入学後は同校に一緒に進んだ中学時代の友人らの下宿を廻り、レコードをかけてヴァイオリンを弾き、みんなで楽譜を片手にオペラを歌うなど、楽しい時を過ごす。程なくして10月に寄宿舎北寮へ入る。同室には中谷孝雄飯島正がいて、彼らの文学談義に耳を傾ける。近い後輩には武田麟太郎丸山薫がいた。次第に学業への興味を失い、志賀直哉谷崎潤一郎といった文学や音楽に傾倒していく。この頃友人への手紙に、「梶井潤二郎、梶井漱石」などとサインすることもあった。

1920年(大正9年)4月、寮を出て上京区浄土町に下宿。煙草を吸い、酒もおぼえる。三高入学後、何回か発熱を繰り返していたが、5月に肋膜炎の診断を受け、大阪の実家へ帰る。学校を休学し、7月に落第。8月、三重県北牟婁郡の姉夫婦(共に小学校教諭)の許で転地療養し、熊野にも行く。9月、肺尖カタルと診断され、大阪の実家へ戻る。母から、学問を諦めて生活の安固を勧められるが、憤慨した基次郎は両親の反対をふりきり、11月に学校へ戻る。基次郎は友人に「生命がある以上は各自の天稟の仕事がある筈だ。それに向つて勇往邁進するのみだ。生命を培ふといふ事が万一仕事を枯らすといふ事を意味するなら死んだ方が優しだ」と綴っている[5]

1921年(大正10年)3月、京都公会堂でエルマンのヴァイオリン演奏を聴く。エルマンと握手し感激する。春休み、紀州白浜温泉に湯治に行く。そこで、結核で休学中の京大医学部の学生・近藤直人と知り合う。美術、音楽を語らい、この4歳年上の近藤に敬愛の念を持ち、生涯の友となる。基次郎は近藤への手紙で、自分を「貧乏なディレッタント」と称しており、社会的な功利を低俗とみなし、精神の享楽をこそ第一とするダンディズムの発露をみせる。「偉大であること」に憧れ、自分の欠点を「町人根性」とみていた。白浜から大阪の実家に帰った基次郎は、父親が、家で経営していた玉突き屋の従業員(ゲーム係の娘)に手をつけて産ませた赤ん坊(異母妹・八重子)の存在を知り、衝撃を受ける。青年期の自己嫌悪や憂鬱の悩みに、新たな苦悩が加わる。

同年1921年(大正10年)4月、年学制の改革により2年に進級。実家からの通学となる。同じく実家から通学する大宅壮一と汽車で出会う。汽車内で同志社女専(現・同志社女子大学)の女学生に一目惚れをし、ブラウニングキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日、「読んでくれましたか」と問い、「知りませんっ」と拒絶される。大宅と共に中谷孝雄の家へ遊びに行き文学談義をする。車内で失恋した経験を書いた作品が、大宅にも中谷にも相手にされなかったために捨ててしまい、幻の処女作となる。この頃、中谷は平林英子と同棲していた。6月頃、上京区吉田中大路町に再び下宿。夏休みは友人と伊豆大島へ旅行。10月、賀川豊彦キリスト教社会運動にうちこむ大宅壮一の態度に脅威を感じ、天職の見つけられない自分の寂しさを嘆き、「自分は大宅の様な男を見るとあせるのである」と綴る。酒を飲み、はじめて遊郭へ行く。この頃から基次郎の生活は荒れ、享楽的な日々を送るようになる。11月、上京区北白川西町に下宿を移る。借金の重なった下宿から逃亡することがしばしばだった。

