星野一義

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テンプレート:Infobox 星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、元レーシングドライバーで、現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた。

長男は、レーシングドライバーの星野一樹

経歴

2輪時代

1947年生まれ。生家は生菓子の製造・販売業を営んでいて、比較的裕福だったという。父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、子供の頃から乗り物好きだった。中学生の時には無免許にも関わらず父親からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたらしい[1]

東海大学附属第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退するとしばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、モトクロスのトップライダーだった安良岡健が率いるモトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に入る。この頃、後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊と出会っている。1967年に由起子夫人と結婚。1968年にはカワサキワークス・チーム「神戸木の実クラブ」(片山義美が主宰)に移籍して全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスでチャンピオンを獲得。タイトル獲得のご褒美としてヨーロッパ視察旅行に出かける。

4輪時代

しかしモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ[2]、一度はオートレースへの転向を考える[3]。だが翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車ワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪の世界から引退。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍することになる。

1974年には大森ワークスの先輩・鈴木誠一が設立した東名自動車(現・東名パワード)の契約ドライバーとしてFJ1300に参戦しデビュー戦で優勝。

1975年には全日本F2000選手権に参戦し、チャンピオンを獲得する。

1976年に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズレーシングからスポット参戦。旧型のマシン(ティレル・007)を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権富士GCシリーズ全日本ツーリングカー選手権JTCおよびJTCC)においてチャンピオンの常連となり、レースファンから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。

1977年F1日本GPコジマエンジニアリングKE009にて参戦 11位完走

1978年、海外初遠征となるルーアンとドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権にスポット参戦するが(マシンはノバ532P・BMW)、2戦ともリタイヤに終わる。

1980年には自らのレース参戦資金を稼ぎ出す目的で、金子豊と共にホシノインパルを設立。1983年には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立している。

1983年ドニントンで行われたヨーロッパF2選手権シリーズ 第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)、ブリヂストン勢最上位となる4位入賞。

1985年に富士スピードウェイで行なわれたWEC-JAPANでは、悪天候によりライバルたちがためらう中を果敢にアタックし優勝。日本人として初の世界選手権レース制覇となった。

星野は海外でも活躍し、1990年にはル・マン24時間レース日産・R90CPで出場し5位入賞、1998年の同レースでは日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝く。他にも1992年には林義正水野和敏の指揮でデイトナ24時間レース日産・R91CPで出場し、2位を9ラップ引離して完全優勝するなどの実績を挙げている。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923km/hなど、数多くの記録を塗り替えた。1987年にはホンダF1のテストドライバーになった他、スポンサー持込などの条件付きでF1のシートに誘われることも多かったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。だからこちらからたとえ1円でも払ってまで乗りたくはなかった。」という考えで、F1のレギュラーシートを得ることはなかった。

1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権カルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くのチャンピオンを獲得、「カルソニックの星野」のイメージが強くなる。1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化の為、国内トップフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)からの引退を発表。以後も全日本GT選手権に参戦を続けるが、2002年8月に現役ドライバー引退を発表した。

引退後

引退後は全日本GT(現・SUPER GT)とフォーミュラ・ニッポンに参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務める。また、ニスモフェスティバルなどの自動車のイベントでのデモラン走行や日産の新型車(主にフェアレディZスカイラインGT-Rなど)のテストドライブなどで雑誌やメディアに姿を見せることも少なくない。

評価

  • 星野は1970年代半ばから「日本一速い男」と呼ばれるようになったが、これは必ずしも褒め言葉ではない面もあった。一方に「日本一強い男」とでも呼ぶべき高原敬武がいたためである。星野はベテラン勢を差し置いてポールポジションを獲得するのだが、最終的には高原が勝利を得てチャンピオンになるというパターンが続いていたのだ。速さで星野、強さで高原というのが、1970年代半ばの日本レース界だった。
  • エディ・アーバインジョニー・ハーバートなど、全日本F3000選手権に参戦経験があるF1ドライバーから一目置かれている。中でもアーバインはF1初優勝を飾った1999年オーストラリアGPの記者会見の席上で「日本にはカズヨシ・ホシノというバカっ速いドライバーがいて、とてもかなわなかった」「今ここに自分がいられるのはホシノのおかげ」と発言したことがあり、その時同席していたやはり日本での経験が長いハインツ=ハラルド・フレンツェンもそれに同意するという一幕があった。
  • 1980年代半ばに何度も全日本タイトルを奪っていた中嶋悟は「僕がいくら実績を挙げても、相変わらず“日本一速い男”が別にいるんだよね」とボヤいていたことがある。1990年代に入ると中年期に達した星野より明らかに速い若手も登場していたのだが、相変わらず「日本一速い男」の称号は星野のものであり、「何とかしてほしい」と嘆く関係者もいたようだ。それでも、タイム的には星野と遜色ないドライバーがいたのは事実だが(中嶋悟など)、星野は勝利に対する執念が他の日本人ドライバーと比べて人一倍強く、そういった、レースに対する姿勢の面も含めての“日本一速い男”であるという声のほうが多いようである。
  • タイヤテストに関する能力は非常に高く評価されており、ブリヂストン浜島裕英は星野を「ミハエル・シューマッハデビッド・クルサードと並んで極めて高い評価能力を持つ」と評している。ただ浜島によれば、星野とシューマッハは「前がかなり食いついていないと(=フロントタイヤのグリップが高くないと)だめなドライバー」なため、普通のドライバーが同じタイヤを使うと「みんなオーバーステアになってしまって乗れないと思う」とのこと[4]。また、当時の全日本F3000で「ブリヂストンタイヤが最大限に機能するスリップアングルを出すのが一番巧かったのは星野だ」とも浜島裕英は語っている。
  • チーム監督となってからも熱血漢である。レース中、納得できないことがあれば、テーブルを叩いたり、物を投げたり、テレビカメラに当たり散らすなど「日本一熱い監督」と言われている。

性格・嗜好

  • ヘビースモーカーとして有名で、ピット内は禁煙にもかかわらず、よくたばこを吸っていたという。銘柄はスポンサーを長年務めていた銘柄であるキャビン。あるレースでは、レースカーの車内にまで持ち込もうとしたところを、スタッフやチームメイトの本山哲に制止されたという逸話もある。だが、2009年10月でたばこをやめて2年になることが明らかになった。
  • F3000でシーケンシャル・シフトが普及してからも星野は従来のHパターンシフトにこだわり、ギアボックスを換装していた。更に、シフトアップ時のフリッピング(アクセルを一瞬戻すことによるロス)を減らすため、当時は珍しかったシフトカット装置[5]を独自に装着していた。
  • 一見豪放な性格に見える星野だが実際には神経の細い部分もあり、現役時代レース当日になると緊張のため食事が喉を通らず、レース直前の食事をバナナ一本のみで済ませることも多かったという。ヒーローズレーシングで中嶋悟とチームメイトだった時代、ドライバーズサロンで昼食を食べている中嶋の姿を見て「レース前なのによくそんなに食べられるな」と思わず声をかけたこともある。現役中は水曜日から全身に湿疹が出て、月曜日には完治するというのが15年続いた。
  • 中嶋悟がレギュラードライバーとしてF1に参戦していた時は、悔しさから暫くF1を観ることはなかった。
  • ライバルレーサーの強さを認めると率直にそれを評価することが多い。その例を挙げる。
    • 1990年のインタビューで前年のF3000王者の小河等を「最終的には、小河(等)ちゃんのあのアクセルワークだよ。あの冷静さ、あのハンドリング」と小河のドライビングスタイルについてこれ以上ない評価をしている。[6]また「僕のあとは小河クンしかいないよ」とも語っていたという。[7]
    • 1993年、スポーツランドSUGOでのF3000レースの予選中、馬の背コーナーをとんでもない速さで駆け抜けていくハインツ=ハラルド・フレンツェンに衝撃を受け、ピットに戻るとフレンツェンのもとに駆け寄り「お前はこんなところでくすぶってないで早くF1に行け」と言いに行った(星野がライバルを褒めに出向くのは極めて異例)。フレンツェンは翌年ザウバーからF1デビューを果たした。
    • 1995年、F3000第9戦富士でトップを独走し、トラブルもなかったにも関わらず、終盤になって高木虎之介にストレートであっさりかわされ2位に終わる。完敗した星野はレース後の記者会見で監督の中嶋悟に「もうタイレルでもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と漏らした。なお、星野は翌年限りでフォーミュラから引退している。