1922年(大正11年)4月、特別及第で3年に進級。5月、三高劇研究会へ入る。自我の確立を願いながらも、酒にひたり、一時の遊興や享楽に身を任せてはその度に後悔し、自己嫌悪に陥ることを繰り返す。戯曲創作の真似ごとをし、一個のレモンに慰められる心を歌った文語詩(『檸檬の歌』)を日記に綴る。他にも『小さき良心』などの習作を書く。夏休み、琵琶湖和歌山、東京に遊ぶ。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、志賀直哉の『暗夜行路』を読む。秋、酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなる。甘栗屋の釜に牛肉を投げ込んだり、中華そば屋の屋台をひっくり返したり、自殺を企てたり、乱暴狼藉を起す[6]。中谷はこの頃の基次郎を、「いささか狂気じみて来た」と回想している。12月、退廃的生活を両親に告白し、実家で謹慎生活を送る。トルストイストリンドベリニーチェ佐藤春夫の『都会の憂鬱』などを読み、自分の内面を定着させる技術的方法を探り、本格的な創作への道を歩み出す。

1923年(大正12年)、自分の鬱屈した内面を客観化して書こうとする傾向の草稿をいくつも試み、習作『瀬山の話』の断章「檸檬」にあたる部分を書きはじめる。実家より高校通学して卒業試験に備えるが、結局試験は受けられずに落第。母への贖罪のための習作『母』を書く。5月、上京区寺町通に下宿。劇研究会の回覧雑誌(「真素木(ましろき)」)に、瀬山極(ポール・セザンヌをもじった筆名)の名で『奎吉』を発表。7月、三高校友会誌(「嶽水会雑誌」)に『矛盾の様な真実』を発表。2作とも、内面と外面との落差などを描いた小品であった。四国小松島の三高水泳所に行く。8月、簡閲点呼を受けるため帰阪。父親と別府温泉へ旅行。9月、劇研究会の公演準備(チェホフの『熊』、シングの『鋳掛屋の結婚』の演出担当、山本有三の『海彦山彦』)。同志社女専の女学生二人を加えて稽古するが、不謹慎だという噂が広まり、10月に校長・森外三郎より公演中止命令が出される。基次郎はこれに激しく憤る。これがのち、「恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ」と5年後もなお尾を引いて綴られることになる。基次郎は酒に酔い、祇園石段下にあったカフェ・レェヴンで暴れる。円山公園で巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。当時京都で有名だった「兵隊竹」という無頼漢と喧嘩をし、左の頬をビール瓶でなぐられ怪我をする。その頬の傷痕は生涯残った[6]

同人「青空」時代

1924年(大正13年)1月、上京区岡崎西福之川町に下宿を移し、卒業試験に備える。2月、試験後、重病を装って人力車で教授宅を廻り、卒業を懇願。3月、特別及第で卒業。結局5年がかりで三高を卒業した。4月、中谷孝雄外村茂と共に上京し、東京帝国大学文学部英文科に入学。本郷3丁目の蓋平館支店に下宿。かつての同級生だった大宅壮一らの同人誌『新思潮』に刺激され、自分たちも同人誌を作ろうと計画を練っていた。7月2日に3歳の異母妹・八重子が危篤となり、家族全員の看病の甲斐なく結核性脳膜炎で急逝。様々な思いが基次郎の胸に去来する。初七日が済み夜の街を散歩。「綴りの間違つた看板の様な都会の美」、「華やかな孤独」、「神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる」などと心境を友人に宛て綴る[5]。この頃血痰を吐く。基次郎は不安定で移ろいやすい敏感な感覚の精神状態の中にいたが、その自意識の過剰の惹き起こす苛立ちや、日常の認識から解放された地点での、感覚そのものを見つめ、楽しむことに次第に意識的になってゆく[3]

同年1924年(大正13年)8月、姉一家のいる三重県飯南郡松阪町(現・松阪市)へ養生を兼ねて滞在。都会に倦んだ神経を休め、異母妹の死を静かな気持で考える。城跡を歩き、風景のスケッチや草稿ノートを書き留める。これがのちの『城のある町にて』の素材となる。10月、同人誌の名前が「青空」に決まり、創刊準備にかかる。基次郎は『瀬山の話』を書き進めていたが完成できず、その中の「瀬山ナレーション」の断章「檸檬」(一個のレモンと出会ったときのよろこびと、レモンを爆弾に見立て、自分を圧迫する現実を破砕してしまおうという感覚を描いたもの)を独立した作品に仕立て直すことにする[3]。12月、荏原郡目黒町中目黒に下宿を移る。岐阜刑務所作業部で印刷された『青空』を、中谷、外村と受け取りに行く。