人間関係

  • 萩原光の師匠で、彼が事故死した時は大変なショックを受けた。また他に本山哲近藤真彦のレーサーとしての師匠でもある。
  • 現・ニューヨーク・ヤンキースイチローはレーサー時代からの星野のファンであり、イチローの依頼で、星野が経営するホシノインパル製のカスタマイズカーマーチシーマスカイラインクーペを作ったことがあり、特にマーチやスカイラインクーペは現在もイチローがアメリカで乗っているほどである。
  • レースを始めるきっかけとなったのは、鈴木忠男(『SP忠男レーシング』チーム監督/モトクロス全日本チャンピオン)選手出場のモトクロスレース観戦があったからと言われている。Mr.BIKE(BG)の対談で本人が答えている。現在でも、鈴木忠男とは信頼関係を持っている。

エピソード

  • 1982年には日産・シルビアRS(FJ20型エンジン搭載)のテレビCMに出演。ここでも「日本一速い男」と紹介されている。
  • 1980年代後半、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権で日産ワークスに在籍したまま、全日本F2/F3000選手権ではホンダからワークスエンジンの供給を受けていた時期があり、そのため当時はグループCグループAのレースのときは日産車で、F2/F3000のときは中立の意味でメルセデスベンツでサーキット入りしていた。ちなみにホンダからF2エンジンの供給を受けることが内定した1984年暮れ、星野は日産ワークスからの離脱を覚悟し[8]、銀座の日産本社に挨拶に出向いたが、日産(NISMO)側が星野の能力を惜しんだことに加え[9]、当時ホンダと日産は直接レースで対決することがなかった[10]ことなどが理由となり残留が決まった。また、2008年時点で星野率いるIMPULはフォーミュラ・ニッポンにトヨタエンジンで参戦しているが、こちらも日産が同クラスに参戦していない事を理由に特に問題視はされていない。ただし、星野との結びつきが強いだけにNISMOのテクニカルスポンサードを受けており、IMPULのマシンにはトヨタとNISMOのステッカーが貼ってあるという奇妙な事態になっている。
  • 1985年のWEC-JAPANでは、豪雨と霧のためスタートが3時間遅れるほどの悪天候のため海外のワークス勢がしり込みする中、星野がドライバー交替もせず1人で後続を引き離し独走。見事優勝を果たし、日本人ドライバーとして、初の世界選手権優勝者となる。
  • 雑誌のコラムで「今まで凄かった車は?」の問いに「日産のグループCカー」と答え「1,000馬力も出たら危ない」と語った。当時は毎レースの予選終了後にチームメイトの長谷見昌弘と顔を合わせ、「お互い無事でよかった」と安堵し、Cカーカテゴリーが消滅した際は「もうこれで死ななくて済む」と2人でホッしたという。
  • 1990年代初頭の全日本F3000のレースで、若手レーサーのミスに巻き込まれて星野がリタイヤに追い込まれた。「星野さんに謝りに行ったほうがいい」と周囲に言われてその若手が星野のモーターホームに向かうと、窓ガラスに拳状のヒビが入っており、星野の怒りの大きさにおののいたそのレーサーはその場から退散したという。