1925年(大正14年)1月、同人誌『青空』を創刊。短編小説『檸檬』を発表。続いて2月、『城のある町にて』を発表。はじめは雑誌を文壇作家に送るようなことはしなかった。「彼らはわれわれの雑誌を買って読む義務がある」と基次郎が主張したためだった。春、創作を書きあぐね神経衰弱気味になり、5月に麻布飯倉片町の下宿に替える。7月、『泥濘』を発表。銀座で贅沢しても晴れない気分を癒しに、夏休みは、外村、淀野隆三宇治へ行き、父と道後温泉へ行く。和歌山の近藤直人も訪ねる。10月、『路上』を発表。ジル・マルシェックスのピアノ演奏会に6日間通う。11月、『橡の花』を発表。同人に淀野隆三が参加。12月、大津の『青空』文芸講演会で『過古』を朗読。

1926年(大正15年)1月、『過古』を発表。同人に飯島正が参加。4月、外村と飯倉片町の島崎藤村宅を訪問し、同人誌『青空』を献呈した。同人に三好達治が参加。6月、『雪後』を発表。7月、『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン』を発表。8月、『ある心の風景』を発表。病状が進み血痰を見る。「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断される。8月半ばに大手出版社の雑誌『新潮』から10月新人特集号への執筆依頼を受けて取り組むが、書けずに終り、9月に新潮社に詫びに行く(この時に未完の作品が、のち『ある崖上の感情』となる)。しかしその3日後に、『Kの昇天』を書き上げ、10月、同人誌に発表。11月、同人に北川冬彦阿部知二が参加。基次郎は卒業を断念し、昭和と元号が改まった12月の暮、病で衰弱した身を癒すため、川端康成のいる伊豆湯ヶ島温泉に転地療養に行く。

1927年(昭和2年)元旦から、湯本館に滞在中の川端の紹介で、旅館・湯川屋に移る。これまで書いてきた感覚的な世界を、比喩や象徴を多様した「悲しみの歌」へと変化させた『冬の日』を執筆し、2月と4月に分けて発表。その間、川端のところへ通い、囲碁の相手をしたり、川端の『伊豆の踊子』の校正を手伝う。6月、同人誌『青空』廃刊(全28号)。7月、三好と淀野が卒論執筆のため湯ヶ島に来る。8月、川端の勧めで湯ヶ島へ遊びにやって来た萩原朔太郎広津和郎尾崎士郎宇野千代らと面識を持ち、共に過ごす。基次郎は宇野千代に惹かれる。10月、大阪の医者に来春まで静養するように診断され、湯ヶ島に戻る。12月、同人『文藝都市』に消極的だが参加。

1928年(昭和3年)1月、熱海にいる川端を訪ねた後、上京し「馬込文士村」へ行く。宇野千代をめぐる感情のもつれから、尾崎士郎と一悶着を起こす(のちに宇野と尾崎は離婚)。この頃、ボードレールの『パリの憂鬱』の英訳の一部をノートに筆写する。2月、湯ヶ島に戻った基次郎は、清澄なニヒリズムを描いた『蒼穹』を書き、3月に舟橋聖一らの同人誌『文藝都市』に発表。一旦上京し、東京帝国大学文学部から除籍し中退。4月、『筧の話』を、北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に発表。5月、同誌に『器楽的幻覚』を発表。雑誌『創作月刊』には、自分の心の二つの相剋する働きを構造的にとらえた『冬の蠅』を発表する。またこの頃、『桜の樹の下には』を執筆。文筆で立つ覚悟を固め、上京し麻布の下宿に戻る。同宿の北川冬彦、伊藤整らと交遊。7月、同人誌『文藝都市』に実験的心理小説『ある崖上の感情』を発表。舟橋聖一に激賞される。しかしその頃下宿の食事代も払えなくなり、東多摩郡和田堀町の中谷孝雄のもとに身を寄せる。毎日のように血痰を吐き、しばしば呼吸困難に陥るほど体の衰弱が甚だしくなったため、9月に大阪の実家へ帰る。12月、『桜の樹の下には』と『器楽的幻覚』を、季刊誌『詩と詩論』に発表。