  • 1990年10月、F1のベネトンチームから、直前にヘリコプター事故で右腕を切断したアレッサンドロ・ナニーニの代役としてF1日本グランプリにスポット参戦しないかという正式なオファーがあり、その条件として2,000万円を用意すれば乗れたのだが、先述の通り「プロのレーシングドライバーは金を貰って乗るものであって、それがF1であろうとも自分からたとえ1円でも払って乗りたくはない」という主義を貫いたため、この話はロベルト・モレノへと流れてしまった(結果モレノは2位表彰台獲得、ベネトン1-2フィニッシュ)。この件に関連して、2003年の日本グランプリ金曜フリー走行にて、愛弟子である本山哲がジョーダンF1のテストドライブが出来る事になり、その場に星野も立ち合ったが感動のあまり、「俺はベネトンから2,000万円で乗らないか、と言われて断ったが、(こんなにF1が凄いのなら)やはり金払ってでも乗ればよかった」と語った。
  • 1996年、他力本願ながらシリーズチャンピオン獲得の可能性を残していた雨の富士スピードウェイでのフォーミュラ・ニッポン最終戦において、クラッチトラブルによりピットに帰ってきてリタイアした際に、ヘルメットを床に叩き付けて悔しがる姿がテレビ中継に映った。その後、星野にヘルメットを供給していたアライヘルメットの工場を訪れ、「(ヘルメットに八つ当たりして)申し訳ありませんでした」と謝罪したという。結果として、このレースが星野の国内トップフォーミュラ引退レースとなった。
  • 2001年3月にはスピード違反で免許停止処分を受けたため全日本GT選手権に出場できなくなり、急遽服部尚貴が星野の代わりにレースに参戦した事があった。またこの時、免停講習を受ける星野の姿が写真週刊誌に掲載され、世間の話題を呼んだ。
  • マシン開発が激化の一途を辿っていたグループCのマシンの走行テストを富士スピードウェイで行っていた際、突然リアウイングが最終コーナーで加速した途端にへし折れ、コントロールを失ったマシンが空中に浮かんだ格好で数回転スピンし、コンクリートウォールに激突して停止した事がある。幸運にも怪我一つ無く救出されたが、さすがの星野も事故後はその恐怖から30分以上全身の激しい震えが止まらなかったという。当時日産はグループCカーとしてマーチローラ等外部コンストラクターのシャシーを使用していたが、外部メーカー製パーツの品質管理の難しさを痛感した日産はこの事故を契機にパーツの内製比率を増し、最終的に日産・R91CPにて主要パーツを完全自社製とすることになる。
  • 引退した際にはエディー・アーバイン等が引退を惜しむコメントを多数寄せている。「星野さんの引退によって日本のモータースポーツが下火になったと聞いている。これは寂しい事だよね」とエディは語っていた。
  • 1998年のル・マン24時間レースへ参戦する際、THE ALFEEが星野のパーソナルスポンサーとして就くことになった。その際、乗車する日産・R390-GT1のリアタイヤ前方カウルに"THE ALFEE TOSHIBA EMI"のロゴが貼り付けられた。本来数ヶ月掛かるスポンサー契約をほんの一週間程度で済ませたといわれている。翌年は星野のレーシングスーツにTHE ALFEEのロゴが貼られた。
  • 2012年2月の鈴鹿サーキットの感謝イベントにおいて「1980年代末期、日産の承諾を得た上でホンダのF1用エンジン開発にテストドライバーとして参加していた」事を明らかにしている。また、この時のデモランにおいて星野はウィリアムズ・ホンダのマシンに乗り中嶋ドライブのロータス・ホンダと共演している。