途絶

1929年(昭和4年)1月4日、父・宗太郎が心臓麻痺で急逝。享年59。基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食にはパン、バター小岩井紅茶リプトンのグリーン缶、昼食は肉食)による両親への経済的負担を反省し、「道徳的な呵責」を痛感する。そのころから基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、マルクス資本論』などの経済学の本を読む。3月、河上肇の講演を聴き、厳粛な気持になる。命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらす。10月、北川冬彦から詩集『戦争』を送られ、その評論を川端康成と横光利一の主宰雑誌『文學』に発表。この頃から基次郎は、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行のプロレタリア文学のようなものではなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、いまの文壇には「根の深いもの」が欠けていると日記に綴る。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を何度も読む。12月、福知山歩兵第20連隊志願兵として入隊した中谷を訪問。

1930年(昭和5年)1月、肺炎で寝込む。ゴーリキーレマルクなどを盛んに読む。2月、武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて、井原西鶴を読みはじめる。基次郎は自分が「小説の本領」に近づきかけていると感じる。母・ひさが肺炎で一時入院し、3月に母が再び腎臓炎で入院。タクシーを呼んで母の看護に通う。4月、母が無事退院。5月、弟・勇が結婚し、基次郎は母と共に兵庫県伊丹市の兄・謙一の家に移住。痔疾に悩む。6月、北川冬彦と三好達治らの同人誌『詩・現実』創刊号に『愛撫』を発表。9月、同誌に『闇の繪巻』を発表。兄一家が川辺郡稲野村字千僧に転居し、基次郎もその離れに落着く。

1931年(昭和6年)1月、『交尾』を、小野松二の主宰雑誌『作品』に発表。井伏鱒二はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆する。流感で寝込み、春過ぎまで寝たり起きたりの日々。基次郎の創作集の出版に、旧『青空』同人の三好と淀野などの友人達が尽力し、5月、初の作品集『檸檬』が刊行された。8月、印税75円を受け取る。9月、雑誌『作品』にプルースト失ひし時を求めて』の書評『「親近」と「拒絶」』を書く。基次郎は、「回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない」と評しつつも、そのプルーストの「回想の甘美」を拒否し、自分の「素朴な経験の世界」へ就こうとする姿勢を示す。10月、発熱が続き、大阪の家に戻る。病状は重く、家族との同居が無理なために、25日に近くの住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番地29)に自分の家を借り、母が看病に通う。

1932年(昭和7年)1月、『のんきな患者』を、雑誌『中央公論』に発表。はじめての中央文壇誌掲載で原稿料をもらう。正宗白鳥が『朝日新聞』、直木三十五が『読売新聞』の時評で取上げる。2月、小林秀雄が雑誌『中央公論』で梶井基次郎を論じ賞讃する。基次郎は病床で森鴎外の史伝に親しむ。絶対安静の床で『のんきな患者』の続稿を考えていたが、3月、様態悪化。友人たちが見舞いに来る。13日、狂人のように肺結核に苦しむ。日記が17日で途絶える。23日、夕刻より意識不明瞭となり、夜、苦痛を訴る。頓服を要求し、弟・勇がやっとのことで求めてきた薬を飲む。激しく苦しむ息子を母が諭す。基次郎は死を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、弟に無理を言ったことを詫び、24日の深夜2時に永眠。テンプレート:没年齢僧職にあった異母弟・順三が読経。25日、自宅で告別式。遺言により棺はの葉が詰められ、上部は草花で飾られた。戒名は「泰山院基道居士」。

評価

梶井基次郎の作家生活は実質7年ほどで、そのほとんどが同人時代であまり注目されず、死の前年から認められ出したものの、その真価が本格的に高まり、独特な地位を得たのは死後のことであった[1]。梶井が生存していた時代の文学の潮流は、新現実主義新感覚派、新興芸術派の一群と、プロレタリア文学であったが、今や梶井の特異な文学はそれらよりも抜きん出て現存しており、「不朽の古典」となっている[1]