レース戦績

全日本F2000選手権,全日本F2選手権,全日本F3000選手権,フォーミュラ・ニッポン

所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1974 コジマエンジニアリング SUZ SUZ SUZ SUZ
3
5位 10
1975 ビクトリーサークルクラブ FUJ SUZ
2
FUJ
1
SUZ
3
SUZ
1
1位 59
1976 ヒーローズレーシングコーポレーション FUJ
Ret
SUZ FUJ
1
SUZ
1
SUZ
DNS
4位 40
1977 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
3
SUZ
1
MIN SUZ
2
FUJ
1
FUJ
1
SUZ
Ret
SUZ
2
1位 90 (102)
1978 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
1
FUJ
1
SUZ
3
SUZ
Ret
SUZ
1
MIN SUZ
12
1位 76
1979 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
2
MIN SUZ
2
FUJ
10
SUZ
2
SUZ
6
SUZ
1
2位 78 (79)
1980 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
3
MIN
2
SUZ
4
SUZ
Ret
SUZ
2
SUZ
1
2位 65
1981 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
2
SUZ
10
SUZ
1
SUZ
3
SUZ
Ret
2位 48
1982 ヒーローズレーシングコーポレーション SUZ
3
FUJ
Ret
SUZ
Ret
SUZ
1
SUZ
5
SUZ
2
2位 55
1983 ホシノレーシング SUZ
4
FUJ
DSQ
MIN
3
SUZ
2
SUZ
2
FUJ
3
SUZ
2
SUZ
3
2位 79 (89)
1984 ホシノレーシング SUZ
2
FUJ
2
MIN
1
SUZ
2
SUZ
2
FUJ
5
SUZ
2
SUZ
Ret
3位 95 (103)
1985 ホシノレーシング SUZ
10
FUJ
2
MIN
2
SUZ
DNS
SUZ
1
FUJ
11
SUZ
14
SUZ
DNS
4位 51
1986 ホシノレーシング SUZ
Ret
FUJ
3
MIN
Ret
SUZ
2
SUZ
1
FUJ
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位 87
1987 ホシノレーシング SUZ
1
FUJ
10
MIN
2
SUZ
1
SUZ
1
SUG
1
FUJ
6
SUZ
2
SUZ
2
1位 132
1988 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
1
FUJ
2
MIN
3
SUZ
2
SUG
3
FUJ
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位 43
1989 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
1
FUJ
Ret
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FUJ
1
SUZ
3
SUZ
Ret
3位 22
1990 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
1
FUJ
1
MIN
4
SUZ
16
SUG
3
FUJ
1
FUJ
1
SUZ
1
FUJ
5
SUZ
1
1位 58 (63)
1991 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
Ret
AUT
2
FUJ
1
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FUJ
1
SUZ
Ret
FUJ
C
SUZ
Ret
FUJ
Ret
4位 24
1992 CABIN RACING TEAM WITH IMPUL SUZ
2
FUJ
Ret
MIN
DNS
SUZ
Ret
AUT
Ret
SUG
7
FUJ
3
FUJ
Ret
SUZ
Ret
FUJ
12
FUJ
13
12位 10
1993 NISSEKI IMPUL RACING TEAM SUZ
2
FUJ
1
MIN
Ret
SUZ
2
AUT
C
SUG
Ret
FUJ
C
FUJ
Ret
SUZ
5
FUJ
1
SUZ
Ret
1位 32
1994 NISSEKI IMPUL RACING TEAM SUZ
Ret
FUJ
7
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
Ret
FUJ
5
SUZ
15
FUJ
Ret
FUJ
4
SUZ
6
8位 6
1995 NISSEKI IMPUL RACING TEAM SUZ
11
FUJ
C
MIN
3
SUZ
6
SUG
Ret
FUJ
2
TOK
Ret
FUJ
2
SUZ
4
4位 20
1996 カルソニック RACING TEAM with IMPUL SUZ
1
MIN
Ret
FUJ
3
TOK
4
SUZ
5
SUG
2
FUJ
Ret
MIN
Ret
SUZ
2
FUJ
Ret
3位 31

JSPC

所属チーム 使用車両 クラス Rd.1 Rd.2 Rd.3 Rd.4 Rd.5 Rd.6 Rd.7 順位 ポイント
1983 ホシノレーシング シルビアターボCニチラ C1 SUZ
Ret
SUZ
Ret
FUJ
7
NC 0
1984 ホシノレーシング シルビアターボCニチラ C1 SUZ
13
TSU
SUZ
12
FUJ
Ret
NC 0
1985 ホシノレーシング シルビアターボCニチラ C1 SUZ
2
FUJ
Ret
15位 35
シルビアターボCニチラ FUJ
Ret
SUZ
Ret
FUJ
1
FUJ
Ret
1986 ホシノレーシング 日産・R86V C1 SUZ
DNS
FUJ
FUJ
Ret
SUZ
Ret
FUJ
10
FUJ
Ret
NC 0
1987 ホシノレーシング 日産・R87E C1 SUZ
Ret
FUJ
Ret
SUZ
6
FUJ
16
FUJ
Ret
30位 9
日産・R86V FUJ
8
1988 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R88C C1 FUJ
Ret
SUZ
6
FUJ
7
FUJ
5
SUZ
Ret
FUJ
9
18位 22
1989 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R88C C1 FUJ
Ret
FUJ
6
28位 6
日産・R89C FUJ
Ret
SUZ
DNS
FUJ
Ret
1990 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R90CP C1 FUJ
4
FUJ
C
FUJ
3
SUZ
1
SUG
4
FUJ
2
3位 67
1991 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R91CP C1 FUJ
1
FUJ
1
FUJ
2
SUZ
Ret
SUG
11
FUJ
1
SUG
2
1位 87
1992 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R92CP C1 SUZ
9
FUJ
1
FUJ
1
SUG
1
FUJ
1
MIN
1
1位 103