平田次三郎は、梶井の作品は「病める生の表現」であるが、そこに現れているものは、「清澄な生の息吹き」だとし[1]、以下のように評している。 テンプレート:Quotation

梶井の作品を「およそ類例がない」、模倣しようにも我々にはできない独特なものだと位置づける阿部昭は、梶井の「底抜けに子供らしい探究心や、苦もまた楽なりと言いたげな行文の克己の表情」などから、「理科系の青年の資質」がやはり感じられ、「それは言葉の最も純粋な意味で健康ということかもしれない」とし[3]、その「健康」が、サナトリウム臭い風景や、病弱な詩人趣味と梶井が無縁であった理由だと考察している[3]淀野隆三も、梶井の作風を「頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、焦燥を描いて自若、まことに闊達にして重厚」と評している[6]

梶井について鈴木貞美は、その歩みは死によって途絶えてしまったが、「自らの作品を借りものの意匠で飾らず、自分の内からたち起こってくる表現への欲求にあくまで忠実であろうとし、そうすることではじめて現代の不幸な魂の実相に清冽な表現を与えることの出来た作家」だと位置づけ、諸作品に見られる作品傾向を以下のように解説している[3]テンプレート:Quotation

井上良雄は、梶井の描写を「対象の中に自己を再生させる」と表現して、「自我と世界の分離」という近代の不幸を超える地平を見出すと評し[7]横光利一も、「梶井氏の文学は、日本文学から世界文学にかかっている僅かの橋のうちのその一つで、それも腐り落ちる憂いのない勁力のものだと思う。真に逞しい文学だと思う」と期待をしていた[6]

三島由紀夫は、現代史において小説を純粋な自由意志の産物にするための評論文の中で、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、私小説的方法があるとしつつ、「これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に“”へ近づくことでなければならない」と考察し[8]、以下のように梶井の小説が秘めていた可能性を高く評価している。 テンプレート:Quotation

檸檬忌・文学碑

ファイル:梶井基次郎文学碑.JPG
三重県松阪市 松阪城址の文学碑
書は中谷孝雄。(2005年9月撮影)
  • 命日の3月24日は、代表作である『檸檬』から、「檸檬忌」(れもんき)と呼ばれる。大阪市南区中寺町(現・中央区中寺)常国寺2丁目の常国寺に墓がある。墓文字は中谷孝雄の書。
  • 三重県松阪市松阪城址に『城のある町にて』の文学碑がある。1974年(昭和49年)に建立。
  • 大阪市西区靱公園内に文学碑がある。1981年(昭和56年)に建立。
  • 静岡県伊豆市湯ヶ島温泉の旅館・湯川屋近くに文学碑がある。碑には、梶井の筆跡の手紙の文面が刻まれている。脇には川端康成の書の副碑や、梶井基次郎の臍の緒が埋められている「檸檬塚」もある。

作品一覧

小説

習作・試作

  • 檸檬の歌
  • 瀬山の話
  • 犬を売る露店
  • 雪の日
  • 太陽と街
  • 温泉

遺稿の断片

  • 琴を持つた乞食と舞踏人形
  • 交尾その三
  • 闇の書
  • 籔熊亭
  • 夕焼雲
評論
  • 詩集『戦争』
  • 「親近」と「拒絶」

脚注

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参考文献

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  • 『梶井基次郎全集 全1巻』(ちくま文庫、1986年)
  • 『梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』(筑摩書房、1966年)
  • 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜書誌』(筑摩書房、1966年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第32巻・評論7』(新潮社、2003年)

関連項目

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外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 平田次三郎「解説」(『現代文学代表作全集第1巻』)(万里閣、1948年)
  • 三島由紀夫文章読本」(婦人公論 1959年1月号に掲載)。『文章読本』(中央公論社、1959年。中公文庫、1973年。改版1995年)
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 鈴木&阿部(1985)
  • 梶井基次郎『海』(遺稿、1932年)
  • 5.0 5.1 5.2 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜書誌』(筑摩書房、1966年)
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 淀野(2003)「解説」
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