JGTC

所属チーム 使用車両 クラス Rd.1 Rd.2 Rd.3 Rd.4 Rd.5 Rd.6 Rd.7 Rd.8 順位 ポイント
1995 HOSHINO RACING 日産・スカイラインGT-R GT1 SUZ
FUJ
SEN
2
FUJ
7
SUG
2
MIN
3
14位 19
1996 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
8
FUJ
5
SEN
5
MIN
1
SUG
2
MIN
Ret
4位 54
1997 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
Ret
FUJ
SEN
15
FUJ
4
MIN
6
SUG
14
13位 16
1998 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
11
FUJ
SEN
5
FUJ
3
MOT
2
MIN
7
SUG
4
3位 49
1999 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
10
FUJ
3
SUG
5
MIN
6
FUJ
5
TAI
10
MOT
7
7位 40
2000 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 MOT
17
FUJ
5
SUG
5
FUJ
3
TAI
6
MIN
1
SUZ
3
3位 66
2001 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 TAI
FUJ
SUG
FUJ
7
MOT
3
SUZ
11
MIN
5
13位 24
2002 TEAM IMPUL 日産・スカイラインGT-R GT500 TAI
14
FUJ
Ret
SUG
8
SEP
14
FUJ
Ret
MOT
MIN
SUZ
24位 3

JTCC

所属チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1994 NISMO 日産・プリメーラ AUT
1

テンプレート:Small
AUT
2

テンプレート:Small
SUG
1

テンプレート:Small
SUG
2

テンプレート:Small
TOK
1

テンプレート:Small
TOK
2

テンプレート:Small
SUZ
1

テンプレート:Small
SUZ
2

テンプレート:Small
MIN
1

テンプレート:Small
MIN
2

テンプレート:Small
TAI
1

テンプレート:Small
TAI
2

テンプレート:Small
TSU
1

テンプレート:Small
TSU
2

テンプレート:Small
SEN
1

SEN
2

FUJ
1

テンプレート:Small
FUJ
2

テンプレート:Small
8位 53
1995 HOSHINO RACING 日産・プリメーラ FUJ
1

テンプレート:Small
FUJ
2

テンプレート:Small
SUG
1

テンプレート:Small
SUG
2

テンプレート:Small
TOK
1

テンプレート:Small
TOK
2

テンプレート:Small
SUZ
1

テンプレート:Small
SUZ
2

テンプレート:Small
MIN
1

テンプレート:Small
MIN
2

テンプレート:Small
TAI
1

テンプレート:Small
TAI
2

テンプレート:Small
SEN
1

テンプレート:Small
SEN
2

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FUJ
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3位 98
1996 TEAM IMPUL 日産・プリメーラ FUJ
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6位 61
1997 NISMO 日産・プリメーラ FUJ
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4位 95

主な出演CM

脚注

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  1. 免許がなく、公道を走れない事もあり、リヤカーにモトクロッサーを積んでコースと家を行き来している姿を廃品回収を手伝う勤労少年だと思われ、通りすがりのおばさんに誉められたという逸話も残っている。
  2. とはいえ公務員の平均年収が100万円に満たなかった時代、星野は年収200万円を超えていたと言われている。
  3. あるオートレーサーがインタビューで年収1,000万と語っていたため。現在でもオートレーサー年収は、超一流クラスのGPレーサー以外では対抗出来ないと言われている。
  4. GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2008年2月号 p.97
  5. ボタンを押している間だけエンジンの点火がカットされるため、アクセルを踏みっぱなしでもシフトアップが可能な装置。
  6. Racing On」 No.86、p.90、武集書房、1990年。
  7. 「Racing On」 No.100、p.54、武集書房、1991年。
  8. フリーの中嶋悟はF2はホンダ、グループCではトヨタから参戦していたが、日産ワークス所属のドライバーは国内他社のマシン・エンジンでのレース参戦も禁じられていた(BMWなど外国メーカーのマシンやエンジンを購入してプライベーターとして参戦する場合はOK)。
  9. 当時既にNISMOの社内ではル・マン24時間レース参戦に向けた準備が始まっており、星野はエースドライバーとしての起用が有力視されていた。
  10. ホンダはフォーミュラカー路線が基本だったのに対し、日産はグループCを中心に活動していたため。全日本ツーリングカー選手権には両社とも参戦していたが、参戦クラスが異なっていたため直接対決はなかった。

関連項目

外部リンク

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